マニキュア 

プロローグ

  拝啓

  日本では梅の花もほころび、時田先生におかれましても、春の訪れとともに、

  ますますご健勝にてお過ごしのこととお喜び申し上げます。

  当地韓国ソウルはまだまだ寒さも厳しく、春を心待ちにしている日々でございます。

  突然の手紙に驚かれたことでしょう。

  驚かれている様子が目に浮かびます。そのお顔は、私たちにとりましては三十数年前のままに、厳しくも優しい眼差しの時田先生ではありますが。

  私たちJ国民学校、昭和十二年(一九三七)入学の同級生は国民学校を卒業してちょうど三十五年になりました。

  差出人名に書きました、私たち、松山(マツヤマ)泰敬(タイケイ)、女子の(ハヤシ)順愛(ジュンアイ)など五十五名の教え子たちでございます。覚えていらっしゃいますでしょうか。

  私たちも、六・二五戦争(韓国動乱)などいろいろなことがございましたので全員がそろってはいませんが皆それぞれの分野で頑張っています。

  今年、J国民学校の同窓会では学校創立六十五周年記念の式典を五月に計画しています。

  私たち同級生は、これに合わせてクラス会を開催することにいたしました。幹事一同、どんなクラス会にしようかと何度も会合を持つ中で全員が、――時田先生をお招きしたい――ということに意見が一致し、是が非でも先生にご来韓いただきたく手紙を差し上げております。会合を重ねるたびに、先生にお会いしたいとの思いが膨らみ、先生にお出でいただくことを前提にクラス会の内容を検討、全員胸を熱くするばかりでございます。

  韓国人としてはあの時代への屈折した、複雑な思いがないわけではありませんが、国は違っても師弟の間に国境はないでしょう。愛情いっぱいに教え導いてくださった先生に、少しでも感謝の気持ちをお伝えできるのであれば、これに過ぎた喜びはございません。

  思えば私たちが卒業まで約半年を残していた、運動会が終わったばかりの十月下旬、先生は突然の出征で学校を去られました。またお会いできるものと信じていた私たちは、「見送りに来なくてもいいよ」とおっしゃった言葉通りに、ご自宅へも京城(けいじょう)駅にも行くことはありませんでした。長い別れになるとは思いもしなかったのです。

  その後全員で一度だけ慰問袋を差し上げ、卒業間際に先生からの手紙をいただき、皆で何度も何度も回し読みしたことを鮮明に覚えています。それっきりになってしまいました。

  光陰矢の如し、このたび先生に手紙を差し上げるのに、現在のご住所を探し出すため方々に問い合わせを致しました。

  先生が京城師範のご卒業であることを思い出し、同窓会名簿から住所を、そしてお元気でいらっしゃることが判ったときの、幹事の喜びはたいへんなものでした。

  (アン)先生をご記憶でいらっしゃいますか? 同じ京城師範のご卒業で、戦後はずっとソウル市内の中学校にお勤めでいらっしゃいました。その安先生に連絡がとれ、時田先生の日本でのお住まいが判りました。

  安先生にもクラス会へのご出席をお願いし、快諾をいただき、時田先生との再会を楽しみにしていることを伝えるようにとの言葉をいただいております。

  時田先生、是非とも是非ともご来韓いただきますよう心よりお待ち申し上げます。またお返事とともに先生の近況もお知らせいただければ嬉しく思います。日語の達者な方にもお願いして書き上げた手紙です。つたない文章になりましたが、私たちの意のあるところをお汲み取りいただきたくお願い申し上げる次第です。 敬具

                         松山泰敬 拝

                         林 順愛 拝

一九七八年三月吉日

「お父さん、韓国から手紙がきていますよ」

いままでに妻の玲子がわざわざ差出人を告げながら郵便物をもってくることはない。日頃見慣れないエアメールのスタンプのある封書だったからだろう。

 時田太一はまだ昼前だというのに居間の、長いソファで読み差しの本を胸の上に伏せてまどろんでいた。穏やかな春の平日である。

時田にとっては平日も土日も同じよう日々ではあるが、周りの様子から曜日の違いはわかるものだ。

 近年福岡市郊外の住宅地としてにわかに住宅やアパートが建ち、農業が主流であった時代の面影はわずかに点在する畑に見ることができるだけになってしまった。なにかを作っている様子もない。

 時田の家族三人は、戦争が終わって朝鮮からの引揚者として今の地に住むこととなった。百済人が造営したといわれている水城(みずき)の近くだ。

水城は大宰府から北へ二キロばかり福岡寄りの位置にある、約一キロ長の土塁である。

大陸からの侵攻を防ぐ目的で七世紀頃造られたといわれている。いまでは顧みられることもない細長い雑木林ではあるが、遺跡には違いない。

時田の父親が昭和十九年(一九四四)京城(現ソウル)で定年を迎えたのを機に、わずかな土地を遺産分けしてもらって住まいにした家である。

 その父も、時田と妻の玲子、一人娘の京子と三人が京城から引揚げてきて三年ほどして亡くなり、母親は昭和四十年(一九六五)まで同居していた。その年の夏に母も他界した。同じ年に日韓国交正常化交渉が難産の末に妥結したのも何か因縁めいたものに思えたのを覚えている。

 三十六年に及ぶ日本の朝鮮支配にケリを着けようとする日韓両国の思惑から、形の上では決着がついたが、植民者だった時田にはどこかでもう朝鮮時代のことは避けて通りたい気持ちにケリが着くことはない。

 この国でも――わが国日本、といいたいのだが、外地で育った人間にはまるで無縁な国のような感覚だ――激しい日韓条約締結反対闘争が繰り広げられた。冷戦状態の枠組みの中、日米韓軍事同盟に他ならない日韓の結託がいけないというのだ。

 母親は屈託なく京城の暮らしを懐かしがり、しきりに口にした。

「条約が結ばれたら朝鮮に行けるようになるのかね? 行ってみたいね」

 一気に花開く昌慶(しょうけい)(えん)の、百ワットの電球でライトアップされた夜桜のトンネル、家族みんなで行った京城一の繁華街で、お洒落な店が軒を連ねる本町(ほんまち)(現忠武路)通りの洋食レストラン。どれも母親にとっては幸せだった思い出だけが、老いていけばいくほどに無邪気に蘇ってくるようだった。

「あの頃はほんとうによかったわね」

同じ思い出話を何度も繰り返しながら最後に必ず言った。

 彼女の意識の中ではどこまでも朝鮮、京城であり、韓国、ソウルが入り込む余地はない。

「あの頃?」

引揚げ者としての後ろめたい気持ちが胸の奥の方から広がってきて時田は黙してしまう。

 バイクが玄関先に来た音を遠くで聴いていた。郵便配達のバイクだったのだろう。いつも同じような時間に届けられる郵便物。大半が無駄なダイレクトメール、いくつかの会員になっている川柳と俳句会の案内や会報だ。無聊を慰めるような、定年後の楽しみのひとつが川柳や俳句である。

 時田は、何事も人より後列にいて、静かにしていたいとずっと願ってきた。人の集まるところでは後ろの隅っこは居心地がいい。川柳が性に合っているのも、一歩引き下がったところからの眺めに一脈通じるものがあるのだろうと思う。

「お知り合いの方からですか?」

妻は早く手紙の中身を教えてくれという顔をしている。

 差出人の名前も顔も鮮烈に思い出すことができる。一点の濁りもない、天の果てまで続くような青い空と、一年を通して乾燥した空気の肌触り、京城の匂いの記憶とともに。

 韓国――時田にとっては朝鮮。六十五年の、これまでの人生の半分以上を過ごした土地だ。おもわず封筒の中の空気を思いっきり吸い込んだ。時田にも、遠ざけていたい気持ちと懐かしさが同居している。

 時田太一は京城師範学校を卒業すると京城府内の公立尋常小学校勤務となった。訓導ヲ命ズという辞令である。正確にはどのような文面であったか忘れてしまったが、当時教師とか教諭という呼び方はなく訓導といわれた。もちろん子供たちや同僚は、時田先生と呼ぶ。生徒は全員朝鮮在住の日本人の子女で、朝鮮人に対して内地人という言い方をした。在校生はゆうに一千名を超える児童数の、その大方は官吏、会社員、軍人、商人の家庭であり、都会中流生活を営む恵まれた環境の生徒たちだった。

 内地と比較しても、子供たちの使う言葉、服装といったものは都会的で洗練されている。男子の、半ズボンに皮の編上げ靴というスタイルなどは東京以上だったかもしれない。昭和六年(一九三一)のことである。

 途中一回の異動を経て、六年間を京城府内の、内地人ばかりの尋常小学校で過ごした。

教育熱心な父兄と、全員が内地人の教師という、植民者たちの子弟の学校であった。しかしツンとすましたような雰囲気に馴染めないものを感じていた時田は、朝鮮人児童対象の普通学校と呼ばれている学校への転勤を希望した。内地人の尋常小学校と呼称で区別されていた時代のことである。

 普通学校に特別の思いや夢といったものがあった訳ではない。ただ内地人ばかりの、選ばれた者意識が鼻につくいやらしさが、時田を尋常小学校から遠ざけさせた。

 朝鮮人に対する優越意識がはびこっている内地人社会の中で、さらに尊敬されることが当然と思っている教師たち。その教師たちはまた、校長に迎合する校長派と反校長派、あるいは飲み仲間といったように、教育とは何の関係もない派閥を作り、反目や妬みにうつつを抜かしている。

 時田はどんなグループにも組しなかった。孤高というのではなく、目立たないように退散した。生徒との時間以外は可もなく不可もなくほどほどに校務雑務をこなした。

 校長は、そんな無色透明のような時田を捉まえると、

「時田君、どう思うかね?」という聞き方で転勤させたい同僚教師への評価を、自分に同調してほしい気持ちから探りを入れてくる。

「それは性格によっても人それぞれですからね、なんとも言えません」

毒にも薬にもならない、掴みどころのない返答をした。役に立たないやつだなあと思わせ、同僚ではなく自分に異動の白羽の矢が立つように暗に仕向けた。希望が叶って京城郊外の普通学校へ異動となったのは昭和十二年(一九三七)である。

 J普通学校は、府内の電車から郊外への京城軌道という路面電車に乗り換え十五分ばかりである。

 京城の街は李朝時代には粛靖(しゅくせい)門(北)、東大門、南大門、西大門の四つの門と四つの小門、城壁に囲まれた城郭都市であり、門外から京城の街へ入ることを《市内へ行く》といったという。同時にそれは郊外の住人と市内に住む人々との身分差をも意味したのである。

 J普通学校の地域は単に農村地帯というのではなく、朝鮮の歴然とした身分社会をそのまま引きずったものであり、貧困と背中合わせの人々が多く住む土地でもあった。

耕作する田畑もそのほとんどが不在地主の両班とよばれる李朝時代からの特権階級のものか、日本の国策会社の東洋拓殖株式会社といったものが所有し、大半の農民はわずかな自作地と小作に甘んじなければならなかった。

「あんな田舎へ、しかも選りによって普通学校でもあるまい」

 憐れむようにいう師範学校時代の仲間もいたが、時田は苦にならなかった。

 二階の教室からは、横長のキノコ形をした墨絵のような茅葺きの家々と、朝鮮家屋独特の(ひさし)がゆるやかに反り返った数軒の瓦屋根が混在して疎らに拡がって見える。集落の後方には野菜類を作る畑がなだらかな丘になっていて、畑の尽きたあたりでひと掴みばかりの疎林が空と畑地との分岐点のようになって正面に遠く見える。畑にはキャベツ、瓜、夏には西瓜、キムチの材料となる白菜、低い湿地には芹畑を数多く見ることができた。

 学校に近い集落の中心部に目を移していくと、二階の教室から左端にやっと見ることのできる電車の停車場からまっすぐに延びた道路沿いに、面(村)事務所、駐在所、郵便局、雑貨屋や小さな食堂など冴えない田舎町の風景が学校近くまで続いているのが見える。

 時田は季節ごとの野菜畑を家々のあいだに見ながら、停車場から学校までを十分間ばかり歩く。帰路もまた変わることなく、ときには同僚と京城府内の乗り換え駅まで同道することもある。

 腕組みをして時田はぼんやりと外を見ている。生徒たちが鉛筆を走らせる音と時々鼻水をすする音以外には何も聞こえてこない。のどかだ。

 夏休みも近い、ある日の放課後、数少ない日本人同僚の女教師から府内まで一緒しませんかという誘いを受けた。なにごとかと身構えながらも特別に断る理由もないので同じ電車で帰ることにした。

 二両編成の電車の中は疎らな乗客しかいない。朝は京城府内へ通学する学生や農作物の行商に出かけるアジュモニ(おばさん)たちで結構混み合う路面電車であるが、夏になると蝿が車内を飛び交い、固まってわがもの顔で天井や手摺の柱にへばりついているのには閉口した。

「夏休みは何かいい計画でも?」

「いやまだ何も」

とりとめのない話をしていたが、終点が近づいたころ

「時田先生、少しお話する時間をいただけませんか?」

 話足りない様子だった。

「それじゃコーヒーでも飲んで帰りましょう」

本町通りまで足をのばすことにした。込み入った話ではないにしろ、半時間ばかりで終わることはないだろうと思い、夜の九時すぎまでは店が開いている本町にした。

府電を黄金(こがね)町四丁目で乗り換えて、本町の電停から(せん)(ぎん)(朝鮮銀行本店)前方面へ歩きながら、本町四丁目の明治製菓売店へ入っていった。

 女教師の名前は小寺(こでら)征栄(まさえ)といった。二十歳になったばかりである。高等女学校から師範学校演習科を卒業し、J普通学校が初めての勤務校で二年生の担任、ようやく落ち着いて授業にも取り組むことができるようになり、子供たちは素直で純真な子ばかりで、懐いてくれていて特に困ったこともない。それよりも驚くことの方が多いという。

「二年生だというのにみんな日本語がほとんど理解できるんですものね、最初は心配しました。もし日本語のわからない子がたくさんいたらどうやって授業をやったらいいのかって」

 小柄のうえに丸顔で、笑顔が絶えない人柄のせいか、子供たちにはおねえさんのように思えるのであろう。

 いつもの笑顔が消えて深刻そうな表情で話し始めた。

「言っても詮無いことと解っているのですが、誰かに言わずにはおれなくて。私、毎月お給料日が身を削られるほどつらいんです。先輩で経験豊富な朝鮮人の先生方よりも、私のほうがずっとたくさん給料をいただいていることが堪らなく辛いんです。ほんの、師範学校出たばかりの私が……」

 笑顔の裏にある一途な性格が真剣そうな表情に出ている。コーヒーカップを両手で撫でながらしんみりと言う。

 時田はどう答えたらいいのか考えあぐねて、煙草に火をつけ、窓の外に目をやった。

斜め向かいにある商店内の様子も手に取るようによく見える狭い通りを、学生のグループや勤め帰りの会社員風の一団などが行き交っている。酒場に向かうのだろうか、何の屈託もない風情である。夕暮れ時の通りは混んでいる。浴衣姿の家族連れもそぞろ歩きで通り過ぎていく。そんな幸せそうな家族の父親も給与生活者であろう。小寺征栄のような疑問や後ろめたさは露ほどにも感じることなく平穏な暮らしを享受しているにちがいない。

 内地人には基本給の他に、外地手当、住宅手当といったものが加算されて六十パーセント増しというのが当たり前であった。内地人だけが対象であるから朝鮮人とのあいだに給与格差が生まれる。

「父にも話したんです、少しだけ。身の置き場がない思いがするって言ったんです」

「お父さんは何とおっしゃったんですか?」

「うちの父は銀行勤めなんですが……」

と前置きして、父親に聞いた内容をかいつまんで話した。

 父親の会社には、朝鮮人職員と内地人の間に給料の差はないという。おそらく朝鮮中で格差を設けていないのは、小寺征栄の父親が勤務する朝鮮殖産銀行だけだろうと、言ったという。なぜ朝鮮殖産銀行だけなのか聞いても納得のいく答えは聞けなかったと彼女は言った。

 時田は小寺征栄ほどには給料の違いに真剣に疑問を抱いたことがなく、虚を突かれたようになって、彼女のつらい気持ちに応えるすべをもたなかった。ましてや朝鮮人の同僚教師たちがどんな気持ちで毎月の給料を受取っているのかなど、さほど気にもならずにいた。

 ずっと後の時代になって時田は、朝鮮殖産銀行に勤めた幼馴染の友人から、格差が一切なかったということを聞いて確かめたのである。

 朝鮮殖産銀行というのは、朝鮮の農業振興、国の指針に沿った米の増産計画を推進する目的で創設され、ひいては産業界全体の拡大振興を担った特殊な金融機関である。逸材を集め、なかでも朝鮮人の俊秀がそろっていた。優秀な人材がそろう裏には、給料だけでなく人材登用の面でも内地人と一切の格差を設けず、すべてを公平に扱ったことによる。それは歴代頭取、経営者の一貫した経営姿勢であった。

 朝鮮殖産銀行ほか二、三の企業が稀であったことこそ、内地人と朝鮮人を分け隔てしていた証しに他ならなかった。

「安先生のお家のこと、ご存知でしょう」

 小寺征栄の口ぶりは、育った家庭の穏やかであろう雰囲気そのままにゆっくりした話し方である。彼女の、朝鮮人教師に対する分け隔てに納得できない至極純粋な思いと、通りを行き過ぎる人々の無頓着に見える明るさとの落差を時田は推し量っていた。

 (アン)学文(ガクブン)のことは、詳しくはないがおおよそのことは時田も知っていた。内地人教師だけがいるところで、校長は安学文への不満を口にすることがあったからである。彼が校長の不評を買っているのは休みが多いことと、休みの理由が校長には理解し難いことが一つや二つではなかったことによる。

「安先生には子供が四人もいて、そのうえに奥さんが病気がちなのでしょう。奥さんは入退院を繰り返していたらしいね。どんな病気なの?」

「私も詳しいことは知らないんです。(テイ)先生はなにかと安先生の相談に乗ったりしていらっしゃいますから、ご存知だと思います」

 主婦で二人の子持ちであるが、(テイ)銀美(ギンミ)は夫婦共に教師で、経済的には少し余裕があるのだろう。主婦として母親としての立場から、安学文の話を聞くだけでなく親身になって心配しているようだ。

「安先生は弁当なしでお茶だけで済ませていらっしゃることもあります。そんなとき、ときどき鄭先生はそっと出前を取ってあげることもあるのです」

 そんな鄭銀美の心遣いの会話を聞いたこともあった。

「僕は出前頼んでいないんだけど……」

安学文が怪訝そうな顔をして鄭銀美に言う。

「だって朝は四人の子供たちに構ってる時間だけで、自分の弁当なんて作っている暇ないのでしょ。いいから、いいから」

経済的な理由で弁当がないことを承知の上で、朝の忙しさのせいであるように、周りの人に聞こえるように言うのも鄭銀美の思い遣りであったであろう。

 内地人教師であったなら、差し出がましいことをしてはいけないと考えて、見て見ぬふりでやり過ごすにちがいない。鄭銀美の朝鮮人らしい、知人の困難に目を瞑ることのできない情けの深さである。

 内地人教師と朝鮮人教師との間には、とり立てて対立したり、いがみ合ったりするようなことはなかったが、互いが無意識のうちに一線を画するところはあるようだ。そして朝鮮人教師が共有する、水溜りに沈殿した澱のような深い思いには、内地人教師が立ち入ることのできない雰囲気が感じられた。朝鮮人教師に何かあれば助け合うというのも自然なことであろう。それはまた、安学文や鄭銀美からみれば、内地人教師の中へは容易に打ち解けていけない、目に見えない壁を感じていたことにもなる。

内地人教師には無意識のうちに、優位の意識に裏打ちされた障壁が存在していたのは否定できない。そのことは給与の格差というもので象徴的に示されていたといえる。

 小寺征栄の居たたまれなさよりももっと、内地人と朝鮮人との間にある暗黙の壁には、朝鮮人教師たちのほうが、向け場のない口惜しさ、憤懣を訴えて爆発させたかったはずだ。

 待遇の差がありながら〈一視同仁〉〈内鮮一体〉なんてクソ喰らえであっただろう。

 朝鮮総督府の唱える〈一視同仁〉というお題目は、朝鮮人も日本人と同じように天皇の

赤子(せきし)として、平等に天皇の愛を施すというものだが、朝鮮人の側から〈内鮮一体〉などと思った人間は誰一人としている訳がなかったに違いないのだ。

〈一視同仁〉に本音と建前があることは明白だ。お題目は建前であるし、給料の格差は本音である。本音の現場で感じる目に見えない障壁の前では、時田も小寺征栄も考えても詮無いこととじっと下を向いているしかない。しかし朝鮮人教師たちは底抜けに明るかった。

「こんな安月給ではやっていけないよ」

 誰かが給料袋をヒラヒラさせ、おどけた口調で言うと、

「たまには妓生(キーセン)(芸妓)でも寄り添わせてパーッといこうか」と応じる。

「いやいや、屁理屈が多くて金がないことのわかっている堅物のしがない教員なんて、妓生の方からお断りだってさ」

「硬いところがちがう人の方が歓迎だって言われるよ」

「それじゃ仕方がない、おかあちゃんと仲良くしよう」

明るい笑い声とともに、いっとき品のない会話が弾んでいたりした。

冷め残りのコーヒーを口にしながら

「何の役にも立たなかったね、ただ君の話を聞いていただけで。そろそろ帰りましょうか」

時田の方が内心ギクリとさせられ、ずいぶんと年齢の離れた小寺征栄に啓発されたようなものになった。

「いえ、そんなことはないです。時田先生も同じように後ろめたく感じていらっしゃることが判っただけでも気持ちが安まりました。ありがとうございました」

 どこまでも素直である。

 小寺征栄と持った会話がきっかけとなって、時田は子供のときからこれまでに自分の身辺でどんな差別や偏見があったか記憶を手繰っていた。

しかし、ほとんどの記憶はごく当たり前の生活であり、何ら差別というものに思い至らなかった。ただ、小学生のころ大人たちが「差別はいけない」と言っていたのを聞くくらいで、それほどに時田は無関心で鈍感だったといえる。他人の足を踏んだ人間には踏まれた人の痛みがどれほどだったかわからないのと同じだ。

 二人は本町通りへ出て、鮮銀前方向に歩き始めた。夏の夜は夜風の涼しさを求めて町中をそぞろ歩く人も多かった。そのほとんどは日本人であろう。

 京城の中心部を西から東へ流れる清渓(せいけい)川が、朝鮮人が多く住み生活する北と、黄金町通りから南の部分の、多くの日本人が居住生活する地域とを分断するようにしていた。そして街の南を流れる大河漢江(かんこう)に合流していた。

 本町は南側の中心、内地人の町である。下駄の乾いた音が雑多に行き交っている。給料格差の話題に触発され、これまで気にしたこともなかった下駄の音がやけに耳の奥にまで響いて残った。

 朝鮮人にこの音はどのように聞こえるのであろうかと想像を巡らせて、時田は初めて下駄の音に異様さを感じた。

 汚れた手ぬぐいを腰にぶら下げ、高下駄で粋を気取った京城帝大生や予科の学生たちの鳴らす下駄の音は不遜な響きに聞こえ、浴衣の人々の小刻みな下駄の音もまた苛立たしいほどに自分たちの優越をひけらかしているように聞こえた。

 日本へ引揚げて、随分な時間が経ってから、朝鮮人は日本人を侮蔑して「チョッパリ」と呼んでいたことを知った。下駄や日本人の足袋は、文化的に劣っている者の象徴として見えていたのだ。そんな日本人が我がもの顔で闊歩する様子は、朝鮮人には日本人に対する蔑みや反発、妬みなどの思いが混在していたにちがいなかったが、ほとんどの日本人は気付こうともしなかった。

 李朝末に乗り込んできた明治時代の日本人たちの装いは、朝鮮の人々にとっては異形なものであり、ことに足袋は動物の(ひづめ)に見えたことから、――(ひづめ)の割れたもの、日本人――即ち「チョッパリ」と蔑んでいた。四足の動物に近い者たち、軽蔑すべき者たちということを意味していた。

 小寺征栄と話し込んだすぐの土曜日は給料日である。

「皆さん、用意できました、お給料いただいてください」

係りの人の声で、みな一斉に職員室との境にある校長室への出入り口へ向かった。給料は校長が一人一人に手渡すのである。

 小寺征栄も静かに席を立った。離れた位置から見ていた時田には、俯きかげんにして泣きべそをかいているような顔に思えた。そして時田を捜しているようだった。目が合うとほんの少し微笑んだ。時田もわずかに口元をほころばせて、彼女の視線に応えた。

 給料を手にした朝鮮人教師の四、五人が集まって賑やかな会話で盛り上がっている。そこに内地人教師は一人もいない。小寺征栄が言っていた、入っていけない雰囲気、というのはこのことかと思いながら眺めていると、近くにいた安学文が穏やかな口調で言った。

「契(ケ)の相談ですよ」

「何です、それ?」

初めて聞く言葉である。

 契(ケ)は庶民の間には広く行き渡っている相互扶助の仕組みで、その規模もまちまちであるが、多くの人がどこかの契に入っている。同じ職場の人や、互いに関連する仕事をしている人、あるいは同じ地域に住む人たちが共通の目的のためにお金を出し合って、たとえば会員のだれかがまとまった金が入用になったときなど有利な条件で融資をしたりする互助組織である。日本の「講」によく似たものだ。講よりもっと生活に密着した庶民の資金調達源でもある。

 J普通学校では大半の朝鮮人教師が、教員同士の契に参加しているようだ。

「給料日は契の相談をダシにして、お茶を飲みながらワイワイ、ガヤガヤ雑談をするのが愉しみなんですよ。今日は土曜日で午後から授業もないので、みんなで繁華街の鍾路(しょうろ)へでも繰り出すのでしょう」

安学文が朝鮮人教師たちの賑わいをわかり易く説明してくれた。

 集めた金は利殖に投資され、その収益は結婚や葬儀など大金が必要になった場合に便利なうえに、仲間同士の愉しみの費用にも供される。

 時田や小寺征栄、日本人教師が入っていけないと感じていたのは、少し思い過ごしもあったかもしれないと思い直した。

 彼らには他意はないのかもしれない。それよりも内地人(日本人)があまりにも朝鮮のことや朝鮮人を知らないのだ、関心を持とうとしないのだということに気づかされていた。

 さり気なく契の話をしてくれた安学文に、時田は親しみを覚えた。安学文は契に入っていないのだろう、経済的な理由から入れないのだろうと思った。

 二学期が始まった。

 この七月には蘆溝橋事件が引き起こされ、日中全面戦争へ突入し、京城第二十師団の中国華北への派遣が決定され緊張が高まっていた。それでも学校の日常が目に見えて変化したということはなく時間は過ぎていった。

 九月に入ると急激に秋の空になる。メディタレニアン・ブルーに塗りこまれたキャンバスのような空の色である。

 体操科の時間になると時田は、子供たちを学校の裏山へ連れていった。形だけは運動場でおざなりにラジオ体操をやる。子供たちも裏山で好き勝手に過ごせることを知っているので、みんなニコニコしている。準備体操も級長任せであるうえに、体操着に着換えてもいない手抜き教師である。裏山というよりも赤土の小高い丘に、松の木々やどん栗の木、椿とともに一本の銀杏の大木がみごとな枝ぶりを見せている自然林である。

丘の反対側の窪みには、湧き水から流れ出した幅三メートルにも満たない、小さな谷川風の流れがあり、そこでは沢蟹も生息している、子供には恰好の遊び場だ。

 手抜き教師は、銀杏の大木に凭れ掛かって読書に熱中した。外国の長編小説や中国の史書など脈絡もなく読み耽った。

青葉の生い茂った大木の下は乾燥した涼風が流れ、読書には最適であった。ほんの短い時間うとうとすることもある。

 教室で子供たちに本を読んで聞かせたこともたびたびだった。何かのきっかけで本来の授業から逸脱して本を読んで聞かせることがある。子供におもねった訳ではない。授業の流れから本を読むはめになるのだ。読んでいる本がいよいよ面白くなりかけたころ時間切れになると、子供たちの顔には落胆の表情が一斉に広がる。次は体操の授業である。話の続きはいつやってくれるのかと、やんやの催促である。

「続きは次のお楽しみだよ」

もったいぶった言い方をしながら、時田は密かに読み差しの本を運動場まで持参し、いつものようにラジオ体操を簡単にすませ裏山へ子供たちを連れて行く。子供は素直であるから、自分たちは思う存分裏山の中を駈け回れて、先生の読書時間だと理解している。そんな時は、時田の悪戯心が発揮される時だ。

 銀杏の周りの芝草に全員を座らせて、

「今日は自由時間なしだよ」

言いながら、一人一人の顔色を窺う。

「いやだ」

全員が口を揃える。

「その代わりに本の続きを読むけど、おまえたちが好きなようにするのとどっちがいいか?」

「ほーん」

二、三人の子供以外はほぼ全員が大きな声で答える。

『小公子』の続きを読む。野鳥の啼き声がときどき聞こえるだけで、子供たちはじっと耳を傾けている。

主人公セドリックのお祖父さん《ドリンコート伯爵》という名前に子供たちは怪訝そうな顔をしている。大きな屋敷に住むドリンコート伯爵というのがどんな人なのか想像できないでいる。

「伯爵というのは、イギリスの両班(ヤンバン)だよ」

納得顔で頷く。この地域の信望を集めている両班の、()鎮五(チンゴ)氏一族を想像しているのだろう。

 李両班の娘、英淑(エイシュク)も学校の六年生に在学していて子供たちには親しみやすいのだろう。

「それじゃ英淑オンニ(おねえさん)はハクシャクだ」

はしゃぎながら大喜びしている。英淑オンニの渾名がハクシャクに決まったようだ。

「李両班のお屋敷の何十倍もの大きな家だと思うよ」

時田の説明に、驚きの声をあげながら先を促す。

 時田は半分の時間を自分の読書にあてるために、全員を解放して自由に走り回らせた。

 多くの本を子供たちに読み聞かせることには時田なりの理由があった。

 一つは子供との間隔をできるだけ近づけて話をしたいということであるが、大きな理由は、教科書以外の本を子供に買い与える経済的余裕のある家庭がほとんどないからである。

時田はできるだけ多くの本を、特に外国の物語を読み聞かせることを心掛けた。

 幼い時分、母親が読んでくれた物語がどれも印象深く、また記憶に残ったものも多かった。本の内容に一喜一憂し、愉快になったり涙を流して主人公に同情したり、同じ本を何度もねだった子供のころの感動を、クラスの子供たちに味わわせたかった。

 裕福でもなく貧しくもない、なんの変哲もない家庭であったが、読書好きの母親は時間があれば本だけはいつも手にしていて、時田にも惜しみなく本を買い与えた。知らない言葉が出てくると時田は必ずその意味を訊ねた。そして同じ言葉がずっと後になって国語の教科書に出てくると得意満面であった。

 普通学校の子供たちはみな母語ではない言葉を使う授業が想像以上に負担であり、国語(日本語)学習には声に出して聞かせることが有効だと考え、朗読する時間をできるだけ取ることに努めた。

 安学文が急な休みをとったある日、時田は自分のクラスを一部自習時間にして安学文の六年生のクラスに出向いた。何人かの生徒は上級学校への進学を控えていることもあって、みな授業には前向きで真剣そうである。教室に入ると級長の号令で一斉に起立、礼をし、時田を迎えた。時田には、ときには違う学年というのも新鮮な気分でどこか浮き立った気持ちもあった。

「ところでこの時間は、時間割では国語だな」

漢字の書き取りでもさせておけばいいかと考えながら訊いた。数人が頷いた。

「それでは漢字の書き取りをやって……」

言いかけると、言葉を遮るように利発そうな顔をした一人の女子が、「先生」と言って手を上げた。

「…………」

「私の弟は時田先生の受持ちです。先生はときどき裏山へ行って本を読んでくれるといって、いつも自慢します。今日私たちも連れて行ってください。そして本を読んでください」

「弟は何と言って自慢するんですか?」一瞬たじろいで苦笑しながら訊ねた。

「いろんな本を読んでくれるのは、僕たちの先生だけだろうって。それから先生がご自分の本を読むときは、僕たちは木登りなんかして遊べるよって言っています」

 子供には敵わないと笑ってしまった。

これからは控えめにしなければいけないかなとも思った。校長が知ったら目くじらを立てるかもしれない。

 翌日の放課後、人も少なくなった職員室で次週の授業計画を作っていたとき、安学文が近づいて話しかけてきた。安学文も同じように計画書を作っていたのであろう。

 教師はみな前の週末までに授業計画を校長に提出し、承認をもらわなければならないことに決まっていた。

時田は提出した通りに授業を進めたことはなく、実際の授業ではしばしば脱線したが、これは時田の四角四面なことが嫌いなヘソ曲がりの性格のせいでもあったし、学校の意向を強く押し付けられることへの反発もあった。

 しかし時代はますます教師一人一人の考えや方針に締めつけを強くして、自由裁量の余地は狭められていたのである。

「時田先生、昨日はありがとう。クラスの子供たちが喜んで時田先生の授業のことを報告してくれました」

安学文は笑いながら話し始めた。時田も手を休めて少し話をする気になっていた。

「私も久しぶりに環境が変わって気分転換になりました」

「時田先生に本を読んでくれとせがんだそうですね。厚かましくて申し訳ないです。彼らも朝鮮人ですね、思いや欲求を思った通りに正直にぶつけてきます」

「よくまとまった、いいクラスです。クラスも担任次第ということですかね」

いささか世辞を交えて言った。

 急な要望に時田には持ち合わせの適当な本もなく、思いつきでヘレン・ケラーとサリバン女史の話を手短に話して聞かせていた。

 盲、聾、唖という三重の障害者として世界で最初の大学教育を受け「光の天使」として世界各地を訪れては障害者を慰め励ましていたヘレン・ケラーは、この年初めて日本訪問を果たしていた。そして大きな反響を呼び起こしたことを思い出したのである。

 教訓めいたこと、説教じみた話を時田は嫌い、避けていたが、来春卒業する六年生に何か勇気が出るきっかけになればと咄嗟の思いつきで話をした。

 これから出て行く社会や進学で負う、朝鮮の子たちの不利、差別に負けるなよ、と少しでも激励したい気持ちが時田の中で僅かばかり芽生えていたのかもしれない。

しかしそれは差別している側の優位が無意識のうちに身について人間の傲慢さとも気がついていない浅薄な行動であったと後悔して身が竦む思いがした。

 浅薄さ加減を安学文にも見透かされているのではないかと顔が火照るような恥ずかしさがこみ上げてきた。

何でもいいから安学文がまったく別の話をしてくれるように願った。

「時田先生が来てもらって、子供たちが喜んだ理由は他にもあるんです」

ヘレン・ケラーの話題から逸れたことにホッとしながら問うた。

「他の理由ですか?」

時田にはおよそ見当がつかない。

「こっちの理由の方がすばらしい。子供たちが言うには、時田先生の渾名は〈トッキ先生〉というのだそうですよ。私のクラスの生徒が〈トッキ先生〉が来た、と大喜びしたというんですから」

「別段、喜びそうな渾名にも思えませんが。そのまま時田ですから」

「先生に渾名を付けるなんてもってのほか。とはいうものの子供というのは誰にでも渾名を付けたがるものでしょう。どうやら時田先生の生徒たちが名付け親なんですよ」

どんな理由で〈トッキ先生〉なのか時田には興味津々である。

「クラスの子供たちを裏山に連れて行って本を読んでやったり、ときには開放してくれる。先生がその間、銀杏の木に凭れかかって本を読んだりしているのが、ウサギとカメのウサギみたいだというんです。ウサギのことを朝鮮語で、トッキというんですよ」

時田とトッキを掛け言葉にして、うまいことをいうものだと時田は感心していた。安学文と声に出して笑ってしまった。

「私には気のきいた話も、裏山へ連れて行くこともできませんがね。それはいいのですが、校長や教頭の耳に入るのは困るでしょう」心配そうに言う。

 校長にばれたら、そのときはそのときだと時田は居直る気持ちになっていた。自然の中で思いっきり走り回ることも子供の体力づくりに有意義ではないか。

「昨日休んだでしょう。それで今朝校長室によばれてお小言三十分です。あの堅物校長ですからね。弁解なんてとんでもないですよ」

 昨日ということではなく、安学文が学校を休む回数が最近多いのが確かに目立つ。校長の不満も仕方ないだろうと時田も思う。

「女房がまた入院しましてね」

困惑し切った表情である。

「休みをとるのも仕方ないですよね、できるだけ私も協力しますよ」

「二学期早々に三日続けて休みましたでしょう。そんなこともあって校長も痺れを切らせたのがよくわかるんです。でも内地の人には分かってもらえない、朝鮮人の事情もあるんです」

安学文はタバコの煙を一気に吐き出しながら続けた。

「夏休み中に女房の叔父が亡くなりましてね、新学期が始まってすぐに法事だったんです。朝鮮では祭祀といいますがね」

 それがなぜ二日も三日も続けて休むことになるのか、時田には分からなかった。

 安学文にとっては、いや朝鮮人社会にとっては一族の祭祀というのは何はさておき、人間として最優先にしなければいけないものだという。

 日本人社会でも、法事は(ないがし)ろにするものではないが、日本人の校長には度が過ぎると思えるのも致し方ない理由なのだ。

「昔の話なんですがね、一軍の将がいざ出陣という間際になって父親死亡の知らせが届いた。その将軍、どうしたと思います? 兵をそのままにして故郷へ帰ってしまったのです。兵も納得なんですよ。朝鮮人にとっては戦さよりも家族、一族なんです。父母を無視するなんて獣以下の人間という(そし)りをまぬがれません。朝鮮人は忠より孝です。孝より忠の日本人の美学とは相容れないのですから、校長には理解してもらえませんよ」

 時田にもわからない訳ではないがやはり日本人は忠を受け入れるに違いない。

「そんなものですかねえ」曖昧な返事をした。

「国家存亡の危機より一族が大事の武人では国が滅びるのも当然といえば当然。私は学生時代も朝鮮の歴史を知りたい、学びたいと思わなかった。日本に併合されても仕方がないような、頑迷な国の歴史を学んでも意味がないと……」

 この話題はこの辺でやめておきましょうという目配せをしたが、何故か安学文が時田に心を許したように感情を高ぶらせたことを嬉しく思った。

「こんな話はしなかったことにしましょう」

話題を遮るようにして職員室の出入り口に目を向けながら安学文を制した。

「お先に失礼します」三々五々に帰っていき、残っている職員も少なくなった。

「ところで時田先生、このところ校長と教頭が頻繁に道庁へ出掛けていくでしょう。何かあるんですかね?」

安学文が訊いてきたが時田にも思い当たる節は何も浮かばなかった。

 この二人だけの雑談から、後々まで安学文と時田は打ち解けた友人になっていった。同じ師範学校の先輩後輩という関係も少なからず寄与したかもしれない。これまで日本人教師とも穿った話は避けていた時田にとっては「話のわかる先輩だ」という親近感を覚えたのが大きかった。

 運動場を囲むポプラの木々の間から人家が見える。幾つかの家からは夕餉の支度をしているのであろう、薄紫色に煙が立ち昇っている。もうずっと昔から同じ時間に同じ色をした煙が見えたことであろう。

安学文の〈孝〉の話を聞きながら、生活する時間の流れる早さも風景も何もかもが日本人とは全く違った感覚で、何百年も何千年も変わることのない人間の営みが続いているのだと実感した。

秋から、いつの間にかオンドルが恋しい季節になっていた。

 J普通学校のある、この地域きっての資産家両班、名望家であり六年生の李英淑の父親李鎮五氏から自宅への招待を受けたのは十一月に入ってすぐのことである。

安学文と時田の二人である。安学文は娘の担任であるからわかるが、なぜ時田が招かれたのか分からなかった。安学文が一人で行くのに気が重く、時田が同席することを目論んだのかもしれなかった。

 時田は生徒の家で食事を饗されるような関係や機会を好まなかったが、安学文からのどうしてもという誘いと、両班の屋敷にこれまで一度も足を踏み入れたことがなく、いささかの好奇心をそそられてついて行くことにした。

「お二人ともようこそおいでくださいました。今日はゆっくりしていってください」

当主の李鎮五氏は訛りのない流暢な日本語で、安と時田を招き入れた。

「いつも娘がなにかとお世話になっています。生意気な年頃になってきましたので先生方にもお手を煩わせていることでしょう」

決まり文句のような挨拶である。

 床は暖かいというよりも熱すぎるほどのオンドルの上に、座って安定を欠くような高さのあるカラフルな座布団があり、その上に座らされた。

 当主の住まう部屋は舎郎房(サランバン)とよばれ十畳ばかりの広さである。部屋の入口から正面、上座にあたる位置に白のパジ・チョゴリを端正に着こなした主人が座り、安学文と時田太一は左右にわかれ対面して座った。

安学文の後ろに木彫りが施された、高さのある書棚には本が隙間なく並び、主人の教養の高さがしのばれる。

興味深く部屋の中を眺め回していると、察しのいい主人が

「大したものは置いていません。暇にまかせて私が寝ころんで読む雑文ばかりですよ」

笑いながら雰囲気をほぐすように言う。

 他家を訪ねた折に通された居間で、どんな本が置いてあるのかと目をやってしまうのは時田の悪い癖だ。十八史略、古文真宝など漢籍の背表紙が見えた。

 李鎮五は四十歳を少し過ぎたばかりであろうか、がっしりした身体つきをしているが温厚そうでいかにも聡明な顔立ちの貴族然とした紳士である。

日本へ留学し、東京高等師範学校卒業であると校長に聞かされていた。東京高等師範の入学は日本人にとってさえもどれほど難しく、また母語とは違った言語での入学試験という困難を乗り越えている李鎮五に、校長が一目も二目も置く所以ではある。さらにJ普通学校の敷地は裏山までもすべてが李家の寄付という理由と、李家所有の私学であったものが公立の普通学校になったという経緯もあるのだ。学校の式典や催しごとに李鎮五が招待されるのも当然であろう。

「子供たちが、トッキ先生と呼んでいるそうですね。娘からその(いわ)れを聞きました。愉快ですね」

声に出してさも愉快そうに笑った。

「いやあ、面目ないです」

時田はまだ緊張したままで答える。

 食母(シンモ)とよばれる下女が燗をつけた酒を運んできていた。薬酒である。一種の蒸留酒であるが、別に薬用のものではない透明の清酒を薬酒といっている。

 李鎮五が話を続ける。

「私も子供の時分、あの銀杏の木の周りで遊び回っていましたですよ。お祖父さんが教える勉強、つまり漢文の素読がつまらなくてね。千字文(せんじもん)から始まって論語です。面白くないこと甚だしい。いつも勉強から逃げ出すことばかり考えていました。だって近所の子供たちはそんな勉強せずに山や川で一日中遊べるのですから」

 片手に余る大きさの白磁の器に入っている酒を飲み、二人に勧めながら話す李鎮五は偉ぶったところなど微塵も感じられない。飲むほどに酔うほどに話題も豊富であるから楽しい食事である。

「私からすると、漢文をそんな幼い頃から教えてもらうなんて羨ましいですし、たいへんな素養が身につくというものではありませんか」

時田は自分の子供時代とひき比べて訊いた。

「ところがほとんど覚えていないのです。あれは儒生の自己満足というものです。儒生なんていうものは、教義の解釈をめぐって党派争いを繰り返し、挙句の果てには国を滅ぼしたのですからね」

ドキッとするようなことを平気で言う。時田は安学文と顔を見合わせた。

「朱子学だ()退渓(タイケイ)だと、いつまでも何百年にも亘って儒教の教えを後生大事にしているうちに近代化に乗り遅れているのが朝鮮民族です。私はこんな漢籍なぞ読む気にもなりません」

「…………?」

「だったら何故書棚にそんなもの置いておくのだと思われるでしょう?」

「…………」

「この家には警察、巡査、学校の校長、郵便局長などいろんな人が来ます」

李鎮五は「いろんな人」とは言ったが「いろんな日本人」とは言わなかった。慎重に言葉をつないでいる。

「誰から見られても漢文の本、儒教の本なら無難でしょう。仕事もしていない人間の部屋に本一冊ないというのも変なものです。日がな本を読んでいますと言えばいいのですから」

筆立てや硯を指差しながら

「こんなものも見せるための飾りです」

こともなげに言う李鎮五は落ち着き払って笑っている。

 食卓は隙間もないほどの膳である。いくつもの山菜や根菜類の和え物、汁類、魚料理、それに水キムチをはじめ何種類ものキムチが食卓をにぎやかにしている。到底食べ切れる量ではないが、これが朝鮮流のもてなしの仕方だといい、時田には初めての経験であった。

「こんなに幾種類もの朝鮮料理、量というのは初めてです。私の家ではキムチが少しあるばかりで……」

 時田はどの料理にもまんべんなく手を出して堪能した。

「校長先生と教頭先生も先月みえました。私が上の娘の婚儀打ち合わせ、野暮用のため運動会に行けませんでしたから、その罪滅ぼしにご招待しました」

 運動会の当日、「来賓が、今年は特に重要な運動会に来ないとはなにごとだ」と、校長が立腹していたが、道庁の視学官に不行届きを指摘されたのが不本意であったのであろう。

 そんなことは李鎮五にはお見通しだったようである。

「運動会の競技演目もだいぶ様相が変わってきたようですね。プログラムは拝見しましたから」

淡々と話しているようであるが、含みのある言い方であった。

 二年生〈敵機撃墜〉は、飛行機に模した張子を竿に吊るし、お手玉を投げつけて割る。紙吹雪が舞い、中から鳩が飛び出す早さを競った。鳩が飛び出すと観客席から歓声があがった。六年生の棒倒しは〈敵陣突破〉である。

 七月の蘆溝橋事件以来、軍の慌しい動きだけでなく、京城の内地人のあいだにも徐々に戦時に対応する雰囲気が広がりつつあった。

 内地から華北へ向かう兵隊を満載した北行の列車が優先的に運行されただけでなく、主要な通過地点の京城駅では割烹着の婦人たちがオニギリやお茶を大量に準備して、兵隊の慰問接待のために動員された。

 戦意昂揚の激励のために、日の丸の小旗をもった中学生や高等女学校の学生も列車の停車時間に合わせて狩り出された。一気に加速された総動員体制的な世相は、教育の現場へは直接目に見えるような形で反映された。

 このような急激な時代にはその変動に合わせ、為政者は教育行政に手をつけたがるものだ。前年の夏、第七代朝鮮総督として南次郎が着任していたが、その任期中に案にたがわず次々と教育制度が改められていったのである。

 昭和十二年(一九三七)秋から、全朝鮮の学校に対して宮城遥拝、神社参拝とともに〈皇国臣民ノ誓ヒ〉と中学生以上の〈皇国臣民ノ誓詞〉の斉唱が総督府から通達された。これまでも〈内鮮一体〉という方針は提唱されていたが、その方針をより具体的に実行するための通達であった。

 校長と教頭が、二学期が始まってから頻繁に道庁へ出掛けていたのは、今回の〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の周知徹底を期するための会議出席が目的であった。総督府が並々ならぬ決意をもって実行した〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の制定であったことがわかる。

 さらに運動会という地域ぐるみの一大行事の中に組み込まれることによって、生徒のみならず地域住民への〈皇国臣民ノ誓詞〉の浸透の場として利用する用意周到さをも計算し尽されていたのであろう。それは宮城遥拝、〈皇国臣民ノ誓ヒ〉唱和の徹底であった。

――只今より秋季運動会を開催いたしますに際しご挨拶申し上げます……。今や日支事変の悪化に際し、今般制定されました〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の趣旨に則り、日頃鍛錬した心身の実力を充分に発揮し……、という開会の辞にも反映されていた。

 李鎮五が運動会を欠席したことに校長が怒っていたのも納得がいく道理だと、安学文と時田は李鎮五に招待された帰りの道すがら話をした。

 時田のクラスでは教室の黒板の上に、ふり仮名をふった「皇国臣民ノ誓ヒ」を掲げ、毎朝始業前に時田が読んだ後に生徒が唱和した。全校生徒が集まった全体朝礼では、東京の方角に向かい宮城遥拝が行われた後に、全員が〈皇国臣民ノ誓ヒ〉を唱和した。生徒たちにはその一連の行事がどんなことを意味するのか、ほとんど理解できていなかった。当番の六年生の号令の下、東の方に向かい、腰を曲げる礼の角度が四十五度と決められた宮城遥拝の意味と、〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の内容を理解できなかったと思う。

 李鎮五は言った。

「〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の唱和が始まったことは校長先生から伺いました。子供たちにとっては難しすぎる言葉かもしれませんね」

難しすぎるという苦笑を含んだ顔をした言い方で、婉曲的に、暗に批判しているに違いないと時田は思った。

「六年生にとっても少々難しい言葉ですから低学年の子にとっては確かに理解できないでしょうね」

安学文は時田から李鎮五に目を移しながら合槌を打った。

「毎日続けることで少しずつ解ってくれるでしょう」

無難な受け答えをしたが、ヘソ曲がりの時田は〈皇国臣民ノ誓ヒ〉には何か根本的な矛盾を感じていた。

 内鮮一体、皇国臣民化政策として〈皇国臣民ノ誓ヒ〉というお題目を唱えること自体が取りも直さず内鮮一体、皇国臣民でないことの証しを確認する皮肉ではないのか。李鎮五の苦笑した顔は、この矛盾を指摘したかったのであろうか。――日本人の浅知恵――だと考えていたに違いない。

   皇国臣民ノ誓ヒ

  • 私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス
  • 私共ハ互イニ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽クシマス
  • 私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強ヒ国民トナリマス

 三月になると中国大陸の奥地から全天を蔽うように押し寄せてくる黄砂で、なだらかな勾配の畑や雑木林も、晴れた日にもかかわらず空一面霞懸かったような風景が教室からの眺めになる。太陽は小さな白銀色のアルミ板のように見え、春はまだ遠い朝鮮の空である。

 学校は学年末の慌しい季節であり、教師にとっては異動の内示の時期となり、落ち着かない空気が職員室に流れる。

 J普通学校にもまた変化はあった。昨秋の〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の制定と時を同じくして、それまで少ない時間数であるが細々と続けられていた朝鮮語の授業が、この四月新学期よりロウソクの火が消えていくように取り止めになることが決定された。

 これに歩調を合わせるように、朴という老練な男の教師が退職を申し出て受理された。

一年生の担任であったが、何か期するものがあったのかどうか、退職の理由はだれも知らなかった。

 卒業式や終業式などの行事を残すのみとなった三月中旬の職員会議の中で、朴先生が退職することを校長が告げた。

「残り少ない教員生活ですが、最後の最後まで全力で職務を遂行します」と彼は挨拶した。

 そんなある日の放課後、小寺征栄が時田に声を潜めるようにして話し始めた。

 数人の教師は、隔たったところにあるストーブのまわりで雑談に耽っていた。

「朴先生が授業中に泣いたそうですよ」

「…………?」

 二年生担任の小寺征栄は一年生の朴先生と教室が隣同士である。

「君がどうしてそんなこと知ってるの?」

「私は授業が終わって、一旦職員室に帰ろうと朴先生の教室の廊下を歩いていると、子供たちが、先生が泣いたぞ、と話しているのです」

小寺征栄は一気に話した。

「先生はどうして泣いたの? と聞いたんですよ」

黒板に向かって板書をしている途中に手を止めると、しばらくの間そのままの姿勢でチョークを黒板にあてたままでじっとしていたという。授業が終わると、教室の教師用机のところで両目を真っ赤にして座っているという。

「事情が飲み込めない私が朴先生の教室の中を覗くと、朴先生は机で何やら書きものをしていました」

「朴先生は先日の挨拶で、残りの日々を全力投球すると言っていたので最後の授業日に感極まったのかなあ」

時田は何か見当違いな返答をしたかもしれないと、恥じる気持になった。

「黒板には諺文(おんもん)(ハングル)が書き残してありました。私は見てはいけないものを見たような気がして、足早に職員室に戻りました」

 ハングル文字が書いてあったということは朝鮮語の授業をしたのであろうか。朝鮮語の授業はごく少ない時間を残して、昨秋からほぼ中止になっていたはずである。

 しかし朴先生は、朝鮮語の授業としてではなく、朝鮮語を使うという行為で子供たちに

朝鮮人としての心を伝えようとしたのかもしれない。

 小寺征栄はハングルを解せないので書かれた意味内容はわからなかった。しかし――見てはいけないもの――という表現に相当する朴先生の思いが板書をした行為に集約されていたのではないだろうか。

 それだけでは終わらなかった。小寺征栄は、朴先生の最後の日にも時田のところへやって来て、訊いた。

「イモントング……なんとか? ウェノミなんとか? っていう朝鮮語分かります?」

「分からないよ。私が知っているのはオモニ、キチベ、キムチに毛がはえたくらいだから」

 朴先生と小寺征栄は職員室でも席が近いが、自然に聞こえてきた朴先生の独り言なのによく聞き取れたものだ。最後に職員室の自分の机を片付けながら呟くように口にしたことだという。

 朴先生は何ごともなかったように学校を去っていった。

 ハングルの板書のこと、そのあと泣いていたこと、イモントング……、ウェノミ……のことが一つに連なって、時田は好奇心というよりも、もどかしい気持ちからどうしてもすべてを知りたくなった。

 これらのことは小寺征栄と時田の二人しか知らなかったが、安学文に話してみようと思った。朴先生の心の中を知りたくなったのだ。安学文の朝鮮人教師という立場も考慮して学外で話を聞いてみようと思い、京城府内で場を設けようと持ちかけた。

「たまには酒でも飲みますか」

安学文は快く応じてくれた。

「時田先生、鍾路で酒飲んだことありますか?」

 鍾路の表通りを歩いたことはあったが、居酒屋に足を踏み入れたことはない。さほど酒は飲まないという理由もあるが、これまでは内地人だけでの外食や居酒屋であったから、本町や黄金町の居酒屋しか知らない。京城で育った時田であるが、鍾路へ出向くことはほとんどない。

 鍾路を中心に、北村には平屋の韓屋が軒を接して建て込み、二階建て以上の建物はそのほとんどが清渓川から南に数多く見られた。海抜ニ六五メートルの南山から見渡すと、その違いがはっきりと見て取れた。

「まだ一度も鍾路で酒飲んだことはありません。是非連れて行ってください」

 パゴタ公園近くの、鍾路の通りを西方の和信百貨店の方向へ横に並んで歩きながら、一言だけと言って安学文に釘を刺された。李鎮五との話題のような、微妙な内容の話は避けたほうがいいというのである。

 鍾路界隈には私服の刑事が、一般人と見分けがつかないようにそれとなく居酒屋に紛れ込んでいて、酒飲み話に耳をそばだてているという。所轄の鍾路警察署では大半の刑事が朝鮮人で、彼らは核心的な反日分子は勿論のこと、庶民の中にある些細なことであっても不穏な行動を探る役割を担っていた。

時田は安学文の忠告にやや怯むところもあったが、朴先生のことを訊いてみたい気持ちが勝った。

「大丈夫です、心得ています」

最近ではすこしずつ目が覚めていくように危険な領域の話はどういうことなのか理解し始めていた。

 靴の底から寒気が押し上げてくるような季節は過ぎて春めいてきてはいたが、鍾路の通りは寒さの残る土曜日の夕刻である。

鍾路二丁目の迷路のような裏通りへ連れていかれ、道の両側からせり出している軒下の路地を歩いた。日本人は自分だけではないかと勝手に考え、肩に力が入り緊張していた。冬の間は凍てついている狭い路地の泥土に何度も足を滑らせ、寒さが温み始めていることが実感できた。

 連れていかれた店は、それが民家なのか飲食する場所なのか見分けがつかなかったが、漆喰に煉瓦を嵌め込んで模様を施した壁が路地に面していて、入口は両脇を朱の柱に取り付けた観音開きの門である。

 この居酒屋はマッコリが美味しく、良心的な料金で飲めるという。マッコリは一種のドブロクである。

 店に入ると客は疎らであったが、聞こえてきたのは朝鮮語で、ここは紛れもない朝鮮の庶民の町であった。

「今日は時田先生と私二人だけの、年度打ち上げご苦労さん会ですかね。いろいろ迷惑をかけましたね」

「私は普通学校一年目で、いろいろ勉強になりました。なにもかも初めてのことばかりでして」

「大いに食べて思う存分飲みましょう。私もたまには女房や子供から離れて、自分の時間を持ちたいものです。いい機会をつくってくれました。鍾路も酒幕(チュマク)も久しぶりですよ」

 ここが酒幕というのだ。酒幕は李朝の後半から盛んになった旅館と飲み屋を兼ねたもので、泊まり代が無料のかわりに飲食代として代金を取る仕組みだったという。いまは庶民の居酒屋である。

 入るとすぐに広めの土間になっており、奥まったところに湯気の立っている大釜が見え、そばにパジ(朝鮮風ズボン)・チョゴリ(上衣)を着た中年の男が一人座っている。調理人であろう。あとの一人は炭火が赤く(おこ)っている煉瓦囲いの炉の脇にいて、肉を焼いたり炙ったりしているようだ。近くには黄土色に照焼きされたような豚の頭が天井から吊るされているのが大胆だ。

 客席は木製のテーブルと長イスが十卓ほど柱で仕切った五、六人掛けになって店内の左右に並んでいる。

 安学文は奥まった右角に席を取った。会話が日本語であることと、歩きながら時田に釘を刺して注意を促していたことを考え、気をきかせて席を決めたに違いない。

 四角の、赤い行灯風の囲いをした電球の数も少なく、店内は薄暗かった。

 居酒屋に入る前から、朴先生の話題をどう切り出そうかと時田はずっと考えていた。すると安学文の方から話し始めた。

「朴先生が退職されましたね。少しびっくりしました。熱心な先生だったんですがねえ」

 青いチマ(スカート)に白のチョゴリを着ている中年の女が料理を運んできた。大きめのアルミ皿に盛られたキムチと、腸詰のスンデを無造作にテーブルに置く。男のような分厚い手で、器の内側まで親指を入れているのが気になって時田は顔を顰めた。

 安学文はマッコリを早く持って来るよう命じているようだ。仕草でわかった。

「私もそう思っていました。熱心だし、どちらかというと理想を追い求めるタイプですよね、朴先生は。私みたいに手抜きしないし」

「彼は教職を辞めても経済的には困らないみたいですよ。私みたいに貧乏な家の生まれの者にはとてもできないことです。私が師範学校へ入ったのも経済的な理由ですからね。教師を目指すというよりも、師範学校は金がかからないという、ただそれだけの打算的な理由ですからね。朝鮮人には、そう簡単に仕事は見つかりません」

淡々と話す安学文には、静かな凄みさえ感じられた。

 こげ茶色の鍋物に使うような陶器に入った白濁のマッコリが運ばれてきた。パガチという小ぶりの瓢箪を二つに割った柄杓で、茶碗に注いで飲むという。

「酒は楽しく笑いながら飲むものでしょう。難しい話にはそぐわない」

また先回りして釘を刺されたと思ったが、時田は言葉を選ぶようにして、小寺征栄に聞いた話のおおよそをかい摘んで話し、何故朴先生が泣いたのかそれが知りたいと言った。

 安学文は指をこめかみにあて、考え込むように目を瞑っていたが、顔を上げるとはぐらかすように言った。

「馬を川へ連れて行くことはできるけれど、水を飲ませることはできません。馬は井戸水のほうが自分に合っているのを知っているのです。川の水は飲みたくないのです。朴先生は、飲ませる役目の自分と、川へ連れて行かれる子馬の、子供たちの両方の苦痛が耐えられなかったのでしょう。――美味しい水を飲みなさい――とでも黒板に書いたのですかね」

最後は笑いながら言った。自分も同じ思いだと言いたかったに違いない。

「これだけ言えば時田先生のことですから、察しがつくでしょう。これくらいで勘弁してください。さあ、水よりもっと美味しい目の前のものを飲みましょう」

器を両手に持って、時田にも同じようにするよう促した。口当たりのいい甘みのある酒である。

 内鮮一体といい、〈皇国臣民ノ誓ヒ〉を強要しようとも、朝鮮人を日本の皇国臣民にすることはできないよ、と安学文は暗に言っているのだ。

 かしわ手を打って神社参拝の儀式はさせることはできても、日本人の神を信仰させることは不可能なことだと言いたかったのだ。

 安学文が「川までは連れていけても水は飲ませられない」といった時の、顔は笑ってはいたが、鋭い眼差しを時田は見逃さなかった。遠回しの表現ではあったが朴先生の、いや自身の真情を語ってくれた安学文に時田は本当の信頼と親しさというものを教えてもらった。しかし、鍾路の居酒屋でも、またその後の朝鮮での生活の中でも、朝鮮人の立場に立って深く考える想像力は働かなかった。

 全くの仮定の話であるが、日本がどこかのイスラム原理主義国に占領されて、アラーの神に一日に何度も跪く礼拝を強要されるとしたら、どんな思いをしたことだろうかと思い半ばに過ぎることだ。当時の皇国史観に凝り固まった日本人の、なんと蒙昧で尊大であったことか。

 朴先生の話題が途切れたとき、客が店の土間に入って来たようであった。時田には入口を背にしていたので見えなかったが、安学文の目線と眼の光でわかった。一瞬であったが硬直した眼で二人連れの客を見ていた。それが私服の刑事であったのかどうかはわからない。しかし安学文は警戒心をもって注意を怠らなかった。

「最近女房が子供のことで頻りに愚痴をこぼすんですよ」

明らかに話題をかえようとして、大きめな声で話し始めた。鈍感な時田にも、安学文の意図だけはわかった。

「…………」

子供どころか結婚もしていない時田は、どう受け答えしていいものか戸惑っていた。

「いちばん上の子が、最近なにかと好き嫌いが激しいものだから下の子たちまで真似をして困るというのです。子供四人ですから女房も大変なんですけどね」

 時田は得たりとばかりに応えた。

「安先生、それは心配いりません、大人になったら直りますよ。私も子供の頃、女は嫌いだったのに大人になったら大好きになりました」

「これはいい。早速女房に教えます」

 安学文は大袈裟に手をたたいて喜んだ。

 時田と安は暗黙の了解のうえで差し障りのない話を三十分ばかり続けて外に出た。鍾路の通りへ出ると、どこへ行くというあてもなく自然に鍾路の交差点から黄金町方面へ歩いていた。

 人通りが途絶えたのを見計らって、訊きそびれていた、どうしても訊いておきたかったことを唐突に小さな声で質問した。

「イモントング……何とか、それからウェノミ……ってどういう意味ですか?」

安学文は不意を衝かれて、あわてたといった風情だ。

「誰がそんなことを言ったのですか?」

「朴先生が、職員室で机の整理をしながら独り言みたいに。小寺先生がどんな意味かと訊いてきたものですから」

「イ・モントングリヤは、『この阿呆たれ』、ウェノミは、『日本人(倭人)の奴が』という意味です」

 安学文は落ち着きをとり戻したように、時田に顔を向けることもなく歩きながらそれだけさらりと言った。

 路面電車のパンタグラフが夜空を破るように青白い光を放ってスパークした。

 J普通学校の学区域は近年大きく変わりつつあった。紡績工場や食品加工工場、規模の大きな軍関連の下請け工場が進出して来て、それに比例するように京城府内から仕事を求め、安い土地や住まいを求めて移り住む人々も増えていた。粗末ではあるが新興住宅地の様相をも呈し始めていた。

 新しい住民はそのほとんどが工場労働者で、内地人はきわめて少数である。肉体労働をするのは朝鮮人だと、京城に住む日本人は何の疑いもなく誰もが思っている。新しい工場も、一握りの上層部の人間を除きほとんど全部が朝鮮人である。

 新学期になると学校は大きく様変わりした。生徒数の増加もあったが、様変わりの第一は呼称が変更されたことである。

 昭和十三年(一九三八)、総督府は第三次朝鮮教育令によって、これまでの普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校をそれぞれ内地人の学校と同じ小学校、中学校、高等女学校に改称した。J普通学校はJ小学校となり、教科書も内地人の小学校と全く同じものに統一された。皇民化政策が着実に推し進められたのである。

 これまで担任であったクラスを、時田はそのまま四年生として受持つこととなったが、生徒の数が一気に十人ほど増えた。どの学年も生徒増によって教室は鮨詰め状態に近くなったうえに、学校内では授業時間以外でも朝鮮語の使用が禁止となり、子供たちは窮屈さを心身ともに強いられることになった。

 時田にとっても、これまでのようなのんびりとした勝手気ままが許されないという思いを抱かせられる転機になった年である。

 昨年一年間、特に安学文との親しい付き合いの中から示唆に富んだ多くのことを学び、考えさせられることも多々あったものの、安学文も時田も生活の基盤を突き崩すような思想をもつことや行動することなど微塵もなかった。学校においても私生活においても何の変化もなく時間は過ぎていった。

 時代はしかし国家総動員体制、朝鮮人に対しては徹底した皇民化政策があらゆる面でタガをはめるような締め付けが始まっていた。特に教育の場ではそれが顕著であった。

 J小学校では、校長の強い意向で国語教育が最重点課題として取り上げられたが、それは全朝鮮共通の、総督府の方針でもある。

 例年であれば京畿道全道の教師を対象に夏に行われる研修会が、新学期を前にして開催されたのは異例のことである。道庁学務課担当局長の訓話と視学官の通り一遍の講話程度でお茶を濁すような毎年恒例の夏研修とは違い、この年は総督府学務局長がわざわざ出向き、挨拶に立つ大仰なものであった。総督府学務局長は内地であれば大臣に相当するものだ。第三次朝鮮教育令が単なる学校制度の改編ではなく、最大の狙いが制度、教育内容すべてを朝鮮人の皇国臣民化だけを目的とした変革であったということであろう。

 具体的な研修は教科ごとに、教師用指導書を用いて、師範学校教員による細部まで立ち入った内容の講義となった。この研修会においても特に国語に重点がおかれた。

 改正教育令概説では、国語教育にあっては、朝鮮人児童の国語習得は当然のこととして、国語学習の究極的な目的は、朝鮮人が――日本人になること――であった。

日本的な思考、日本の精神を児童に植え付ける国語教育が、皇民化教育の中で大きな任を負うことを明確にし、国語教育の根幹であることを強く教師に認識させることにあった。

 言葉と思惟は密接に結びついているはずであるし、考えるとは、使う言語によって考えることであり、意識、思考回路も意識構造もその言語に強い影響を受ける、そんなことは国語教育指導の中枢にいる総督府の人間には充分すぎるほど分かっている。それゆえ教師は、日本語教育、皇民化教育を現場で担う尖兵としての重要な役目を要求された。

 研修は毎朝講習に先立ち、宮城遥拝、〈皇国臣民ノ誓詞〉斉唱から始められ、宮城遥拝については朝鮮人教師を対象に、お辞儀の仕方まで具体的な指導がなされた。内地人教師にとっては当たり前の、それ以上に時節を反映して熱を帯びた研修であったが、朝鮮人教師たちの心の奥底では承服できない愚行と映っていたかもしれない。時田は安学文や鄭銀美、学校を辞めていった朴先生の顔を思い浮かべた。

 研修会場の道庁大会議室の窓から、総督府の庁舎は指呼の距離に見える。花崗岩の五階建てのビルは府内全域を威圧するように見渡し、正面は南山頂上に鎮座する朝鮮神宮に対面して偉容を誇っている。

 道庁会議室からはまた総督府庁舎越しに、木々はほとんど見ることのできないほどに白い岩肌がむき出しになった仁旺山が帷のように聳えている。

 休憩の時間にぼんやりとして仁旺山を眺めていたとき、ふとあの山に一度登ってみたいと時田は思った。独りで登って京城の街を見渡してみたいと思った。

 研修が終わると間をおかず、仁旺山を目指した。

 数軒がかたまった人家の間の石段を、あるいは岩が剥き出しの蛇行した山道を小一時間かけて登っていき、家も途切れた見渡しのいい、いくつもの岩が不規則に並ぶ一角で、平らな岩の一つに腰を下ろすと、街を見下ろしながら何かに限って考えるということはなく、長い時間ただぼんやりとして物思いに耽った。

 力のない日差しと春霞に覆われた京城の全景は、陽炎がつくる実在しない街のようであった。澱んだ水溜りのような旧世界そのままの鍾路から東大門一帯までと、南山下に広がる日本人が多く住む地域が、頑なに互いを拒否しているように見えるのは時田の思い過ごしであろうか。

 五百余年の李朝の王宮である景福宮と、低い屋根の家々がひしめく朝鮮人の町を壟断するように建つ総督府庁舎と、南大門に向かって延びる太平通りの両側に近代建築の並ぶ官衙に眼を移しながら、時田は終わったばかりの研修会を思い浮かべていた。教育の現場はどう変わっていくのであろうか。

授業時間以外での学校生活すべてにおいても国語使用、朝鮮語の使用禁止が通達されてから、J小学校ではこの方針の徹底のためにどうするかが、新学期最初の職員会議の議題として取り上げられた。

「家庭では児童は朝鮮語を使っている。それではだめだ。まず生活のすべてから国語使用の徹底を計らなければ何の意味もない。そのことを踏まえて討議してもらいたい」

 校長の冒頭の訓示は有無を言わせない強いものであった。

「校長先生のお考えを具体的にどう実現させていくか、皆さんにいい考えはないのか、真剣に今考えてもらいたい」

 司会進行の朝鮮人の教頭は、神経質そうな表情で職員を見渡した。自分が名指しで発言を求められるのを避けるように皆俯き加減に押黙っている。軽率に案を出せば、後々自分の首を絞めることになるのはわかっているからだ。特に朝鮮人の教師にとっては、もし自分が咄嗟の拍子に朝鮮語が口をついて出るかもしれないということが恐怖とともに実感として分かっていて、子供たちの心情も手に取るように理解できる。迂闊なアイデアは出せないというのが彼らの本音である。

 痺れを切らせた教頭が自ら案を出してしゃべり始めた。

「職員全員一丸となって、生徒が国語を使うように仕向けなければなりません。自分のクラスさえうまくいけばいい、というのでは意味がないだけでなく、成果があがるのに時間がかかり過ぎると思うのです」

 校長の顔を窺うように、校長と職員を交互に見ながら続けた・

「朝鮮語を使った生徒を見つけた際にはその場で注意することはもちろん、この職員室の黒板にその数をクラス別に記入していきます。そして一週間の合計を月曜日の全校朝礼で発表し、次の一週間の戒めとします」

「よろしい。教頭先生のこの案を採用、今週から即座に実行することとする」

 下打ち合わせができていたのではないかと勘ぐりたくなるほど、間髪をいれず校長が応えた。

 校長のひと声ですべてが決定され、職員室の黒板の一角に一覧表が出来上がった。

 自分のクラスが最低の結果になることだけは避けたいという教師の心理を衝き、教師の査定にも関わることでありながら、しかし正面切って反対意見を述べることも憚られるような巧妙な手法であった。

 個々の担任は、自分のクラスをどのようにして朝鮮語を使わないように気をつけるべきかを真剣に考えなければならなかったが、すぐにはいいアイデアは浮かんでこない。

 朝鮮語を使っている現場を見つけられた生徒を叱責、あるときは体罰を加えるという教師もいたようだ。また数人の教師は子供相互が監視し合い、カードを遣り取りするゲームのような取り決めをした者もいたが、時田は子供が互いに失敗を指摘し合うような方法を避けたかった。

 考えあぐねた末に、二つのことを子供たちに約束させた。一つは――絶対に喧嘩をしないこと――、人間が興奮したときに発する言葉は理性で考えた言葉は出てこない、喧嘩をすれば朝鮮語のはずだ、それが本来の姿だからと考えた。もう一つが、ひと月に必ず一冊以上の本を読むことである。

 本を読み聞かせるような悠長さを許さない雰囲気が学校に漲り、時田も勝手気ままを自重すべきだと決めた代わりに、学級文庫を開設することを思いついた。自分の蔵書の大半をクラスに持ち込み、幾冊かの新しい本を買い求めた。

 子供たちにも学級文庫に供出してもいい本があれば持ってくるように伝えて学級文庫はできあがった。

多くの本を読むことで、できるだけたくさんの、新しい言葉を覚えてくれることを願い、急がば回れ、のたとえに従って国語に親しませようと考えたからであった。少なくとも子供に無理強いをしたくなかったし、子供を信頼したいと思ったからに他ならない。

 しかしこの方法はすぐに成果は上がらなかったばかりか、校内国語常用運動の最低の成績であったために、校長に厳しく叱責されることとなった。

 自分の信念が揺らぎそうになりながらも、その方法、手段を変更しなかったのは子供を裏切らないこと、子供が先生との約束を守ることを大切にしたいと思ったからである。

 また子供たちの間に読書熱が高まったことを時田は密かに喜んだが、二学期も終わるころになると、ほとんどの学級文庫を読み終わった子供たちは次々と新しい本を読みたがった。しかし自腹を切って新しい本を買い揃えることにも限界がある。そのことを愚痴っぽく小寺征栄に話をすると

「私の本を使ってください。読み終わったら返してもらえれば……」

 小寺征栄は何回にも分けて、自宅の蔵書を学校へ持ち込んでくれた。

 裕福な家庭に育った彼女が貸してくれた『世界偉人伝』といった類の本は、子供たちを興奮させるほどの内容と量だった。

 読書量が増えて目に見えて変化したことがあった。子供たちが意味の解らない単語を訊いてくる度合いが極端に多くなったのだ。特に、副詞や形容詞が最も質問が多かったことを記憶している。断片的にしか思い出せないが、〈途端に〉とか〈言わば……〉、〈かぐわしい〉などであったが、理解できた言葉を子供はすぐに使いたがった。

 作文を書かせると、質問した子供は必ずといっていいほどに、覚えた言葉を使って文章を作ってきたのが微笑ましかったし、嬉しかった。

 しかし、校内の国語常用運動での成績も校長に咎められることもなく成果があがり、子供たちは鼻高々だったことが、時田にはどこか朝鮮語を抹殺してしまいかねない国語常用運動に複雑な思いがないではなかった。

 なんとか自分に折り合いをつけて国語教育に力を注いだ一年間であったが、年が明けて三学期のすぐに男子生徒一人が、お願いごとがあるから話を聞いてほしいといってきた。名前を(キン)柱憲(チュウケン)といった。

 三年生のころから本をよく読み、また時田に本を読んでほしいとせがむ熱心な子供で、家庭的にも何も問題はなさそうである。

 子供にとっては、先生は怖いうえに絶対的な力をもった存在で、よほどのことがないかぎり相談など持ち掛けることはない。

「二学期にいただいた国語の成績のことで……」

 職員室の、時田の席の側に、四年生とは思えないほどの礼儀正しい直立不動の姿勢で顔を俯けて言いにくそうにしている。

「国語の成績がどうかしたのか?」

「……」

 言いよどんだままである。日頃はおとなしいが、きちっとした話し方のできる子である。

「先生に話したいことがあるんだろう、ちゃんと言ってごらん」

 言ってしまえば叱られると怖れているようだ。促されてようやく口を開いた。

「二学期の、国語の成績のことで、おじい様に叱られました」

 不可解なことを言うと思った。成績は読み方も書き方も甲のはずである。

「おじい様ではなくて、おじいさん、だよ。そのおじいさんが何とおっしゃった?」

朝鮮語では身内でも謙譲語や尊敬語で表現するのをそのまま日本語にしてしまうところは仕方がない。

「はい、おじいさんに『国語は甲をもらわなくていい、甲じゃないようにしなさい』といって怒られました」

「君は国語を好きか?」

「好きです、がんばったので甲をもらいました。三学期もがんばろうと思います。だけど先生、成績表は甲じゃないようにしてください」

「がんばって、いい成績だったらそんなことはできないよ」

 泣きそうな顔をしている。いままで時田が経験したことのない、どうにも解せない訴え、お願いごとである。どう答えていいのか、髪を掻き揚げながら考え込んでしまった。

金柱憲の申し出が、子供と話しても埒があかないうえに、理解し兼ねることであったので是非親の話を訊きたいと思い、父兄が来校するよう伝えた。

 約束の日は、水気のないサラサラした雪が降りしきる、身体の芯から冷えてくる日であったが、時田は職員室の窓辺に立って、運動場から校門の方を眺めながら父兄の来校を待った。

 改めて金柱憲の家庭調書を見て、家族構成などを確認しておいたのはいうまでもない。両親と祖父、本人の四人家族、家業は農業である。一人っ子という点が他の子供と少し違うだけで、何も変わったところなどない家庭に思われる。

 校門から真っすぐに、さほど積もってはいないが白一面の運動場の真ん中を、斜めに横切って玄関に向かって来る人が見えた。服装からして男性である。足首まで届く鼠色の外套――周衣(ツルマギ)という男性用の韓服を纏い、ゆっくりと歩いて来る。頭にはパナマ帽風の、パナマ帽よりも一回り鍔広の黒い被り物をしている。時代がかった装いに見えた。母親が来るものと思い込んでいた時田は、その人物が年配者であることにいささか虚を突かれた思いであった。

 職員室の一隅の、衝立で仕切った面談用のテーブルに金柱憲の祖父を招じ入れた。室内にいる人たちにも話の内容が聞こえる目隠し程度の仕切りであるが、密談でない場合は気にすることはない。

 父兄に日本語が通じるものかどうか柱憲に確かめていなかったが、教頭に概略を話し、念のために通訳を兼ねた同席をお願いしておいた。

 教頭は威厳を保つように、ソファに深々と身体を沈めているが、それに臆することもなく背筋を真っすぐに伸ばして対面している金柱憲の祖父が堂々として見える。

「ご足労いただき恐縮です。国語の成績表のことで話を伺いたいと思いまして……」

年齢の上下に敏感な朝鮮社会を考慮して時田が丁寧に頭を下げた。

 教頭は時田が柱憲の担任教師であり、自分は教頭であることを身ぶり手振りを交え、視線を移しかえながら紹介した。

 自分は柱憲の祖父であるが、父親は長期間仕事で満州へ出向いているので自分が学校へ来た旨を述べ、その後間髪を入れず、柱憲がなぜ国語の成績を甲にしないでくれと言ったかを滔々と話し始めたようであった。朝鮮語では、時田には皆目その内容が解らなかった。祖父は日本語を一切話せないので仕方がないと教頭は苦りきったような顔つきをして、時田に了解するようにと断りを言った。

 十分間ばかり、柱憲の祖父が一方的にまくし立てていたが、教頭が話を遮るように口を挿んで、時田にそれまでの内容を日本語で説明し、さらに祖父に向かって二言三言何かを言うと、柱憲の祖父が急に声高になり、激昂したように顔を朱に染め、教頭に顔を近づけてしゃべり始めたが、時田には教頭を罵っているとしか思えなかった。

 その直後である。柱憲の祖父が腰を浮かすようにした途端、静まり返っていた室内に大きな音がして柱憲の祖父がテーブルと椅子の間に崩れ落ちたのである。

目の前のことにもかかわらず、時田には何事が起きたのかすぐには理解できなかった。うずくまったままで動こうとしない。医者を呼ぶなど職員室は大騒ぎになったが、翌日亡くなった。

脳卒中であったろうか。あまりに突然のできごとだったために、教頭と落ち着いて話もできなかった。しかし柱憲の担任として祖父の言い分は訊いておかなければいけなかった。

その概略は――

――これからの子供には新教育が不可欠である。また学校へいく以上勉強はよくできるように努力しなければいけない。幸いにして柱憲は成績もよく喜ばしい限りである。授業が日本語であるのは致し方ないことだ――

 ここまでは淡々と冷静に話したことだという。

 しかし授業以外の時間にも朝鮮語を禁止した上に、家庭でも日本語を使え、家の者も日本語を使えとはなにごとか。それでも柱憲は学校でいわれたとおりに、頑なに日本語を使うという。家庭と学校のどっちが大切か。家族を蔑ろにするようならば国語(日本語)なんか勉強しなくてもいい、以後国語で甲をもらってきたら家に入れないと厳命して言った、という。

「それは総督府の方針、国語常用運動の一環なのです」

教頭が言った途端に、激昂した口調で何かを言い、そして倒れたのだった。

 金柱憲が何よりも痛ましかった。どうやって慰めてやるべきか思いつくことは何一つなかった。祖父が亡くなった原因の全責任を負い、どこにも身の置き所のなさで自分を責めているのが見た目にもはっきりしていた。

 しかし、大人の世界の論理や名分に翻弄される子供になんの責任があるというのであろうか。子供は親や大人に言われたとおりにするほかに、どうすることもできないのだ。

 また教師は、子供にとっては絶対の存在であるにもかかわらず、祖父の死を一身に受けとめようとする柱憲になにもしてやれない時田も、柱憲となんら変わりのない無力感に苛まれた。

 四年生の子供に、学校の方針と祖父の論理名分の矛盾を理解させることは難しい。時田には柱憲を呼んで励ましてやることぐらいしかできない。もっともっと勉強して中学へも進学し、大学さえも目指して、亡くなったおじいさんに喜んでもらえるほどの立派な人になれるよう努力することがおじいさんの遺志に報いることだと話をした。話している自分が空々しく思えたが、黙っていることだけはできなかった。

 勉強のこと、学校のことを話をすると、真剣に真正面から耳を傾けてくれて、わかり易く助言をしてくれるやさしい祖父だったという。その祖父が昨年の十二月のある日、

「もう国語は勉強しなくてもいい」と烈火のごとく怒り出したという。

「お母さんが〈皇国臣民ノ誓詞〉を言えるようにと、僕が教えていました。僕は読み方(フリガナ)をハングルで書いてあげました。それを見たおじいさんが急に怒り出したんです。そんなことは止めろ、国語は勉強しなくてもいい、と言ってお母さんと僕をきつく叱りつけました」

柱憲は涙を流しながら時田に語った。柱憲にはなぜそんなにおじいさんが怒るのかまったく分からなかったという。

 話し終わり、泣き止むとすっきりした顔に戻り、にっこり笑ってズボンのポケットをまさぐりながら言った。

「僕、一所懸命勉強します。それから先生これ」

柱憲は折りたたんだ半紙を取り出し、広げて差し出した。それを見た時田は、瞬きひとつせず貼りついたように沈黙した。

そこには墨筆の日本語で――祇園精舎ノ鐘ノ声 諸行無常ノ響キアリ 沙羅双樹ノ花ノ色 盛者必衰ノ理ヲアラハス オコレル人モ久シカラス 唯春ノ夜ノ夢ノコトシ タケキ者モ遂ニハホロヒヌ 偏ニ風ノ前のノ塵ニ同シ――『平家物語』の冒頭が認められていた。

「これは誰が書いたのか?」

詰問するような強い口調になっていた。

「誰が書いたかは知りませんが、おじいさんが僕にくれました」

もう国語は勉強しなくてもいい、と言った後でそっと渡したという。

「今は読めないし意味も解らないだろうが大きくなったら分かる、と言っていました」

 国語は勉強しなくていいと言いながら、日本語の、しかも古典の有名な一節を孫に与えるというのはどういうことなのか。辻褄が合わないが、この一節に柱憲の祖父の熱い思いが言い尽くされているのだ。

 それだけではなく、その達筆を見ただけで柱憲の祖父は完璧に日本語を理解できる人物だったのだと時田は確信した。朝鮮人の奥深い心中を思うと、だれかに凄まれるような恐怖感さえ抱いた。

「これはもう誰に見せても話してもいけない。約束できるか?」

半紙を元通りに折りたたみながら、柱憲に返した。

 日本の古典文学の一節にもかかわらず、朝鮮人が――盛者必衰ノ理――などという文章を身近に置いておくことが身の危険になる時代であった。

 柱憲の祖父の葬儀もすんで、さほどの日数も経っていないある日の帰りに、安学文と京城府内まで同道したときのことである。

「大変なことでしたね。まさか学校で倒れるなんて」

「私は、会話が朝鮮語なのでなにが激昂した議論になったのか皆目わからず、教頭の説明だけですが、そんなに興奮するような内容には思えなかったのですがね」

 腑に落ちない思いを安学文に漏らしてしまった。

「いや、おそらく校長や時田先生には言えないようなことまでも……。私も迂闊に口に出せないことで言い合いになったんですよ。売り言葉に買い言葉というんですかね」

また安学文に負荷の掛かるような話になったことを後悔したが、詳細を訊かずにはいられなかった。話の中身によっては周りを窺って敏感になる度合いが、朝鮮人と内地人には格段の差があるのだ。

昭和十一年(一九三六)には共産主義者や民族主義者を対象に、疑わしきは拘束するという朝鮮思想犯保護観察令が発令され、複数の人間が集まって会合を持つなどタブー、ましてや反日的な言動はもっての外である。朝鮮人に対する監視の目は想像以上に厳しかった。

 安学文は、そんなことはまるで意に介さないように時田には話をしてくれた。

「金柱憲の祖父は、『なぜ朝鮮人の家族同士が日本語で会話をしなければいけないんだ』と、しつこく問い質したんです。教頭は、それは学校が決めたことではなく、日本語常用は総督府の方針であり、朝鮮語は一地方の方言であるから、標準語である国語即ち日本語を使わなければならない。この方針に沿って生徒を指導しているのであるから学校のやり方に従わなくてはならない、と説明したのです。学校のやり方に不満であるなら退学してもらってもいいんだと」

「おじいさんは何と言ったんです?」

「それじゃ訊くが、日本中の方言はどうなるんだ。九州弁や関西弁をしゃべってはいけないというのか、えっ? どうなんだ? と。理の通らないことでも一方的に学校の言う通りにしろということか? と。そして最後に言ったんです」

 教頭に顔を突き出すようにして、罵るようにまくし立てたときのことだと思った。

「教頭、あんたは家でも日本語を使うのか?朝鮮人が朝鮮語をしゃべってなにが悪い。警察が来いというのならいつでも行ってやる。あんたは朝鮮人じゃない、日本人の走狗(いぬ)だ」

 安学文は煙草に火をつけて一息いれると続けた。

「朝鮮人職員の誰もが蒼白になり、凍りついた。その直後に倒れたんです」

 時田太一は韓国から届いた手紙を何度も読み返しては、

――再会を楽しみにしていることを伝えるようにとの言葉をいただいております――という一節で読むことを中断して物思いに耽った。

 安学文からの心のこもった呼びかけであるにもかかわらず、すんなりと、ましてや喜んで受け入れられない後ろめたさが時田の中でわだかまりとしてあった。支配者の側にあった日本人の自分と、被支配者側の安学文との間にあるギャップを思い知らされた日々のことを忘れることができないからである。安学文と親しさを増せば増すほど、朝鮮で育ち朝鮮に住んでいるにもかかわらず、日常の生活、文化や歴史といった朝鮮のことや、そこに住む朝鮮人のことをほとんど何も知らないと思い知らされた。それは時田に限ったことではなく両親や家族も同じであり、どこにでもいる朝鮮在住日本人のあたりまえの姿であった。

 今の時代の日本人には、ウソだろう、と言われるかもしれないが、あの時代の日本人は朝鮮の何ごとも知ろうとしなかったし、知る必要もなかった。なぜならばそこは朝鮮ではなく日本だったからだ。

 J普通学校へ転勤し、安学文と親しく口を利き合い、両班の李鎮五の食事に招かれ、ほんの少しだけ朝鮮に触れることができたのは安学文が身近にいたからに他ならない。

 安学文からの誘いをすんなりと受け入れられずにいるのは、今になって初めて、ひとりの人間として慙愧の念にかられるからである。

 昭和十四年(一九三九)の夏、安学文と登った仁旺山の半日のことも強烈な印象として残っている。

「時田先生を同僚として、また日本人としてではなく、本当に信頼できる友人として、私の愚痴を聞いてくれませんか」

 いつも物静かで淡々と話をし、愚痴や投げやりな言い方など一度も聞いたことのない安学文からの申し出であった。

 その年の七月、総督府は官吏や学校教師などの長髪を自粛するようにという通達を出した。自粛とはいえ、いわば慇懃なる強要とでもいうものであった。

 時田は強要とも強制とも思わず、華美贅沢を戒める時代の風潮であるから、さもありなんと何の抵抗もなく素直に従って髪を切った。

「総督府も、夏になって髪を切れとは粋なものですね。頭が涼しくなるようにとの親心ですかね」

安学文に向かって冗談半分に言うと、押し黙って自分の席へ戻ってしまった。

愚痴を聞いてくれと言ってきたのはその数日後のことである。愚痴など安学文に聞かされたことがないので珍しいことだと思いながら、校長や教頭への不平不満の類だろうと勝手に推測して、話を聞くのは学校外であればどこでもいいだろうと軽く考えていたが、人がいないところで話がしたいと言う。周りを気にかけず話ができるところなど思いつかなかったが、仁旺山に独りで登ったことをいうと、自分はまだ一度も登ったことがない、是非行きましょうと大乗り気になった。土曜日の放課後、二人は同じ恰好をして仁旺山を目指した。

 すでにその時分には教師は国民服とよばれていたカーキ色の制服を着用し、その上から幅広の革のバンドを締めるという、軍人のような(いかめ)しい服装をしていた。身も心も引き締めるというのが総督府の考えである。

 開放感を味わうようにバンドを外して、仁旺山の中腹の岩場まで登って行った。流れる汗も気に留めず、子供の遠足のように心は弾んでいた。

 京城の街並みは春の景色とは様相を異にして、建物の一つ一つに陽が射している部分と陰になったところとの明暗がくっきりとしている。遠くに漢江の流れが望まれ、その上には積乱雲が立ち昇っていた。

「陽射しは強いけれど、眺めもすばらしく気持ちがいいですね。人も誰もいないし」

「秋の遠足は仁旺山にしましょうか」などと他愛のない雑談を交わしながら、しばらくの間ただ景色に見惚れていた。

 夏の陽光が強く、乾いた空気の山の中腹とはいえ直射日光の下で話はできない。陽射しを避けることのできるところを探して、低い松の木の陰に座り込んだ。

「野暮用で、まるで呼びつけたみたいになって申し訳ないです」

「いやそんなことはありません。私は安先生と話をしていると、なんとなくほっとして寛げる気分になりますから、私のほうこそありがたいです」

時田は正直な気持ちをそのまま伝えて、うきうきしながら歩いてきた急な石段や坂道を振り返った。

「私も同じでしたよ、まるで子供みたいに」

 顔を見合わせて大声で笑った。喜怒哀楽をめったに表情に出さない安学文がこんなに愉快そうに笑うとは考えもしなかった。

「下界を見下ろして大らかな気分になるというのは気持ちのいいものですね。私の愚痴はなんでも時田先生に言える気になってきました。」

 大らかな気分には程遠い、次から次へと矢継ぎ早に繰り出される総督府の通達や学校の方針に、教師たちの戸惑いや沈んだ空気が職員室全体を覆っていて、日本人教師たちからさえ明るさやのどかさは縁遠くなって久しい。ましてや朝鮮人教師にとっては、締めつけられて鬱積する思いは想像以上だったであろう。

「時田先生、さっぱりと髪を切りましたね」

安学文は横から時田の頭を見遣り、そのあと下に俯きながら独り言のような言い方をした。

 総督府の粋な計らい、などと言った冗談に、黙って返事もしなかった時の安学文を重ね合わせていた。

「言っても仕方のないことですから所詮愚痴にしかならないことはわかっているのです。でも誰かに思う存分愚痴をぶつけないことには気が変になりそうなことってあるでしょう」

 その相手が自分であるならば心置きなく安心してぶちまけてくれと言った。

「私は髪を切りたくないのです、いや切れないのです。髪を切ることにどんな意味があるのか、どうしても理解できない。軍人は皆丸坊主頭ですよね。それもどうしてなのかなあ、とずっと思っていました。私の女房は、軍人のあの頭は不気味で怖いとも言います、私も同じです。それにあの揉み上げと髭面も怖いと思います。その私に同じ恰好をしろというのですから。何故教師が軍人と同じにしなくてはいけないのか?」

「時局を考え、精神を引き締めろ、華美はいけないという精神主義でしょう」

言わずもがなの返答しかできない。

「丸坊主頭にすることが精神を引き締めることになるんですか?――身体(しんたい)髪膚(はっぷ)(これ)を父母に受く、敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり――というでしょう。精神と何ら関係ないと私には思えます」

理路整然としている、その通りだと思う。しかしその理路整然を容認しない、不条理がまかり通るのが強権と狂気というものでしょうと言いかけたが、口を噤んだ。

「昔、といっても四十五年ばかり前のことですが、時の李朝政府が断髪令というものを発令して結髪を切れ、ということになったのです。それは当時の人々にとっては死をも厭わない由々しきことでした。髷を切るくらいなら死んだほうがいいと、本当に自殺した人もたくさんいたと聞いたことがあります。私は政治には興味も関心もありませんから、内鮮一体という総督府の方針に従って〈皇国臣民ノ誓詞〉も神社参拝も、それから国民服とバンドも素直に受け入れてきました。時田先生だから言えることですが、すべては形だけ従っていれば済むことです。馬は水を飲むふりをしていればいいだけのことです。それが自分の保身、家族を守ることになるのであれば」

「…………」

「髪を切れ、というのは日本人も朝鮮人も全員刺青を入れろというに等しい。そんなことは人間として私にはできそうにありません」

 安学文の感情は昂ぶり、堰き止められていた奔流が迸り出る勢いのようであった。

 時田は、汗を拭うようなふりをして髪を切った丸坊主頭を手で撫でた。

「人の身体のことまで介入介在するなど罪人扱いと同じです。朝鮮人に自由などということはとうの昔に縁がないものと諦めています。しかし人間の尊厳というものは、ぎりぎりのところで守られなければならないのではないでしょうか。牛や馬とは違いますよね」

 いつもの、静かで冷静沈着な安学文の声がわなわなと震えているように聞こえた。目には涙さえ浮かべているようであり、視線の先は、総督府庁舎を見据えて睨んでいたのだろう。

 私は少しの反論も同調もしなかった。思う存分吐き出させることが思い遣りだと、一言も発せずにただ安学文の興奮した一語一語をじっくりと聞いていた。

「以前に時田先生が、ヘレン・ケラー女史の話を子供たちにされましたね。私は、彼女が言っていることは――人間の尊厳とは何か――ということだと思うんですよ。日本人も朝鮮人も惨めですね。尊厳とか崇高さというような考えの欠片もない旧態依然とした社会に生きている。私は自分の子供にも生徒にも、〈人間の尊厳〉ということは何とかして教えたいと思っています、時間はかかるでしょうけどね。私の考えは間違っていますか? 危険な考えですか?」

 エメラルド色の、総督府庁舎中央の尖塔ドームには強い西陽があたり、座り込んでいる松の木の影もなだらかな斜面に長く下りはじめていた。

「ひとりで一方的にしゃべってしまいましたが、胸のつかえが下りてすっきりしました。相手していただいて本当にありがとう」

 爽快そうな顔をして

「少し涼しい風がでてきましたね。そろそろ帰りましょうか」

ズボンの後ろを払いながら立ち上がった。

「私はいつも何か大事なことを安先生に教えてもらうばかりで、今日も貴重な贈り物をもらったような気分ですよ」

「私こそ、愚痴を聞いてくれた時田先生の、懐の大きさに感謝です。朝鮮人同士であっても、めったな人には話せないような、危なっかしいことも感情にまかせて言ってしまって」

 勤政殿を覆い隠すように、威容を誇る朝鮮総督府の建つ景福宮を見下ろして歩きはじめた。岩がむき出しになった、足場の悪い山道をゆっくりと下りていった。まばらではあるが人家にさしかかると山道は石段にかわり、二人は並んで歩いた。

 下に行くにつれて粗末な家は少しずつ住宅とよべるような家になった。その造りからして日本家屋も左右に見られるようになり、塀に沿って草花も散見された。

「時田先生は草花の名前などはすぐにわかりますか?」

「あまり知らないですね。だれもが知っているようなものならばわかりますが」

 安学文が指差した花は、ひょろ長く伸びた鳳仙花や、小さな白い花弁の日日草であった。 朝鮮のあちこちには、春には連翹やツツジが満開となり、あざやかな色の花が一斉に咲き誇る。真夏は木々の花よりも草花が見うけられるくらいだ。

「不思議な花の取り合わせですね、鳳仙花と日日草なんて。禁止になった歌の〈鳳仙花〉と、あの白い花びらの真ん中に紅色の、まるで日の丸ですね日日草なんて」

 安学文が言った〈鳳仙花〉という歌は、反日的であるとして総督府が歌うことを禁じた曰く付きの歌でありながら、朝鮮人の間では密かに歌い継がれているものであった。

「日日草の花言葉というのは知っていますか?」

安学文が訊く。時田は花言葉なぞまるで知らない。

「生涯の友情、というのです。青臭くてあまりにも少女趣味じみた花言葉ですね」

安と時田は笑い合ったが、なぜか心が和んだ。

 仁旺山を下りた近くの、最寄りの府電の停車場に着くと、安学文が意を決したかのように言った。

「これから髪を切りに行きます」

 あれから何年経ったことだろうと頭の中で指を折りながら、安学文と共有した私的な時間のことに思いを巡らせていて、時田は昭和三十四年(一九五九)頃の、あることを思い出していた。

 その当時時田は福岡市郊外の中学校で教頭の職にあった。戦後生まれのベビーブーム世代が中学校に入学してきた頃である。

 校長と時田は次年度の学校運営素案について検討していた。

「新学期から、長髪の生徒も全員統一して丸坊主頭にしようと考えています。時田さん、どうですか?」

校長が意見を訊いてきた。口ぶりは打診であったが、本人は長髪禁止をもう既に決めているようであった。

「どんな理由でですか?」

時田は、安学文の愚痴を聞いた二十年ばかり前の仁旺山の情景と、二人が話した内容をこと細かく思い出していた。

 校長の考えは至極単純明快であった。

「中学生は中学生らしく、清潔で凛々しい恰好でなくてはなりません」

 安学文がなぜ髪を切らなければならないのかと、涙ぐみそうになって絞り出すようにして訊いてきたことに、理路整然とした答などなく、――心を引き締める精神主義――というなんの解決にもならなかった返事をしたのが空しく思い出される。

 校長の提案も、昔安学文が髪を切らなければならなかった理由も理詰めのことではなく、権力者や指導者の曖昧な思いつきとしか考えられない。それに異を唱える者の、どうして? という問いかけには何も答えることなどできないと時田はわかっていた。

 長髪の一人の生徒は、後頭部に大きな怪我の傷跡があるからという、はっきりした反対の理由を挙げて、

「僕はいやです、納得できません。丸坊主頭がどうして中学生らしくて清潔と言い切れるんですか?」

理に適った反論に、校長も時田もその生徒を得心させる説明はできなかった。結局全男子生徒は丸坊主頭にすることが実行に移された。

 堂々と自分の意見を述べ、自己主張した生徒や、はっきりと口に出すことのできる時代と、何を言うことも、愚痴すらもびくつきながらしか言えなかった安学文の無念さに思いを重ねた。

 しかし、たかが髪の毛くらいのことでと、個人の事情や感情、思いに一顧だにしない権力者や指導者の、想像力の欠如や傲慢さは昔となんら変わることはないのだ。

 郵便物を持ってきて、向かいのソファに掛けている妻が屈託なさそうに言う。

「あなたソウルへ行って来たらいいじゃない、私もついて行こうかしら。どの子たちの同窓会なの? 私も憶えている子がいるかしら?」

「どの子たちって、もう四十七、八歳なんだよ」

長いソファに肘枕で横になったままで答える。

「そうですよね、でも何年経ってもずっと子供のままなんだから」

妻は年をとっても天真爛漫、底抜けに明るく言う。

 その明るさに救われたことが何度もある。

特に昭和二十年(一九四五)夏の、引揚げの混乱時には、いくつもの難題が次から次へと押し寄せてきたが、何ごともなかったかのように切り抜けてきた妻であった。

「京子が生まれたときに四、五人で赤ん坊を見せろといって押しかけてきた女子生徒たちがいただろう、その子たちだよ」

「何年生だったのですかね?」

「四年生だったと思うよ」

 前年の新学期から、改めて新三年生の学級担任となり引き続き四年生を受持った子たちである。入学した人数が少なかったために、十人の女子と男子生徒四十数名の、学年一学級で構成されたこじんまりとしたクラスであった。

「京子の取り合いをして順番に抱っこしながら、抱っこしている時間が長すぎるといっては大騒ぎでしたね」

「そのときワカメを山ほど持ってきてくれてね、憶えているだろう。なんでまたワカメなんだよ? と驚いたね」

「赤ちゃんにあげてください、というから私はてっきりスープにして飲ませるものだと早合点して、その気持ちが嬉しいやら、びっくり仰天するやら、でしたね。お義母(かあ)さんは、『赤児(あかご)にそんなもの飲ませるなんて離乳食にも飲ませないよ。朝鮮人の考えることはわからないね』なんてね」

「学校でそのことを鄭銀美先生に話したら大笑いされてね」

 ほんとうに愉快な思い出である。

「時田先生、それは赤ちゃんではなくてお母さんがたくさん食べるんですよ。朝鮮人は母乳がたくさんでるようにワカメを母親に毎日でも食べさせるのです」

鄭銀美先生が言うと職員室中が爆笑になった。

「あのときの子供たちなんですか。会ってみたいなあ」

妻は少女のような表情をして思い出に耽っている。

 進藤玲子と時田太一は昭和十三年(一九三八)八月に結婚した。

 九州の本家の伯父が

「いい娘がいるからもらえ」とうるさかったからである。

八月も中旬を過ぎて、見合いをするために釜山から関釜連絡船に乗った。

 これまでにも何度か往復したことのある九州までの旅であったが、この年の夏は殊に釜山までの京釜線の車窓から見た光景が忘れられない。京城を昼前に発ち七時間ばかりの特急列車である。大田を過ぎたあたりから見た田園風景は荒涼としていた。川という川は枯渇し、水が漲っているはずの田畑は乾涸び、稲は姑息延々の旱魃状態は凶作を決定的にするには充分だった。印象深い夏休みである。

 時田の見合いと結婚も破天荒なものであった。たった一度会っただけで十日後には結婚するという、今の時代でいえば荒唐無稽な結婚であろう。

 京城へ帰る前日に急きょ籍を移すための手続きだけ済ませ、住まいの準備が整い次第、妻が朝鮮へ赴くというものである。朝鮮は外地であり、頻繁に連絡も取りにくいという意識が強かったせいもあるが、すべては仲に立った伯父に任せきりの、無責任な結婚である。

 見合いの席ではほとんど話しをした記憶もなくお互いの顔さえまともに見なかったが、たった一つだけは鮮明に残っている。

「朝鮮では、虎が出るのですか?」

玲子に真面目な顔で質問されて、時田は呆気にとられ吹き出してしまった。

「京城の盛り場でもときどき見かけますよ、大トラを」さりげなく冗談を言うと

「えっ」と両の目を見開いた真剣な顔で上半身を一瞬前に乗り出した。

 見合いが終わったあとで、伯父にこっぴどく怒られた。真面目だけが取り柄のような堅物の伯父である

「見合いの席の、大事なところでバカな冗談を言うな」

 こんな娘が朝鮮で生活できるのだろうかといささか危惧しながら京城に帰ったことを時田はよく憶えている。

あとになって妻が言うには、あの見合いの席で聞いたユーモアが気に入って結婚する気になったという。無邪気であっけらかんとしている性格は今も変わらない。

 日曜日になるたびに、女の子たちは京子の子守をしたいといっては、入れ替わり立ち代わりして時田の家へ来たがった。それも妻の玲子が、生徒たちを煩わしいなどと思うどころか、家の中が賑やかなのを楽しんでいるからであった。

 女の子たちは妻に懐いてしまって、時田の近くには寄りつこうともしない。一人で苦笑いを浮かべながら、彼女たちから離れたところに寝転がって本を読んでいることが多かった。女たちの、かしましいお喋りは絶え間なく続いている。

京子ちゃん、京子ちゃんと赤ん坊の名前をしきりに呼んでいる中に、「おばさん」とか「おばちゃん」という声がときどき聞こえてくる。

「おばちゃん」と呼ばれた妻がどんな顔をしているのかと想像して、吹き出しそうになるのをこらえていると、案の定玲子が側へ来て膨れ面をしている。

「あなた、私はまだ〈おばさん〉と呼ばれる年齢ではないわ」

 女学生気分が抜けていないような玲子はまだ「おねえさん」と呼ばれるのが相応しいと言いたいのだ。

「子供たちに抗議をすればいいじゃないか」

つれない返事をすると、子供たちのところへ戻り、さっそく異議を唱え始めた。

「おばちゃんじゃないわよ、まだ若いんだから」

「……」

「あなたたちは他所の家へ行って、その家のお母さんのこと何て呼ぶの? おばちゃんって呼んでいるの?」

 子供たちはそれには誰も返事をしないで、ヒソヒソと相談を始めた。そして妻に向かって一人が質問をした。

「京子ちゃんのお母さん、と言えばいいですか?」

「そうね、それがいいわ。でもちょっと長いわね」

「でも、それじゃ何て呼んでいいかわかりません」

「他の家では何と呼んでいるの?」妻が同じことを訊いた。

 子供たちは妻にどう答えていいのか、困惑して黙ってしまったようだ。

 だれかが時田を意識して小さな声で妻に答えた。

「たとえば、英淑のお母さんだと〈英淑オンマ〉と言います」

「それじゃ京子オンマね。オンマというのはお母さんのことでしょう。それがいいわ、短くて」

妻が、決まった、とばかりに大きな声で言った。

「でもそれはだめです」

大きな声にも戸惑いながら、子供たちが声をそろえて抗っている。

 時田はハッとした。子供たちがダメだという理由が分かり過ぎるほどわかるからだ。

「どうしてだめなの?」

妻は素朴に訊き返す。

「だってオンマというのは朝鮮語ですから使ってはいけないんです。学校以外でも国語を使う決まりです」

 そんなことも知らないのかと子供同士で訝しげに顔を見合わせている。

「朝鮮語を使っていけないって誰が決めたの?」

 妻の疑問も至極もっともである。福岡から朝鮮へ来て一年ばかり過ぎていたが、妻には何の先入観も知識もないのだ。子供たちとの間で話がかみ合わないのももっともである。

「京ちゃんの母さん、と呼びなさい」

時田は彼女らの間に割って入り、一方的に決めてしまった。

 朝鮮での、長いこれまでの生活に特別な疑問も抱かず、内地との違いなど気にもかけなかった時田と、好奇心旺盛でどれもこれも疑問だらけの妻と居て、普通と思うことが必ずしも普通ではないということが分かった一年半である。それでも夫婦二人の間に齟齬を来たすことがなかったのは、妻玲子の性格によるところが大である。

「朝鮮では国語、標準語を使うようにきめられているのだ」と言えば

「あら、それじゃわたくしも博多弁ではなくて標準語で東京弁みたいにしゃべるの? 窮屈ですこと」

妻はおどけて、気取ってみせたりした。

 彼女にとってもうひとつ不思議だったのが家に来る子供たちの名前である。

J小学校が朝鮮人の子弟だけが通う学校であることは妻には話していたが、名前が朝鮮風の名前と日本人風の名前の二つに分かれている訳を説明するのに難儀した。

 妻の――何故?――と、――誰が決めたの?――の素朴すぎる質問には、授業での生徒たちへの説明よりも長い時間を要した。

 昭和十五年(一九四〇)に施行された「創氏改名」は、きわめて政治的な意図を持つものであるから、妻の玲子に解り易く説明するのが難しかった。彼女が納得できたのかどうかは覚束ない。

創氏改名が総督府の朝鮮人皇民化政策、内鮮一体の方針に沿った、植民地政策の最後の仕上げのようなものになった。

朝鮮社会には元来〈家〉という考え方はなく、父系の血縁集団をあらわす〈姓〉を中心とした宗族社会であるため〈氏〉というものはない。

「祖父母、両親、子供という三世代が同居しているとしよう。男系社会であるから祖父、父それと子供は同じ姓。しかし祖母、母は別の宗族の人間だから結婚しても、たとえば祖母は金姓、母は朴姓という自分が生まれた一族の姓のままなんだよ」

 J普通学校へ赴任しなければ、こんな朝鮮社会の仕組みなども知らずじまいだったかもしれない。噛んで含めるようにして妻に言う。

「まあ紛らわしいわね。家族は一つの苗字かと思っていたわ」

「だから我々内地人と同じように、一つの家族は一つの日本人らしい同じ苗字に決めて、役所に届けなさいという制度が創氏改名なんだよ。日本風の苗字や名前に変えた家と、まだ変更していない家があるから、早く新しい苗字、名前にしなさいと総督府はやかましく言っているんだよ」

 八月十日までの半年間に氏(苗字)を決めなければならない制度のために、生徒たちも漸次新しい氏名で学籍簿上も記載されるようになっていった。そのためにまだ創氏をしていない家庭の子が肩身の狭い思いをし、早く新しい氏名を付けてくれと大人を責めた。学校はいつも制令促進の最先端の役目を担わされることになる。

 学年末も押し迫ったある日の放課後の教室に、女子生徒だけが集まってなにやら賑やかな時間を過ごしている。

 時田は教室の隅にある担任用の机で雑務をこなしながら、彼女たちの話を聞くとはなしに聞いていたが、どうやら創氏改名にまつわる話題で盛り上がっているようだ。

 二月から始まった創氏改名の受付で、J小学校でも少しずつではあるが新しい氏名を名乗る子供が出てきた。

「私は《成玉》だから《成子》にしようかな。だって《玉子》じゃ変でしょう、タマゴみたいだから」

自分から言い出して大笑いしている。

「私も《子》が付く名前がいいな」

「それじゃ何という名前?」

「わからないわ。お父さんに付けてもらうときに《子》を使ってくださいと言うのよ」

「京子はだめよ、先生の赤ちゃんと同じだから。先生に付けてもらったらいいと思うけどどうかな?」

全員が時田の方を窺うようにして見る。

 子供たちは無邪気だが、子供なりに真剣そのものだ。

 時田は静かに事務机を離れると黒板に《良子、成子、佳子、祐子、和子、厚子、貴子》と七つの名前を右から並べて書くと、

「この名前は付けてはいけないよ」厳粛そうな声で言った。

「良子は皇后陛下様の御名前。その他は御子様である、皇女の御名前だからね」

 子供たちは声も出さず、黒板の字を凝視している。どうしてだめなのかと問うのが憚られることを理屈ではなく直感で解っているからだ。

〈皇国臣民ノ誓ヒ〉の文言である――天皇陛下に忠義を尽くす――も、宮城遥拝も決められた通りにすることに理屈などないと子供ながらに理解している。

 騒がしかった子供たちも息詰まるような重圧感があることを肌で感じて沈黙してしまった。

 子供は親に物をねだるようにして日本風の名前を付けてもらうまで我慢するしかなかったが、朝鮮人教師の創氏改名は、学校長を通しての文書として、すみやかに創氏改名を届け出て、生徒に率先垂範となるようにという、半ば強制に近い有無をいわせないほどの文書の内容であったと思われた。

 人によっては自分の一存で創氏と改名を決めることができたであろうが、父親や夫と同居している教師、特に女教師は戸主との相談を必要とするであろうから、彼女たちの苦悩はさらに大きなものとなっていた。

 元来朝鮮では、出生した血統の姓と名前は絶対不変のものであり、自分の姓を変えるなど人間ではなく禽獣の如きものなのである。死を選ぶことがあっても姓を変えることなどあり得ない。それが儒教社会のしきたりだからである。

創氏改名は朝鮮人にとって驚天動地にも匹敵する想像を超えた制度なのだ。

四月の新学期には新しい名前を求められていたはずであるが、彼らの悩みの深刻さは、日本人教師にはまったく想像すらできなかった。

 教師は朝登校すると、最初に自分の名前が書かれた木の札を黒色をおもてにして出勤したことを示すことになっていて、休みや出張の際には裏返して赤札にしておくように決められている。出勤してくる順番はほぼ毎日同じようなもので、学校敷地にある校長官舎住まいの校長は既に校長室の回転椅子に座っている。

 校長室と職員室の境は幅一メートルばかりのドアで仕切られているのだが、朝は開け放たれたままで校長の机からは、登校して来る職員が名札を裏返す様子が見える。名札を裏返したその足で、教師はみな校長室に入っていくと、校長の後ろの壁に取り付けられた神棚に向かって二礼ニ拍手一礼、その後で改めて校長に朝の挨拶をするのが慣わしとなっていた。校長も軽く挨拶を返すと、二言三言何か話しかけることもある。取り立てて言葉を交わすような事項がなくとも校長から話しかけられると緊張するものだ。

 この時期朝鮮人教師の頭の中は、創氏改名という難題に占領されていて、校長に呼び止められれば金縛りにあったように緊張して思わず直立不動になった、と後になって安学文に聞かされた。

 率先垂範の創氏改名が申し渡されていたにもかかわらず、新学期の当初から求めに応じていたのは教頭だけで朴姓の教頭は青木教頭先生となった。

「これでは示しがつかない。創氏改名していない新入学予定者の、入学の可否は当面問わないことにしたが、あなたたち教師は、範を示すためには早急に新しい名前を……」

校長は新学期最初の職員会議の場で感情を押し殺してはいるが、厳しい言い方で朝鮮人教師たちを責め立てた。校長の怒りと朝鮮人教師の苦衷には、天と地ほどの隔たりがあるが権力の前ではだれも言い訳ひとつできない。

 いつもは賑やかな土曜日の放課後も職員室には重苦しい空気が漂っていた。

 翌週月曜日の朝、もう手を拱いて待ってはいられないとでもいうように、校長の机の上には表裏を黒と赤に塗り分けた新しい木札が積まれた。創氏改名後の職員の新しい名前を自分で書こうというのである。本人が達筆だという理由にもよるが、校長自ら名札を作ることでの圧力は計り知れないほどの強要を意味している。

 鄭銀美は夫の姓が〈高〉であることから〈高山〉と名乗り、下の名前はそのままに銀美を使い、〈高山(たかやま)銀美(ぎんみ)〉となった。

 安学文は〈安井(やすい)文太(ぶんた)〉と名乗った。

「校長に『日本人らしくするのなら、文を残して〈文雄(ふみお)〉なんかのほうがいいのではないか』と言われたよ」

何か思惑ありげに皮肉そうな笑みを浮かべて時田に言う。

「いや、自分の子供が、難しい漢字よりも簡単に父親の名前も書ける字のほうがいいと思いましたので、と答えておいた」

思惑ありげに思えたのは、その言い方がいくらか投げやりで、ぞんざいに聞こえたからだ。

「時田先生の名前の〈太一〉からちょっと拝借、親しみを込めて〈文太〉です。〈安井文太〉いい名前でしょう」

 時田は苦笑いするしかなかった。

「これからは、安井先生ですか……」

煙草をすすめながら小声で話をしようとするときは、時田に何か共感を求める合図のようなものだ。マッチを擦って近づきながら

「なあに、創氏改名なんてお易い御用だ、の意味ですよ、安井文太(やすい もんだ)ですよ」

精一杯の皮肉と、自暴自棄と自嘲だったのであろうと思う。

「これで、丸坊主頭の、国民服を着た完璧な日本人、安井文太の完成です」

子供が生まれてすぐに、時田と玲子は学校からひとつ京城寄りの停車場近くへ引越しをした。借家であるが、それまでの両親との同居から親子三人の生活になった。

 郊外の新興住宅地で、その家は偶然にも李鎮五の持ち家であった。一帯に広大な土地といくつもの借家を所持していることからすれば偶然ではなくあり得ることだ。どの部屋も黄土色の油紙を敷きつめたオンドルの部屋であったが、李鎮五の計らいで一部屋だけに畳が運び込まれた。時田は李鎮五の気配りに感謝した。

 李鎮五はわざわざ新居まで出向き、時田が入居することを喜んでくれた上に、何か不便があれば遠慮なく言ってくれと、言い添えて帰っていった。その気持ちだけでありがたかったが、その後一家三人が戦後日本へ引揚げるまで、何くれとなく気を遣ってくれたことは、時田夫婦は忘れることはない。

 借りた家は大人の背丈ほどの塀に囲まれ外の門までもついていた。門から玄関までは四、五メートル、玄関の手前は三段の石段になった新築の住まいであった。

「この家は借家にするつもりはなかったんですよ」

李鎮五が唐突に言ったのは、部屋の手直しを確かめるために、二度目に家に来たときである。

「…………?」

「妹夫婦のために建てた家なんですがね。妹は半年前まで満州にいました。満州といっても鴨緑(おうりょく)(こう)を渡ってすぐの安東(あんとう)です。(しん)義州(ぎしゅう)からは鉄橋を歩いていける町ですよ。妹一家は安東からこちらへ越してくる予定だったのですが、連れ合いの仕事の関係で妹とその子供の二人だけが帰ってきました」

「そうだったのですか。それで妹さんは今どちらに?」

「私の家の別棟にとりあえず同居です。連れ合いは当分帰ってこないでしょうから、妹と子供二人だけなら、私の家の方が安心だと思いましてね」

「でも妹さんのご主人が戻ってこられたら私がいたのではご迷惑でしょう」

「いやいや、ご心配にはおよびません。そのときはそのときです。また別に一戸建てればすむことです。時田先生はずっと住まっていてください」

 太っ腹で鷹揚、金持ちの両班というのは大したものである。

「それよりも姪、妹の子供をよろしくお願いします」

まるで日本人のような所作で頭を深く下げた。

「はあ? それどういうことでしょうか?」

不可解なことを言うものだと、鸚鵡返しに訊いてしまった。

「この四月に、四年生に転入した(ハヤシ)順愛(ジュンアイ)は、私の姪なんですよ」

 確かに新学期に三人の男子と二人の女子が転入して来た。二人のうちの一人が李鎮五の姪、林順愛だという。

「ああ、そうでしたか。やっとわかりました。利発なお子さんですね」

世辞抜きに思ったままに言った。

「ともあれよろしくご指導のほどを」

李鎮五は改めて頭を下げた。

 この五人のうちの三人には共通点があった。学校に提出された家庭調書の、同居する家族の欄に父親の記載がなかった。母子家庭なのである。その点を校長に問うたときの返事は、

「三人とも父親は死亡だ」

口ごもったように歯切れの悪い言い方であった。

 林順愛も母親と本人の名前だけである。また記載されている住所が李鎮五と同じなどと思いもしないことである。

 李鎮五は確かに「妹の連れ合いは仕事の関係で今も――安東であるかどうかはわからないが――満州にいる」と言った。校長の返事と、李鎮五の話は辻褄が合わない。どういうことなのか。

 時田は校長にも李鎮五にも詮索するように深く訊くことをしなかった。校長の表情は、それ以上の質問をきっぱりと拒絶する強いものであったからだ。

 引越しから一週間も経たないうちに、時田は不在であったが、停車場そばの駐在所から日本人の巡査が訪ねてきて、家族構成や勤務先などを聴き取っていった。

 この界隈は内地人が少ないこと、新興地のために住民間の連絡や付き合いが頻繁ではないこと、自分も福岡の出身であることなど、妻と雑談をして帰ったとのことであった。

 それからひと月もしないうちに、同じ巡査が訪ねてきた。土曜日の午後で、時田は家にいて子供の相手をしていた。

警察官の仕事は、所轄地域の安全を守るという名目的な任務のほかに、住民の様子をそれとなく探ることもその一つである。

 ほとんどの内地人にとっては、巡査の来訪や巡回など気にするようなことではなかったが、朝鮮人にとっては警察に係わるようなことには身に覚えがない人間でも顔が強ばり、緊張することであった。小学生さえも交番や駐在所の前を通るときは緊張し、巡査を見ると身を隠すといったことは日常茶飯事であった。朝鮮人の間では、泣き止まない子供をたしなめるには「そんなに泣いていると巡査が来るよ」と言えばよかったという。

「ところで時田さん、李鎮五がちょくちょく訪ねて来ているようですね」

玄関先に横座りになって切り出した。

「家主さんですからね。でもちょくちょくというほどではありません。三回来ましたけど」

「ひと月に三回とは多いですな。何か特別な関係でも?」

「何もありませんが、強いて言えば家主であることの他に、彼の姪が私のクラスの生徒というくらいですかね」

生徒のことをもっと詳しく訊きたいとでもいうように

「そのことと関連があるんですがね……」

声を低くして眼光鋭く続けた。

「……」

「李鎮五とは付き合わないほうが無難ですよ」

 別に親しく付き合っている訳ではないが、なぜそんなことを言うのか思い当たるようなことはなにもない。時田からは耳よりな話などあるはずがない。

「まあ、内地人同士だし、ましてや同郷でもあるから、あなたのためを思っての親心みたいなものだと思ってください。別に深く考えなくてもいいですよ」

 李鎮五の姪とも関連していて、李鎮五と親しくしない方がいいとはどんなことだろうかと疑問だけが澱みたいに頭の隅に残った。近寄るな、というのは概ね思想的に危険だという意味と考えられ、朝鮮では民族主義者、反日運動者や共産主義者を対象としての言い草であった。

 昭和十一年(一九三六)には朝鮮思想犯保護観察令が、そして十六年(一九四一)にはさらに拘束力のある朝鮮思想犯予防拘禁令が制定された。一方的に民族主義者と見做された人間や疑いをもたれた人物を、警察は有無をいわさず拘束、取調べをしたが、対象は内地人のごく一部を除いては朝鮮人だったのである。

 朝鮮に住む日本人のほとんどが、そんな法律の存在さえも知らなかったのではないだろうか。

 日本人巡査が訪ねて来てからまもなくして、時田は校長に呼ばれた。

「たまには雑談でもしようかと思いましてね」

言葉使いは丁寧な人物であるが、何ごとも一方的であったり強権的であったりと、時田にとっては苦手なタイプで距離を置いていたい上司である。

「引越しした家は、李鎮五の持ち家らしいですね」

「ええ、そうなんです。そんなこととは知りませんでしたが、気に入ったので即決して入居しました」

努めて明るい口調で答えた。

 校長室の中央にあるソファで対面していて、校長は卓上灰皿に煙草を揉み消しながら

「まあ私が個人の好みや個人の生活に立ち入るつもりや、とやかく言ったりするつもりは毛頭ありませんが、時田先生のことを思って話すのですがね。最近李鎮五のことで、善からぬ噂をたびたび聞くもんだからね」

 巡査と同じことを言うもんだと思った。

 言いたいことがあれば、思わせぶりはやめてはっきり言ってくれた方がすっきりする。できることならこの場から早く退散したかった。校長と顔は向き合わせていたが、時田の焦点は校長の背後に広がる運動場に散らばった生徒たちに合わせていた。

「本校の生徒は百パーセントに近く創氏改名も達成し、内鮮一体の実も目に見えて向上していると、先日道庁の課長からお褒めの言葉も頂戴しました。またここだけの話ですが課長が言うには、これまでの成果を踏まえて朝鮮人生徒だけのモデル校として研究発表をしないかとの打診もあったのです。まあ名誉なことなので考えておきます、とは答えておいたのですがね」

 相変わらずの自信に満ちた、不遜な表情で二本目の煙草に火をつけ、ソファに深々と身を沈めて満ち足りた笑いを浮かべながら言った。

「モデル校ともなれば学校の関係者や地域に不穏な人物がいるというのは、モデル校候補としては好ましくないということですな」

 過重な負担がかかるモデル校など真っ平御免だと言いたかったが、どのみち一方的に押し付けられるに決まっている。それと自分の住まいがどんな関係があるというのだろうか、とぼんやり考えて校長の話をうわの空で聞いていた。

「道庁の課長の意向などどうにでもなるんですがね。私は本府(総督府)の学務局にはいくらでも話のできる連中もいますからね」

自分は道庁よりも上部の、総督府に顔が利くということを暗に言いたいだけなのである。

「そうはいっても、悪い芽は早めに摘み取っておかねばなりません」

「……」

「最近李鎮五のところに善からぬ人物が出入りしているらしいのです。いわゆる〈不逞鮮人〉といわれるような輩が……」

「李鎮五が危険思想の持ち主だと?」

「いやそこまではわかりませんが、警察が探りを入れているのは事実らしい」

「私の借家もまずいということですか?」率直に訊いた。

「それはないでしょうが、李鎮五と親しく口を利くのは避けた方が時田先生のためでしょう。悪い芽は早めに摘み取っておかなければ、というのはそういう意味です」

「来るな、とも言えませんが、もう家も落ち着いたので来ることもないと思います」

弁解がましくならないようにして、無機質な答え方をした。

「そのほうがいいですよ。君子危うきに近寄らず、です。あなたをできるだけ早く、府内のしかるべき大型校の教頭にでも推薦するのが私の役目でもあり、それくらいの力は私にもありますから」

 特別な人脈を持っていることを誇りたいのだ。斉藤実元朝鮮総督が自分と同郷で、しかも元総督からの直々のお声掛かりで朝鮮へ来たこと、内鮮一体のための一助となってくれと言われたことが、校長の自慢の種である。

話題の矛先ができるだけ斉藤元総督や総督府に触れる方面に向かうように仕向けたいのだ。話し相手が「総督府の高官に親しい方がいらっしゃるのですか?」などと訊いてくれれば喜色満面となる。

 斉藤元総督揮毫の掛け軸が自宅にあることや、事実かどうかわからないが、話しているうちに、いつの間にか、自分は斉藤元総督と遠縁にあたることになってしまうこともしばしばであった。

 自分はこの程度の学校の校長に甘んじている人間ではなく、主任視学官以上になることが当然と信じて疑わなかった。彼にとっては自分の昇進に不利となることはすべて排斥しなければならないものであった。口先では「あなたのためを思って」と言いながら、本心はすべて自分の昇進のために集約されての注意や忠告なのである。

 巡査や校長の忠告からは何一つ疑問が解けないばかりか、遠回しの言い方はなおさらに不可解さが濃くなるばかりであった。疑念など抱かずに無視すればいいと考えれば却って気になるということもある。

 何故三人の子供の父親が揃いもそろって死亡なのか、誰かに訊いてみようと思っても気安く訊ける心当たりは安学文しかいない。

 安学文に持ちかけると目で笑いながら

「日光東照宮の猿ですよ」

と両手で目、耳、口を塞ぐ仕草をした。何でもよく知っていると感心しながらもまた安学文に余計な負担をかけたと後悔だけが残った。

 安学文も黙して語ることを避けた疑問は、数日して妻の玲子からの話で解けた。

 秋も深まったかと思うと突然に冬になる朝鮮では、今年最後の紺碧の空かと思える快晴のある日曜日、時田は所用で出掛けていたが、李鎮五の姪ともう一人の女子生徒が家に遊びに来ていた。二人はこの四月に転入し、時田の家へ来たのは初めてで、抱えきれないほどの柿の実をもってきてくれていた。

 女の子たちはほんとうに赤ちゃんが好きで、京子を相手に何時間でも遊ぶのだが、家へ来てからのもう一つの関心は畳の部屋である。李鎮五がまるで事前にそのことを知っていて用意してくれていたかのような興味の持ちようである。畳の部屋は玄関から最も離れた奥にあり、八畳ばかりの広さである。畳のヘリの上だけを歩いてみたり、腹這いになって畳の匂いを嗅いでみたりと遊びに事欠くことはなく、その部屋から離れようとしないのはどの子も同じである。

 妻が京子と子供たちとは別の所にいたときに人が訪ねて来た。訪ねて来たのは駐在所の日本人巡査である。

「何か変わったことはありませんか?」

「特にありませんね」などと巡査と妻は玄関の土間で話していたが、

「そうそう、奥さんに差し上げたいものがあります。もらい物ですが……。少し待ってくださいね、今用意しますから」

巡査を玄関に待たせて居間へ戻っていった。

 妻は駐在所の奥さんとは面識ができてから、たまに立ち話をし、同郷ということもあって朝鮮の生活に不慣れな妻は、巡査の奥さんに何かと教えてもらい、もらい物のお裾分けするくらいの仲にはなっていた。

「あなたたち、ちょっと来て」

畳の部屋にいる二人を呼んで、

「あなたたちが持ってきてくれた柿を、少しよその家にあげてもいいでしょう。いま玄関にいる方にあげますよ」

玄関の方に視線をやりながら、柿の実を風呂敷に包みはじめた。

「はい、いいです」

 二人は、誰が来ているのかと玄関の土間に立っている巡査を窺うようにして見た。その瞬間、振り向きざまに畳の部屋へ逃げ帰って、仕切りの建具を閉めてしまった。

 妻には二人がなぜ脱兎のように奥へ駆け込んだのか、皆目わからなかった。

「巡査さんが帰ったあとに、奥へ行ってみたら、二人とも箪笥の横に縮こまって震えているんですよ」

どうしたの? と訊いても返事もせず、膝を抱えるようにして動かなかったという。

 京子が昼寝で寝ついたあと、少し落ち着きをとり戻し、話をすることができたようだ。

「巡査を見て、怯えていたというんだね?」

「そうよ。何も悪いことをした訳じゃないから怖がらなくてもいいでしょう、と言ったの」

「普通の怖がり方じゃないとでもいうのかい?」

「李鎮五さんの姪じゃない方の、西原春子といったかしら、その春子ちゃんが特にひどいの、肩震わせて。何かあったの、と訊いてもしばらく震えが止まらなくて」

妻の玲子から見ても、その震え方は尋常じゃなかったという。ほんとうかどうかわからないが、「これを飲めば怖くなくなるよ」と言って水を飲ませたという。

「京子母さんに話してごらん、すっきりするから」

妻のやさしさに促されて、ひとしきり涙をポロポロこぼした後、話してくれたことは――

 J小学校へ転校するまでは京城府内に住んでいたが、そのことがあってから母親と二人で越してきたのである。

 この春のある早朝、数人の男と巡査が父親を警察へ連行したのである。

春子は、母親の悲痛な甲高い叫び声に驚いて玄関へ行くと、私服の男に両腕をとられて連れていかれる父親と、母親が大声をあげて裸足のままで巡査に取り縋る光景を目の当たりにしたという。

 以来父親が帰ってこない悲しさや寂しさよりも、母親の狂乱した姿と警察官と父親の後ろ姿が瞼の裏から離れず、その時の恐怖感が蘇ってきて警察官を見ると震えが止まらないのだという。精神的ショックが大きすぎるのだ。

「それじゃ春子ちゃんのお父さんは、死んでなんかいないじゃないの」

両手で肩を抱くようにして言うと、こっくり頷いたという。

 三人の転校生は母子家庭の子供ではなく、父親が思想犯もしくはその嫌疑で警察に連行拘束されているのに違いないと確信した。

 それでは李鎮五に警察が探りを入れているというのはどんな意味なのかと、李鎮五のことを思った。妹の連れ合いは仕事で満州に行っていると話していたが、そのことと関係しているに違いないと思った。林順愛の父親は仕事ではなく、何かの運動に係わっていて、李鎮五もしくは妹への連絡、接触があることを警察は突き止めようとしているのであろう。

 安学文が、家庭調書への時田の疑問に対して、何も語ろうとしなかった理由も充分に納得がいった。

 林順愛たちのクラスが五年生となった新学期から、J小学校はJ国民学校と呼び方が変わった。昭和十六年(一九四一)のことである。

国民学校令とよばれる法律によって、内地、朝鮮、台湾の小学校すべてが国民学校と改められた。単なる名称の変更ではない、教育目的の根本的な一大改革であった。皇国臣民を錬成すること、国家が考える皇国の民を作り上げるための新令なのである。

 戦時色は強まり、生活物資の統制から〈ぜいたくは敵だ〉の標語が公共の場所のいたるところに見られるようになり、十二月には日米開戦へと突き進んでいった年である。

 道庁から打診があった朝鮮人児童だけの学校の研究モデル校として指名されたのは前年の秋であった。研究発表は、国民学校発足早々の四月ときめられ、半年ばかりの準備期間は多忙をきわめた。

国民学校として進むべき姿のモデル校という名目ではあったが、校長の面子にかけて成功裡に終わり、校長の名声をあげることが最大の目的であった。

 滞りなく研究発表会が終了すると、用紙統制の中、冊子にした研究報告書まで発行され、研究授業参観者や関係者に配布された。それは校長の自己満足のためだけではなかっただろうか。

 この年のクラスの子供たちが、どんな様子だったのかを思い出そうとしても思い浮かぶものがない。学校のことよりも真珠湾攻撃、日米開戦、年が改まってすぐのシンガポールの陥落と続く戦争一色の沸き立った一年で、子供たちも「勝った、勝った、また勝った」と教室で騒いでいた光景が目に浮かぶだけで、時田は六年生へ進級したクラスをそのままに担当し、教頭兼務となった。

校長の人事に背くことはできないとわかっていたが、できることならば教頭職を辞退したかった。六年生の担任は卒業後の、児童の進路指導が最大の仕事でもあり、担任の仕事に専念することを望んだが受け入れられなかった。

 教頭を固辞したい理由が別にもあった。時田にとっては苦手なタイプの、この校長と距離を置いていたいにもかかわらず、二人三脚で学校運営に携わり、接している時間が多くなるのがいかにも気が重いからである。正統派そのものの人物と、多数派よりも少数派が好きなへそ曲がりの自分では、逃げ出したくなるのがオチだろうと確信していたことにもよる。

 職務とはいえ、そんな校長と同道して公務で京城府内へ出向いた折りに、本町の丸善書店へ立ち寄り、学校図書室用書籍の選定と予約をした。

「これも一冊追加しておいてください」

校長が持ってきた本の表題は『皇道哲学概論』というかなり高価な一冊であった。小さな国民学校の図書室にこんな本が必要とも思えなかったが、

「私が読むのですが、職員にも読んでもらいたいので買います」

ひとりで肯くようにして買い求めた。

その後図書室を覗くたびに、その本を引っぱり出してみたが、一度も読まれた形跡がなく、予想したとおりだなと苦笑せざるを得なかった。自分がいかに高尚なことを考えているかということを、自分以外の人間に言いたいためだけのものであった。

 教頭職による公務での出張が増え、クラスを自習時間にすることも多くなり、本来の授業がおろそかにならないように心を砕いたつもりであるが、どうしても手薄になる。穴埋めをするために、進学を希望する生徒を中心にして時間の許す限り補習授業を行った。

 生徒たちの向学心を凌ぐほどの親の教育熱心は想像以上で、経済的な負担も厭わず上級学校への進学を希望している家庭も多かった。にもかかわらず、朝鮮人児童は内地人に較べて、開かれている進路には過酷なものがあった。

 国民学校高等科へは比較的簡単に進学できるが、高等科卒業では就職、仕事は限られ、せいぜい京城府内の、内地人の個人商店での店員見習い止まりである。そしてクラスの半分以上の生徒は高等科もしくは国民学校卒業で、家業、大半が農業の手伝いをするしかなかった。

それ以上の上級学校は、男子には中学校、実業学校、女子は高等女学校であるが、いずれの学校も簡単なものではなかった。入学できる枠に、内地人と朝鮮人にあきらかな差が設けられ、意図的に朝鮮人に高等教育をすることを制限していたのである。

 それでもなんとか希望をかなえてあげたいと思うのは、担任として自然であたりまえの感情である。そこには民族や人種などの違いが入り込む余地はない。

 受験参考書などの類は無縁である。それを購入できる経済的余裕などあろうはずがない。時田はひたすら教科書だけを使っての、基礎学習の反復を子供たちに強いた。厳しかったかもしれないが、反復ばかりの補習にも挫けることなく、日が落ちて教室が暗くなる時間まで子供たちは補習授業についてきた。

 J普通学校へ――いまはJ国民学校となったが――赴任して既に五年の歳月が過ぎていた。このクラスの子供たちが入学した同じ年であるが、教室からの風景も様変わりといっていいほどの変貌を遂げつつあった。

 なだらかな野菜畑の広がりも、その中間あたりに横長くトタン屋根の工場が建ち、周りには長屋のような住宅も増えた。のどかな農村の風景が無表情な工場に変わっていくのに合わせるように、時代ものんびりした時間と広がりを真っ向から拒否する灰色の世界になっていた。

 裏山で子供たちに本を朗読して聞かせたのはいつのことだったのだろうか、遠い過去のことに思える。

 補習授業にも一段と熱が入ってきた秋になって、ときどき補習を休む子供がニ、三人見うけられるようになった。どうして休むのかを訊いても「すみません、もう休みません」といったり、「お腹が痛くなったので」などと曖昧な返事をするだけ、同じ子がまた休むということを繰り返した。

 その中でも級長の松山泰敬が休むのが特に気になった。泰敬の希望する学校は最難関の京城中学であり、この子ならば合格できるはず、なんとしても希望を叶えさせたいと、時田だけではなく校長も是が非でも合格させたいとうるさかった。

成績は全甲、勉強だけではなく素行まで非のうちどころのない子供である。そんな子が無断で休むということはあり得ないのだ。

「補習に出なくてはだめじゃないか。どうしたんだ、何かあったのか?」

咎めるような言い方で泰敬に訊いた。

「申し訳ありません。少し家の手伝いをしています。母が病気で寝込んでいますので」

 子供に似つかわしくない、大人びた口調で簡潔な返事をした。秋の穫り入れに向かって人手が足りないというのだ。

「そうだったのか。それは仕方がないな」

少し気配りの足りない訊き方をしたと後悔した。

「それでお母さんは大丈夫なのか?」

「……」

 子供に症状や病の程度が答えられないのももっともだ。

「病院へは行ったのか?」黙って首を左右に振ったが、思いつめていたものが一気に弾けたように泰敬は涙をこぼし始めた。

「母は『死んだほうがましだ』と言います」

 医者に診てもらうお金がないと、両親が話すのを聞いて、自分はどうしていいのかわからない、進学は諦めようかと思っていると洩らした。

 時田は返す言葉に詰まってしまった。相手が十二歳の少年とはいえ、分かったような無責任なことを言える訳がない。ほんとうに無力ということだ。

 泰敬の家はわずかな自営と小作の農家であるが貧しいことに変わりはない。子供を国民学校へ通わせるのにも授業料だけではなくお金がかかるが、他にも同じような環境にある子供はいる。そのために上級学校へ進学できないといった経済的理由に対しては教師はなす術がなかった。

 ただ、母親の病気については、何か手立てはないものかと考えを巡らせていたが、小学校時代の同級生が、京城帝大附属病院の医者だということを思い出した。特別に親しいという間柄ではなかったが、この際当たってみるに如くはないと思い立った。

 一度病院へ来るようにという即答であった。同級生の医者の好意的な返事を、泰敬を通して親に伝えるように言った。

 しかし次の日に泰敬が言うには、両親ともに病院へは行かないと言っているという。当然喜んですぐにでも大学病院へ行きたいと言ってくるものと思っていた。

「先生が家まで行って直接両親に話をしようか? 両親は遠慮しているのだろう。遠慮なんて無用なんだよ」

 生徒本人の病気ではないのに、そこまでする必要があるのかどうかと逡巡したが、行き掛かり上最後まで、診察を受けるまで面倒をみようと思った。

 泰敬は慌てた口ぶりできっぱりと言う。

「いえ、それはだめです」

「どうしてだめなんだ。おまえの伝え方がよくないから、両親が断っているのじゃないのか?」

「ちゃんと話しました」

 しっかりした子であるから正確に伝わっているはずである。おそらく診察費用のこと、もし病気の具合がよくなければ入院となり、そうなったときの出費を考えて診察を断っているに違いないと思ったが、金銭的なことを子供に訊くのは酷である。

「先生が家へ行くのがまずければ、忙しいとは思うけど、お父さんにちょっとだけ学校へきてもらってもいいよ」

 それもだめだという。これでは埒があかないが、強引に家に押しかけるというのも過ぎたことに思われた。

 そのとき、ふと思いついたことがあった。それは、この一帯の農家の多くが、李鎮五の小作をやっているということである。泰敬に質すと、その通りで自分の家も李鎮五の世話になっているという。

 地主の権威を借りようとは思わなかったが、この際李鎮五に泰敬の母親の様子を訊き出してもらおうと考え、手紙を認めた。

 友人の医者から診察の了解を得ていること、おそらく母親も父親も費用がかかるために病院へ行くことを躊躇しているらしいこと、泰敬の成績からして、なんとしても中学へ進学させてやりたいことなどを書き連ねて、返事は郵送ではなく泰敬か林順愛に手渡しで学校へ持って来るようにして欲しいと、李鎮五にお願いをしたのである。

 李鎮五からは日を経ずして返事が届いた。

 ――要点のみにて、ご報告致します。

  聞き出した内容から素人なりに類推しますと心臓性の喘息かと思われます。そんな病名があるのかどうかは分かりませんが、軽度のものではないようです。医者に診てもらうことの了解はとりました。是非ともご友人との仲介の労をお取りいただくようお願いいたします。治療に要する費用は私が保証いたします。他にも小作人がある故、泰敬の家のみを特別扱いにするわけにもいかないのでしょうが、時田先生の泰敬に寄せられる熱意には私にも同じものがあります。泰敬の成績ならば、将来必ずやひと(かど)の人物になり得ると私も確信しており、高等教育を受けさせれば社会に有為の活躍をしてくれるに違いありません。僭越かもしれませんが、この地域からも優秀な人材を数多く育てることは私に課された使命でもあり、私の父親が学校を始めた目的にも(かな)っているものです。時田先生のご助力に、泰敬一家に代わってお礼申し上げます。

  なお泰敬は、両親に先生のご意向を伝えていなかったことを申し添えておきます。両親が直接先生にお目にかかることになれば、両親がまったく日本語を話さないことが知れ、日頃学校でいわれている国語常用が家の中で実行されていないことに、泰敬は後ろめたさを感じていたためであることが判りました。金銭的なことよりも、そのことの方が泰敬に重圧となっていたことをお伝えしておきます。

  何卒泰敬を責めないでいただきたく、私よりお願いする次第です。 李鎮五 拝

 李鎮五からの手紙を受取ってから間もなく父兄の授業参観が行われた折に、林順愛の母

親と立ち話になった。李鎮五からの手紙に関わるものであったが、泰敬の親はもちろん授

業参観には不参加である。

 李鎮五の妹である林順愛の母親は、完璧な日本語を話し、彼女と面識のない人ならば、彼女は内地人(日本人)だといえば誰も疑わないほどの流暢さであった。東京の女子専門学校への留学経験者であれば堪能な日本語も納得のいくことだ。

「先生、唐突な話ですが、泰敬の父親は国語(日本語)が解からないというのは嘘です」

 突然何を言い出したのか理解できずにいた。彼女に呼び止められたときには〈あの話〉だろうと、時田は一瞬うろたえた。何の心の準備もしていなかったからだ。しかし〈あの話〉には一切触れずに泰敬の父親の話になった。

「兄から聞きました。先生が泰敬の母親のことでご尽力されていることを。また泰敬の両親は国語を話せないと、兄が先生への手紙に書いたことも聞きました」

「はあ、父親は国語が解かるのですか?」

「ええ、もちろんですとも。父親の寿男(ジュナン)と私は同級生なんです。普通学校はずっと一緒でした。J普通学校はできたばかりで、いまよりずっと田舎。農村の学校で昔から一学年一学級でしたから卒業するまで寿男と私は一緒に勉強しました。寿男は勉強が本当によくできました。三年生だったか、たぶんその頃ですが、寿男は郡主催の綴り方コンクールで入賞したこともあるのです。もちろん国語(日本語)ですよ。自分でいうのも口幅ったいですが、いつも寿男が級長で私が副級長でした」

「お兄さんの李鎮五さんは、そのことはご存じなんでしょう?」

「知っていると思います。でも父親本人が国語は解からないといい、泰敬もそう信じて疑わないのですから、他人の兄が差し出がましく、余分なことは言う必要がないというのが兄の考えでしょうし、性格も出過ぎたことをするのは嫌いなたちですから」

澱みのない、しかも学んだ言葉とは思えないような完全な日本語である。

「兄と寿男は子供のときからとても仲がよくて、兄弟分みたいなものです。寿男はいつも兄に付いてまわり、兄は寿男をとても可愛がっていました。たぶん寿男は性格がいい上に勉強ができて、兄のお気に入りなんでしょう。兄が留学先の東京から帰省すると、寿男は私の家に入り浸りでした」

「そんなに仲がいいのですか。それはよかった。泰敬にも目を掛けてもらうのが何よりです」

 時田へ宛てたクラス会への、招待の手紙は泰敬が書いたに違いない。

 母親の病気を医者に診せるよう、直接両親に話をしようと言ったときの「それはだめです」と即答した泰敬のうろたえた真剣な表情と、しかし決然とした口ぶりが、招待状の文面から彷彿としてくるようだ。

 学校は、いや時田は彼らを立派な皇国少年に仕立て上げようとし、彼らもまた真正な皇国少年、少女になる努力をしていたことに、今となっては慄然とする。

 泰敬が書いた手紙の一節に、時田の気持ちは暗くなり落ち込む。

 ――あの時代への屈折した思いがない訳ではありませんが――

 たったこれだけの短い一節に、韓国人としての向かうところのない悔しさや憤怒、少年時代への懐かしさなどが入り混じった複雑な気持ちが、泰敬から時田へ鋭く一直線に向かってくるようだ。

 差出人に名前を連ねている林順愛も、〈あの事〉に納得できない口惜しさを持ち続けてこの数十年を生きてきたに違いない。できることならば会って、数十年を隔てていても面と向かって林順愛に謝りたい気持ちでいっぱいだ。

 あの参観日に、順愛の母親と泰敬のことで話をしながら、いつ〈あの事〉を切り出そうかと、夏休み明け早々の順愛とのことばかり考えていた。

 〈あの事〉は正規の授業も終わり、補習授業までのほっと一息つくわずかな合間のできごとであった。

 順愛を取り巻くようにして女の子たちが

「わあ、きれい」「もっとよく見せて」などと騒いでいた。何がそんなにきれいなのかと、時田は女の子たちの頭越しに覗き込んで、順愛の指先、爪に目が釘づけになった。

 直後に時田は叫んでいた。

「今日の補習は中止だ」

 生徒たちは何事が起こったのかと全員が顔が強張ったまま静まり返り、一斉に時田に目を向けて次の言葉を待っていた。

「補習はなしだ。順愛はすぐに職員室に来るように。他の者は全員すぐに帰れ」

有無を言わせない、きつい命令であった。

 日頃生徒を叱るということは滅多になかった。やさしいというのではない。強圧的で、一方的に感情にまかせてどなることや怒ることをしないように自分を戒めていただけのことである。

生徒を叱り、あるいは褒めるときの基準の物指しは時田自身なのだ。自分が絶対なはずは毛頭ないし、時田自身が内実は絶えず自問自答して揺れ動いているのだ。

 自分の中に音叉があればいつでも修正できるであろう。生徒との間合いのズレや微妙な思い違いにも音叉があればいいのだろうが、教育に結果や完成がない代わりに教育の途上に音叉もないのだ。生徒を叱る前には、常に、ほんとうにこれでいいのかという自制が働いた。熱血教師にはほど遠い、優柔不断なダメ教師であったと思う。

 しかし順愛だけを残して、職員室に呼びつけたときは、いつもの時田とは明らかに違っていた。

 爪を染めるなどとんでもないことだ。いま国は総力をあげて戦争をしているのだ。華美を戒め、一切のぜいたくを禁じるだけでなく物資の統制、配給制度で耐え忍ばなければならない。順愛は皇国の小国民、しかもクラスの副級長、みんなの模範とならなければいけない、そんなこともわかっていないのかと、時田は怒りがこみ上げてきた。

「これはどういうことだ。話してみろ」

順愛の手首を捉まえて、知らず知らずのうちに職員室中に聞こえる、興奮した大きな声になっていた。

 順愛は黙って、わずかに小首さえ傾けている。何か悪いことをしたのかとでもいうように、不服そうな表情をしている。国民学校の生徒が爪を赤く染めるなぞ前代未聞のことで、開いた口が塞がらない出来事なのに、である。

「お母さんは知っているのか?」

「……」

「いつ、こんなことをしたのか?」

矢継ぎ早に咎める口調で訊いた。

「お母さんがやったんだな?」

ひと言もしゃべらずに首を左右に振った。

「それじゃ誰がやった? 自分で染めたのか?」

「おばあ様が……」ぽつりと言った。

「いつやってもらった?」

「夏休みに」

「こんなことをしてもいいと、おまえは思っていたのか?」

 何も答えようとしないだけでなく、時田を見据えてさえいる目だ。何か悪いことをしたとでもいうのか、と挑むような眼差しにさえ見える。

 ほとんどの教師が残っている職員室は、全員が聞き耳を立てている様子と視線が貼りつくように伝わってくる。校長さえも職員室との境のドアを開けて覗いてきたのが見えた。校長が口出ししなかったことに感謝した。時田が教頭兼任だったからであろう。ヒラの教師であれば、校長は必ず口を挿んだに違いないからだ。

 順愛を問い詰め始めてから、ぽつりぽつりと答えるが、どの質問への答え方も、なぜそんなことを訊くのだろうと疑問をもっているような、感情のない、素っ気ない話しぶりなのだ。明らかに時田の質問が不可解だという顔をしているようにしか見えない。叱っている言い方とはいえ、ちゃんとした会話にならないのだ。時田は苛立ちを隠して、これ以上何かを訊き出したとしても無駄だと判断した。とにかくこんな軽薄で、学校生活にそぐわないことは即刻やめさせなければいけない。

「順愛、もう家に帰ってよろしい。帰ったらすぐに家の人に話して、その爪の色を落として、わかるか? 消してもらいなさい」

最後は諭すように声を落として言った。

「さあ、暗くならないうちに帰りなさい」

 順愛はこっくりと頷いて帰って行った。

 順愛を帰したあと、ずっと同じことを考えていた。なぜ、おばあさんが染めてやったのか、母親は何も言わなかったのか、どうして全部の爪ではなく、片方の、それも小指と薬指なのかなど愚にもつかない無意味なことばかり考えていた。高ぶらせた感情を落ち着かせようと煙草を手にして、しばらく何を見るということなく腕を組んで窓の外に目を遣っていた。

 高山(鄭)銀美が近づいて来るのはわかったが、そのまま視線は外の風景から逸らさずにいた。

「時田先生、少しお話できる時間ありますか?」

 高山銀美が机の正面から顔を近づけて訊いてきた。

 四十歳少し前の、背はそれほど高くはなく愛敬のある丸顔で、情の深い中年女性である。あけすけな性格はいかにも朝鮮の主婦である。

「ありますけど、何か?」

愛想のない返事の仕方をした。

「さきほどの順愛のことですけど、ここではちょっと。校長先生はお帰りになったようなので」

微かにおどけたように言う。場をおだやかにしようとする配慮からであろう。

 衝立で隔てた面談用のテーブルに席を移した。

「時田先生が日頃に似合わず大きな声でしたので、ついお小言をしっかり聞いてしまいました。すみません」

「そんなに大きかったですかね?」

平静を装うように苦笑を交えながら訊いたが、気持ちの昂ぶりはまだ消えてはいなかった。

「先生、あの爪の染色は落ちません。爪に塗る化粧品で染めているのではないのです」

「……?」

 順愛を叱ったときの昂ぶった感情の余韻がまだ燻っていた。時田は高山銀美の遠慮のない言い草に内心ムッとした。色を落としてこい、と命じたことを全否定されたように感じたからだ。

 時田の気持ちにはまるで気づくことなく高山銀美は続けた。

「幼い時分、夏になると私たちもよくやったものです。鳳仙花はご存じでしょう? 夏にはどの家にも垣根の傍らや家の外壁に沿って、鳳仙花がたくさんの花をつけたものです。その花を使って爪を染めるんです。爪紅(つまべに)といいます。葉の下に、主に赤の、そのほかにもピンクなどの花を咲かせますよね」

 安学文と登った仁旺山の帰りに見て、日日草と鳳仙花の話をしながら下山したことを思い出していた。あの花がどうして色の落ちない爪染めになるのか。

「おばあさんや母親が、摘んできた花びらをすり鉢に入れて、石で丹念に潰しましてね。それに明礬(みょうばん)というんですか、その白い粉の薬品をまぶして、丸みのある一握り大の石で潰しましてね」

「どうして子供に、そんなことするんですか?」

説明風の話を折って、時田はいちばん訊きたいことを質問した。

 高山銀美は話の中途で遮られても傷つく風もなく答えてくれた。

「私が聞き知っている範囲でいえば迷信かもしれませんが、医学が発達していなかった時代には、子供の薬指と小指を染めると病気から身を守ると信じられていたのです。順愛のおばあさんくらいの人たちは確かにいまでもそう信じています。華美にしようとか飾ろうなんて気持ちはないでしょう」

 昔からの、庶民の信仰とささやかな楽しみだったというのだ。

 高山銀美の話を聞き進むにつれ、冷静さをとり戻しながら、ただ自分の価値基準だけで叱ったことを後悔し始めていた。

「潰した花びらを小粒の団子にします。爪からはみ出さないように上において、木の葉や油紙で包み、糸で指先を縛って一晩そのままにしておけば爪紅の出来上がりです」

 手を布団の外に出し、できるだけ動かさないようにして寝るのだという。

 他意はない。孫娘の無事を祈って何の悪いことがあろう。祖母が孫娘を思う気持ちがひしひしと伝わってくるようだ。日本人は幼い子供に瓢箪の形をしたお守りを首に下げさせていれば、それが身を守ると信じていることと何ら変わりはない。小さな刺繍が施された派手なお守袋を持つことも同じなのだ。それを迷信と言おうと何と言おうと、誰も否定などできないではないか。民間信仰とはそんなものだ。

 時田の心の中で後悔とともに慙愧の念が膨らみ、これ以上高山銀美の話を聞き続けることが苦痛にさえなってきた。

 爪紅の謂れを知らなければ、この小さな事件は順愛と時田、クラスの中だけのできごととして決着し悩むこともなかった。しかし一方で民族間の習俗や文化の違いを、正邪や優劣にしてしまう愚かさを、身をもって体験することができた。

「爪を染めたときのことを詠んだ詩がありましてね。うろ覚えですが、ざっとこんな内容です。……か細くて可愛い娘の手/赤い花を搗き藍の葉に包んで/灯火の前できれいにくるくる巻きつけて/暁に起きて簾を開けると/鏡に映る明るい光を見つめる/……うまく日本語の詩にはできませんが、内容の一部はこんな感じです」

 十六世紀の、許蘭雪野という女流詩人の『染指鳳仙花歌』という詩だそうだ。爪紅が何百年も昔からのもので、詩にまで詠まれているなど知るはずもなかった。朝鮮の詩人の名前はおろか、朝鮮文学作品の何一つとして知らないし、知ろうともしなかったのだから。

「夏になると毎年爪紅をやってもらったものです。すり鉢の周りを取り囲んで、母親が花びらをすり潰し始めると、幼くても女心がわくわくしたものです。色が紫色に変わって、小さな団子を作り、子供がみんな手を差し出して……」

 弾む気持ちは林順愛も同じだったことだろう。

 翌日、憂鬱な気分で順愛が登校して来るのを校門が見えるところに立って待った。順愛と二人だけで話をしようと考えていた。クラスでも職員室でも事を大袈裟にしたくなかったからだ。

 子供たちはみな登校して来ると、天皇、皇后の御真影が納められている奉安殿の前で敬礼をしている。登下校時に必ずしなければならない儀式である。

奉安殿を離れた順愛を見つけると、手招きをして呼んだ。

「昨日お母さんにやってもらいました」

言いながら爪先を自分から差し出した。

柔らかそうな小さい爪は、斑に朱色が残っていて表面は縦縞になって荒くれている。おそらくカミソリのような刃物で削り落としたのであろう。痛ましかった。

「もう先生はなにも言わないから安心しなさい。おばあさんやお母さんは何も言わなかったか?」

 順愛は小さく頷きながら「はい」とだけ答えたのもいじらしかった。

 そのままにしておけば、初雪の降るころまで三ヶ月ほどは消えないと、高山銀美は教えてくれたのだった。そのままにしてあげればよかったのかもしれないが、命じてしまったことである。これでいいのだ、と自分に言い聞かせた。

 時田は、子供に嫌われることは気にもならなかったが、子供に不信感を抱かせることだけはやったり言ったりしてはいけないと、ずっと考えて接してきたつもりである。一度でも不信感を抱かせてしまったら、教師はそれを払拭できない。

 これでいいのだ、と頭の中で反芻し納得していた。そして、やっと爪紅のことを順愛の母親に切り出すことができた。

 あの日は、日頃快活で少々のことでは物事に動じない順愛が、帰宅すると駆け寄るようにして母親のチマに顔を押し当て、声に出して泣き出したという。いろいろな思いが交差しての涙であったのだろう。

「お母さん、どうして爪を染めてはいけないの? 先生に色を消してこいと言われたの」

母親のチマを両手に握り締めて訊いてきたという。爪紅を禁止されたことに承服できない悔しさがあふれてきたのだろう。

「私にはすぐに分かりました。ご時世ですからね。私が迂闊だったのです」

「順愛が帰ったあと、高山先生からいろいろ聞かされました。その爪紅の謂れや朝鮮の習俗などです。私が知らなかったのです。知っていれば順愛に別の言い方もあったのに、一方的な言い方をしてしまって」

「順愛には私から言い聞かせました。順愛は納得して自分から色を消してくれと言いました。でもあれってほんとに消えないのです」

「爪を傷つけて、可哀相なことをしました。それ以上に順愛の心を傷つけたことの方が大きいのではないかと悔やんでいます。病気から身を守るといって染めてくれたおばあさんの愛情を裏切ってしまった、それが申し訳ないと考えているでしょうね。またみんなの前で叱られたことも……」

 理不尽に思えて、承服できない事柄とはいえ、自分が補習授業中止の原因となったことでみんなに迷惑をかけた上に、副級長のプライドも傷つけられてしまったと、怒りの向け口もなく泣きじゃくった姿が目に浮かぶ。

「お母さん、私がこんなことを言うのも変ですが、これが来年の入試のころでなくてよかった。面談のときに爪紅が残っていて試験官に見咎められたら大変でした」

 取ってつけたようなことを言ってしまった。

「ありがとうございます、注意してもらってよかった。後々、順愛もすべてのことが分かるときがくるでしょう」

 ――後々すべてのことが分かるだろう――とは単に爪紅のことだけではない、民族や祖国の境遇のことも、と順愛の母親は暗に言いたかったにちがいない。

 順愛の爪紅に気をとられているうちに、周りを見渡すと風景も空も一気に秋が深まっていた。一夜にして急激に季節が変わるのが朝鮮だ。隅から隅まで透きとおった高い青空だ。補習授業も一段と熱が入り、陽が落ちるのが早い教室は薄暗くなるまで真剣な眼差しが緩むことはない。

 子供一人一人は具体的な進路を決め、個別の相談も真剣味を帯びはじめた。男子の中学や女子の高等女学校も、内地人と朝鮮人では自ずとその学校も決まっていたが、松山泰敬は朝鮮随一の難関校、京城中学を目指すことに変わりはなかった。そのほとんどが内地人子弟の、しかも成績優秀な生徒が希望する学校であるばかりではなく、朝鮮人に対しては暗黙のうちに入学枠を設けていたこともあって、入学後のクラスの中には朝鮮人生徒は一人か二人というのが実状であった。

 泰敬はそれでも京城中学を目指した。

個別面談の折には、まだ小学生とはいえ、時田は彼の中学卒業後のことまで見据えて将来は大学まで、そして理系に進むことを目指すようにという話までした。戦争が膠着状態で、朝鮮人対象の徴兵制度さえも取り沙汰され始めていたからであるが、無意識のうちに将来大きく役に立つであろう人間を安易に死なせてはいけないと考えていたに違いない。このような思いは冷静に考えれば当然のことである。

自分の教え子が死に晒されるなど耐えられないことなのだが、天皇陛下のために死ぬことが美徳とされたあの時代には、思いを口にするなどとんでもないことであった。

 朝鮮の人々からすれば、日本人が天皇のために命を奉げようと、国のために死のうと自業自得、なぜ我々朝鮮人が兵隊にとられて死ななければならないのか、理不尽極まりないと考えて不思議はない。

 泰敬を除く他の男子は、多くが国民学校の高等科か商業学校など実業学校への進学希望であったが、数少ない女子生徒の中で林順愛、西原春子ともう一人の三人が高等女学校への進学を考えていた。

 林、西原の二人は、父親が思想犯の嫌疑を懸けられていたり拘束されていることもあって、希望通りの学校へ進めるかどうか検討しなければならないと思った。

ただ単に学力による判定で合否を決めないことははっきりしていた。進学する学校はもちろん子供の希望もあるが、親の意向が大きく反映することもあり、時田は林、西原二人の母親と話し合うことにした。

 学力や家庭環境、通学の利便性なども考慮して、二人に京城舞鶴公立高等女学校がいいのではないかと勧めた。

 民族色の強い学校やキリスト教系の学校に対しては、戦時色が強まるにしたがって当局からの圧力が懸かり始めていたからだ。目をつけられやすい学校を避けたほうが無難だと考えた。伝統のある梨花(リカ)高女が廃校さえも辞さないような総督府の圧力に晒されていたのが象徴的である。舞鶴高女ならば父親のことで子供が余分な負担を感じなくてすむのではないかというのが時田の思いであった。

 舞鶴高等女学校は創立間もない新興の学校であったが、総督府のお声懸かりでできた新しい趣向の学校でもある。それは内鮮一体を具現化した学校として、女学校では初めての試みであった。

 内地人と朝鮮人を半々の人数で構成しただけでなく〈学友制度〉とよばれる実験的な制度を採用していた。学校生活はいうにおよばず、私生活でも内地人と朝鮮人の二人組で行動、内鮮一体を具体的な形、行動で示そうというのが〈学友制度〉である。

 三人の女子生徒は舞鶴高女を目指すこととしたが、なによりも家から最も近い学校であるというのが親の意向にも添っていたのであろう。

 ほぼ全員の進路目標がはっきりした十月の中旬に、時田太一は召集令状を受け取った。

 知り合いの教師も兵役に就く者が幾人もいて、そろそろ自分にもという予感はあったが、国民の義務という覚悟も当然持っていたことであり、さして驚きもしなかった。悔いが残るといえば、せめて六年生を卒業させるまで一緒にいたかったことである。

 気持ちを切り替える中で、李鎮五には会わなければと考えた。借家のこともあったが、何故そう考えたのか自分でも分からないが、どうしても会っておきたかった。

 残されたわずかな時間を割いて、夕刻であったが李鎮五の邸へ出向くと食事が用意されていた。順愛に託して、兵役召集されたこと、挨拶に出向きたいことを事前に伝えておいた。まさか酒肴が用意されているとは思いもしなかったが、好意に甘えて李鎮五とのひとときを過ごした。用件と挨拶だけであれば立ち話ですむことなのに、何故家に上がり込んでまで話をしたかったのだろうか。

「時田先生が召集されると聞いて私も無性に会いたくなっていたのです。理由はわかりませんが」

 時田が思っていたことと同じことを李鎮五は言った。

人には話がかみ合わない人と、なぜか気が置けない、馬が合う人とがいるものだが、時田は李鎮五の雰囲気と、多弁ではないが心惹かれる素養に裏打ちされた話しぶりが好きだった。

「奥さんとお子さんは、今の家のままでいいでしょう。大船に乗った気持ちでいてください」

どうしてこうまで好意を寄せてくれるのかもわからなかったが、しきりに今のままで、と勧めるので好意に甘えることにした。

 食事をしながら、以前にご馳走になったときの、真鍮製の食器類が陶器になっているのが気になった。

「金属供出に応じられたのですね?」

「できることはすべて協力しているつもりです。私は物に執着しないたちでしてね」

すました顔で笑っている。

 国を挙げての、家庭の鍋類やお寺の鐘といったものまで金属類を軍に提供するようにという指示に忠実に従ったのだという。

「食事など何で食べても食べ物に変わりはありません」

こともなげに言うのである。

 順愛の父親である義弟に絡んで、刑事が李鎮五の身辺に眼を光らせていることを意識しての、協力的な大量な食器類の供出であったかもしれないが、李鎮五の生活信条や、流行や政治に翻弄されることのない、ほとんど揺らぐこともない確固とした哲学によるものではないだろうか。

「人間が造ったものはいつか消滅し、壊れるものですよ。私はそれでいいと思っています。それが、私が物に執着しないという意味です」

 李鎮五の話に耳を傾けていると、時田は肩の力が抜けて、心が落ち着き温まるのを感じた。訪ねて来てよかったと豊かな気分になった。

「時田先生、兵役がすんだら必ずまた来てくださいね、楽しみに待っていますよ」

民族や人種を超えた、温かな言葉に感謝した。

「是非そうなりたいと願っています」

 李鎮五は家人を制して一人で門の外まで足を運び、別れを惜しんでくれた。

「始まったことは必ず終わります。戦争も同じです」

 日本の朝鮮支配も、と言いかけたようにも聞えた。禁句に近いものであった。それでも李鎮五はさりげなく言葉にした。

「それじゃアンニョンヒガセヨ(さよなら、気をつけて)」

暗がりの中で目が温かく笑っていた。その朝鮮語の見送りの挨拶と笑顔はいつまでも忘れないだろう。

「アンニョンヒガセヨ、アンニョンヒガセヨ」

停車場までの月明かりだけの夜道を、声には出さずに何度も繰り返して家路についた。

朝鮮人の話す日本語とは到底思えない完璧な日本語を操る李鎮五から聴いた初めての朝鮮語であった。

 李鎮五を訪ねた翌日は、J国民学校最後の日となった。

兵役を終えたあと、もうこの学校に戻って来ることはない。いや帰還しないかもしれない。時田太一は淡々と一日を終わろうと考えていたが、感傷的な気分にならなかったといえば嘘になる。通常の授業をするつもりでいたにもかかわらず、子供たちの顔を見渡すうちに平静ではいられなかった。子供たちに、一語一句も聞き漏らすまいと集中して見つめられるのが却って辛い。

「いまから裏山へ行こう」

 閉じ込められた室内よりも、屋外の外気の中で子供たちと最後の一日を過ごすことが自分らしいのではないか。

 子供たちも張りつめた空気にどう対応したらいいのか戸惑っていたのだろう。

「わあ、行きたい」

全員が開放感に溢れている顔になった。

 J普通学校赴任以来、時田が最も好きな場所が裏山の、銀杏の大木の下だった。そこは銀杏の落葉の海になっていた。その海の上に子供たちはしゃがみ込んでいる。初めて顔を合わせた三年生のときのように。

子供たちの視線と金色の落葉が眩しかった。久しくなかった勝手気ままな授業、授業ではなく子供たちと共有するひとときを満喫して最後の一日にしたかったのだ。

 この京城郊外の学校へ赴任して一年目が終わる三月に退職していった朴先生の最後を思い浮かべていた。朴先生が黒板に書き残して子供たちに伝えたかったメッセージは、その意味もその重さにおいても時田とは格段の違いはあろうが、書かれたハングルの文意よりも、ハングルで書くという行為にこそ意味があったように、時田も、その内容よりも本を読み聞かせることに意味があると思った。

「みんなも知っている通り、先生は本を読むことが好きだ。だから今日は一番好きなことをしようと思う。少し寒いが、短い話だから我慢して聴いてくれ。もう読んだことのある者もいるだろうが、先生の最後の授業だから一所懸命に聴いてくれたらありがたい」

 芥川龍之介の『杜子春』をゆっくりと、難しい単語や地名にはいつものように簡単な説明を挿みながら朗読した。

 読み終えると時田は、『杜子春』の最後のくだり――何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです――と杜子春が決意を口にした部分を繰り返して、

「これでトッキ先生の授業は終わりだ」

時田は自分からトッキ先生と言いながら、ゆっくりと立ち上がった。

 子供たちも全員立ち上がると時田の周りに近づき、六年生とは思えない幼さでまとわりついてきた。

時田は一人一人全員の頬を両手で挟み、短い言葉をかけた。

「ありがとう」といいながら。

 学校を出たのは夜だった。校門で立ち止まり、校舎と裏山を振り返って一礼した。

 暗がりの校庭には、運動会のなごりの白線がいく筋も残っていた。

 朴泰敬様

 林順愛様

 心温まる丁重な招待の手紙をいただき身に余る思いがいたします。これまで決して忘れることのなかったJ国民学校であるばかりでなく、貴君たちの学年こそ私にとってはJ国民学校そのものでもあります。

 手紙を読み始めてから涙で文面が霞み、何度眼を拭ったかしれません。嬉し涙でもありますが、私にとっては申し訳なさや悔恨の思いなど、言葉では表すことのできない複雑な思いが交錯、重複した涙です。こうして返事を書いていても涙が出てしまうのです。齢を重ねて涙脆くなったこともあるでしょう。

 日本へ引揚げて三十三年もの月日が経ちましたが、J国民学校の日々は、昨日今日のことのようにしか思えません。手元に記念写真の一枚もありませんが、皆さんの、一人一人の顔が鮮明に蘇ってきます。

 裏山の銀杏の木は、いまでもあざやかな黄金色の落葉の海を作ってくれているのでしょうか。隆々とした枝ぶりも匂いも変わらないことでしょう。しかしどんなに思い出深い大木であろうとも、私にとっては貴君たちの全員が揃って元気でなければ意味がありません。沢蟹のいた小さな渓流はいまも清冽な水が流れているのでしょうか。

 私は、何の記憶もない幼児期に京城(ソウル)へ渡り、一九四五年に日本へ引揚げるまで、三十五年間を貴君たちの国で過ごしました。ちょうど日本が支配した三十六年に符号する年月で、私こそが、日本が貴国を植民地としていた時代の申し子といえましょう。

 その申し子が教師となって、日本の植民地政策のお先棒を担いでいたのです。深く考えることなど毛頭なく気軽に教師という職に就きました。そして当然のことながら教師用の指導要領に則り、道庁の研修に参加し、総督府の意向通りに、忠良なる皇国臣民を育成することが国民学校の使命であることに何の疑問ももたない、平均的で凡庸な日本人教師のほかの何者でもなかったのです。

 それでも、もし私にいささかの弁解が許されるのなら、J国民学校へ赴任してからの五年半の間に、私の心の片隅に、国語(日本語)常用運動や神社参拝強要などへのわずかな疑問が芽生えたことではないでしょうか。それらの疑問はすべて貴君たち生徒や、同僚の朝鮮人教師――日本人教師には一人もいなかった――、学区域のご父兄や一般の人々に啓蒙され学んだことであり、わずかな疑問が私の心に素直に入ってきたということが一厘一毛ばかりの慰めにはなります。安(安井)先生は示唆に富んだ諸々を教えてくれた、その筆頭ではないかと思います。

 あの当時の日本人は、おしなべて物事の判断を優劣でしか見ようとしない、一元的で夜郎自大な民族だったのではないでしょうか。朝鮮で生活するほとんどの日本人が、日本人は優れた民族であり、朝鮮人は劣等民族であるという抜き難い先入観の前提に立っていたために、数々の過ちを犯し、取り返しのつかない精神的な、時により身体的な苦痛を異民族の貴君たち朝鮮民族に強いたのです。私もその日本人の一員であり、貴君たちの批判を免れるものではありません。

 朝鮮(韓国)の文化にも歴史にも関心を示さず、貴君たち民族の犠牲の上にのうのうと胡坐を掻いて生活していたことが、今の私には心に突き刺さった、一生取り除くことのできない棘なのです。

 貴君たちがくれた手紙が日本語で書かれ、その差出人名が、あの創氏改名によって生まれた異体の日本名であることにも、今の時代から見れば、日本という国はなんと愚かなことをしたのか、狂気というほかの何ものでもなかったとしか思えません。

 私にはどうする術もなかった、無力であった、すべては時代の趨勢の中では致しかたなかったのだといえば、その通りでしょう。しかしそれは貴君たち抑圧され支配された側の人間が言うのであれば認められることでも、私たち支配し強制した側の日本人が言うことではないのです。

 時代の趨勢や、原因理由がどうであれ、私がそこで生活したこと自体が支配そのものであったことに変わりはないというのが私の思いです。

きわめて個人的な感情であるかもしれませんが、抑圧、被抑圧の関係にほんのわずかでも関わったことへのけじめがつかない限りは、私は貴国を訪れることができない、私の良心がまだソウルへ行くことを許してくれません。

 せっかくのご招待を辞退する私のわがままをどうかご理解ください。いつの日か私の中でどうにか納得する日がくれば、すべてを放り出してでもソウルへ、貴君たちのもとへ馳せ参じることでしょう。思いは今でも、帰心矢の如し、です。

 ――ソウルへの帰心――とは不届きな、日本人が何処へ帰るというのだ、と非難を浴びるのは承知の上ですが、正直な気持をそのまま伝えるには、帰心矢の如しという表現のほかに思いつきません。

 みんなに会いたいという溢れるような気持ちを、クラス会の皆様にくれぐれもお伝えいただくようお願いいたします。

  貴君たちの誰もが日本へ来る機会があれば、どこへでも私のほうから飛んで会いに行きます。福岡であれば是非わが家を訪ねてきてください。

 最後にこの文面を借りて、順愛に(敢えて親愛を込めて呼び捨てにします)ごめんなさい、と言いたい。また安学文先生にありがとうございましたということをお伝えして終わりにしたいと思います。

 皆も記憶していると思いますが、順愛の爪紅をその謂れも知らず一方的に叱ったことを何十年経っても悔いています。爪が醜く波をうったように荒れ、指先に血が滲んでいたこと、なぜそこまでさせてしまったのか、順愛に謝らなければの思いが今でも頭の中から消えることがありません。順愛、ほんとうにごめんなさい。

 安学文先生に伝えてください。

 あの過酷な時代に身の危険も顧みず、たくさんのことを本心で語ってくださったことに感謝します、と。

 クラス会の盛会なることを遠くより祈っております。       時田太一 拝

「もうすぐ彩は幼稚園の入園式でしょ、だめよそんなことしちゃ」

娘の京子が何やら非難がましく妻に詰め寄っているのが遠くに聞えてきた。

 いつものように居間のソファを占領して寝そべり、京子の説教と、妻の馬耳東風がまた始まったと、楽しみながら聞いていた。ひとりでに笑いが込み上げてくる。母子でどうしてこうも性格が違うのかと不思議なくらいだ。

妻の玲子は天性の楽天主義者だ。一方の京子は何ごとも懐疑的で、一つ一つ確認し納得できたときに初めて行動に移る。人間の性格には遺伝や血のつながりなどないのだとしか思えない。あると考えるのは幻想に過ぎないのかもしれない。

 玲子の楽観主義は不思議なほど運を呼び込むのがまたつい笑いを誘ってしまう。

 時田が兵役に就いている間、戦死するかもしれないとは一度たりとも考えなかったという。戦争未亡人になるかもしれないということは自分の将来、一生に関わる一大事なのに、である。根拠もなく、夫が無事に帰還すると考えるなど楽観にもほどがあるというものだ。

 戦争が終わって、日本への引揚げ順を待っていたときのことだ。食料の配給は止まり、食料を確保するために、すべての日本人は家財道具や衣類を切り売りして糊口を凌ぐ、明日をも知れぬときであった。

 京子が白いご飯を食べたいと駄々をこねたことがある。玲子は生来の明るい素朴さのままに、

「あなた、白米なんとかならないかしら? 私も食べたいわ。李鎮五さんに頼めばなんとか融通してくれるわよ」あっけらかんとして言う。

「ばか、こんなときに余程の金を用意しなければ日本人なんかに誰が米を分けてくれるというのだ」

 そんなやり取りをした翌朝のことである。玄関先の植込みのそばに、ひと抱えもある布の袋が吊るしてあった。心当たりのない物である。いったん家の中に持ち込み、中を確かめると、なんと白米が入っている。そしてただ二行――時田先生へ、卒業生より――と書かれた小さな紙切れが入っていた。だれの仕業か皆目見当もつかない。卒業生とあるからJ国民学校の卒業生としか考えられない。有難くいただくことにした。時田には玲子が運を呼び込んだと思わざるを得なかった。

 いまだにその仕業は卒業生ではなく、李鎮五であったと時田は信じて疑わないでいる。なぜなら時田たち三人がいよいよ日本へ引揚げることになった当日の朝、李鎮五自らが持ちきれないほどのオニギリを持ってきて時田を感激させたからである。

「お母さんったら、どうしようもないわ。いいわよ、どっちみち入園式の前に拭い取るから」

 おんな三世代の三人が、風もない、穏やかな縁先で楽しげに笑ったり歓声をあげたりしている昼下がりである。

 京子たち夫婦の住まいは、車で三十分もかからない福岡市内にあり、一週間に一度は何かと野暮用をつくって出掛けてくる。

 孫娘の(あや)が五歳になった。日本へ引揚げてきたときの、京子の年齢と同じかと思うと不思議な気がする。こんなに幼かったときに、あの無蓋同然の汽車に乗って釜山まで行ったのかと、しみじみとして孫娘を見ることがある。

 彩が嬉々として駆けてきた。

「おじいちゃん、これ見て。きれいでしょ、おばあちゃんがやってくれたとよ」

両手の指をいっぱいに広げて、寝そべっている時田の鼻先に突きつけてきた。

 マニキュアではないか。

 胸を衝かれたように、時田は孫の顔も見ず黙ってしまい、ただ指先の紅を凝視していた。おだやかだった表情が一瞬強ばったかもしれない。

険しい表情を隠すようにやっとのことで

「よかったね」たったそれだけ言った。

 ――順愛と順愛を囲んで騒いでいた女の子たちの顔や教室の情景がまざまざと蘇り、時田は強く奥歯を噛みしめていた。なぜだかわからないままに、奥歯のあたりから涙が湧き上がってきた。

 幼稚園の入園式までに色を落とす必要なんてない。だれがそのマニキュアを咎め立てする権利があるというのだ。

 マニキュアをしてはいけないという規則でもその幼稚園にあるというのか。あったとしてもクソ食らえ、だ。そんな幼稚園ならこちらから願い下げだ。

 時田太一は心の底から絞り出すようにして、孫娘に向かって、思う存分手にも、そして足の爪にも、もっともっとマニキュアを塗ってもらえ、と声にならない叫びをあげていた。