ソウルの木洩れ陽

 ――まさか順愛(ジュンアイ)が訪ねて来るなどとは思いもしなかった。

 玄関のチャイムが鳴ったとき、老妻は出掛けていて時田(ときた)太一(たいち)はひとり家にいた。

リビングのガラス戸は開け放ち、ソファに寝そべって手持ち無沙汰に観るともなくテレビは点けっぱなしにしていた。画面には高校野球甲子園大会の様子が映り、暑さを煽るような音声が絶え間なくながれている。

 訪れる人も少ない、老夫婦二人の住まいを、だれが訪ねて来たのかと訝しく思いながら、インターフォンを無視して、チェーンロックの長さだけ直接玄関のドアを開けた。

「すみません、時田先生はおいででしょうか?」

人の顔がようやく見える、開けたドアの隙間に、中年の女の人が

立っている。福岡市郊外の中学校を定年退職後、先生と呼ばれなくなって久しい。

「私が時田ですが、どちらさまですか?」面倒くさそうな言い方でチェーンロックを外し、ドアを開けながら訊いた。

 そこには左手に小ぶりの旅行鞄を提げ、白いハンドバッグを持った婦人がいた。

「時田太一先生ですか?」ゆっくりと念を押すような口ぶりである。

「私、順愛です、ハヤシ・ジュンアイです。お久しぶりです」

「はあ?」時田はなんとも間の抜けた応え方をした。咄嗟のことでハヤシ・ジュンアイがだれであるかを思い浮かべるまでに数秒を要したが、それよりもはるかに長い間合いだったように思える時間だった。

 順愛はその場に鞄を落とすと「先生!」と言ってしゃにむに抱きついてきた。三十七年の空白が消し飛んだ瞬間だった。

「順愛か! ほんとに順愛なのか?」

ニ、三度同じ問いを繰り返したような気がするが全く覚えていない。それは順愛への問いではなく、時田が自分へ向けた問いかけであった。

 時田太一は昭和十八年(一九四三)の秋まで、当時は京城(けいじょう)といわれた現在のソウル近郊にある、朝鮮人子弟だけのJ国民学校で教鞭を執っていたが、戦争の長期化とともに現地召集をうけ、昭和二十年(一九四五)八月の終戦まで教職に復帰することなく、その年の秋に日本へ引揚げてきた。以来教え子たちとの音信もなく三十七年の歳月が過ぎていた。

二年前の春に突然、担任だった順愛たちのクラス会への招待状を航空便で受け取った。しかし時田にはそれを素直に喜べないこだわりがあり、その招きを断わっていたが、受け取った文面に懐かしさもひとしおであった。福岡へ引揚げてきてからの日々よりも、朝鮮でのシーンばかりが夢の中に現れる。

《老いてなお京城に居る昼寝かな》

こんな俳句を詠んでみたこともある。懐旧と悔恨の入り混じった複雑な気持を詠んだものだ。

 クラス会への招きに丁重な断わりの手紙を書いたつもりであるが、真意が伝わったかどうか自信はなかった。親しかった同僚の朝鮮人教師、(アン)学文(ガクブン)先生への感謝と、林順愛への、小さな出来事の詫びの文章を名指しで入れたことだけははっきり憶えていた。その順愛がいま家の玄関に立っているのだ。

時田はどう対応したらいいのか戸惑い、狼狽しながらも林順愛を家の中へ招き入れた。

「順愛、ほんとうに来てくれたんだね」

 ふたりはリビングのソファに横に並んで手を握り合って座った。

順愛が帰った数日後に、彼女がそのときどんな服を着ていたのか思い出そうとしても思い出せない。年甲斐もなく冷静さを失くしていたのだろう。ただ懐かしく嬉しかった。

「事前の連絡もせず突然お邪魔して申し訳ありません。主人が京都の学会に出席するのに屁理屈をつけてついて来ました。まさか私が単独行動で福岡まで行けるなんて考えていなかったのです。何の準備もせず出発してしまいました。先生に会えるとわかっていればもっといろいろと用意すればよかったのにと後悔しています。お土産もありません」

 韓国ではビジネスの出張、海外就労など、限られた目的以外海外渡航は制限されている。

「来てくれたことがすばらしい土産だよ。よく来てくれた」

 順愛と時田は気があせるばかりで、何から話をしたらいいのかさえ分からずにいた。話したいこと聞きたいことの外周ばかりさ迷っているチグハグな会話で、いつまで経っても具体的な話題にならなかったが、妻が帰ってきてやっとのことで話らしい話が始まった。興奮した頭を妻が冷やしてくれた。

「飲み物ひとつ出さないどころか、玄関には錠もされていませんでしたよ。でも朝鮮にいたときの日曜日は、玄関のカギなんてしなかったと思うわ。あなたたち生徒がいつでも入ってこられるようにね。大勢遊びに来てくれて、それは、それは楽しかったわね」

もったいぶった言い方や、曖昧な表現をしない妻の率直な口ぶりは、朝鮮人の気質に合っていて子供たちに好かれていた。その当時と何ひとつかわらない明るさに助けられるように場が一気に和んだ。

「京子に電話しました? 喜ぶわよ。京子も今夜は泊まっていけば

いいのよ」

嫁いでいる一人娘に来させることも、順愛が家に泊まることも、いつの間にか当然のことになっていた妻の物言いがおかしかった。

「京子ちゃんにも会えるなんて」

順愛も妻のペースに乗せられて緊張感が解けたようだった。

「京子も二児の母親ですよ。あの子はあなたたちがくれたワカメで育ちましたからね」

 出産した母親の母乳がよく出るようにと、ワカメをたくさん食べるのは朝鮮の常識であるが、時田夫婦は何も知らなかった。「赤ちゃんのために」と言って、生徒たちがもってきてくれたワカメをスープにでもして、生まれたばかりの赤ん坊に飲ませるのかと訊いて、時田は職員室のみんなに笑われたという話が、妻にはよほど印象深く残っていた。

 順愛と時田の家族は時間も忘れて話し込んだ。教え子ひとりひとりの消息を聞くだけでも、二晩や三晩の時間は要するであろう。三十七年をわずかな時間で語り尽くすことなどできないのは当然だ。

時田はただひたすら耳を傾けていた。訊きたいことはいくらでもあった。気持ばかりが前のめりになった。韓国動乱(朝鮮戦争)のこと、今の様子……。

「六・二五韓国動乱のことは思い出したくもありません」順愛は顔を歪めた。

一九五〇年六月二十五日早朝、突然に始まった同胞相撃つ南北朝鮮の戦火のことである。五人のクラスメイトが行方不明のままである、と言って順愛は顔を伏せたままになった。

徹夜に近いほど話を続けたあとに、順愛がしんみりとした口調でしみじみと言った。

「先生、私三十五年ぶりに、いちどきに、こんなにたくさん日本語で話をしました。忘れていなかったんですね」

 その一言は、三十七年を要して出来つつあった時田の、心の傷の瘡蓋(かさぶた)を剥がされる思いがする順愛の感慨であった。何の苦労もなく会話ができることこそが、言い逃れのできない時田の心に刺さっている棘そのものなのだ。本来は外国人である朝鮮人を、強制的に日本人にしようとした統治機関朝鮮総督府の政策の尖兵であったことに、戦後ずっとやりきれなさが続いていた。

 昭和十年代の朝鮮の小学校は、在朝鮮の日本人子弟を対象とした小学校に対して、朝鮮人だけの学校を普通学校と呼び区別していたが、日中戦争から大東亜戦争へと泥沼に嵌っていく中で、国家総動員の掛け声に歩調を合わせるように、内地人と呼ばれた日本人の学校も、朝鮮人の普通学校も同じように国民学校と名前を変え、使用する教材も同じものとなった。

 時田は一回の異動を経て、昭和十二年(一九三七)から、朝鮮人だけの京城郊外にあるJ国民学校に勤務した。選民意識が満ちている内地人対象の学校の雰囲気に嫌気がさして、朝鮮人子弟の国民学校勤務を希望したからである。

J国民学校で過ごした数年と、朝鮮総督府の皇民化政策がより強力に進められた時期は軌を一にしていた。朝鮮人を日本人化する政策は、学校教育において最も具体的な形をとって遂行されたものであり、教育の残酷さについて、引揚げの後も時田の中から呵責の念が消えることがなかった。

 順愛の話は、J国民学校卒業後の高等女学校での生活にも及んだ。

「時田先生に勧められた舞鶴高女へまいりました。日本人の友達もたくさんできました。いまでは日韓合同の同窓会も何度かやりました。戦時中でもあり、物資が乏しく、礼儀作法など厳しい学校でしたが、青春時代はやはり希望に満ちていて、どんな時代であれ楽しいものですよね。いろいろな意味で先生には感謝しております」

 順愛の話から類推すると、舞鶴高女はどんな学校よりも、日本人の通ったどこの高等女学校よりも、日本人としての教育が徹底していたと思われた。

神社参拝、皇国臣民ノ誓詞の唱和はもちろんのこと、日本流の生活規範についてや日本式礼儀作法までうるさかったという。さらにあの時代ならではの勤労奉仕ももちろんである。

「カンパン袋作り、軍服のボタン付け、軍用機なのか軍艦用なのかはわかりませんが雲母剥ぎという根気のいる作業。運動場を耕しての農作業などいろんなことを経験しましたが……」

 笑いながら話していたが一息つくと、

「でも膝を折った正座だけはどうにも我慢ができず本当に苦労しました。舞鶴高女だけだったかもしれませんが苦痛でした。あれだけは韓国が解放されて心底ほっとしました。正座のことを祖母に話をするとこう言われました。『チェッ、そんな恰好させられるのは罪

人だけだ』。おばあさんは生粋の李朝時代の人間ですから。でもそんなことはだれにも、もちろん日本人の学友にも言いません。どんなに仲良くしていても無意識のうちに日本人と朝鮮人は別だと思っていたのでしょうね」

 生活の隅々まで朝鮮人を日本人化しようとしたことに、日本人は無頓着であり、疑問を抱くことなどなかった。

順愛が淡々と話すことの口振りとは裏腹に、時田はいまさらながらその言葉の重さをかみしめていた。やり直しのきかない所業の、その切なさゆえにいまだに韓国へ、ソウルへ行くことも憚られる心持ちのままである。

 順愛がテーブルの、麦茶の入ったグラスに手を伸ばしたときに、

「順愛、マニキュアはしていないんだね」ぽつりと訊いた。

 時田は、これまで忘れたことのない、順愛の鳳仙花で染めた爪紅(つまべに)をめぐる小さな出来事を思い浮かべていた。

「いつもはしますよ」微かに笑みを浮かべながら答えた。

「韓国の男性は、目上の人の前では煙草を吸いません。お酒を飲むときも器を片手で隠すようにして横向きで口にします。それと同じことです。女は恩師の前では化粧など質素にするものです」

「この人はマニキュアにこだわりがあってね、私にもマニキュアを塗れとよく言うんですよ、変でしょう?」妻が同意を求めるように順愛を見る。

 時田は苦笑しながら、なにも言わずに順愛の指先を見ていた。

「先生は手紙にも爪紅のことを書いていらっしゃいましたね。六年生の秋に祖母がやってくれた爪紅のことはよく憶えています。先生に注意されて、その晩、母が何時間もかけて爪紅を削ぎ落としてくれました。爪を染めるなんてあの時代にとんでもないことでした」

「あのとき私が怒ったことで、君が理不尽な思いのままで、納得できずに何十年も過ごしたことだろうと思う。私のしたことは、その当時の日本人が君たち韓国人に、言い訳も聞かず何でも一方的に押し付けたことと同じだからね」

「私は母に言われて、爪紅を消すことに納得していると言ったんですよ」

 理不尽な思いを抱いたままではなかったと聞いて、時田は何十年もの肩の荷のひとつがおりたような気分になった。

 時田はせっかく呼んでくれたクラス会へ出席しなかったことも詫びた。そして自分の思いがクラスのみんなに伝わったのかどうか訊きたかった。

「みんな本当にがっかりしました。でも送っていただいたビデオを飽きずに繰り返し見続けました。私たちの世代の韓国人と日本人の恩師との再会、交流はあちこちで話に聞くことです。そのことを羨ましいという人もいましたが、ビデオで充分満足して有意義なクラス会になりました。そして幹事役の松山泰敬(タイケイ)がこう言ったのです。『ぼくたちの先生は、ぼくたちを日本人にするために教育したんじゃないんだよ。日本人でも韓国人でもない、民族の優劣も差別もない一人の人間として、人間の尊厳を教えようとしたんだよ。その証拠に、先生が読んでくれた本はヨーロッパやアメリカの本だっただろう。日本賛美や日本文化ばかりを強調するような本は一冊もなかったよ。それでも日本人化教育の部分があって、先生はそのことをいまでも悔いているんだと思う。実際われわれは九十パーセントは日本人になっていた。それが時代だったんだよ』」

 氷の塊りがひとつひとつ融けていくように、時田にはこれまでのこだわりがほぐれていくように思われた。そんな感想を抱いてくれたのかと思うと今にも溢れてきそうだった。

あの当時、朝鮮総督府の皇民化政策に協力させられたが、時田自身皇民化教育のすべてを信じていたわけではなかった。むしろ懐疑的な部分も多かった。同僚教師の安学文に多くを学び、順愛の伯父()鎮五(チンゴ)の、暗示的な言辞に共鳴を覚えたことが思い出される。ことに李鎮五には、時代を超越したゆるぎない自分の哲学があり、時代にも民族の相違にも拘束されない、普遍的な真理であろうと思える考察の一端も聞かせてもらった。仏教の話が多かった。李鎮五氏のことはどうしても順愛に訊きたいことであった。

「君の伯父さん、李鎮五さんはお元気か?」

 訊ねながら懐かしさがこみ上げてきた。赤紙を受け取って出征する直前に訪ねたときのひとコマひとコマを、つい昨日のことのように思い浮かべることができる。酒を酌み交わしながらの雑談は、李鎮五と時田にとっては心から楽しいものであった。教師の時田に向かって、李鎮五があけすけに言ったことに大笑いしたものだ。

「私は教師と神父や牧師にだけはなりたくないものですな。心にもない説教したり、何もわかっていなくて自分の頭の蝿も追えないのに、したり顔で自分以外の人間に教え諭すなんてお笑い種でしょう、ねえ時田先生」

「私も全く同感です。一、二年間担任をやっただけなのに、恩師と呼ばれて喜んでいる輩もいますよ。親は血の滲むような思いをしてわが子を育てていることを考えれば、なにが恩師かと、私は恥ずかしくて……。明後日からは教師じゃなくて一兵卒でありますから、気楽であります」軍隊の口調を真似て言った。

「時田先生と呼ぶのもこれからはやめましょう。時田さんでいいですよね。教師、牧師、神父だけは子孫にやって欲しくない仕事ですね。もちろん警察官は論外で……」

 階級意識が色濃く残る朝鮮社会にあって、地主や支配階級の両班(ヤンバン)常民(サンミン)といった差別を一切認めようとせず、また宗教的対立など愚の骨頂と言って憚らない李鎮五は、あの時代にあっては特異な存在だったといえる。除隊したらまた必ず家に来てくださいよ、と言われたこと、李鎮五宅を辞するときに、月明かりの下で門外まで見送ってもらったこと、そしてなりよりも李鎮五から聞いた初めての朝鮮語、「アンニョンヒガセヨ(さようなら気をつけて)」という言葉と、温かかった眼差しが忘れられない。言いたいことを言い合って過ごしたあの日が、再現できないものかと時田は空想した。

「それが……。いま入院しているんです。胃癌なんです」順愛はためらいがちに、わずかに目を伏せて呟いた。

「悪いのか? 何歳なんだ?」

「八十歳になります。年も年ですから治りがおそくて。クラスメイトの泰敬が診ています。泰敬は外科医になりました。今ソウルの大学病院にいます。泰敬が伯父さんの手術をしました。『おじさんの手術は僕がやらなくて誰がやるんだ。見過ごしていたら僕は軽蔑され笑い者になってしまう。いまこうして医者をやっていられるのも李鎮五おじさんのおかげ、大恩人だから』と言って」

 順愛は、自分の伯父が、泰敬にとってなぜ恩人なのか詳しいことは知らないという。

 時田の出征間際に、泰敬の母親が病気になり、経済的な負担が大きすぎる中学への進学をあきらめようと思い詰めていたとき、李鎮五が救いの手を差し伸べてくれ、希望どおりの進学ができたことを指していることは明らかだ。

「泰敬は手術のあと他の仕事を放り出して、三日三晩、鎮五伯父さんに付きっきりの看病をしました。外科部長と喧嘩しても伯父の傍

から離れようとしませんでした。伯父も『泰敬に手術してもらってこんな嬉しいことはない。すぐ死んでも悔いは残らない』と言って手術に臨みました。今も大学病院に入院しています」

「伯父さんの様子は心配だが、泰敬のやっていることは私にも嬉しい話だね。順愛、君たちが上級学校への進学を目指して、補習授業に頑張っていた時期のことだよ。鎮五伯父さんが、泰敬一家に手を差し伸べて泰敬の進学を可能にしてくれたのは。確か君が、泰敬のことや母親のことを書いた伯父さんの手紙を、私に届けてくれたよ」

 その手紙には、泰敬が進学を諦めないように尽力することや、あの地域からも社会に貢献できるような人物を育てたい、といったことが書かれていた。

「クラス会に時田先生がおいでいただけなかったことを伯父に話したときのことですが、『それは残念だなあ。私も時田先生に会いたかったよ』と言って何か思い出に耽って遠くを見ているような表情をしていました」

 白衣のパジ・チョゴリを端正に着こなして悠然と酒を飲んでいた舎廊房(サランバン)(居間)が昨日のことのように思い出された。

「君の伯父さんは両班(ヤンバン)らしい両班、本当の知識人だと思うよ。僕も李鎮五さんにもう一度会いたいなあ」李鎮五の持つ風格や雰囲気を懐かしみながら口にしていた。

李鎮五は、朝鮮の大らかさ、大陸的な度量を感じさせられる人物である。郷愁が胸全体に込み上げてきた。李鎮五と尽きることのない話ができれば、朝鮮の懐に抱かれたような安らぎを感じることができるに違いない。引揚げて来てからの時田太一はどこまでも異邦人なのだ。時田は閃くように李鎮五に会いに行こうと思った。ソウルへ行くことを心の中で決断していた。韓国に背を向けていた三十五年は、少し依怙地になっていたのかもしれない。引揚げてきた日本に馴染めず、九州の方言にも違和感を持ち、帰って行く故郷もない疎外感を持ったまま生活してきた。一個人が抱く朝鮮・韓国に対する後ろめたさなどちっぽけなものだ。もっと素直になればよかったのだと時田は自分に言い聞かせていた。順愛が来てくれて素直になれた気がした。残りもさほど長い人生ではない。自分の気持ちに正直に、李鎮五に会えばいいのだ。病気見舞いなどと無理して理由をつける必要などない。できるだけ早くソウルへ行こうと時田は強く思った。

 順愛が帰国して一と月も経たずして、時田太一はソウルへ向かった。

 飛行機が飛び立って一息ついたときにはすでに韓国の上空だった。窓から見える韓国は、禿山が多いと思い込んでいた先入観に反して、畳々として緑の山なみが続いている。

関釜連絡船と京釜線の特急列車を利用しても、ほぼ一昼夜を要した昔を思い起こしながら、飛行機の窓に額を押し付けるようにして眼下の山々を見ていた。

 慌ただしい出発であった。慌ただしくなったというのが正しい。旅券と航空券さえ手にすればすぐにでも韓国へ行けるものと思っていたが、違った。

 航空券とソウル市内のホテル予約をお願いしていた旅行代理店から、電話がかかってきた。予約に必要な項目を記入した申込書を送っていたが、出生地の記入がもれていると言ってきた。確かに迷った末に未記入のまま渡していた。予約をするのになぜその項目が必要なのか不思議であったうえに、自分の出生地である京城という場所は、この地球上に存在しないではないかと考え、記入しなかったのだ。出生は両親の住所であった京城府に届けられていた。

「査証(ビザ)申請に必要なのですが、どちらのお生まれでいらっしゃいますか?」旅行会社の人が訊いてきた。

「京城府なんですが……」

「それはどこなんでしょう?」若い声の係員だ。

「いまは韓国のソウルなんですが」

「それじゃ韓国・ソウルということですね」

事務的に言われて、時田は黙ってしまった。ソウルでも韓国でもない、朝鮮の京城府なのだ。

「韓国は査証発行の審査が厳しいので、記入不備があると入国許可が下りません。ケイジョウフ、チョウセンでよろしいですね?」

「そうです。よろしくお願いします」

 時田は返答に窮して電話を切った。韓国が査証発給に際して厳しいチェックを入れていることは察しがついた。反共の旗幟を鮮明にしている国家であり、北朝鮮のスパイがたびたび入り込み、ソウル市内で銃撃戦さえ起きていたうえに、一九七四年には朴大統領殺害を狙った在日韓国人に、大統領夫人が狙撃され死亡するという大事件が発生していた。

 査証が発給されず、渡航できないのであればそれも致し方ないと諦めていたが、出発の間際になって査証も取得できた。旅行会社がどのように書いて書類を提出したかはわからなかった。わかったことは、自分が、幻の街となった京城の生まれで、自分には公式文書に記入できる出生地がない、ということであった。

 飛行機は降下を始めていた。

――当機はまもなくソウル国際空港へ着陸いたします――

機内アナウンスに導かれるように、目の前に大都市ソウルが姿を現していた。緩やかに蛇行している大河漢江、緑に覆われビルに囲まれた小さな繁みのように見える一角は南山であろうか。時田は、小鼻の奥に溢れそうになるものを我慢して押さえ込んだ。

 空港ビルに足を踏み入れると、時を置かずそこがまさしく韓国であることを実感した。体が憶えている朝鮮の、韓国の匂いを一瞬にして思い出したのだ。どんな匂いなのかと問われても説明できない。利用した路面電車の中や、生活の至るところで吸っていた空気の匂いとしかいいようがない。乾いた空気の感触と渾然一体となった街の匂いなのだ。故郷という言い方が許されるのならば、それはそこで生活した者だけにわかる故郷の匂いとしか表現のしようのないものであろう。内地と朝鮮という言い方をした時代に、その間を何度か往来したが、朝鮮に戻って来たときの香りと、空気の感触は数十年の時を経ても変わりがなかった。育った場所の記憶というのは肌でも呼び戻すことができるらしい。

 ソウルへ降り立ってみれば呆気なかった。何にこだわってこの三十数年間もの間韓国に背を向けてきたのだろうか。空港ロビーへ向かいながら、自分が思い描いていた様子や雰囲気とはまったく別物のソウルではないかと時田は戸惑っていた。

 福岡を発つ間際になって順愛に連絡をとり、李鎮五氏に会いに行く旨を伝え、利用する飛行機の便名も知らせずに、出迎えは不要であるとも伝えておいた。綿密な計画を立てて旅行などしたことはないが、今回の旅行は外国ということを考え、持て余す時間を利用して韓国国際観光公社に足を運び、交通機関などを充分に調べておいたからである。

 入国審査、荷物検査を済ませロビーに出ると、柵越しに「時田先生!」と周りを憚るような、男の大きな声で名前を呼ばれた時田は、落ち着きなく視線を左右に泳がせた。

「時田先生」と何人もの声で呼んでいる。順愛がそこにいることに気づくのと同時に、十人ばかりの中年の男女が駆け寄ってきた。どこか見覚えのある顔である。すると辺り構わず時田に抱きついてきた。

全員に取り囲まれると、またたく間に荷物はもぎ取られ、両腕は左右から持ち上げられ、足はなかば浮いている。全員が泣いていて笑っている。

「みんなで迎えに来ました。待っていましたよ」

「先生!先生!」とだけ言っている者もいる。

「金山基元です」

「春子です、西原春子です」

 われ先にと全員が日本語で、昔の名前で名乗ってくる。あの狂気のような、強制にも近い創氏改名で名乗らされた日本風の氏名のままに、時田に握手を求め、しがみついてくるのだ。そう言わなければ仕方がない、韓国人としての正式な名前では時田には理解できないのだ。林順愛が〈イム・スネ〉であり、松山泰敬が朴泰敬〈パク・テギョン〉であることを時田は知らないのである。

 日本人らしい氏名を名乗るように推進された創氏改名制度によって、J国民学校の朝鮮人教師全員と生徒のほとんどが日本人風の名前になった。安学文が安井文太と改名したときの、皮肉な自嘲の笑いを時田太一は忘れることができない。

 まるで容疑者が連行されるようにして空港ビルの外に出た。湿り気のない韓国の外気が風もないのにさわやかだ。青い空と刷いたように長く延びた雲が、涙のむこうに見える朝鮮の秋空だ。涙は止むことなく流れ出てくるが、両手を取られて拭うこともできないままに、用意されていたマイクロバスに全員が乗り込んだ。

 時田は車内の最後尾の真ん中に座らされたが、バスが動き出してからも全員がまるで幼稚園児のように赤くした目を後ろの時田に向けて涙を流し、そして笑顔が弾けていた。

「迎えはいらないと順愛に伝えておいたのに、君たちは……」言葉が続かない。

「搭乗されている便名もホテルも徹底的に調べましたよ。狙った獲物のウサギは捕まえるまで追いかけますよ」

「人を獲物だとかウサギとはなんだ」

「だってトッキ先生でしょう」みなが大喜びして一斉に声に出して笑った。

ウサギは韓国語でトッキと言い、いつも木にもたれて本ばかり読んでいた時田に、ウサギとカメのおとぎ話から、子供たちが付けた渾名だった。J国民学校裏山の銀杏の大木が脳裏に蘇った。

 バスは、銃を肩にした兵士が所々に立っていた金浦空港を出ると、恐ろしいほどのスピードでソウル市内へ向かった。漢江が見え隠れしたあたりから交通渋滞である。どこをどう通っているのかわからないうちに、いつのまにか市内の中心部にさしかかっていた。

「ソウル駅です、先生」

なにかを言うと必ず「先生」と言って注意を引こうとするのがおかしい。

「普段は空港から市内に入るときは違うルートです。今日は特別に遠回り」

みんながまた笑う。時田の心中を見透かしたように、わざわざ昔が偲ばれる場所を通る心遣いである。

 ソウル駅に見入った。昔となにか違いがあるのだろうか。赤レンガ造りの瀟洒な建物は、三十数年を隔てても同じものであったが、正面の大時計の上に、アーチ状にハングル文字で書かれた駅名らしい表示から時の流れが見て取れた。

 時田太一は目を瞑り、駅前の幅広い通りから南大門に向かうノロノロ運転の車に身をゆだねたまま、路面電車を思い浮かべていた。木製の長イスの客席と、横揺れする電車の車輪の軋む音、上下に塗り分けられた、くすんだ薄黄色と緑の車体、スパークするパンタグラフ、どれもが永遠に続くと思われた京城の日常がありありと思い起こされた。

 マイクロバスが止まり正面に南大門が望まれた。

「タタイマ神宮前通過テゴザイマス」

朝鮮語訛りの日本語で、車掌が車内の乗客に大きな声で案内すると、全員がそのままの向きで頭を垂れた。京城駅から南大門に向かう途中、右手の南山中腹に朝鮮神宮が鎮座していたのである。朝鮮神宮が在朝鮮日本人の心の拠りどころであり、日本精神の象徴であった。朝鮮神宮の下を通過する電車内では、車掌の案内に従って頭をさげる慣わしとなっており、だれ一人としてそのことを疑問に思い、異議を唱え叛くものはいなかった。

 官幣大社としての朝鮮神宮が建立されたのは、時田が京城師範学校の学生だったときである。南山といえば朝鮮神宮であり、それ以前の南山がどうであったかは記憶からすっかり抜け落ちている。思い出すことのできる南山は、湧き出る泉があり、鬱蒼とした森という、誰もがもっている少年時代のセミ取りに駆け回った楽しいだけの記憶や、生徒を連れて参拝した三八四段の石段だ。「サンパイシヨウ(参拝しよう)だから三八四段だよ」と言い合いながら登っていったものだ。

朝鮮神宮の建立に際して、李氏朝鮮の国家鎮護の祭祀を行う、南山頂上にあった国師堂という神聖な建物を、仁旺山に移してしまったことを朝鮮にいる日本人は知る由もなかった。今思うに当時の日本人の、朝鮮人の感情を逆なでする所業にあきれるほかはない。朝鮮神宮を見た朝鮮人の心情は、思い半ばに過ぎるものだ。さらに追い討ちをかけるようにして、その後朝鮮人の参拝さえも促す時代となっていったのが朝鮮神宮であった。

 時田は当時にあっても、〈五族協和〉や〈大東亜共栄圏〉を唱えながら、日本精神や神国不滅を叫ぶ日本人の独りよがりに胡散臭さを感じていた。もとより政治には興味はなかったが、「五族協和」を唱えるのであれば、もう少し他民族に思いやりがあってもいいのではないかくらいのことは感じていた。

時田は心の自由が欲しかった。しかしその思いが日常生活の言動に出ないように心掛けていなければならない時代であった。同僚教師の安学文が、しみじみ言ったものだ。

「……日本人も朝鮮人も惨めですね。人間の尊厳とか崇高さというような考えの欠片もない、旧態依然とした社会に生きている」

日本人や朝鮮人の立場を超えて、時田は安学文の思いに共鳴していた。

 京城府内の小学校に勤務していたころ、毎年元旦は全校生徒が登校し、朝鮮神宮へ参拝することが恒例のものであった。気温は常に零下十何度の骨も軋むような寒さの中を、学校から隊列を組み、片道三十分ばかりを要して南山の朝鮮神宮を目指した。南大門の前から坂道の表参道を歩き、大鳥居をくぐって登りつめた所から振り返ると、急勾配の幅十メートルはあろうかと思われる石段を往復した。

 普通学校の生徒も同じようにして神宮参拝をしていた。何の先入観も疑念ももたない児童を参拝させることが、朝鮮人を皇民化する有効な手段の一つと考えられたのであろう。

 朝鮮総督府による教師用の指導書というものの中にも、朝鮮人の生徒が精神的にも日本人になることを目論んでいることが明記されていた。

 渋滞で止まっているマイクロバスの窓越しに南山を見上げた。ビルの間から樹々に包まれた南山の一部が見て取れた。

「朝鮮神宮はもうありませんよ、先生」

心の中はお見通しですよと言わんばかりに誰かが陽気に言った。あっけらかんとした言い草に皆が笑った。瞼に浮かぶ場面がバスのフロントガラスに映し出されてでもいるように、何もかも時田の心の中を察している。

「君たちとも一緒に行ったことがあったかなあ?」

「三年生か四年生の時、遠足は南山に行きたいと僕たちが言ったら、先生が『いや、それはよそう』とおっしゃって、結局仁旺山に登ったことを憶えています」

 時田には、自分自身が無意識のうちに朝鮮神宮を避けていたように思われる。

 国家総動員法が施行され、国を挙げての、国民の狂信的な軍国熱をもって戦争へ突き進んでいけばいくほど、時田は自分が冷めていき、内心では国の目指す方向にずっと批判的であったと思う。しかし忠良なる皇国臣民を育てることが学校教育の第一の目標に異議を唱えるなどできるわけもなく、忸怩たる思いを密かに抱いて、ずるずると総督府や校長の指針に黙って従うだけの小心な教師にすぎなかった。

J国民学校の生徒たちが、遠足に南山へ行こうと言ったときに「それはよそう、仁旺山にしよう」と答えたのは、朝鮮人児童を皇国臣民に鍛え上げようとする総督府の方針に対する、軟弱ではあったが時田なりのささやかな抵抗と、ある嫌な思い出のためだった。

 それは同じ年の二月に軍の青年将校による二・二六事件が起き、不気味さを感じさせられる時代であったことから時田には記憶が鮮明である。

 日本人児童だけの尋常小学校六年生を連れて、元旦の朝鮮神宮参拝をすませ、石段を下りていたときの出来事であった。

府内の小学校だけでなく中学、高等女学校など多くの学校が陸続として参拝に訪れていたが、ある小学生の一団とすれ違うときに、クラスの中ほどのだれかが「ヨボも来てるぜ」と言い、同時に周りの数人が侮蔑的な笑い声を出したのを、先頭を行く時田も聞き漏らさなかった。

 時を置かず対向する一行の全員が石段の途中で止まったかと思うと、

「いまヨボと言ったのは誰だ?」大人の男の大きな声がした。

時田も立ち止まって後ろを振り向いた。五・六メートルの距離をおいて、長い外套に身をつつんだ男性と目が合った。普通学校引率の教師であることは明らかだ。

時田が何も言わず黙礼をすると、教師は咎めるような視線を送ったかと思うと、ソッポを向きそのまま石段を登り始めた。後ろ姿は憤りの激情で肩が波うっていた。 

普通学校の列が動き始めるのを確かめるようにして、時田も列の先頭に戻り、石段を下りて行った。あの教師は日本人教師ではないと時田は確信していた。目を合わせたときに、それ以上は〈ヨボ〉と言った生徒を突き止めようとはせず、踏みとどまったからである。日本人教師であれば誰が言ったかをさらに追及してきたはずである。

 朝鮮人教師は、時田と目が合ったと同時に次の言葉を呑み込んだのだ。言い争いになれば自分が正しく百パーセントの理があっても、朝鮮人には勝ち目がないことが無意識のうちに解かっているのだ。日本人は朝鮮人と相対したときに、自分の分が悪くなると言葉に出さなくとも〈朝鮮人のくせに〉という、目の色でわかる、朝鮮人を侮蔑しているからである。

 時田は、「ヨボも来てるぜ」と言った生徒をそのことで叱りつけることをしなかった。しかし数を(たの)んで、集団の中に紛れるようにして名乗り出なかった卑怯さを責めた。

〈ヨボ〉という言い方の朝鮮語は、夫婦の間では〈あなた〉とか〈おい、お前〉といった軽い呼びかけの言葉であり、他人同士では、「ヨボセヨ」と言って注意を促すときや電話口での呼びかけの言葉として普通に使われていた。それが日本人の口から発せられると状況は一変するのである。

 日本人が朝鮮人を指して言う〈ヨボ〉にはすでに朝鮮人を蔑んだ底意が含まれていたが、ほとんどの日本人がそのことに気づくことも、呼ばれた朝鮮人の気持ちに思いを馳せることもせずに安易に使っていた。日本人だけの会話の中に「ヨボがどうした、こうした」といった言い方で語られるときには、〈ヨボ〉の中に朝鮮人を見下し、悪意をも含んでいるなどとは考えもせずに使っているのである。大人たちさえ、それがいかに朝鮮人を傷つけているかも解かっていないうえに、家には通いの使用人のオモニや、キチベと呼ぶ、住み込みの女中の娘を雇っている日本人家庭も多く、優越意識に凝り固まった環境の中で生活しているのであるから、罪悪感など露ほども感じていないのである。そんな家庭の子供に〈ヨボ〉という朝鮮人を指す言葉が蔑称であるとわかるはずがなかった。

同じ支配者の側にある時田に、子供を責める資格はない。時田自身にも日本人社会の朱に染まった、朝鮮人を下に見る心が脳の奥深く巣喰っていることを否定できなかった。子供は大人の写し鏡であった。

 ソウルの中心部、太平路に面したコリアナホテルに旅装を解いた。別に指定したホテルではなかったが、記憶にある界隈へ自分一人で自由にどこへでも行けるようにという条件で、黄金町や太平通りあたりのホテルを予約してくれるように旅行社に依頼をしておいた。通りの呼び名が変わっていることは調べたとおりに乙支路(ウルチロ)や太平路(テーピョンノ)という言い方で旅行社に伝えた。

 時田たちを乗せたバスがホテルに到着すると、空港へ来ることのできなかった二人が、先回りしてロビーで待ち受けていた。二人は時田に近づくといまにも床に跪いてしまうのではないかと心配するほどの最敬礼をした。いまでも儒教が息づいている国なのだ。

――私は君たちに何を与えたというのか。日本人の私が深く考えることもせず、無垢で純粋だった君たちの教師であったこと自体が間違いだったのではないか――そう言いたかったのに、これほどの歓迎を受けて時田は戸惑っていた。

「ソウルも近年大きく発展しました。もっといいホテルが他にもたくさんあるんですよ」みんなが口を揃えて言う。

「いやいや、僕は寝られたらそれで充分なんだよ。このホテルだって僕には贅沢だ」

「先生はほんとに欲がないんですね、昔とちっともかわりませんよ」

 誰一人として帰ろうとしないで、多人数でホテルのコーヒーショップの一角に陣取って騒ぎは収まりそうにない。館内に流れるBGMはみごとに掻き消されている。

 どんなスケジュールを立てているのか、いつまで滞在するのか、どこか是非行きたいところはないか、と矢継ぎ早の質問がせわしなく浴びせられる。

 李鎮五の病気見舞い以外はどこに行くという具体的な計画は何も立てなかった。

クラス会の招待さえも頑なに断わってきた時田には、これまでの三十七年は何だったのかと思えてもしかたがない。こうしてソウルへ来てみればやはり嬉しく、韓国や韓国人に対する後ろめたさも隅に押しやってしまっている自分に苦笑するしかなかった。

ただ記憶にある街を、地図に重ね合わせながら目的もなく歩き回ろうと考えていた。

最上階の部屋に戻ると、観光公社で手に入れたソウルの地図を広げ、太平路に面したガラス窓から、目の前に広がった街並みと地図を、何度もなんども見比べながら、昔歩き回った通りや路地、立ち寄ったことのある場所の記憶を紡ぎ出すようにして、地図の上に赤い印を入れていくことを続けた。

街の中心を西から東へ流れる清渓川が、消えてなくなっているのが不思議だったうえに、そこを境にした、日本人が多く住んだ町と朝鮮人の町の、歴然としていた違いもわからないほどにみごとに変貌を遂げていた。ビルが林立し街は一つに合体していた。ビルに囲まれて残っている昌慶宮や宗廟は、頑なに李朝時代を守っているのであろうか。「京城に行ってみたいね」と口癖のように言っていた、亡くなった母親の顔が思い出された。

 夜になった。日常の、飽きるような繰り返しの日々と違う特別の一日であったから疲れてすぐに眠りにつくと思っていたが、寝つくことができず、そのたびに総ガラス張りの窓辺に立って街を眺めた。街の明かりを一身に集めたような満月に近い月が高かった。

召集令状を受け取り、李鎮五に挨拶に行った帰りの夜道も、月が冴え冴えと輝いていた。 

明日その李鎮五を病室に訪ねたときに、最初に何と言ったらいいのだろうか、と考えて月を見ていた。気がつくと、とうに零時を過ぎていた。

眼下に見える太平路には、人一人いないどころか、一台の車さえ見えない。喧騒をきわめていた昼間の大通りが、掃き清められた滑走路のように広々としている。零時から明け方の四時までが、夜間通行禁止のソウルを目の当たりにした。一九四五年から始まった米軍政庁時代にとられた措置が、すでに三十数年続いていた。  

半島の北半分の共産主義国家北朝鮮とは、いまなお準戦時体制のままであり、韓国の過酷な状況を抱え込んでいる現実を実感させられた。しかし昨日時田を迎えてくれた教え子たちの底抜けの明るさはどこから来るのだろうか。クラス会の招待状に書かれていた〈全員がそろっているわけではありませんが……〉という一節について訊いてみることが憚られたことの現実は、目の前の、緊張感のある不気味なほどの静寂が物語っている。

一台のジープが右手の南大門方面から光化門に向かってゆっくりゆっくり通り過ぎていった。警察か軍の車なのであろう。

 ソウル二日目に李鎮五のお見舞いに行くことにしていた。順愛が迎えにきて病院まで連れていくという。

「手を煩わせなくても僕ひとりで大丈夫だよ」

ホテルから地図を見ながら、時間をかけて歩いて行こうと考えて

いた。鍾路の通りを東大門へ向かって行くだけのことだと順愛に言うと

「先生、病院の受付では日本語が通じませんよ」と軽く受け流されて、十時にホテルへ迎えに来てくれることになった。

迂闊だった。韓国に着いたときから何の不自由もなく事がすんでいた。入国審査や通関からホテルのチェックインまで、日本語が通じてしまうことに違和感を覚えなかった。それがどういうことだという疑問さえ抱かなかったのは、教え子たちに取り囲まれていたからだけだったのだろうか。日本時代の当たり前だったことが、時田の中に残滓のようにへばりついたままなのではないのだろうか。

 時田は順愛との約束の時間まで、ホテルの近隣を歩いてみることにして景福宮へ向かって歩いた。街は通勤通学の時間帯で夥しい車やバスが通り過ぎていく。

歩き始めると、真正面に街を圧するように北岳山が迫っている。三角山と呼び慣わして、眼に焼きついている、峨峨としたソウルの屏風のような北の山である。エメラルド色の旧朝鮮総督府のドームと、その前に立ち塞がる新しい光化門が、重なるようにして目の前に広がっている。朝の光を浴びて、融けはじめた春山の残雪のような白い岩が剥き出しの仁旺山が、左手にひかえるようにして北岳山に連なっている。

風が流れてきた。日本の風が苔むした庭に馴染む湿り気のある空気ならば、韓国の風はひんやりとして澄んだ大陸の空気の流れである。重たさのない乾燥した風が懐かしい。澄んで乾燥した空気はやはり白のチマ・チョゴリやパジ・チョゴリによく合っていたのだろうか。昔の通りには、ごく自然に白衣の人々が数多く歩いていたものだ。ちょこまかとして歩く和服の日本婦人とは対称的に、悠揚迫らぬゆっくりとした歩みの両班然とした白衣の老人が通りを横切り、頭にザルを載せた物売りのアジュモニ(オバさん)がいた。

 時田は通りの反対側へ行こうとして立ち往生してしまった。どこにも歩道橋や横断歩道が見当たらない。広々とした何車線ものアスファルトの車道には自動車が切れ間なく、警笛もうるさい大都会ソウルは、古代ローマのポンペイのように京城を埋没させ、消し去っていた。

 約束の十時にロビーに降りると、順愛は既に来ていて立ったままで時田を待っていた。

「朝食すまされましたか?」と訊いて小さな声で「あっ」と言いながら、おどけた顔をしている。

「『おはようございます』と言うのが先ですよね。うっかり日頃の癖で訊いてしまいました」食事をしたか? と尋ねるのは挨拶だという。訊かれた方も鸚鵡返しに「あなたも済まされましたか?」と言うのだそうだ。

そんな会話を交わしながら、J国民学校で昼食の弁当を持って来ることができない子供がいたことを思い出し、そんな挨拶の仕方はいつごろから始まったものだろうとふと思ったが、順愛への質問を呑み込んで、ホテル玄関のタクシー乗り場へ向かった。

「ほんとは一人でブラブラ歩きながら病院まで行くつもりだったんだよ」タクシーの中で笑いながら憎まれ口をたたいた。しかし時田太一にとっては、歩いて行きたい、どれだけの時間を要しても、踏みしめるようにして歩いて行きたいというのも本音であった。

 日本へ引揚げてからのこれまでは、落ち着かない虚ろな時間であったとしか思えない、居場所を持たない旅行者のような時間を過ごしてきた。いま向かっているのは李鎮五のいる病院ではなく、居心地のいい故郷への道程のように思われる。長い旅からようやく何の変哲もない我が家へ戻ってきたような安堵感が時田の中に湧き上がってきていた。

日本を発つ前は、李鎮五の病気見舞いが目的だと考えたが、ソウル訪問は、どうしても戻って来なければならない、これまで生き長らえてきたことの、証しのような気持だ。李鎮五に会えると思うと心が浮き立っていた。

顔を合わせ、目が合ったときに何と言ったらいいのかと逡巡しているうちに、病院のロビーに入っていくと、泰敬が受付のそばに立って時田と順愛を待っていた。両手を浅く白衣のポケットに入れた姿は凛々しく自信に満ちた大学病院の医者そのものだった。

 順愛が韓国語で何か話し掛けると、泰敬は日本語で返事を返した。

「恩師が恩人のところへいらっしゃるのに、何はさて置き待って案内するのは当然のことでしょう。さあ、さっそく病室へ行きましょう」微笑みながら先にたち、エレベータに向かって歩きだした。

 病室では麻地の白いチョゴリ(上衣)の李鎮五が上半身を起こしてベッドの上でくつろいでいた。個室である。目が合うと時田から三十七年の歳月が消し飛んでいた。

「お久しぶりです。やっとソウルへ来ることができました」

時田は李鎮五と、ベッドの裾の方から真正面に向き合って頭を下げた。

「遠いところをおいでいただいて有難うございます」

昔と変わらない流暢な日本語だった。順愛が簡易の折りたたみ椅子をベッドのそばへ持ってきた。

時田は両の手で、李鎮五の掌を包み込むようにして握り締めた。あの肉厚で逞しかったものは軽く、力強さが感じられなかった。病と、長い年月は李鎮五の顔貌(かお)や腕や手に仮借ない変化を強いていた。

「まさか時田先生とお会いできるなど思いもしませんでした。この上なく嬉しいことです」

「順愛に入院中だと聞かされ、どうしてもお目にかかりたくてまいりました。お身体の具合はどうですか?」ありきたりのことを訊いていた。

「それは全部泰敬に任せています。名医の泰敬に訊いてください」

時田の緊張をほぐすように、おどけた口調で笑いながら泰敬の方へ目を向けて答えた。

「徐々に良くなっています。医者の言うことをよく守ってくれる素直な患者さんなんですが、ときどき独り言のように『酒を呑みたいなあ』と子供のようなことを言うのは困ります。呑ませてあげたいのが人情ですから、私を困らせないで欲しいものです」

「酒は百薬の長というではないか。時田先生がせっかくみえたんだぞ、匂いだけでも嗅がせてくれよ」

「僕も李鎮五さんと一献傾けたいなあ。昔食事をご馳走になったときの酒の味が忘れられませんよ」

「寛いで思い煩うことなく過ごされることが一番の薬です。医者の言うことに間違いはありません。今日は心置きなく時田先生と語らってください。私はまた後でまいります」

わずかな時間も惜しむように、泰敬は仕事に戻っていった。

 泰敬が退室すると順愛が言った。

「ほんとうは、家族も含めて見舞いの人の面会時間は午後からなんです。でも今回は泰敬が病院と交渉して特別許可を取りました。すべての責任は自分が取ると言って」

「私が泰敬に無理難題を言ったことも功を奏しているんだよ」いたずらっぽく李鎮五が言う。

「そうなんです、鎮五伯父さんが『秋夕(チュソク)(陰暦八月十五日の祭日)も近いうえに、時田先生とは病院なんかで会いたくない。一時帰宅をさせてくれ』と言ってダダをこねたから、泰敬はギリギリの妥協案で十時からの面会を病院に認めさせたのですよ」

 ふたりの話を聞きながら、李鎮五と泰敬が互いに心を通い合わせ、信頼しきっている関係の深さを思った。羨ましいとさえ思った。

角部屋の病室も泰敬の差し金に違いない。宗廟、南山などのソウルの街を扇状に見ることのできる、まるでスカイラウンジの病室である。

「私たち家族三人が日本へ引揚げたのも、ちょうど今頃だったですね。持ちきれないほどのオニギリをいただいたことは忘れることができません。女房もそのことをいまでもときどき口にしますよ。難儀をしているときに掛けてもらった親切は生涯忘れません」

 痒いところに手が届くように、時田の家族の差し迫った境遇を読み取って、好意を寄せてくれたのは何故なのか、李鎮五に是非訊いてみたいと来韓前から考えていた。

「お会いしたら昔のことを是非訊いてみたいと長い間考えていました。なぜ私の家族にあのような過分な配慮、親切をいただいたのかと。一介の国民学校の教師に過ぎず、しかも韓国人にとっては忌わしいばかりの日帝のお先棒を担いでいた人間だったのに……」

 李鎮五はすぐに返事をせず、しばらくの間目を瞑り、何かを考えているようであったが、柔らかな笑顔になると、おもむろに時田と順愛に向かって話し始めた。

「もう私も余命幾ばくもない。若い人たちに結婚の適齢期があるように、人それぞれではあるが老人にもまた死の適齢期があるのではないか、私にも当然のようにその適齢期がやってきたように思います。若いときにはご多分にもれず、人生いかに生きるべきかを考えていたのでしょうが、いつのころからかはわかりませんが、人間いかに死ぬべきかを考え、自分の行動を逆算して考えるようになりました。いかに死ぬべきかの答えなどあるわけはないのですが、そう考えるようになったのは確かです。自分がどんな人生を送ってきたか、どんなことを考えてきたかを、他人はもちろん家族にも話そうなどとは思いませんが、以前に読んだ本を読み直してみるように、その時その時代の自分をしまい込んでいる抽斗から取り出してみると、誰にも話したことのない、とっておきの出来事が詰まっているものです。独りでほくそえんでみたり、涙を流してみたりして来し方をなぞり、今の自分を静かに眺めているのです。自分から進んで昔あったことなど話すつもりはありませんが、いまは人に訊かれればごく自然に、素直に話してもいい気持です。時田先生に訊かれたら正直に話す気になりました」

「お聞きしないほうがよかったですかね?」

触れられたくないことだったのではないかと、時田は李鎮五の顔を窺うように言った。

 過去も現在も、親日的言動は憚られる空気が国中に満ちているからだ。

「いやいや構いませんよ。それよりも何十年かぶりで使う、錆びついて怪しげな日本語ですから思いがちゃんと伝わるかどうか。時田先生とお会いできるのもこれが最後でしょうから何でも訊いてください」

ドキリとするようなことを、核心を突いてズバリという物言いは昔と同じだ。

「前置きが長くなってしまいました。なぜ時田先生と親しくしたかという質問でしたね。理由は簡単です。あの当時はまだ普通学校と呼んでいましたが、あなたがJ普通学校へ自ら望んで転勤されたときに『府内の日本人の小学校から志望して朝鮮人の学校へ異動した、変わった日本人教師がいます』と校長に聞かされて興味をもったからですよ。普通学校から尋常小学校へ転勤したいというのが日本人教師でしたからね。安先生が教えてくれたことも印象に残っていますよ。校長が神国日本を語り始めると、止まるところを知らない訓話が延々と続き、あなたが安先生に小声で『また始まりましたね、尻を鞭打たれた馬ですね』と言って、顔を見合わせて苦笑したという話を聞いたことも、時田先生に興味をもった理由です」

 鞭をくれた馬が駆け出すという例え話を、自分が安学文にしたのかどうか、時田にはまるで憶えがないが、いつも校長の訓話に冷ややかな目を向けていたのはまちがいない。神国云々のことではなく、朝鮮人に、ましてや年端もいかない小学生に、どれだけ通じるのかと疑問に思っていたせいだ。

 李鎮五の好意は、なんだ、そんな他愛のない理由だったのかと時田には拍子抜けした思いであったが、話の続きに耳を傾けた。

「私は一度死ぬ機会を失くしましてね。いやいやこれは冗談です」

李鎮五は手を大きく左右に振って否定しながら続けた。彼一流の、一歩退いたいささかアイロニカルな言い草である。

「死に損ないではなく、殺されるのではないかという恐怖にかられた経験があるのです。いや実際殺されてもおかしくない出来事でした。一九二三年の東京の地震はご存じだと思います。順愛は生まれていないからわからないな。あの関東大震災のときに、私は東京に留学中でした。歩いている人間が倒れるほどの揺れと、その後の地上のすべてを燃え尽くすような大火災に、東京は無間奈落の巷と化し、この世の終末を見ていると思いました」

 息を継ぐようにして、顔を天井に向けて瞑目し話も中断した。

「伯父さん無理しないでくださいよ」「お疲れじゃないですか?」

順愛と時田は言葉が重なるようにして李鎮五に言った。

「なあに、心配することはない、私は時田先生との話を楽しんでいるんだよ」

順愛に顔を向けてにっこり笑った。

「……東京にいて難を逃れることのできた我々朝鮮人にとって、地震や火災よりも恐ろしいことが始まったのは、地震の起きた翌日以降だったのです。――地震に乗じて朝鮮人が暴動を起こそうとしている、朝鮮人は井戸に毒を投げ入れたり、放火をしている――といった流言がまたたく間に広がり、日本人は竹槍や日本刀などを持ち出して、俄かに武装した自警団を自然発生的に作っていきました。自警団は朝鮮人から自分たちを守るために、朝鮮人を排斥、抹殺しなければならないと信じたのです」

〈朝鮮人が暴動を起こした〉〈毒を井戸に投げ入れている〉という風聞は、東京府民、市井の名もなき民衆の不安、恐怖心だけに起因するものではなかった。時の政府は未曾有の災害に直面し、戒厳令を発令、巷の流言を裏書きするかのように内務大臣水野錬太郎名で、朝鮮人に対する自衛を講じるようにという布告文を発表している。

 震災によって生じた、〈朝鮮人が暴動を起こしている〉といった流言が広がったことや政府が戒厳令を公布したことの下地には、一九一九年に発生した三・一運動から続く朝鮮独立運動という地下水が脈々としてあり、関東大震災前から、反日独立運動の活発な動きをする朝鮮人のグループが日本国内でみられたことへの、日本人の朝鮮人を警戒する敏感な反応でもあった。

「私は倒壊を免れた下宿の部屋で、まんじりともせず一昼夜以上を過ごしていましたが、どんな過酷な状況であれ、人間は水も飲みたくなれば空腹にもなるものです。九月三日になって家主の奥さんに告げて、私は食料を調達するために近所に買物にでました。『まだ揺れも予断を許さないから気をつけていってらっしゃいよ』と奥さんは言ってくれました。子供のいない物静かなご夫婦でしたが、二人とも教養のある人たちでねえ。ご主人は丸の内の会社に勤める人でしたよ」

 混乱に陥っている外の様子がどうなっているのかなど、正確な情報を得ることは困難な時代である。この年ではまだラジオ放送も始まっていない上に、唯一の情報伝達手段の新聞社も壊滅的な打撃を被っていて、口伝えの情報だけが頼りであった。どこに行けば食料を手に入れることができるのかさえ定かではなかったのである。

「買物に行った先はさほど遠くない店だったのですが、私はその帰りに数人で巡回していた自警団に呼び止められたのです。一人は白い鉢巻に襷がけ、抜き身の日本刀をもっていましたし、皆殺気立っていました。『どこへ行くのか? 何をしているのか?』と訊かれました。そのときはまだ、その人たちが朝鮮人を嗅ぎつけて捕縛しようとする自警団の連中とは知りもしませんでしたし、なぜ私が朝鮮人ではないかと疑われたのかもわかりません。食料の買出しに出かけたことを告げると、唐突にこう言うのです。『十五円五十銭と言ってみろ』と。なんでそんなことを言わされるのかと思いましたが、殺気立った異様な雰囲気の中、反論したり逆らったりするなど思いもよりません」

 多くの朝鮮人が日本語を発音しようとすると、濁音から始まる単語が清音に変わり、しばしば清音濁音が逆転して発音されることを知っていて、あえて発音の難しい〈十五円五十銭〉と言わせたという。日本人には〈チュウゴエンコチュッセン〉と聞えるというのだ。日本人と朝鮮人の違いを、その相貌や外見から識別するのは困難なために考え出された巧妙な方法であったという。

「『朝鮮人が徒党を組んであちこちで暴動を起こし、井戸に毒を投げ入れたりしているんだ。だから一人残らず捜し出して……』と言いながら白刃をちらつかせるんですよ。私に対する疑いはまだ晴れていなくて、疑り深くこう言うんです『それにしてもちょっと買物に行くのに靴を履いているのはおかしいな。普通日本人だったらゲタをつっかけていくはずだぞ』と。私は、喉はカラカラで頭の中は真っ白になり、観念しそうになりました。そのときなんです、家主の奥さんが近づいてきて……」

 自警団の連中に疑い深い眼差しで、全身を上から爪先まで舐めるように見られて、窮地に陥っていたときのことであったという。

「ジンゴさん、こんなところでなに道草くっているのよ。みんなおなか空かせて待っているというのに」

浴衣風の着物にゲタ履きの奥さんは、李鎮五を咎めるように真にせまって言った。

「お宅の方なんですか?」自警団は強圧的なもの言いで問いかける。

「そうです。ちょっと出たのになかなか帰って来ないから見に来たのです」

「我々はこの一帯の自警団の者ですが、ご存じかどうか知りませんが、不逞鮮人たちがこの一大事に乗じて……」

「知っていますよ、恐ろしいことです。だから朝鮮人に間違えられたらいけないと思って、気をつけて行くのよ、と言ったのに。変に勘違いされてしまって」

 冷静で堂々とした対応の、機転を利かせた家主の奥さんに救われ、九死に一生を得たというのだ。

「奥さんは『私の兄の子……』日本語でなんと言いましたっけ? そう甥ですね。『私の甥です、お騒がせしてすみません。さあ帰りましょう』というと私の手を引っ張って下宿へ連れ帰ってくれたのです。奥さんが私のことをジンゴさんと言ったのも、それが初めてで最後のことでした。日頃はリーさんと呼ばれていましたからね」

 話慣れた物語でも語るような淡々とした口調は、感情の起伏の大きいものの言い様よりも凄みがある。病床にあっても李鎮五の両班らしい落着きのある堂々とした雰囲気は部屋の中に漲っている。

順愛は初めての話に息をのんで、まんじりともせず聞き入っていた。

「私を救ってくれた家主夫婦は、そのあとも恩着せがましいこと一つ言わずに接してくれました。戦争が終わり、朝鮮にいる日本人が苦境に陥って、不安の日々を送っているのを目にしたときに、私は東京での家主夫婦のことばかり思い出していました。こんなときこそ恩返ししようなどとは考えませんでした。人間として当然のことを淡々と、家主夫婦と同じように、自分の良心に従ってすればいいと考えました。私が時田先生にしたことを〈親切〉とおっしゃいましたが、私は自分の心に忠実だっただけで〈親切〉でもなんでもありません」

 伯父の話に耳を傾けながら順愛は、八・一五解放後の、九月のある日のことを思い出していた。

 夕食をすませた後に、伯父の娘、順愛にとっては従姉の英淑(ヨンスク)ねえさんと二人が、伯父の居室に呼ばれたときのことだ。幼いときとはちがって伯父の部屋に行くことなどなく、緊張して入っていったことを憶えている。

「おまえたちにお願いがある。明日早朝に時田先生の家に行ってもらいたい。ここに用意してある手提げ袋をもって、時田先生の家の門の内側にこの袋を置いてきなさい。家の人にわからないようにして置いて来るんだ。それから家の近くに行ったら、周りをよく見て、だれもいないことを確かめなさい」

 順愛にはなぜだれにも見られてはいけないのかまったくわからなかった。さらにはチマチョゴリで行ってもいけない、モンペを穿いていくようにと伯父は服装にも注意をした。

時田先生の家に行けば、先生はもちろんだが、奥さんや娘の京子ちゃんにも会えると心が弾んだが、伯父の口振りから、ただならぬ雰囲気が伝わってきて、緊張したことが鮮明に記憶に残っている。

 持参した袋の中身は白米であった。英淑と順愛は二人して手提げ袋の両側を持っていたが、持つ手が痛くなったほどの重さがあった。門の内側に置こうとしたが、敷石は早朝の露に濡れていて下にじかに置くことができない。植木の添え木に吊るすと二人は足早に家を離れた。

 順愛にとっては、時田先生の一家と会うこともないままになり、また九月になっても学校が始まる気配もなかったうえに、八月十五日以来、日本人は身を潜めるようにして暮すようになり、日本人がいなくなった学校は、もぬけの殻の様相を呈していた。

 これから学校はどうなるのかなど、順愛には皆目見当もつかなかったが、何か心が軽くなったような、でも将来が不安な落ち着かない日々を送っていた。

 順愛は女学校入学当初から、なにかモヤモヤしたものが頭の中から離れないままでいたが、解放後の近隣の雰囲気や大人たちの話から思い当るものがあり、一瞬にして腑に落ちた。防空頭巾のように、いつも頭を覆っていた煩わしいような、もどかしい何かが取れたのだ。それは日本という煩わしい覆いものであったことが解ったのだ。

学校で過ごす時間と、祖母をはじめとする朝鮮人そのものの、家庭の生活との格差に、自分はいったい朝鮮人なのか、あるいは限りなく日本人に近い人間のどっちなのかというモヤモヤが、濃霧のように立ち込めていたのである。子供には自分が、支配されている側の人間などという難しいことがわからなかっただけなのだ。

 日本の敗戦を境に、冬眠中の生き物が蠢き出すようにして、朝鮮人が大手を振って歩き始め、さらには日本人に親しく接することは危険でさえある世の中に変わり始めていたのである。鎮五伯父が、時田先生の家へ行くときに細心の注意を払うようにと言ったのは、その不穏な世情のことだったのだ。

「順愛、もう日本人はいなくなり、新しい世の中になるのよ」英淑ねえさんは言った。

「どんな世の中になるの?」

「それは私にはわからないわ。でもみんな誰に(はばか)ることなく朝鮮語を話しているでしょう。そしてもうじきあなたのお父さんも帰ってくるのよ」

 母親と二人きりの生活が長く、父親がどこにいるのか、どんな仕事をしているのか一切聞かされたことはなかった。質問をすることも躊躇する空気が、母親だけではなく祖母や伯父の家族にも色濃かったが、時代は一変し、京城はソウルへと呼び名を変え、朝鮮が解放されてひと月ほどにしかならないのに、数え切れないほどの政治的な団体が、雨後の筍のように林立していた時代である。

親日的だった人士は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなり、駐在所や交番では巡査の姿を見ることもなくなっていた。すべての市民が反日愛国の士一色に染まっているようであった。

鎮五伯父は世相を評して「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)だな」と苦苦しく洩らしていたが、順愛にはそれがどういう意味なのかわかるはずがなかった。

「儒教にあれほど拘泥する韓民族が、理や知に無縁な、時代に迎合し付和雷同な行動をするとは情けない。なんのための儒教か」

 解放に乗じて、日本人の苦境に、蝿が飛交い、たかるように跋扈する輩を、伯父がめずらしく口を極めて非難していたことが思い出される。

 順愛は今聞いた東京留学時代の伯父の話と、あの九月の印象的な日々を重ね合わせた。

 入院患者用の昼食が運び込まれるのと時を同じくして泰敬が顔を出した。

「いかがですか。話は弾んでいますか?」

自信に満ちた医者の顔と話しぶりは板についている。

時田は、泰敬の一重瞼の柔らかい顔を眺めながら、小柄でひ弱そうだった少年の泰敬を思い浮かべていた。

「たくさん話をしたからすこぶる調子がいい。食欲もわいてきた」

「何の話題で盛り上がっていたのですか? 家に帰してくれないとでも言って、私の悪口でも言ってらっしゃったのですかね」

「これまで誰にも話したことのない、とっておきの話だよ、なあ順愛」

「こんど私にも聞かせてください」

「いやもう話さないよ。同じことを何度も話すバカにはなりたくないからな。知りたかったら順愛に訊いてくれ。あとはあの世にもっていくだけだよ」

いたずらっぽく笑いながらの口ぶりに、他愛ない雑談で和んだ。

「ところで君たちはどうやって時田先生をもてなすつもりなんだ?」

「いやそれは秘密です。話せません。とっておきの歓迎会を計画しました」

泰敬が混ぜっ返すように言葉尻を取って、おどけて李鎮五に応えた。

 時田の歓迎の宴は、鐘路の大通りを北に折れ、仁寺洞の通りから奥まった韓国料亭で催された。会場は油紙を敷きつめたオンドル部屋であったが、両班の舎廊房(サランバン)(居室)を模した造りの、昔招かれたことのある李鎮五の居室を彷彿とさせた。

ホテルに迎えに来てくれた泰敬に案内され会場に入ると、参加者全員がすでに顔を揃えて待っていた。

「トッキ先生こんばんは」皆が一斉に声をそろえた。

時田には想像もしない呼ばれ方と挨拶であった。それだけで時田は涙が溢れ出てきて会場が霞んだ。奥の壁いっぱいに〈時田先生歡迎會〉という横断幕が掲げられていて、しかも日本ではすでに使われなくなった旧字体で書かれていることにも時代の移り変わりと郷愁を呼び起されたようで、時田は溢れるものを我慢できなかった。

 泰敬が司会の挨拶に立った。

「みなさん、やっと私たちの時田太一先生に来ていただきました。やっとトッキ先生にお会いすることができました。こんなに嬉しいことはありません。――ただ嬉しい、他にどんな言葉も出てきません。私たちの国民学校時代は、日本時代という、韓国人にとっては忌わしい、忘れてしまいたい時代であったかもしれませんが、時田先生は、私たちを日本人にするための教育をなさいませんでした。ただ純粋に私たちの成長に力を貸してくださった、真の教育者であったという思いにみんな異論はないでしょう。誇るべき恩師です。みなそれぞれが、自分なりの先生との思い出を持っていることでしょう。今日は久しぶりに国民学校の生徒に帰って、思う存分先生と語り合ってください。ただ一つ残念なことは、今日のこの席に出席できなかった生死不明や亡くなった同級生が幾人かいることです。できることなら先生とともに、この歓迎の宴の前に、不明の人が無事で生きていることと、亡くなった人の冥福を祈りたいと思います」

 冥福という言葉に時田は誰がいないのかを思い遣った。

黙とうが終わると、泰敬に挨拶を促された。どんな挨拶をしようかと考えていないわけではなかったが、全員の視線を浴びると、用意したつもりの挨拶の文言は消し飛んでいた。

「……ここにこうしていることだけで充分です。馬齢を重ねて七十歳になりましたが、これまで生きてきて、皆さんにお会いできたことの喜びしかありません。ありがとう」

 時田にはそれが精一杯の挨拶であった。涙が止まらない。長い拍手が会場を満たした。

「それでは乾杯しましょう。思う存分、飲んで食べて語らってください。その前に皆さんにお願いがあります。みなさんの前に何も入っていない器が置いてあります。今夜は一切のウリマル(韓国語)は禁止です。ウリマルを一言でもしゃべったら罰金を取ります。その度に百ウォン硬貨を器に入れてください。それが今夜の約束です」

「泰敬、おまえがさっそく最初に言ったぞ。『ウリマル』は違反だ」

だれかがさっそく茶化した。

「アイグ(あら、まあ)、日本語忘れたよ、どうしよう?」女性の声だ。

二枚の硬貨が器に入れられたのを合図に、会場は一気に盛り上がった。

 時田が韓国語を解せないのはもちろんだが、同級生同士での会話まで日本語とは、と時田は彼らの心くばり、思い遣りがどんな料理よりも嬉しかった。でも恩師なんかじゃないよ、と心の中で反論することも忘れなかった。同時に、懸命に日本語で会話している様子に、複雑だが、感謝と何か申し訳ない気持が全身を満たしていた。

 時田の右隣が一席空いているのが不思議だった。ここは誰の席かと訊くと、「先生が酔ったときに横になれるように空けてあります」と言う。そんなことまでと思ったが、その席もすぐに、次から次へとみんなが押寄せてきて空くことはなく、そのための席であろうと思った。艶やかなチマ・チョゴリの女性二人は時田の両側に居座り、両腕をつかんで動こうともしない。

「君たちだけで先生を独占するな」

近づいてきた榮川石松が笑いながら言う。

「あんた、昔先生の弁当を独り占めにしたじゃない。その仕返しよ」

「〈あんた〉は悪い言葉だ。〈あなた〉だろう」

「そうだったね、日本語忘れたよ。でもあなた本当に一人で先生の弁当食べたことあったでしょう」

女性二人にねじ込むように言われて、榮川石松がしきりに頭を掻いた。

「イシマツか? 元気そうじゃないか」

 榮川石松はクラス一背が高く体格のいい生徒であったが、家は最も貧しかった。

「僕は先生の弁当に入っていた玉子焼きの美味しかったこと一生忘れません。これまでにも、あんな美味しいものを食べたことはありません。あの玉子焼きのおかげで今もこんなに元気です」

 日米の戦争が長引くにつれ、食料事情は極度に悪くなっていったが、生徒たちの中には弁当さえ持参できない者や、学校を休む者が次第に増えていった。その中でも石松はほとんど毎日弁当がなく、昼食の時間になると教室を出て、井戸水を何杯も飲み、運動場の鉄棒にぶら下がっていた姿が瞼に焼き付いている。

 時田は毎週一、二度弁当の時間を挟んで出張をつくった。実際に京城府内への出張もあったが、嘘をついた出張では、生徒に気付かれないようにして、いつも宿直室で寝ていた。級長の泰敬に言い付けたものだ。

「先生は急な用事ができたので次の授業は自習にしなさい。それから先生の弁当は、今日弁当のない者たちで分けて食べるように」

それぐらいが時田のできる精一杯のことであった。時田の弁当のおかずにしても質素で、いつもタクアン、白菜の漬物、蛋白質といっても出汁に使った後のイリコ(煮干)を塩辛くした煮物くらいである。

 当時の朝鮮に春窮期というものがあった。前の年の秋に穫り入れた食料が、半年するかしないうちに枯渇してしまい、残しておいた種籾さえも食べざるを得なくなるのだった。一日に口にするものが粟飯や(ひえ)飯の焦げ湯(スンニュ)だけであったり、野草であったりが当たり前の状態が春になると毎年のように繰り返された。

 榮川石松は言う。

「私は国民学校のころ、本心は勉強よりも体操の時間が好きでした。それなのに先生が急に体操を取り止めて、本の続きを読んでくださるとホッとしたものです。運動をするとお腹が空きますから、できるだけじっとしていたかったからです。よほど空腹のつらさが身に染みていたからでしょうか、八・一五解放後は年齢を偽って軍隊に志願しました。理由は一つです、食べることだけは軍隊では保障されていたからですよ。六・二五(韓国動乱)はもちろん、ベトナム戦争へも行きました。いくつもの修羅場、死線を潜ってきましたが、こうして生き延びてきました。もう孫も一人いるんですよ」

軍人とは思えない柔和な眼差しで話をする榮川石松に酒を注ぎながら、時田は必死に生きてきた一人ひとりのこれまでを思った。二人は何度も返杯を繰り返した。

どの教え子も平穏で何ごともなかったような顔をしているが、あの一九五〇年に勃発した韓国動乱を挟んだ五十年近い年月は、想像を絶する苦難を経験し乗り越えてきたにちがいないと思うと、時田は、「よく頑張ったな、おまえたち」と言って、全員を一人ひとり抱しめたい衝動にかられた。

 満座の中からだれかが大きな声を出して注意を促したかと思うと、小柄で白髪の老人が現れた。時田にはそれが誰なのか見当もつかなかったが、泰敬が老人の肩を抱くようにして入口で言った。

「安学文先生がおいでになりました」

大歓声が上がった。

時間をずらして来てもらうことも幹事が用意した演出であり、そのために時田の隣の席が空けられていたのである。時田先生を喜ばせたい、喜ぶ顔が見たいという全員の気持の総意が、安学文を招くことであった。

 時田にとって安学文は、朝鮮での教師時代に唯一ともいえる心を許しあった同僚であり、朝鮮人の生活や慣習の一端を教えられ、朝鮮人の真情を理解する補助線を引いてくれた師でもあった。

そんな安学文と二人で登った仁旺山の、土曜の午後が忘れられない。半強制的に髪を切らされた安学文の憤懣を聞きながら、何も言えなかった不甲斐なさが記憶に染み着いている。安学文の白髪の向こうに、カーキ色の国民服姿と坊主頭になった顔が重なる。

 傍にきた安学文と時田は、何も言わず見つめ合って、お互いに両の手を包み込むようにして握手をした。四十年近い年月が経っていながら、目と目が合っただけで何を言いたいのか解り合える気がした。手を握り合ったままで席に着いた。

 改めて乾杯がすむと、促されて安学文が挨拶に立った。

「日本語は正真正銘解放後三十数年ぶりです。今日のために日本語のおさらいと、挨拶の予習をしてきました。おぼつかない日本語ですがご挨拶いたします」

 「おさらいと予習をしてきた」という言い方に、安学文らしい生真面目さが表れていた。会場には微笑ましい笑いが起こった。

「今日は私までもこの席に呼んでくれてありがとう。時田先生に会えて君たちに負けないくらい嬉しい。二年前のクラス会に招待され

ながら辞退したのも、時田先生がおいでにならないということが理由でした。時田先生あってのこのクラスなのですから。時田先生はあの時代に施した教育にたいする罪悪感、先生の言葉では『心の棘』と手紙の中でおっしゃいましたが、韓国人を日本人化するための教育をしたことの後ろめたさということでいえば、日本人教師に限らず私たち韓国人教師も同罪なのです。しかし許していただける点があるとすれば、時田先生と私が共鳴したことがあります。それは教師として生徒に〈人間の尊厳〉ということがいかに大切かを考えて教育しようとしたことです。その証拠に、この中で時田先生に体罰を受けた人はいますか? 体罰が日常茶飯事だったあの時代に、時田先生と私は、体罰を生徒に与えないことを強く心に決めて生徒に接してきました。これだけは自慢できます。君たちの顔を見れば分かります。君たちがいかに時田先生を慕い、尊敬しているかということが。それは先生が〈人間の尊厳の大切さ〉を根底にもった教育をされたからだと私は信じています。……長い挨拶になって申し訳ないが、もう少ししゃべらせてください。数千年の歴史があり中国文化の日本への橋渡しという貢献を果たしてきたわが国を、日本は、武力を背景に併合し劣等民族と侮り支配した。そしてわが国民を日本人化しようという大それた考えをもって教育をした。民族のプライドをズタズタにされた屈辱の三十六年は怨み骨髄に沁みている。それは事実です。その反動から八・一五解放からこれまで、わが国は国民に徹底した反日教育を施してきました。しかしすべて日本が悪い、わが民族が苦難の道を歩いてきたのもすべて日本のせいであると。果たしてそうでしょうか? 私にはそうとばかりとは思えません。併合され、解放後には同胞相搏つ戦争をしたことの原因さえも、すべて日本に被せようとする無責任さに、私は思い至るのです。自分たちの不甲斐なさに頬かむりをし、責任の一端は自分たち韓国人にあるということから目を背けてきたのではないでしょうか。いまだもって反日一色、日本色排斥に躍起です。だとすれば徹底的に、中途半端をやめて日本を、日本からきたものを排除すればいい。『社会』『哲学』『新聞』といった漢字語は日本人が作ったものです。『大統領』さらには『民族』という言葉さえ、日本人が西洋の言葉を翻訳した日本式漢語ですから、そんなものを使ってはいけないのです。しかしそのことも日本人に言われれば腹が立つ。われわれは自分たちの言葉で堂々と言わなければいけない。

それほど今の反日は、自分に都合のいいところだけを切り取った、薄っぺらな反日だと言いたいのです。日帝時代の日本人も一律ではありませんでした。日本人のだれもが植民地政策に共鳴し、それが正しいと信じていたわけではなかったと、私は思います。中には批判的であった人々もいたのです。私が知っている日本人は、全員が顔も心も一つではなかったのです。時田先生もその一人であったと思います。そんな先生に縁をもつことができたこのクラスの君たちは幸せだったのです。こんな楽しい夜はたびたびあるものではありません。真の師弟の間に国境なんてないことを、時田先生と君たちがいま証明しています。そんな先生と心を開き語り合った私を、今日また会わせてくれて同じ気持にさせてくれた時田先生と君たちに感謝します。以上です、ありがとう」

 風のない湖面のような静けさが部屋に充ちた。

――近代化に目を背け、頑迷で、両班の両班による両班のための政治でしかなかったこの国の歴史なんて、学ぶ気にもなれなかった――と昔語っていた安学文の挨拶は、今日に至っても考えがぶれることもなく、理系の人間らしい冷徹な視点は昔のままである。この場にいる皆が皆、共感をもって話に耳を傾けたとは思わないが、時田にはいささかのくすぐったい気持と同時に、安学文の思いが素直に伝わってきた。長年の、韓国を訪れることへの(わだかま)りが融けていき、暖かい木洩れ陽が時田の胸に差し込んで来るような安学文の挨拶だった。ソウルへ来てよかったと時田は自分に言い聞かせていた。

隣にいた西原春子が訊いてきた。

小寺(こでら)征栄(まさえ)先生はお元気でしょうか? かわいい先生でしたね」

日本人の女性教師のことだ。

引揚げの後何年も経って、思い出すこともなくなっていた時分に、一度だけ時田のもとに電話が架かってきて、長話をしたことがあったが会うことはなかった。東京在住で、教師もやめ専業主婦の平穏な生活を送っていることなど聞いたきりである。

「先生、私ね、何も考えないで独りぼんやりしているときや、キッチンに立っているときに、いつの間にか口ずさんでいる歌があるんです。〈故郷(ふるさと)〉という小学校唱歌がそうなんです。――兎追いし かの山……って自然に出てくると、小寺先生の澄んだ声とオルガンの音が頭の中を流れ出すんです。大好きな歌でした」

音楽の授業だけは代行して小寺征栄が担当した。

「私はソウル(京城)生まれ、ソウル育ちの都会っ子なのに、この歌を歌うと切なくて胸がいっぱいになったものです。特に二番の――いかにいます父母……のところは、いまでも鼻の奥から涙が滲んできます。アボジ(父)が長い間不在だったからかも。あっ、いけない韓国語で言っちゃった」

しんみりした話の中にも天性の明るさが出ている。春子は百ウォン硬貨を近くの皿に入れた。

 西原春子の父親は、朝鮮思想犯予防拘禁令により警察に連行され、八・一五解放の日まで帰ってこなかったという。J国民学校へ転校してきたときの学籍簿に〈父死亡〉と記載されていた何人かの中の一人である。

 二、三人が西原春子が口ずさむ〈故郷〉に敏感に反応した。

「私も同じよ、どうかした拍子にポロッと歌ってしまうの。子供に『何、その歌?』って言われるけど、頭にこびりついているんだから仕方ないのよ」

女性たちが小さい声で〈故郷〉を歌い始めていた。

「こんなところにも日本が……」時田が呟くように言うと、

「少年少女期や青春時代は誰にとっても、どんな苛酷な状況にあっても、すばらしい、いいことばかりが詰まっていたと思える時代なんですよ」

安学文が時田を宥めるようにして応えた。

「〈(つつが)なしや 友垣〉は何の意味ですか?」と職員室まで出向き、小寺征栄に質問してきたのは成田勲だったろうか。いや違うかもしれないが、成田勲だったとしたら何という皮肉だろうかと、そのときの表情や光景を時田は思い出そうとしていた。

成田勲はいまこの場にいない。クラスのだれも消息を知らないという。風の噂では北朝鮮にいるらしいということだが、韓国動乱の中、連れて行かれたのか、自分から進んで北へ行ったのか行方不明のままである。

「みんなで歌おうか」という声がしたかと思うと、次第に歌の輪が広がり始めていた。

  ……夢はいまもめぐりて 忘れがたき故郷(ふるさと)

  如何(いか)にいます父母……  

「二番が思い出せない、だれか憶えていない?」

「時田先生、一緒に歌いましょう。二番も歌いたいです」

 酒が入って酔ったせいもあるが、みんなの熱気に気圧されるように時田は歌う気になった。二番も歌えそうである。宴席で歌うなど初めての経験であるが、この歌ならなんとかなりそうだと思うと立ち上がって歌い始めた。

  如何にいます父母  恙なしや 友垣(ともがき)

  雨に風につけても  思い()づる 故郷

「そうだ、そうだ思い出した。もう一度一番から歌おう」西原春子が言った。

 みんなが時田につられるように立ち上がると、自分の左右の腕を交差させて隣同士で手をつなぎ、全員が歌い出した。

  兎追いし かの山  小鮒(こぶな)釣りし かの川

  夢はいまもめぐりて  忘れがたき 故郷

 しゃくり上げる者がいた。天井を仰ぐようにして涙を流す者もいる。一人ひとりそれぞれの思いを込めて歌っているのが、ひしひしと相互に伝わってくるのであろう、涙を拭おうともせずしっかりと手を握り合っている。みんなの脳裏に浮かんでいる光景は、J国民学校裏山の、銀杏の大木と、落葉の海に座っている子供の自分たちなのだろうか。

 どこへ行くという目的もなくソウルの中心部を少し歩いてみようと思い、時田太一は早い朝食を済ませると、ホテルと通りを隔てたソウル市庁舎のある方へ向かった。

ソウル市庁は、日本時代には京城府庁といった。昭和元年(一九二六)に建てられたルネサンス様式の建物である。日本でも戦前の建築物が次々と建て変えられて今風のビルに変わるものが多いが、ソウルでも同じであるらしい。その中でそのままの姿を留めているビルの一つがソウル市庁舎である。

しばし立ち止まって感慨深く眺めたあと、時田はソウル市庁舎から乙支路をゆっくりと東に向かって歩いた。日本時代には黄金町通りという、路面電車が行き交う大通りであった。通勤に利用したことのある通りである。歩道の幅も広く、歩いていても大らかな気分で落ち着くのは何故だろうか。戦後住みはじめた福岡の中心部へ行くと、日本は何もかもが、道路も狭く商店街も小さくまとまっていると、いつも感じたものだ。

乙支路には当時を偲ばせる商店も建物もないが、時田はゆっくりと歩きながら、この辺りは永楽町、また少し歩を進めて、次は若草町、櫻井町と頭の中でつぶやいていた。

 櫻井町と呼ばれた一角に、尋常小学校一、二年生の幼いころ一時住んでいたことがあった。牛であったか馬であったかは忘れてしまったが、電車の一区間ほどの距離を、荷車に積まれた長い原木の材木にぶら下がって遊び、朝鮮人の御者によく怒られた。子供にとっての一区間は長く、ずいぶん遠くへ来たと思ったものだ。

そんな他愛のない時代を思い出しながら、いつの間にか京城師範学校があった近くまで来ていた。昔でいえば黄金町五丁目と京師前という停車場の中ほどでもあろうか。

時田は来た道を少し戻って、乙支路の通りに面した喫茶店(茶房)へ入った。

ただぼんやりとして、果たしてこの街は自分の故郷なのであろうか、故郷というのは何なんだろうかと時田はたいした理由もなく考えていた。

涙しながら〈故郷〉を歌っていた教え子たちと、何が違うのかとも思った。

この街に、自分が知っている京城時代の記憶にあるものが全くない訳ではない。ソウル市庁舎の建物や南大門も昔のままであるが、懐かしいということ以上のものではない。いまこの街には自分の幼い日々を知っている人が誰一人としていない、自分から訪ねる子供時代の知り合いもいない、それが故郷でない証拠ではないのか。

時田の妻は、生来の楽天的で明るい性格に加え、故郷の福岡へ帰ったことにより、さらに活動的になった。彼女には、両親はもとより叔父叔母をはじめ、小学校、高等女学校時代の、昔からその地に生活する故郷の人々が数多くいた。そこには地域の人々という故郷がいっぱい詰まっている空間があるが、時田にとっては、福岡という街も別世界のことであり、妻が楽しみにする地元の祭りなども異郷の催しにすぎない。端的にいえば時田には――関係ない――のである。どこにいても異邦人のままなのだ、そんなことを意味もなく考えて、乙支路の通りを眺め、コーヒーを啜りながら時間を過ごした。

 同じ通りを引き返してホテルに戻ると、竹田賢淑と西原春子がすでにロビーに待っていた。ソウル四日目の土曜日の一日、時田を連れ回し、J国民学校へも連れて行こうというのだ。

待たせている車は運転手付きの、黒塗り高級乗用車である。

「賢淑専用の自家用車なんですよ。このオバさんは財閥ですから贅沢三昧なんです。先生今日は一日中乗り放題でいいですよ」

西原春子が、横目で竹田賢淑を見遣りながら、明るくおどけた口調で言う。

「そんなことないわ、実際は借金だらけなんだから」

「賢淑がいちばん幸せよ、旦那に恵まれ何不自由ない生活だからね。何が借金だらけよ。先生、この人のやっている〈契(ケ)〉は私なんかとケタ違いですから、今日一日食事はぜんぶ賢淑のおごりにしましょう」

 契(ケ)という言葉を時田は久しぶりに聞いた。日本でいえば〈無尽講〉であるが、講よりももっと現実の生活に根ざした、一種の庶民金融の貯蓄であり、手軽な資金調達のための重要な、仲間同士の相互扶助システムでもある。J国民学校時代に安学文に教えられ、その話をきっかけに安学文と親しくなったのである。

 車の中で、おんな二人の話が途切れることはなく賑やかだ。

「おとといの歓迎会はほんとに楽しかったわね」賢淑が満面の笑顔で言う。

「私、ウリマル(韓国語)使って千ウォンも取られたよ」

「私だって八枚よ」

「誰だったか忘れたけど『僕、日本語がすぐに出てこない。面倒だから千ウォン先払いだ』と言って爆笑だったわよ」

「みんな日本語使うのが久しぶりだったからね。国民学校以来しゃべったという人もいたんじゃない? 私は日本人と合同の、高等女学校同窓会ではいつも日本語だけどね」

二人で頷きあっている。

「先生、私ね、家でもときどき日本語で話すことあるんですよ。子供に聞かれたくない話を主人とするときに使うんです。便利ですよ。すると子供が怒り出すんです『日本語使うな』って。子供たちは徹底した反日教育を受けていますから、そのことも怒る理由なんですけどね」賢淑が言うと、

「あんたたちベッドの中でも日本語なんだって。ウリマル(韓国語)では到底言えない恥しいことも日本語だと平気で言えるんでしょう?」

春子が話を盛り上げるようにけしかける。

「やめてよ、自分と一緒にしないで。でもときどき日本語使って夢見ることありますよ」

 あけすけな話に、時田は、ついていけないと苦笑せざるを得なかった。

言葉だけではなく精神さえも日本人にしようとした教育は根深いものがある。解放後の韓国社会で幾多の苦労があったことであろう。それを笑い飛ばすような会話に、時田は、韓国人女性の旺盛な生活力を垣間見る思いがした。

 ソウルの街はよくわかっているはずなのに、車がどこを走っているのか、時田には分からなくなっていた。建物は現代風のビルで埋まり、目に入る看板はほとんどがハングルで書かれているうえに、どの道も車は一方通行であるから、なおさらのこと分からなくなってしまうのだった。

「いまどの辺りを走っているのかね?」時田は右に左に目をやりながら訊いた。

「往十里駅の近くです」

 どこを見ても、時田の記憶にある往十里に結びつくものがなかっただけではなく、車がどの方向へ向かっているのかさえ覚束ない。

「往十里といえば、僕の中では芹畑や野菜畑、ポプラの並木が……」

時田が言うと、そのあとを引き取るように、賢淑が続ける。

「それに畑の独特の臭いがねえ」

「やめて、ほんとに臭ってくるようだから」春子がぴしゃりと言った。

「もうすぐJ国民学校に着きますよ」

 召集のために辞してから、三十七年ぶりの学校に感慨がないわけではなかったが、時田には自分から進んで訪問しようという気はあまりなかった。

 J国民学校へ案内しますと言われて、教え子である彼女らが、時田を喜ばせることが彼女たちの喜びや幸せであるならば、自分がそれに従うことが最も自然であり、懐旧に駆られてあちこちを訪ね回ることは不遜であると時田は考えていた。校門の外から眺めるだけで充分だと思いながら、二人に導かれるようにして校庭に足を踏み入れた。

 建て替えられた鉄筋三階建ての校舎に、昔を偲ぶものは何もなかったが、学校の玄関は同じ場所で、玄関の左右の同じ位置に昔ながらのヒマラヤスギがそのままに鬱蒼とした姿を留めていた。枝ぶりは大きく広がり、何羽もの鷲が群れて飛んでくるような形をしていた。

運動場を取り囲むようにしていたポプラの木々はなく、周りの民家やビルを遮るようにレンガ塀で仕切られている大都会の中の学校である。土曜日のせいもあってか、少数の子供がサッカーボールで遊んでいるだけで閑散としていた。

 校庭の一角に佇んで、しばらく物思いに耽りながら校舎や運動場を眺めていると、春子と賢淑の二人が「さあ行きましょう」と時田を促して校舎へ向かって歩き始めた。学校の中を案内しようというのだろうかと二人について行くと、校舎の脇から裏山へ行く方へ向かった。雑木林のようだった裏山は山という面影もなく、高台の近くには団地のようなアパート数棟が見える。

「先生の好きだった裏山の、銀杏の木へご案内します」

遊歩道のようになった坂道を登って行くと、小さな公園風に開けた銀杏の木の下に何人もの教え子たちが待ちうけていた。時田には予想もしない光景だった。

「時田先生が一番好きだった銀杏の木の下で、トッキ組のクラス会を開くのです」

賢淑が誇らしげに告げた。

 待ち構えていた皆が、時田を取り囲むようにして銀杏の下へ連れて行くと、

「級長の泰敬さん、早くクラス会を始めてくださいよ」

だれかがおどけたように泰敬に言った。

「一昨日の夜は時田先生の歓迎会でしたから、今日は二年ぶりの正式なクラス会を行ないます。みんな昔と同じように木の周りに座ってください。短い時間ですが、最も有意義なクラス会にしましょう」

 銀杏の前の芝生に、扇状に全員がしゃがみこむと泰敬が続けた。

「韓国には昔から『君師父一体』という、自分の恩師を主君や親のように大切にする素晴らしい伝統があります。その気持を時田先生に分かっていただきたくて、クラス会をします。そしてみんなの総意で決めたことがあります。先生、私たちのお願いを聞いてください。それでは副級長の順愛さん、お願いします」

 順愛が立ち上がって泰敬のあとを続けた。

「時田先生、三十七年ぶりに言ってください。『おまえたち、本の続きを読むことと、自由にするのとどっちがいいか?』と」

 時田は下唇を痛いほど噛んで押しとどめていたが、順愛に促されて話し出そうとすると嗚咽がもれ、涙が溢れ出た。

「おまえたちは――おまえたちがすることは……」

しばらく言葉にならなかった。時田を泣かせることばかりである。やっとの思いで口にした。

「おまえたちは……どっちがいい?」

 もらい泣きする声で「ほ~ん」と答えた顔は、無邪気な子供のままであった。

「先生にこのことを言っていただきたいだけのために、みんなここに集まり、先生に来ていただきました。私たちが開くクラス会に最適の場所はここしかありません。本当にありがとうございました」まるで日本人のように、順愛が深々と頭を下げた。

 わずかに色づき始めた銀杏の、枝葉の間から差し込む木洩れ陽が、時田の頬に流れる涙に当たり光っていた。

 体操の時間にかこつけて、ただ自分の無精と手抜きのせいで子供たちを裏山に連れて行っただけのことであったのに、彼らにはそれほどに印象的なものだったのかと、時田はJ国民学校の日々を丁寧に辿っていた。

「私からもみんなにお願いがある」

時田は鞄から手帳を取り出しながら、韓国へ行く決心をしたときからずっと考えていたことを言った。

「なんでもおっしゃってください。先生の韓国滞在中、私たちのできることならなんでもします。なあ、みんな」

石松の大きな声に全員が頷いている。

「ありがとう。お願いというのは簡単なことだよ。みんなの名前を、韓国の読み方で、私が読めるようにこの手帳に書いてくれないか。次に会ったときに、正しい名前で私がみんなを呼べるようにしたいんだ」

「なあんだ、そんなことですか。もちろんオーケーですよ。でも先生ならば昔の名前で呼んでもらっても気にしませんよ」

石松がまたみんなに同意を求めて顔を左右に巡らせた。

「いや、それはだめだ。では私の名前は韓国語読みしたら何といえばいいのかな?」

「時田太一はシジョン・テイルです」

「そうか。でもそう呼ばれても何処の誰かと思ってしまうだろう。私がイシマツと呼んでも自分じゃないみたいに思えるだろう。それと同じことだよ。みんなを正しい名前で覚えることは、昔私がやった教育の、せめてもの償いだし、当然のことだよね」

 みんなの間で手帳が回り始めた。

「国民学校時代の名前と、漢字の本名、その読み方全部たのむよ」 

 手帳には時田が望んだとおり、そこにいた三十名ばかり全員の名前が書き連ねられていた。

 松山 泰敬→朴 泰敬 パク・テギョン

 林  順愛→林 順愛 イム・スネ

 榮川 石松→姜 石松 カン・ソクソン

 西原 春子→李 春喜 イ・チュニ

 金山 基元→金 基元 キム・キウォン

 竹田 賢淑→金 賢淑 キム・ヒョンスク

    …………

 成田 勲 →成 勲  ソン・フン

 成田勲の名前を書き加えてくれたのは泰敬であろう。

 時田は戻ってきた手帳をめくりながら訊いた。

「〈みんな〉というのは韓国語で何というのかな?」

「ヨロブンです」

「ヨロブンか」声にだして確かめながら言った。

「宿題やってくれて、ヨロブン、感謝(カムサ)ハムニダ」

 〈一九八〇年九月○日〉と、全員の名前の最後に書き入れると、時田は大事そうに手帳を鞄にしまい込んだ。

 十月末になって大ぶりの航空便が時田太一のもとに届いた。裏返した差出人名には、朴泰敬、林順愛とあった。

 帰国してもうひと月以上が経ったのかとソウルでの数日の感慨にふけりながら、もどかしく開封すると中には大判一枚と数十枚のスナップ写真に、一通の手紙が添えられていた。

 大判の写真はJ国民学校の裏山で撮ったものだ。懐かしかった銀杏の木をバックにしたクラス会の集合写真である。

 一通り目にした写真をそばにいる妻に渡し、添えられた手紙を読みはじめた時田は「エッ」と驚きの声をあげた。俯いて沈黙したままになった。

 そこには順愛の伯父李鎮五が天寿をまっとうしたと(したた)められていた。

 あれほど帰りたがっていた秋夕(チュソク)の満ち足りた一日を自宅で過ごし、日を置かずして亡くなったという。

 元気になれば再びソウルを訪れ、心いくまで李鎮五と酒を酌み交わし、豊富な学識に耳を傾け、語り明かそうと時田は楽しみにしていた。

 銀杏の大樹のような人柄と、知識に裏打ちされたちょっとアイロニカルな語り口、柔らかい木洩れ陽のような目の表情が、胸を締めつけられるほどに時田の瞼の裏に広がった。

 だれにも告げず、あの世へのドアを自分から開けて、静かに姿を消したであろう李鎮五の最期を、時田はしみじみと想像して冥福を祈った。  (了)