一身にして二生を経るが如く 第一章  

第一章

プロローグ

 死が間近にあることを自覚してから、途切れ途切れになる意識のままで、わたしはアボジと過ごした時間をたゆたっていました。アボジが逝ってから、どれほどの時間が経ったかも、わからなくなりました。長い夢を見ている時間に違いないと思えました。夢というのは生と死の境にある自在扉を行き来しながらもなお見るものでしょうか。死んでからも見るものでしょうか。

 わたしは、アボジと長旅の夜汽車の心地よい揺らぎの中でだれかの話を聞いています。

 それはたしかアボジとわたしが、上海へ向けて旅立った大阪までの車中で、アボジの支援者頭山(とうやま)(みつる)さんに聞いた逸話のような気がします。頭山さんは福岡博多の人です。

 博多・(しょう)福寺(ふくじ)の名僧だった仙厓和尚が、死の間際に枕頭にひかえる僧侶から「私たちに言っておきたいことはありませんか」と問われたときの言葉だったと思います。江戸時代の禅僧、高齢の仙厓(せんがい)和尚は一言「死にとうない」と発せられたそうです。

「何回も言うがアンタはだまされとる。日本を一歩出たら身の危険が待ち構えとると考えたほうがよか。死に急いではいかん。仙厓さんほどの人が最期に言った一言は、重いと、私は感じ入っとるんです」

 ああそうなんだと感心しながらも、ただどこかに流されていく感覚に自分を委ねて、頭山さんの話もぼんやりと通り過ぎていきます。

一 冥界

 おれが冥界の住人となってから、前世で関わりのあった懐かしい人々の魂がたまに会いに来ることがある。その中で日本人であった魂の、特に延次(えんじ)こと和田延次郎(えんじろう)と再会を果たしたときほど懐かしく嬉しい思いをしたことはない。

大海原のかなたから、すぐそばにいるようにはっきりと延次の声だけが懐かしく聞こえてきた。海原の端から端には一片の蓮の花びらの形をした虹が懸かり、いつも消えることなく同じ形をしている。

おれは延次郎とは呼ばず延次と呼び習わしていた。延次がこっちの世界にいつ来たのか、冥界には時間の観念というものがないから皆目わからない。

おれの魂が下界にあったころ、ずいぶん多くの日本人と交わり、朝鮮のことを思い、政治のことばかりが頭の中にあって、知識人とよばれる連中や政治家と数限りなく会っておったが、おれが自分に正直に心から打ち解けていた人たちは政治に関係のなかった市井の人物ばかりだったと、今になってよくわかる。渡邉(はじめ)氏、須永(はじむ)氏、お玉、それにわけても延次にはほんとうのおれをさらけ出していたと思う。

 延次は子どもの時分から口数が少なく、それでいて人の言うことは要点を聞き漏らさない信頼できる人間だった。相手の立つ位置やおかれた環境をわきまえる頭のよさを持っていた。大人になれば優秀な執事になれる才能を持っていると、おれは見込んでいた。

「アボジ、アボジじゃないですか」

 野太い声だったが、延次のほかの誰でもない呼びかけだった。

 おれが拳銃の音を聞いて意識が薄らいでいき、真っ暗闇の底に落ちて行きながら、ここはどこだ、どこにおれはいるんだと叫んでいたときに聞いた延次の同じ声だった。そのとき延次の声はしだいに遠ざかり、苦しくて絶望的な思いにかられながら、おれはどこまでも底知れず落ちていった。

どれほどの時が過ぎたのか、上に目を向けると一条の杖のような光が差し込んでいた。するとこんどはその光に吸い上げられるように上昇を始め、おれが登り詰めた世界は、それまでに目を(おお)われたことも、感じたこともない穏やかな光に充ちた空間が広がっていた。

そのときまた途切れとぎれに「アボジ、アボジ」という延次のかすかな声がおれを呼んでいたのだった。

今また、それと同じ声が聞こえてきたのだ。

「延次、おまえはどうしておれを呼んでいるんだ?」

「どうしてって、ここは前世に別れを告げた魂がいる仏様に抱かれた空間でしょう。わたしがいるのは当然ですよ」

延次は怪訝そうな抑揚のない声で答えた。

「声だけは聞こえるが、おまえの姿がまるで見えないぞ」

「私だってアボジの声だけで姿かたちなど見えてはいません。でもほんとうにアボジに私の声が届いたんですね」

「いつ、おまえがおれのそばからいなくなったのか、おれにはまるで記憶がないまま今になっていた。朝鮮でも日本でもないどこか西欧のようなところでは、おまえはおれのそばにいたはずなんだが……」

「それは清国の上海ですよ。アボジは上海の共同租界で死んだのです」

「上海? おれはアメリカには行きたいと願ってはいたが、上海なんぞに行きたいと思ったことはないぞ」

「それは行きたいからではなくて使命感から行ったのでしょう。アボジの周りの誰もが上海へは行くなと言ったのに、思い込んだら最後、アボジは頑なに我を通して上海行きを曲げなかったからですよ」

「どんな理由があって? そしてどうして周りの皆が反対したのだ?」

「その成り行きはわたしなどよりアボジが一番よくわかっていることですよ」

延次はやや反発するように言った。

「ずいぶんはっきりものを言うんだな。……ところでおれは何の記憶もない。苦しかったこと、辛かったことの記憶はきれいに削げ落ちて、楽しかったこと嬉しかったことだけが溢れている。だからこんなに心豊かに寛いだ時間を持つことができるのだ。上海とやらは、よほど苦痛に満ちたところだったのだろうよ」

「アボジはそこで目的のかけらも果たすことなく、刺客の凶弾に斃れ、下界の生涯を全うすることなく冥界へ旅立ったのですから、苦痛などという通り一遍の言葉では表せない、想像を絶する苦しみを味わされたはずです」

「下界というのはよくそんなおぞましいことが通用するんだなあ」

 アボジの声はあっけらかんとして他人事のように言い放った。

延次はアボジと呼びならわしていた(キム)玉均(オッキュン)の言葉にあきれて口を閉じてしまった。

下界にいたときとアボジは何一つ変わってはいない。冥界にあっても性格というものは変わらないのだ。言いたい放題のことを言い、思い込んだら信念を曲げずやりたい放題のことをやってきたのに、閻魔大王は地獄に落とすことなく、アボジの言い訳をよくぞ聞き分けたものだと、延次は可笑しくなった。

延次には下界にいたときからずっとアボジに聞いてみたいと考えていた心残りがあった。

「どうしてもアボジの真意を聞きたいと思い続けていたことがあるのです」

話題を変えるように言った。

「何のことだ。快かったことしか記憶にないが、おれに答えられることかな?」

「アボジはどうしてわたしのような未熟で頼り甲斐のない者をいつも自分のそばにおいていたのですか? 周りにはいくらでも賢い人や護衛に最適な屈強な人がいたにもかかわらず……。ずっと不思議に思っていました」

 アボジは得たりとばかりに間髪をおかずにしゃべりだした。

「おまえほど素朴で素直、純な奴はいない。若いということもあったろう、感情をすぐに顔に出すくせに、やること言うことに悪気というものがない。しかも寡黙というのがなによりだった。おれにとっては、どんなときでも気を遣う必要のない、安心の拠り所のような奴だったんだよ、おまえは」

「アボジから見ると、よほどボーッとしていて、何でも言われたことに頷く、間抜けな若造だったということでしょうね」

「いやそうではない。おまえの家は徳川幕府の旗本か御家人の家柄。朝鮮でいえば両班(ヤンバン)(貴族・地主の特権階級)の長男、おっとり育ったやさしさと、小さなことにもよく気が回る利発さが、おれにとっては捨てがたかった」

「そんなにおっとり育つような余裕のある家ではなく、貧乏な家でしたよ。でなけりゃ小笠原島なんかにいかなかったでしょう」

 延次の父親はなにかにつけて「徳川様、徳川様」と幕臣の家系であることを誇りにし、江戸開城時の幕府方彰義隊の一員として上野のお山で戦ったと、何年経ってもそのことを自慢にしていた。

そんな父親の自慢話を延次は信じてはいなかった。そればかりか薩長の明治新政府を悪しざまに罵り、「田舎侍どもが」と馬鹿にする父親の態度を延次は嫌っていた。世の中の変化に背を向け、生活は苦しくなる一方だったが、しっかり者の母親の機転でどうにか糊口を凌いだ。小笠原島への一家そろっての出稼ぎも母親の発案であった。

そして子ども時代に小笠原で知り合ったアボジが、延次の一生を左右するほどの関係になろうとは思いもしなかった。

 この時代には学問が必要ではないかと考えていた延次に

「そんな西洋かぶれのまねをして何になる。商売でも始めることだ。士魂商才を旨とすべしだ」

 父親は自分の無能を棚に上げて、延次の向学心などには耳も貸さなかった。

一度疎遠になってのちのアボジとの再会は、何をしたらいいのか考えあぐねていた延次にとっては渡りに船だった。鬱々として晴れなかった延次には、アボジの豊富な学識と自由な発想は新鮮だった。誰も教えてくれない世の中の仕組みと時代の変化を、アボジは懇切丁寧にわかり易い言葉で語ってくれた。延次には貴重な修練の時間だった。のちに事業を起こし、一人前の家庭を持つこともできた。

「旧来の陋習に捉われている大人どもは、日本も朝鮮も同じだった。明治維新というのは、武士という特権階級を武士自身が叩き潰したということだ。おれが朝鮮でもやろうとして失敗したことも同じことだった。おれが目指したものは朝鮮の特権階級である両班や科挙の制度を潰すことだったのだ。おれ自身が両班だからこそやらなければいけないことだったが、いまだもって朝鮮では特権階級が世の中を牛耳っているようだ。嘆かわしいことよ。あっ、話が横道に逸れてしまったな。どうしておれがおまえをそばにおいておきたかったかという質問だったな」

アボジは大きくなりすぎた声を落として続けた。

「おまえは常に冷静だった。それに比べておれは猪突猛進、進みはじめたら止まらない。また周りの連中も大風呂敷を広げる人間、人の話をじっくり聞こうとしない輩など枚挙に暇がないほどだった。おれと同類の者ばかりだった。おまえはすべてが正反対、興奮するということがない。おれにはそんな人間が必要だった。おまえを観察していると自分の欠点に気付かされたものだ。筆を手にして書道に向きあっているときと同じ静謐な心境になれたよ」

「わたしには、溢れるほどのアボジの情熱が羨ましかった。人間は長所も欠点も自分にはわからないものなんですね」

「そばにいてほしいと思ったのは、おまえの性格や人柄を気に入っていたからだけではない。いつだったか、おまえが『外国へ行きたい、南洋へでも行って仕事をしたい』と言ったことがあった。おれはそのとき、おまえとなら、アメリカでもどこでも行って、何か大きな仕事ができるのではないか、おまえとはずっと一緒にいるべきだと確信できたからだったし、おれにはやりたいことが多すぎた」

「そういえば、そんなことがありましたねえ。それが上海へ行くことになってしまった」

「なぜおれたちはアメリカへ行かなかった? アメリカへ行っていればおれたちはどうなっていたのだろうか? ああ、こんなことを話しても詮無いことだな……。それよりもおれには小笠原島に移り住んでからの記憶もほとんどないのだ」

「それだったらわたしが語ってお聞かせしましょう。耳を塞ぎたくなるところもあるでしょうが、わたしにとって、アボジは人生のその後を決定づけるものでした。下界でのアボジとの出会いから別れまでを、いくらでも話しましょう」

「是非聞きたい。やることがきっちりしているおまえのことだ、事細かに聞けることだろう。じっくり耳を傾けることにしよう」

二 遺体のない葬儀

 アボジの二十三回忌から三十年ばかり前、十歳になるかならないくらいから満十八歳までのアボジとの関わりあいと、わたしが遭遇した大事件の話をしようと思います。

 事件というのは、日本、朝鮮、清国を巻き込んだ、日清・日露の両戦役とその後の極東アジアの歴史にも深い影響を及ぼしたできごとでした。

わたしが居合わせた上海での事件で亡くなったアボジの二十三回忌法要が、芝愛宕山下の青松寺でおごそかに執り行われました。大正五年(一九一六)のことです。

列席者のほとんどが、日本の政界の中枢にいる錚々たる面々や各界の著名人ばかりで、わたしのような一庶民が同席していること自体、特異なことと言えます。

そんな中にいるはずがないとわかっていながらも、わたしは北海道にいるという一人の婦人を探していました。記憶にある面影だけを頼りにして、幾人かの婦人たちの中にいるかもしれないと、わずかに胸をときめかせて見回しましたが見知らぬ人ばかりでした。その人は杉谷玉(すぎたにたま)といいます。葬儀のあとの、アボジの野辺送りの一団から外れて持った二人だけの小一時間ばかりは、わたしの脳裏に奥深く刻まれているのです。

 法要後の酒肴の場で、最初にわたしに声をかけてきたのは犬養毅さんでした。

「和田君、いまどうしている? もうこんなに恰幅のいい中年男だものなあ。時が経つのはなんと早いことか」 

 親しげにわたしの肩に手を置いて、杯までくれました。

「何か困ったことがあったらいつでも遠慮なく俺のところへ来いよ」

 犬養さんにこんなことを気安く言っていただけるのも、アボジの置き土産なのでしょうか。

「ありがとうございます」

儀礼的に言うのが精一杯でしたが、犬養さんの口から、ほかでもない福沢諭吉先生の思い出話が出ると、わたしは瞼が熱くなってしまいました。

「金玉均が死んだときに、福沢さんが感情を迸らせて、こう言ったのがつい昨日のことのようだ。『あんな大馬鹿野郎は、朝鮮にも日本にもいない。後にも先にも金玉均だけだ。大馬鹿者の、しかも稀にみる俊秀で一本気な飛び抜けた逸材だったな。最も惜しい人物を朝鮮は自らの手で殺してしまった』とな」

 日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日本と清国の覇権争いであった。その引き金にもなった、上海で凶弾に斃れた事件の主人公金玉均の、遺体のない葬儀が、死後二ヵ月近くが過ぎて、東京の浅草本願寺別院で執り行われました。

 ――故金玉均氏葬儀の新聞記事(明治二十七年五月二十二日 時事新報)

  故金玉均氏の友人その他有志者は、一昨廿日同氏の為に盛んなる葬儀をせり。当日は同氏の在世中久しく寓居したる麹町区有楽町一丁目五番地小暮直次郎方を事務所と為し、午前九時頃同事務所より出棺せし執行が、真先に『葬送故金玉均氏』の大旗を押し立て騎馬の先駆に引続き尾崎行雄、犬養毅、大井憲太郎、井上角五郎、自由党有志その他より贈れる生花、造花数十……(中略)……嗚呼是金君玉均之霊柩との銘旗とは柩の前後を擁し、金氏の遺髪、衣服等を納めたる白木造の柩は楽隊の吹奏せる悲愴の奏楽に連れて徐々(ゆるゆる)と進み、喪主の同国人柳赫魯(リュウ カクロ)、李允杲(リ インコウ)両氏は日本風の喪服を着用し、『古筠院釈温香』と記せる位牌等を捧て棺後に徒歩し、次に導師東本願寺僧侶佐々木師を始め六名の僧侶馬車若しくは人力車にてその後に付添ひ、……(中略)……同別院に於いては導師佐々木師等四十七名の僧侶にて読経ありたる後……(中略)……式全く終わりたるは午後零時三十分なりし。それより再び同院を出棺して青山共葬墓地に赴き埋葬終わりたるは四時頃なりしと。当日の会葬者は近衛公爵、谷子爵、三浦安氏等貴族院議員、尾崎、犬養、中野、大井、井上、阿部、中村等の衆議院議員五、六十名を始め無慮一千余名もありしなるべく、その他通行の各道筋は何処も見物人()(垣根)の如くなりし。

 朝鮮の宮廷が差し向けた刺客によって、上海の租界でアボジが射殺された事件が、日本でこれほどの騒ぎになるとはわたしには想像もつきませんでした。

わたしは、アボジに従って上海に同行していました。わたしにとっては衝撃的というより、実の親を亡くしたよりも耐え難い悲しみのどん底に突き落とされるような事件でした。またアボジを死なせてしまったのはひとえに自分の不注意によるものと、自責の念に苛まれ続けた二ヵ月近い日々でした。

それにしても自分には無縁に思えるような世間の騒ぎようは、尋常ではなかったのです。わたしは自分のことだけしか頭になく、アボジの葬儀の日になった今日の今日まで、呆けたように過ごしてきました。

警視庁に何度も呼ばれ、上海での経緯(いきさつ)の同じことを繰り返しくりかえし聴かれました。事件の顛末をいくら話しても、悲しみが癒えるわけでもなく、アボジが還ってくるわけではない。時が経てば経つほど、さらに自分を責めておりました。葬儀に参列する気力も残っていませんでした。

「延次さん、あなたが参列しなくてどうするのよ」

ただ柱に凭れて虚ろに座っているわたしに、銀座の洋装店伊勢幸(いせこう)女将(おかみ)が言い、長崎の渡邉元さんや栃木県佐野の須永元さんも急き立てるように声をそろえました。

もうわたしの役目も終わりましたし、これほど大層な葬儀に、わたしみたいな若造が出る幕はない、とわたしの両親も言い、その通りだと思いました。それでも同調はしながら父親の言い草には反発も覚えました。

「朝鮮の王様に楯突いて謀反をおこした人物なんだろう。自業自得というものじゃねえか」

どこまでも頭の固い父親でした。

「余計なことを言うな」

 ――葬儀などどうでもいい、アボジ還ってきて。

わたしは悲痛な気持の持っていき処のなさに、父親に怒鳴り返しました。

届けられた生花や造花の送り主の名前も、参列が予定されている人たちも、政治家や著名人の歴々がうち揃っていました。なぜこれほどの有名人が、日本人でもないアボジに関心を持っていたのか、須永元さんにでも聞いてみるしかありませんでした。須永さんほど少年のように澄んだ眼差しで見、アボジの真情に寄添ってアボジに接した人はいないでしょう。その視点は、政治の魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)に左右されない見方だったと言えるでしょう。そのときに須永さんが教えてくれた日本や朝鮮、アボジを取巻く世界の趨勢は次のようなものでした。

 ――十九世紀中葉から始まった欧州列強の、アジア支配の覇権争いは熾烈を極め、いち早く開国から近代化への歩みを始めた日本以外のアジアの国々は、ことごとく列強の侵略に晒され、残された最後の地が朝鮮だったのです。朝鮮が英仏やロシアの席捲を許すことになれば、指呼の位置にある日本は列強の脅威に屈するほかはないと日本の識者や政治家はだれもが同じ認識を持っていて、日本を外圧から守るためには、どうしても日本の生命線である朝鮮の開国近代化が必要と考えたのです。そんな中、開化思想に目覚め、朝鮮国の改革行動を起したのが新進の青年官僚たちであり、その先頭に立ったのがアボジでした。しかし、独立党と称する彼ら開化派は清国にとって、宗主国と属邦の関係を壊す、絶対に受け入れがたい勢力だったのです。日本はこぞって開化派を応援し、朝鮮を巡る中国と日本の覇権争いとなりました。その綱引きが日清戦争まで続きました。

三 小笠原島軟禁

 東京で再会し、アボジが上海で亡くなるまでの東京の四年間を、わたしは片時も離れず、まるで家族のような共同生活を送ってきました。

アボジはわたしを延次、延次と親しみをこめて呼びかけていました。わたしの名前は和田延次郎ですが、アボジは、わたしのちゃんとした名前を時として忘れているほど近い関係でした。

 アボジとわたしの出会いは小笠原諸島の父島です。明治十九年(一八八六)の十一月、尋常小学校五年生の時分です。わたしは両親や二人の妹と五歳のころ小笠原に渡り、尋常小学校の時に、アボジが小笠原へやって来たのです。アボジが亡くなる八年も前です。

朝鮮の偉い人が来たというので、悪ガキどもが学校の行き帰りに、その住まいを好奇心いっぱいに恐る恐る覗き込んだりしているうちに、いつの間にか気軽に言葉を交わすようになっていました。

アボジは気さくでおおらかな性格の人ですから、わたしたちも家に上がりこんで遊びはじめたのです。家の広さは六畳、四畳半に小さい納戸風の部屋と台所、玄関といった造りで、家財道具など少ししかありませんから、ずいぶん広く見えました。小笠原の民家のご他聞にもれず、棕櫚(しゅろ)で屋根を葺いた質素な造りでしたが、わたしの家に比べれば立派に見えたものです。アボジは一人で住んでいたようにも思えるし、だれかほかにも一人二人いたようにも記憶しています。それがだれであったのかはわかりませんが、知らない人がいるときは、話をしているというよりもアボジはいつも碁盤に向っていました。囲碁の腕前も相当なものということは、対戦した小笠原の囲碁好きのだれもが口にしていました。

日頃は近辺の大人と碁盤を囲んでいましたが、あるとき本因坊宗家十九世の秀栄(しゅうえい)さんが小笠原にやってきて評判になりました。小笠原の人たちにとっては、まず会うことなどない有名な人物が友人として訪ねて来たというので、大人たちも改めてアボジがどれほど偉い人かと見直したようでした。

本因坊秀栄さんが来島したのは、明治二十年(一八八七)の二月です。朝鮮人の同志(ユウ)赫魯(ヒョンノ)さんも一緒でした。

どうしてそんなことまでわたしが知っているかというと、そのころのわたしはアボジの家に入り浸りというよりも、一緒に住んでいたのです。

きっかけは西瓜です。アボジは西瓜が大の好物でした。わたしがアボジを喜ばせようと、自宅の畑から西瓜を提げて届けたことから、

「延次、おまえは家から学校まで半里(約二キロ)も離れているから通学も大変だ、ここから学校へ行けばいいではないか」というのでわたしはアボジの家の居候になりました。  はじめの頃、母親には学校に行くのになぜ西瓜など持っていくのかと怒られましたが、アボジが西瓜を好きだというと、こんどは母親のほうから持っていくようにいわれ、重たいのを我慢していく度も持っていったのが居候する縁になりました。そんなわけで、五月に秀栄さんと柳赫魯さんが本土へ帰るまで四人で生活していました。

四人で過ごした三ヵ月ばかりは、お互いの呼び名がいくつもありました。アボジのことを本因坊秀栄さんは、金さん、玉均さん、岩田さんと三つの言い方をします。柳赫魯さんは、ソンベニム(先輩の敬称)と言っていたと思います。岩田というのはアボジが日本へ亡命して来る千歳丸の船中で、日本で亡命生活を送るには按配悪かろうと言って、辻船長が付けてくれた岩田周作(いわたしゅうさく)という日本名をずっと名乗っていたことによります。身辺に注意を払うための用心の意味があったのでしょう。柳(リュウ)さんのことを、秀栄さんとわたしは山田さんと呼んでいました。これも偽名です。アボジは朝鮮語読みで柳(ユウ)氏と言っていました。わたしのことはみんな延次です。

本因坊秀栄さんが、「〈アボジ〉というのは朝鮮語でお父さんのことだろう、変だよ」と異議を唱えたことがありましたが、「私がアボジと呼びなさいと子どもたちに言ったのですよ、おじさんと呼ばれるのがいやでね。朝鮮では他人でも大人の男をアボジと言っても少しもおかしくないのですよ」とアボジがとりなしていました。そういわれれば〈アボジ〉の方が親しみがわいて、遊びにくる子どもはみんながアボジ、アボジと言ってなついていました。

アボジは勝負事が大好きでした。学校帰りに子どもたちが集まってくると、アボジを囲んでトランプになります。男の子とは相撲も取れば、女の子とはおはじきもやっていました。アボジは相手が子どもでも決して手を緩めることはなく、容赦をしません。常に真剣勝負なのです。それがかえって子どもたちの心を捉えて離さない理由のような気がします。真っ正直な性格はそんなところにも出るということでしょう。それだけ子どもを慈しむ気持に深いものがあったのでしょう。そういえば貧困に喘いでいる家の子ども数人に食事を与えていたこともありました。

アボジが小笠原に来る一年ばかり前のことですが、島じゅうを騒然とさせる事件があったそうです。小笠原にはときどき外国の船が食料や水を補給する目的で寄港します。多くがアメリカの捕鯨船です。その一つが寄港したときの事件なのです。

荷積み作業の労賃をめぐって島の役所と島民の間で揉め事が発生し、島民の幾人かが騒動を煽動した(かど)で投獄されました。それらの家では家長を取られ、一気に生活が困窮に陥ったのです。子どもは学校もやめ、食べ物にも事欠く状態になりました。アボジは事件の経緯は知りません。子どもの事情を聞かされ、一も二もなくその家の子どもたちに、自分の家で食事を摂らせ始めたのです。日本政府から支給されるわずかな手当だけでしたから、経済的には自分も困っていたはずですが、そんなことはお構いなしでした。これと決めたことは一歩も引かないのがアボジです。刑期を終えた親に感謝されたことはいうまでもありません。こうしてアボジは小笠原の島民の中に馴染んでいったのでしょう。

 子ども心にも、単に朝鮮の偉い人、いっしょに遊んでくれる人というだけではなく、もっとアボジのことを知りたい、偉いというのは、どう偉いのかを聞きたいという好奇心をかきたてていきました。

大人たちの噂話に聞き耳を立て、断片的な情報を持ち寄り、つなぎ合わせて、子どもなりにアボジの人物像を浮かび上がらせました。わたし自身がのちにアボジから直接聞いた話と突合せても、相当に正確なアボジについての情報だったと思います。

 朝鮮の宮廷にあって、国王の信頼厚く、国王にはいつでも拝謁を許されていたこと、日本の明治の御一新を真似て、開国近代化を目指した独立党(開化党)の指導者だったこと、王妃の(ミン)氏一族が牛耳っている政府に対してクーデターを起したが、ずさん過ぎた計画と、清国の介入で失敗に終わり、日本に亡命したことなどを、子どもなりに理解したのです。それが有名な甲申政変とよばれる武力を伴うクーデターだったことは、わたしは東京に住むようになって知りました。

 ――クーデターを伝える、当時の日本の新聞記事は次のように簡潔に伝えています。

  明治十七年(一八八四)十二月十三日の夜、朝鮮において(政)變事があったのは確かなようで、その模様を報告しようと思う。

  今朝(十三日)か、四日頃の事なるが何者とも知れず朝鮮國の高官たる閔泳翊および其他二、三の大臣を暗殺したり。

其の後京城駐在の支那兵と日本兵との間に紛争を生じたる趣なり。右につき竹添公使は清國官吏弁に朝鮮政府に向かいて談判中の趣なり。この暴動の為に彼我共に多少の死傷ありし由なれども未だ詳ならず。朝鮮國王には恙(あざわい)あらせざる由なり。

アボジの置かれた事情がわかると、朝鮮人や清国人が、アボジに仕返しに来る、殺しに来るかもしれないという話が、子どもたちの間に広がりました。

当時、小笠原と本土(横浜)との往来は、二、五、八、十一月の四回しかありませんでした。船が二見港に入ると聞いたわたしたち悪ガキどもは、アボジを自分たちで守ると決めました。アボジも充分に注意を払って、山の谷あいに住まいを移しました。しかし何ごとも起きず、訪ねてきたのはいつもの柳赫魯さんでした。柳さんは、アボジを支援してくれる人々からの土産や手紙を持って来ました。アボジはお礼の印として、書き溜めた書を柳さんに託して持ち帰らせていました。アボジは書や詩文、画などもよくし、有名人でもありましたから、支援者に喜ばれるだけでなく、自分の生活費の糧にするために、書などは本土で頒布販売もしていたようです。あるときは、親しい人に、小笠原に産する梹榔樹(びんろうじゅ)(椰子の一種)を細工して、自ら手作りのステッキをお土産に準備したこともありました。手先も器用で、木彫りなどもみごとなものをこしらえていました。

 いつのころだったかアボジは体調の不良を訴えるようになりました。小笠原には医者が一軒あるのみで、薬石にも限りがあり治療らしい治療もできません。リウマチの再発ということでした。

囲碁の仲間の大人たちは、海水浴潮湯を勧めました。小笠原は一年中海水浴ができるようなところですから、アボジは島の人たちのいうことを素直に受け入れて続けていましたが、これといった効果はなかったようです。夜寝るときには、夜具が足にあたると重く感じて痛くてよく眠れないということでした。

「延次、竹夫人を作りたいから、山から背丈ぐらいの長さに竹を切ってこい」と言い出しました。

アボジの身長は五尺五、六寸(約一七○センチ)ばかりあります。切り出した竹を一寸幅(約三センチ)くらいに裂いて、何十本も用意しました。アボジは器用に裂いた竹の皮を斜に編み上げ、直径一尺(約三十センチ)長さ三尺(約一メートル)ほどの竹の円筒を作り上げました。竹夫人というのは抱き枕です。夜具が重たくないばかりか、風通しもよく快適だとご満悦でした。朝鮮の両班は、夏はこうして寝るんだよ、と教えてくれました。

 真夜中に目を覚まして、アボジの方を見たときのことです。竹夫人に布団を掛けてありますから、アボジも布団の中に居るものと思っていたのですが、そこにいないのです。厠にでも立っていると思い、そのままわたしはまた寝てしまったのですが、別の日にも何度かアボジがいないのに気が付きました。それでも、朝見ると竹夫人を抱いてちゃんと布団の中にいます。わたしはわけがわかりませんでした。これも自分が十六、七歳になってやっと得心がいったのですが、夜中に家を抜け出していたのです。

 小笠原父島に公娼制度が導入されたのは、明治十八年(一八八五)だったそうですが、それまでの私娼もそのままありました。アボジも小笠原滞在中は三十五、六歳の男盛りです。しかも、まるで蟄居幽閉のような生活を強いられている身になってみれば満たされない夜というのは酷というものでしょう。放胆で開けっ広げなアボジのことです。口さがない人たちの噂など気にもしなかったのではないでしょうか。

 夜になると家には、囲碁の仲間に限らず、近所の大人たちが酒や新鮮な魚の刺身やつまみをもってやって来ます。アボジが無遠慮に出向くこともあります。酒も嫌いではありません。囲碁会だけのこともあれば、酒盛りだけのこともあります。酒はバナナを発酵させたバナナ酒や、サトウキビから造った焼酎など小笠原独特で多彩です。アボジは来る者は拒まず、天性の楽天性を大いに発揮して娯楽の少ない島の人たちの中心にいつもいました。酒盛りが盛り上がればその勢いで娼家へ繰り出したかもしれませんが、子どものわたしには無縁の世界でした。

――冥界は、どこまでも初夏の快晴のように爽やかで快適だ。延次の声も濁りがない。

無聊をかこっていた小笠原島の日々を語りながら、延次がある刃傷沙汰になりそうになった出来事を話題にした。日本刀を手にした男が家に乗り込んできたときのことだ。

「抜き身の日本刀をぶら下げた中年男が『金玉均は居るか? 岩田はどこだ?』と怒鳴り込んできたことがありましたね。あのときだけは日頃少々のことではものに動じないアボジに似合わず、逃げ足の速かったことといったらなかった」

「母娘二人のことは忘れてはいなかったが、延次の話を聴いて全部思い出したぞ。おれはたしかに女好きだよ。しかしあの出来事で島の人たちがおれのことを女にだらしがないと言い立てていたのは少しちがうよ。一言も弁解がましいことは言わなかったけれど……。そのあと、島の親しかった人たちが『岩田さんの女好きには困ったものだ』とか『英雄色を好む、を地でいっちゃ何が起きても不思議じゃない』と噂していたなあ」

「でも当たらずとも遠からず、ではないのですか? 詳しいことはわかりませんが……」

「あの親父と娘は実の親子ではなかった。親父は母親の連れ子の娘に関係を迫り、母親には暴力をふるう、ならず者の男だった。母娘は男と離縁をするにはどうしたらいいのか、おれのところへたびたび相談にきていたのだ。弁護士もいない島のことだ、おれは話をじっくり聞いてやっていた」

「それだけのことで、なんでまたアボジのところへ親父が怒鳴り込んできたのです?」

「真剣に相談にのっているうちに、娘がおれに心を寄せはじめたんだよ。話に耳を傾けてやるというのは、女にモテる秘訣。そのうちにおれと娘は男と女の関係に。魚心あれば水心というやつだ。……それにしてもあの娘は、朝鮮の女みたいなもち肌で、すこぶる具合がよかったなあ」

「そのあとがいけない。アボジは母親にもチョッカイ出したから男が怒った……ということでしょう?」

「あれは余計なことだったな」 

 しかし一件落着となったころには、酒飲み仲間に薀蓄(うんちく)をたれて、こんなことわざがあると言って「一盗二婢三妓」と紙に書いて大笑いしていました。一盗とは人妻との不倫行為、二婢は女中を手篭めにすることだそうで、男の欲情をそそるベストスリーだというのです。

 こんな話をしながら、わたしという子どもがいるのにアボジはいっこうお構いなしです。善し悪しは別にして、アボジはわたしを常に一人前の人間として扱っていたと、いまでも確信をもって言えます。誇らしい気持になったものです。

 アボジは何にしても一流好みでした。しかしそれは虚栄や貴族趣味によるものではなく、美的感覚に秀でていたことに由来するものだったようです。普段身に着けている衣服も決して上等のものではありませんが、着こなし一つで品よくみえましたし、どこか垢抜けしていて、育ちの良さがうかがえました。煙草も好きでした。口にするのは英国製のパイレートという贅沢なものでしたが、囲碁の仲間にも惜しみなく奨めていました。支援者や友人が本土から送ってくれたものです。マッチも当時は貴重品の一つですが、何の頓着もせず、ふんだんに使っていました。

 アボジは、仕事はしませんが、ただ遊び呆けているわけではありません。ときには庭先に出て、バナナなどの南洋の果樹の手入れをしたり、書物に向かっていたようです。側には仏教関係の書がいくつもありました。朝鮮が儒教の国であるにもかかわらず、アボジは仏教に造詣が深く、仏教徒でもありました。ずっと後のことですが、わたしに向かって、日本も儒教、ことに朱子学にがんじがらめだった旧藩の人間ほど頑迷固陋だと言ったことがあります。朝鮮や日本の近代化にとって儒教がいかに弊害が多いかを、言いたかったようです。

 あるとき、今日は学校で何を習ってきたかと訊ねて、わたしが英語もやりましたと答えると、目を輝かせて根掘り葉掘り訊くのです。

 当時、小笠原の尋常小学校では簡単な英語を教えていました。ミーはマウンテンにクライムするのが好きとか、メイルは男、フィメイルは女といった類いのことでしたが、それは小笠原では必要なことだったのです。

小笠原には、わたしたち日本人が移住するずっと以前から、アメリカの、おもにハワイから移住して漁業や農業を営んでいる人たちがいました。明治になって小笠原島は日本の領土だということになり、本土から日本人が移り住むようになったのです。

ハワイから来た人たちはカナカ人と呼ばれていましたが、日本領となってからは、彼らも日本に帰化するように日本政府が通達を出しました。しかし言葉は簡単に日本語だけというわけにはいきませんから、小学校でも英語、日本語がごちゃ混ぜになったような授業だったのです。 

亜熱帯ののんびりした風土のせいでしょうか、カナカ人も日本人も、わだかまりもなく仲良く生活していましたね。そのうちにハワイから来た人たちは、姓を日本風に変えていきました。彼らのリーダー格だったセヴォリー一家は「瀬堀」と名乗るようになりました。

 アボジは、おおらかで無防備、遠慮なしの人ですから、そのうちにセヴォリーさんの家を訪ねて、英語の勉強も始めました。どんな人とも垣根を作らず、すぐに親しくなるのもアボジの生来の性格でしょうが、人恋しさにもよるのではと、わたしなりに思わないでもありませんでした。ただ英語に興味があるというのではなく、アボジの思いの中にはいつかはアメリカへ行きたいという考えがあったのです。

 東京で同居するようになってからのことですが、わたしが大した考えもなく、南洋方面へ行って仕事をしてみたいと話した折に、アボジは即座に、

「南洋なんてよせ、おれと一緒にアメリカへ行こうではないか」と真剣に言ったことがありました。その思いは実現することなく亡くなってしまいましたが。

 日本へ亡命の後、甲申政変の同志であった朴泳(パクヨン)(ヒョ)氏ら数人が、アメリカへ渡ったこともアボジの中に強く刻まれていました。そのときアボジはアメリカ行きの資金を調達できず、十年もの長きにわたって、日本滞在を余儀なくされたのです。

英語を学びたいと言い出した背景には、セヴォリーさんとの出会いだけでなく、同志の渡米や、小笠原に配流となる前に、横浜のメソジスト派のアメリカ人伝道師との接触もあったのです。伝道師は、アボジに朝鮮での布教活動をもちかけたそうですが、アボジにとっては、閔氏一族政権下の朝鮮に帰ることがいかに危険で、困難かもわかっていますから、それも実現しなかったといいます。

 セヴォリーさんと親しく交わるようになってからのアボジは、瞬く間に英語の腕を上げました。科挙の試験で首席合格という頭脳の持ち主ですから当然かもしれません。家に遊びに来る子どもたちには、英語の勉強の手助けさえもしてくれるほどでした。教え方も「犬が一匹、ワン ドッグ」などと面白おかしく、子どもの心を掴んで上手でした。

本因坊秀栄さんに、「アンタ政治家なぞにならず、教育者になった方がよかったよ」と真顔で言われていたこともありました。

アボジが勝海舟さんを訪ねた際の話も印象的です。勝さんが面と向かって

「アンタは正義の士だが、正直すぎていけねえ、革命の志士には向いてねえな、吉田松陰のような、人を育てるのに向いている」

勝さんらしいあけすけな江戸弁で言われ、アボジはぷりぷり怒って席を立ったというのです。その話を聞いたとき、わたしも、海舟さんはアボジのことをよく見ているな、とちょっと思ったものです。

その後の李朝の末路と、明治四十三年(一九一〇)日本による韓国併合を思うにつけ、アボジが教育者として生きていたら……、有為の人材を育てていたならば……、朝鮮もまったく違った結果になったかもしれないと想像を逞しくせざるを得ません。

 セヴォリーさんには、単に英語を習うだけではなく、アメリカについての知識を貪欲に学んでいたにちがいありません。

祖国を一刻も早く近代化していくためには、どうしてもアメリカを身をもって体験し、何かを得なければならないとの一念から、アボジは、日本政府あてに渡米させて欲しいと上申していました。大隈重信外務大臣はいうに及ばず、山県有朋、後藤象二郎など枢要な地位にいる人物には、日本政府の冷たい対応を非難する言葉を交えて、渡米に力を貸してくれるように、懇請の手紙を数多く送っていたようでした。

 渡航費用の工面についても、初めて来日した明治十五年(一八八二)以来親しく面倒をみてもらっている福沢諭吉先生や、各界の著名な人たちに協力依頼の文章を認め、送っていたのです。

四 無告

明治二十年(一八八七)五月、本因坊秀栄さんと柳赫魯さんが、翌日の便で内地へ戻るという前の晩は、碁を打つこともせず、三人で話し込んでいました。聞こえてくる話から、幾度となく「アメリカ」という言葉が俎上にのぼっていたのを覚えています。福沢先生や須永さんの名前がたびたび出てきていました。アボジはアメリカへ行くことの意義や溢れる思い、具体的なアメリカでの計画などを語ったに違いありません。三人は夜を徹して話をしていたのではないでしょうか。

 秀栄さんたちが内地へ立った日の夕刻のことです。

アボジはふらりと出て行ったまま、夕食の時間になっても帰って来ません。文机の上には、いつもの書とは違う、乱暴に書きなぐったものが残されていました。いつも難しい漢字ばかりの書や詩文は、わたしには何が書いてあるのかわからないばかりか、興味もありませんでしたが、そのときだけは残された半紙に目が止まりました。「無告」「疑」「涙」「死」とありました。

わたしは咄嗟に、アボジが自殺しようとしているのではないかと、岩場のある海岸へ駆け出しました。案の定見当をつけた崖に、アボジは海に向かって座っていました。

 わたしは、アボジ! アボジ! と声を張り上げながら駆け寄りました。アボジは振り向きも身動きもしません。わたしは大きな背中に抱きつきました。それでもアボジは、夕陽が沈んだあとの静かな海にまっすぐ目をむけたまま、動こうとしません。

「アボジ、ご飯だよ、家へ帰ろう」と言うと

「延次、暗くなっていく海は寂しいな」

日頃にない沈んだ声で続けました。

「アボジは子どもの頃、朝鮮半島の東海岸にある江陵(コウリョウ)という海のそばで育ったんだよ。朝焼けの海を眺めているのが好きだった。太陽が昇りはじめると、海は血が流れ出したように朱に染まり、いつの間にか金色に変わり一日がはじまる。そんな海が好きだったよ。でも夕暮れの海は嫌いだな」

誰に言うともなく低く絞り出すような声で言いました。

アボジは泣いていたのです。秀栄さんたちがいなくなったことへの耐えられない孤独と寂しさ、一心に国を思う気持と絶望、残してきた朝鮮の家族のことなど、こもごも混じり合って、悲痛の極みにあったのではないでしょうか。

 わたしは洟をすすって泣きながら、「アボジ、もう家に帰ろう、帰ろう」と繰り返していました。アボジ、死ぬなんて考えないで、という言葉が出そうになりました。怒りや悲しさ、悔しさ、寂しさがない交ぜになったアボジの深い思いが乗り移ったのか、堰を切ったように涙があふれました。母親の悲嘆に暮れた顔を見せられた子どもが、耐えられなくなって泣き出すのと同じだったと思います。大人が心底から絞り出すように無念をさらけ出す姿を、わたしは初めて見たのです。

「延次、おぬしは武士の子で御座ろう、泣くでない」

ふざけた言い方に紛わせながら、やっと立ち上がり、わたしの両肩を包み込むようにして歩き出しました。泣くなと励ましているのは、アボジが自分に言聞かせている言葉でもありました。真正直で、話し方や表情に心の中がそのままに出てしまう人ですから、すぐにわかってしまいます。

サトウキビ畑の、甘い風のざわめきを耳に家に戻りながら、「無告」というのはどんな意味? わたしはアボジに訊きました。

「延次、おまえは机の上を見たのか?」

少し咎めるように笑いながら、わたしの質問にしばらく言いよどんでいましたが、なんでも答えてくれるいつものアボジに戻って、

「心の中をさらけ出し、訴える相手がいないという意味さ」

さらりと教えてくれました。

アボジが秀栄さんをどれほど信頼しているか、その日のアボジの身を斬られるような痛切な思いが伝わってきました。この日ほどアボジのことを芯から不憫に思ったことはありませんでした。

「おまえは、アボジがただ寂しがっていると思っているだろう、そうかもしれない。しかしおれにはやらなければいけないことが山ほどある。おれには寂しがっている余裕はないのだ。おまえや子どもたちがそばにいるだけで心が癒されている。それで充分だ」

 そのときのわたしは、自分はアボジの同志なんだと、大人びた感情に浸されていました。

「おまえの話を聞いているうちに、小笠原島にいた間おれがどんな思いで過ごしていたのか蘇ってきた」

「わたしの目には、東京に移り住んでからのアボジの多忙を思うと、事件らしい事件もなく、穏やかな日々だったように思いますが……。でもアボジの気持、心の中まではわかりません」

「外面や毎日の生活は確かに平穏な毎日だった。しかし……生涯であれほど苦痛に満ちた時間はない二年間だった」

 アボジの声色は、それまでの弾んだ話しぶりから一転して、震えを帯びているように聞こえてきました。もしも表情が見えるのならば、顔の筋肉も微かに痙攣していたのかもしれません。

「小笠原という孤島の日々は、監獄の独房に入ったことはないが、それに近い精神状態を強いられていたのかもしれない。人に疑問を投げかけることも議論を挑むこともできない。心ははち切れそうで、気が狂ってしまってもおかしくない気違いになる寸前で北海道へ移された」

「そんな風には見えない楽しいアボジでしたが……」

「真夜中や独りになったときなど、周りにあるものをムチャクチャにしてしまいたい衝動に駆られたものだ。向かう対象もないという絶望感は人間の精神を錯乱させる。無告ということがどれほど過酷な状態なのか。気が狂わないほうがおかしなくらいだ。よくぞ耐えられたと自分を褒めてやれるよ」

「島の知り合いやわたしたち子どもがいても、そんな精神状態だったのですか?」

「あらゆる思考が自分の内側へばかり向って渦を巻き、過去にも未来へも向わない。時間が凍結したままなのだ。だれかを恨むとか、歯向かうというのは、まだ甘えがあって余裕の範疇ということがあとになればよくわかる。監獄の独房よりましなことはただ一つ、おまえたち子どもの無邪気な声に囲まれていることだけだったなあ」

「東京での寸暇を惜しむような、あの精力的な活動はその反動だったのでしょうね」

  明治二十一年(一八八八)の七月、アボジは北海道の札幌に移り住むことになりました。病気が思わしくないので、小笠原を出たいという申し出に、日本政府は、東京や横浜ではなく北海道へ送ることにしたのです。名目上は、北海道の気候は朝鮮に近いからそれがよかろうということでしたが、外国に行かれても困るし、厄介事を起しかねないアボジを、できるだけ東京から遠ざけておこうという本音がみえみえの処置だったのです。

アボジは、政府の心ない処置に、眼や耳から血を噴き出さんばかりにいきどおっていたにちがいありません。それまでも何度か、こみ上げてくる怒りに打ち震え、届いたばかりの手紙を引きちぎり、両肩を大きく上下させ、まんじりともせず机に向かっている光景を目にしたことがあります。ほんとうに近寄りがたいアボジでした。

にっちもさっちもいかない不遇から、わたしの目も憚らず真夜中にうぉーという気も狂わんばかりの恐ろしい声を発し、床に戻るとうつ伏せになり、両手の拳を畳に打ち付けている様子を、息を呑んで何度も見ました。昼間の、ときにはひょうきんに子どもたちに接する慈愛に充ちたアボジと似ても似つかない姿でした。

小笠原を出立する朝、アボジは西瓜を食べたいと言い出しました。

「小笠原の西瓜はこれが最後、こんなうまい西瓜はどこにもないぞ、延次ありがとう」

大声でわたしに礼を言うのです。それは涙を見せないための、アボジの精いっぱいの演技だったのです。そして二年間の小笠原に手を振って船上の人になりました。

もう一生アボジに会うことはないだろうという悲しみがこみ上げてきたのは、船が水平線に消えてからでした。アボジはいろいろな知識をもたらしてくれただけでなく、悲しみや怒り、喜びなど人間の感情の機微が、主義主張や思想とは関係なくどれほど人を動かしてみたり、敵対したりするものかを、身をもって教えてくれたのです。

その後のわたしの人生にあたえた影響は少なくありません。思い返しても、小笠原島は亡命生活十年の中で、アボジが本然のままに振舞った二年間ではないかと、しみじみ思います。それから二年後、約束されていた運命であるかのように、わたしはアボジに再会することになるのです。

五 再会

 アボジが北海道に移り住んでから半年ほど経ったころ、わたしの家族も東京に戻りました。なにもない小笠原と違い、東京は都会ですから、好奇心のおもむくままに、わたしも遊び回り、近所の商家の使い走りのような定まらない仕事を片手間にやっていました。

思いもかけずアボジを目にしたのは家に近い上野をぶらぶらしているときでした。明治二十三年(一八九〇)五月ごろのことです。

 上野公園で内国博覧会がはじまったばかりで、そのときを期して、試験的な路面電車が走り始めました。両大師前(現上野駅公園口)から奏楽堂(現東京芸大)までの四丁(約四百メートル)でしたが、たいへんな人気で人の列が途絶えることがありませんでした。好奇心旺盛なアボジのことですから、電車を体験しに来たのかもしれません。紋付羽織の和服を端正に着こなし、散髪のすっきりした顔立ちのアボジが乗った人力車と行き交いました。声を掛けようとしたときは、すでに足早に過ぎ去っていました。博覧会に足を運ぶ途中だったのではないでしょうか。単なる物見遊山ではなかったでしょう。朝鮮との近代化の格差を測り、祖国のために何をしなければいけないかを考えるための観覧だったに違いありません。電車どころか汽車さえ開通していない祖国に思いを寄せ、負けず嫌いのアボジは、焦慮の念に駆られていたかもしれません。

東京に戻ったアボジは、朝鮮を背負って起つ気概がさらに膨らみ、溌剌として動き回っていたのでしょう。

 アボジを見かけた四、五日後に、自分を訪ねるようにというハガキが届きました。もちろん懐かしさに喜び勇んで出かけました。

「博覧会に出展している小笠原島の人たちに、おまえの家族が東京にいることを聞いたよ、住所がわかってハガキを出したのだ」

大袈裟すぎるほどに表情を崩して、再会を大喜びしてくれました。

「顔色もよさそうですね」

大人びた生意気な口の利き方をすると、

「決して思わしくはないが、自由に東京に住めるようになったことがなによりだ」

わたしのことを一人前にあつかった、紳士的な口ぶりで応えました。

 北海道でどんな暮らしだったのか、わたしには皆目わかりませんが、アボジにいわれた築地の家を訪ねると、小柄で丸顔の若い女の人がいました。

訝しそうにしているわたしに、女の人のことなどまるで頓着ないように、ここで一緒に住むとアボジが一方的に決めてしまいました。わたしはまた、アボジのそばで生活することになりました。

女の人は杉谷玉といいます。函館で芸妓をしていた人だそうですが、肝っ玉の据わった、いかにもアボジが気に入りそうな男に尽くす女性でした。

「こいつが勝手に北海道からついてきた」

冗談に紛らわせて笑っていました。玉さんがついて来たというのも、あながち冗談とはいえないような気がしました。

勝手についてきた、という突き放した言い方に、玉さんはなんの反論もせずただ口元をやわらかくわずかに歪めているだけでした。

 北海道での仕事や生活をなげうってまでアボジを追ってくるというのは、アボジによほど惚れていなければあり得ない、ましてやアボジは異国の、しかも捉われの身のような人物なのです。

うまく言い表せませんが、ともに生活を続けるうちに、そんな玉さんが、わたしには常に気になる存在になっていきました。アボジの言いつけや命令には、ときには反発を覚えることもありながら、玉さんの頼みごとは少々の無理でも快く引受けたものでした。

 玉さんはどこまでもアボジに尽くそうと懸命でした。北海道のウニやイクラなどの生ま物をアボジに食べさせようと、遠方から取り寄せる苦労も玉さんは厭いません。そんな貴重な品々をアボジは無造作に持ち出しては他人に呉れてしまうのです。それでも玉さんは苦言ひとつもらさない。

わたしにはアボジの考えることが理解できませんでしたし、玉さんの気持を思うと、アボジの所業に怒りさえ覚えたものです。

 わたしとは違い、玉さんはアボジのどこにも捌け口のない渦巻くような激しい感情の荒波を、やわらかく受けとめていたのでしょう。何も言わないことが玉さんのアボジに向ける愛情の発露だったのでしょう。

「好きなようにしたらいいのよ」と言う玉さんのやさしさに、わたしはアボジに対して微かな嫉妬を覚えるようになっていきました。

アボジはがっしりした身体つきに似合わず、小笠原在島時から、持病のリウマチに加えて胃や腸も悪かったようです。北海道へ行ってからも二度ほど治療のために上京しています。その折は玉さんもさすがに付添ってはいませんが、渡米費の調達に尽力していた須永元さんが、上野駅で出迎えたり、帰路には途中まで送って行ったりと、玉さんも須永さんも献身的にアボジを支えていたのです。

須永さんは、アボジの小笠原在島時までは面識がない人でした。栃木県佐野で精米業を営む資産家の子息ですが、朝鮮の改革に心を砕くアボジに共鳴し、手紙の遣り取りだけでなく、経済的苦境にあるアボジを支え続けた人です。アボジは上京の折に初めて須永元さんと会ったといいます。わたしがアボジと同居するようになってからは、須永さんは二日とあけず訪ねて来ましたし、その後もアボジは、一週間も十日も須永さんの実家がある佐野に滞在したりしていました。

 須永さんはよほどアボジと意気投合し、朝鮮に対する思い入れが強かったのでしょう。下心がない分、純粋にアボジの考えや理想に共鳴していたのだと思います。漢学などにも造詣の深い人でしたから、そんなことから話も気も合ったのかもしれません。

 長崎の渡邉元さんも熱烈な後援者です。渡邉元さんにとっては、アボジが、日本視察の修信使の一行として初めて日本へ来たときからの莫逆の友なのです。須永さんはまた違った形での、なくてはならない支援者です。

渡邉さんは、長崎の炭鉱経営者ですが、わたしから見れば、銀座の洋装店伊勢幸の女将、青木たけさんの旦那です。女将は渡邉さんの東京妻と言ったほうがわかりやすい。この二人が、アボジにとっては得がたい人たちなのです。

渡邉さんは、伊勢幸の女将に命じて、アボジへのすべての密書や手紙を伊勢幸の女将が受け取るように取り計らっていました。アボジを付け狙う刺客から遠ざけ、できるだけ所在や行動を覚られないようにしなければなりません。すべての手紙や連絡をアボジの身辺から遮断することは必須でした。

 朝鮮宮廷の、特に閔氏一族にとってのアボジは、甲申政変で殺された同族の恨みをはらさなければ納まらない不倶戴天の敵、憎悪の極みにあるばかりでなく、いつまた謀反を企てるかもわからない危険人物なのです。そんな中で、女将の機転の利いた采配は、刺客に付け入る隙を与えない見事なものでした。

そればかりではありません。小遣いの融通さえもしていました。伊勢幸へ小遣いの無心に出向くのは、いつもわたしの役目でした。女将はそのたびに愚痴をこぼします。

「つい先だってもご用意したばかりですよ、お弄花遊び(賭け花札)が過ぎやしませんかと言っておきなさい」

厳しい口調でぶつぶつ言いながら金を差し出しました。しかし女将は決してケチではありません。腹の底では渡邉さん以上にアボジを支援している気配りの人でした。勘の鋭い女性でもありました。

 あるとき、わたしにも小遣いをくれながら、思いもしなかったことを言いました。

「縫い子の一人が、延次さんに気があるようですよ。あなた気付かなかった?」

「…………」

「あなたの寡黙で年齢に似合わず大人びたところが気にいっているのよ。女の人に興味ないの?」

 唐突に言われ、答えに窮してしまいました。わたしは、そのころ玉さん以外のだれにも関心を持つ女性はいませんでした。玉さんへの思いを語る知り合いがどこにもいない息苦しさに胸が詰まるようでしたから。

伊勢幸は十人近い縫い子をかかえ、鹿鳴館の舞踏会に出る顕官婦人たちのドレスの縫製を一手に引受けていて、たいそうな繁盛ぶりだったのを、アボジは知っていました。

アボジに女将の小言の伝言を告げると、

「なに、こんどは倍にして返すから、おまえは心配しなくてもいい」

わたしが小言を喰う始末です。米がなくなったといってはまた伊勢幸頼りです。朝鮮人はみんなこうなのか、両班というのはそんなものかと一人納得したものです。アボジほど生活感のない人を知りません。アボジは経済観念に乏しいというより、ないに等しいと言わざるを得ません。

湯水のようにお金を使うアボジを見兼ねた誰かが、

「岩田さん、遊びが過ぎませんか、少し慎んだらどうです?」

苦言を呈すると、アボジは即座に言い返しました。

「君は大石内蔵助の京都祇園遊びの故事を知らないのかね? 遊蕩の日々を装って敵(刺客)を欺く生活ということもあるのだ。忠臣蔵を読んでみたまえ」

とケムに巻いていました。これは、玄洋社の頭山満さんからの受け売りなのです。

玄洋社というのは、自由民権運動の流れを汲む、福岡に本部を置く政治結社であり、頭山さんは実質的な頭領のような人で、アボジもずいぶん世話になっていました。

六 計略

 アボジは東京でも決して無為な日々を送っていたわけではありません。朝鮮改革への強い思いから捲土重来を期して、日本政府や、福沢先生など指導的立場にある人々の間を精力的に動き回り、来客との密談に多くの時間を割いていました。

 アボジの身辺がにわかに慌しさを増したのは、甲申政変の同志朴泳孝氏との不和がゴシップ風に新聞で取り沙汰されたころで、日本政府の監視下から自由になった明治二十五年(一八九二)から二十六年(一八九三)にかけてだったと思います。

アボジの帰国説なるものが新聞紙上を賑わせ、閔氏一族が神経を尖らせているなどと興味本位に書かれていたりしました。アボジは一笑に付していましたが、無防備な人ですから、噂の発信源は案外本人だったかもしれません。

 アボジのもとには、日本人の友人知人はもちろんですが、どこでアボジの居所を知るのか、朝鮮からの留学生や、数ヵ月滞在する朝鮮人まで、ひっきりなしに訪ねて来ます。その中には、朝鮮政府の密命を受けた刺客も含まれていたはずです。

賢いアボジのことですから、それくらいのことはとうにわかった上で、分け隔てなく会い、談論風発の日々でした。

そんな中で、アボジが食指を動かすような話を持ち込んできたのが、国王の勅命をうけた刺客の頭領、李逸植(イイルシク)だったのです。

 李逸植は、麹町区にある清国公使館に頻繁に出入りし、綿密な連携を取り合い、アボジを上海におびき出す画策をします。暗殺実行者の洪鍾宇(ホンジョンウ)も、その一味に取り込まれたのです。ほかにも二、三人の刺客がいました。彼らは、アボジが経済的に逼迫していることも知っていました。

 洪鍾宇は、フランス留学時に学んだ開明思想を披瀝し、アボジの開化思想への同調者を装い、近づいてきました。また訪ねてくるたびに、小出しの援助資金を渡し、アボジの信頼を得ようとしていました。

 アボジは、彼なども自分を付け狙う人間の一人として推察はしていたようですが、仮に敵の一味だとしても、舌先三寸で自分の味方にしてしまう自信があるのだと豪語していました。亡命生活十年、数多くの日本人支援者、有志の者がありながら、アボジの心の中には、たとえ自分に向けられた刺客であっても、同じ朝鮮人として、最後には自分の高いこころざしを理解してくれるはずだ、同国人ではないか、祖国を愛する自分の真心は必ず通じるはず、という思い込みと一縷の望みがあったのではないでしょうか。

 知り合いの朝鮮人が訪ねてくると、しばしば激越な議論になることがありました。相手が二人ほどいてもアボジが自説を説く時間は、二倍にも三倍にもなりました。朝鮮語での議論ですから、わたしには内容などなにもわかりません。激論のあとは、和気藹々の食事になり、アボジは満足の表情をしていたものです。

「おれの言うことを充分に理解したようだ。やはり同じ民族の人間は、話せば通じる。日本人とは違う、同じ民族だけにお互いに理解し合える共通の思いがある」

 わたしには、なにか日本人に当てつけがましい言い方に聞こえました。心のどこかで日本人に信を置いていない様子が垣間見えるようでした。

日本人の血が騒ぐのでしょうか、そんなときのわたしは、やはり不愉快ですし、わたしなんかより、朝鮮人の書生をそばに置いておけばいいでしょうと反発を覚えました。なにも日本にいる理由もないではないかと、口にしてはいけないことを言いたくもなったものです。

 一方では日本人の支援者も玉石混交、真に自分のことをわかってくれているのは、福沢先生や秀栄さん、須永さんなどごく少数の人だけだと、孤独が身に沁みたようにアボジがぽつりと洩らすこともありました。置かれた現状に居たたまれなくなって、揺れ動く様子が手に取るようにわかりました。

 自由の身になってからのアボジは、頭山さんから聞いた大石内蔵助の故事に、得たりとばかりに遊蕩三昧のような日々でした。行き先も告げず出かけたときなど、わたしは気がかりでなりません。当時は有楽町一丁目の、木暮旅館の借家住まいでしたが、碁を打っているときだけが安心していられたものです。体調も決して思わしいものではなく、しばしば養生と称して芝浦の海水浴場へも出かけ、何日も帰って来ません。当時の芝浦海岸は、料亭を兼ねた旅館があり、風光明媚な避暑地のようなところでした。夜になれば小舟を出して観月などと洒落込み、贅沢を満喫する保養地だったのです。しかしせっかくの芝浦海岸なのに、在宅時よりも来客が多く、養生や保養にならず、苛立ちさえも見て取れました。わたしに何種類もの新聞を海水浴場へもってくるように急に言ってみたり、体調が悪く、すぐに主治医の先生に来てくれるようにお願いしたかと思うと、あわてて駆けつけた先生を何時間も待たせて、怒らせてしまったりしたこともありました。

このころのアボジは、何かひどく焦っているようにも見受けられました。当時の心の揺らぎがよく表れていたと思います。明治二十六年(一八九三)の秋から暮あたりのことです。新聞紙上では、朝鮮全羅道で起きた、農民の不穏な動きなど、不安定な朝鮮の世相が取り上げられていました。その年に起こった東学党の乱の前兆でした。

 ――十一月、麹町区永田町の清国公使館

 公使の執務室には、公務を離れた前公使の()経方(ケイホウ)を囲んで現駐日公使の(オウ)(ホウ)()と参賛官(書記官)黄遵(コウジュン)(ケン)の三人が頭を寄せ合うようにしてひそひそと話し込んでいた。李経方は、北洋大臣李鴻章の甥であり養子でもある。

「閔氏一党の差し金で金玉均を付け狙っている李逸植が、わたしに連絡してきた。中堂(李鴻章)が金玉均に会いたがっているから中国へ行く気はないかという、ニセの手紙を一筆したためてくれないか、というのだ」

 李経方は、自分を大きく見せるようなもったいぶった言い方をした。中堂とは宰相を指す上品な言い方だ。

「そりゃ貴方の手紙なら、金玉均も心が動くでしょうよ。李逸植一味は何を企んでいるのでしょうか?」

 薄々はわかっていながら汪鳳藻が訊いた。

「清国へおびき出そうという魂胆だ。日本で事を起こすのはまずいが、日本以外でならなんとでもなる、面倒が起きないということ。一気に抹殺しようと考えているようだ」

「いかにわが国(清国)の国内とはいえ、殺してしまうのはやり過ぎというものでしょう。日本との悶着の元ではないでしょうか?」

 詩人でありながら外交官でもあった黄遵憲は、滞日日数も長く日本の国内事情にも通じている。日本の政府や民間の支援者の、アボジへの対処の仕方も知悉している。

「わたしも同じ考えだ。しかし金の身柄を拘束しわが方に留め置くのは得策で、わが国が失うものはない。刺客連中とはいえ、そう易々と人を殺せるものではない」

「日本はどう出るでしょうか? また中堂はどう思われているのでしょうか?」

 事が起きた場合、日本と直接向き合うことになる汪公使は、後々のことを考えておかねばならない。

「日本政府にとっては厄介払いができると密かにほくそ笑むことだろう。民権論者や支援者は少々騒ぐだろうが、それは日本国内の内政問題だ。また朝鮮の宗主国たるわが国は、金玉均を如何様にでも利用できると、中堂は考えるにちがいない。清国が朝鮮の宗主国であることを世界に示すこと、朝鮮にそのことを再認識させることの意味は大きい」

 李経方は自信ありげに答えた。

「しかし付け狙っている連中は、国のためなんて思ってはいませんよ。自分の栄達や利益のことしか考えていないでしょうから、何をし出かすかわかったものではないと思いますがねえ……」

黄遵憲は同意を求めるように公使に顔を向けた。

 明治二十七年(一八九四)の年が明けると、

「延次、上海に行くぞ、おまえも連れて行く。そのつもりでいてくれよ」

敢然意を決したように言いました。このことはだれにも言うな、両親にも話してはいけないと、アボジにしてはずいぶん慎重に釘を刺したものです。そのときは、なぜわたしまでが上海へ? という疑問が湧いたことを覚えています。

 刺客の頭領李逸植が、アボジを上海へおびき出すために用意した奸計は周到なものでした。

腐敗した朝鮮政治を改革するためには、朝鮮の実質的な覇権を握っている清国北洋大臣の李鴻章を説き伏せ、意を通じなければ何もできないこと。李鴻章の養子であり、前駐日公使の李経方が、李鴻章との面会を取り付けたこと。その段取りができた旨の密書があることから、今をおいてその機会はないと説いたのです。さらに李逸植は、上海行の費用、中国滞在中の費用についても、自分が米穀貿易で貯えた潤沢な資金が上海の銀行にあり、日本へ戻って来るまでの一切の心配は無用であると、上海行きをそそのかしたのです。

それが一味の罠であることは、アボジは薄々わかっていました。しかしもう残された時間がないこと、いつまでも日本を恃みにして日本滞在を続けても閉塞状況は何ら変わらないとの思いが強かったのです。

「日本人ははっきりした物言いをしない。結論を出すまでに時間がかかり過ぎるのだ」

 相談を持ちかける政治家の優柔不断な対応に、苛立ちを隠せないアボジでした。

「おまえも同じようなところがある。延次は日本人の典型かもしれんな」

それがいつもの話の結末でした。アボジは日本人に見切りをつけていたのだと思います。

 アボジは松飾りもとれない正月明けから多忙をきわめました。外務次官の林董(はやしただす)氏を手始めに、日本政府の枢要な人物や支援の有志者を訪れ、上海行の希望を伝え、意見を聴き回りました。

 三田・魚藍坂(ぎょらんざか)の後藤象二郎伯邸から早稲田の大隈重信外務大臣邸へ行ったかと思うと、向島の榎本武揚邸を訪れ、犬養毅氏をも訪ねるなど、文字通り東奔西走でした。

 意見を述べただれもが、危ない、罠だ、時期を見極めた方がいいと口をそろえて上海行に異を唱え反対したのです。

 アボジのあわただしい動きは、日本政府の中枢には筒抜けだったようでした。

――一月下旬の新橋の料亭

 内閣総理大臣伊藤博文と、内務大臣井上馨は芸者を遠ざけて密かに二人だけの時間を持っていた。

 この二人こそ、アボジが目指した朝鮮改革の手本であった明治維新の生きた象徴である。最下級の武士が、武士という自らの身分を否定して成し遂げた一大改革である。

 アボジの上海行が密談の中心であった。公式の場ではお互いを「総理」「井上卿」などと呼び合うが、二人のときは「俊輔」「聞多」と幕末に駆けずり回った当時に戻って遠慮なく呼びかけていた。

「金玉均がどうやら上海行を画策して動き回っているらしいな」

 アボジの身辺に陰に陽に張り付いている警察から、内務大臣の井上には事細かな情報までもたらされていた。

「わしのところには、清国公使館の極秘情報が届いておる」

 伊藤の情報収集力には定評があった。

「して、ずばり聞くが、俊輔はどう思っておる?」

「いまのわが国にとって、金玉均の利用価値は無きに等しいばかりか、お荷物でしかない」

「しかし清国の手に落ちれば、やっかいなことにならないのか?」

「清国の狙いが何かだが、わしの見立てでは、清国は玉を手中にすることによって如何様にでもできる。朝鮮に恩を売ってわが方との離間を朝鮮に持ちかけることではないかと思うが、聞多はどうだ?」

「……上海を舞台にしてロシアと通じようと、金玉均が目論んでいるということはないのか?」

「それはなかろう。ロシアを朝鮮に引き入れることはわが国を引き入れることと同じ。清国の反感を買うだけというくらいは、やつにも充分わかっておるはずだ」

「ロシアの不凍港への執念は凄まじいばかり。わが方は清国を利用してロシアの南下を食い止めておくことも大事だ。清国の思惑に乗って、やつらが金玉均をどう料理しようと、わが方は清国に難癖をつければ優位に立つことができる。その際清国と一戦を交えることも想定しておかねばならぬ。ロシアの介入を避けること、これは清国も同じだ」

「聞多の言う通りじゃ。一戦に勝利し、その後に朝鮮をどんな形でわが国の配下に置くかまで考えておかねばならぬ」

「金玉均を厄介払いするためには、暗に清国をけしかけ、上海行など見て見ぬふりをする。しかし金の行く先々、上海にも手を回してやつの動向を把握しておくことは怠ってはいかん。俊輔、いまのうちから上海に手を打っておくことを頼むぞ」

「わかっておる。犬養や後藤象二郎、頭山なぞは上海行をやめるように意見しておるようだが、ほどほどにしておけと釘を刺すのは、聞多、おぬしの仕事だ」

「厄介なやつがもう一人おるがのお。福沢だ」

「いや、金玉均という輩は言い出したら聞かんやつだ。福沢なんか放っておけ。……話は決まった。そろそろ芸妓を呼ぼうじゃないか」

 伊藤はそわそわしはじめて杯を呷ると、大きく両手を打った。

七 帰らない予感

 三田の福沢邸を訪ねると不在でした。初めて日本に来たときから亡命十年と合せて、かれこれ十五年ばかりの間、これ以上ないという厚誼を受けた福沢先生には、意を尽くして上海行の思いを伝えなければいけないと思い、アボジは先生が静養中の箱根塔ノ沢まで足を運びました。

福沢先生は、明治十八年(一八八五)には、早々に「脱亜論」を発表し、朝鮮を見放したように世間には受け取られていましたが、アボジにはどこまでも心を許し、アボジと朝鮮のことを案じていました。アボジが師と仰ぐ所以です。

訪ねて行った箱根では、福沢先生は口を極めて、甘言に乗るな、とアボジの無謀をたしなめたのです。

福沢先生とアボジが向かい合っている座敷は、せせらぎが心地いい早川に面し、春の訪れを告げるように鳥の啼き声も聞こえてきます。

先生の書生さんとわたしは、座敷と襖一枚隔てた控えの間に息を顰めるようにして二人の会話に神経を尖らせていました。

「奴等はただのネズミではない。君を捕縛し、あるいは命を狙うはっきりとした目的を持っている。絶対に行ってはいけない」

「わたしにもそれくらいはわかっています。細心の注意を払って臨む腹積もりはできています。李鴻章に直接会って、わが国の自主独立の意義を説くという大目的のためには、いささかの危険はやむを得ません」

「君の細心の注意ほどあてにならないことは、君がいちばんよく知っているはずだ。君は甘い。青二才の書生論で説き伏せられるような相手でもなければ、小手先で立ち向かうような問題ではない。国の命運を左右する大事なのだ」

「……だからこそ李鴻章に向かうのです」

「外交はシビアな駆け引きだ。家族、民族を思う心が根底にあって国を憂える心――愛国心と言ってもいい――に基づく智略と智略の戦いなのだ」

「その(とき)というものがあります。それが今なのです。何もせず日本に身を潜めているだけでは事は動きません。日本政府がこれから何をしてくれるというのですか」

 アボジの言葉の端々からは、日本を信じられなくなった無念さがにじみ出ていました。

「それじゃ訊こう。君は清国と一戦を交えるだけの(たの)みとする力と覚悟があるのか。国の命運を賭けて全身全霊で日本とだって一戦を交えるくらいの大決心をもっているのか。政治はその国の都合によって豹変するものだ。今日本は澎湃として清国討つべしの国論に満ちている。そのとき朝鮮はどうする? 自主独立というのは清国の属邦から離れ、それを機に朝鮮を配下に置こうとする日本とも、食うか食われるかの戦の覚悟をすることじゃないのか」

「だから順序として李鴻章に脱清国の理を説くことが…………」

 アボジのやや甲高い、声変わり前の少年のような声は、日本語で意を尽くせないもどかしさで大きな声になっているようでした。

「わかった。それじゃ最後に訊く。李鴻章を説得できなかったらどうする?」

 福沢先生が言葉を遮って言いました。

「説き伏せる自信があります」

 互いに譲らない主張をぶつけ、掴みかからんばかりに怒鳴りあう声が襖を震わせます。

「おれはもう何も言わない。大馬鹿野郎へのはなむけの、衷心からのアドバイスだ。説得しに行くのではだめだ。李鴻章と刺し違えるだけの覚悟があれば上海へ行けばいい。それがどんな結果になるかは、賢明な君が考えることだ」

 せせらぎの音などかき消されるような、福沢先生の激越な口吻が、襖を通して書生さんとわたしの鼓膜をつんざくように座敷に満ちていました。

さすがのアボジも、もう一度よく考えてみますと答え、塔ノ沢に三泊ばかり同宿して東京へ戻りました。それが、アボジが福沢先生や先生の家族に会った最後になりました。

 須永元さんや渡邉元さん、本因坊秀栄さんなど肝胆あい照らす仲の人々も、こぞって反対を唱えましたが、アボジは上海行を曲げなかったのです。

日清朝三国の団結と近代化を夢見ていた熊本民権運動家の宮崎滔天(みやざきとうてん)さんが、護衛のために上海へ同道させてほしいと言うと、アンタのその風貌ではかえって目立ち過ぎてだめだと、大笑いしていました。しかし一方では玄洋社の頭山満さんには、上海行の船に乗船するまで同行してくれるように頼んだのは、どんな理由だったのかわかりませんでした。

 上海行の東京から大阪までの夜行列車の中や、大阪の宿でのアボジと頭山満さんの会話は印象的でした。わたしにはまるで二人の禅問答のように思えたものです。

 ――大阪の宿での遣り取りの一部始終は次のようなものでした。

「李経方に何か手土産を持っていきたいが、何もない。君の秘蔵の刀、三條小鍛冶宗近作の名刀をくれないか」

 三條小鍛冶といえば京都の逸品中の逸品である。

「それはできんばい」

 頭山が博多弁丸出しできっぱり撥ねつけると、アボジも一歩も退かない。

「やらんと言ったらやらん、武士に二言はなか。それでも欲しければ盗んでいけばよか」

「それじゃ盗んでいく。いまどこにある?」

「そこの包みの中に入っとる」

「それじゃ盗みますぞ。延次、盗め」

「盗人は、いちいち断って盗みはせん」

「上海行途上の、頭山満との対話はよく覚えている。あれは思う存分話ができて大満足だった。頭山というのは計り知れない度量をもった傑物だったな」

「傑物と、ずば抜けて才に長けた人物の話というのは、凡人には理解し難いものでしたよ。お互いを認め合った間柄、羨ましいほどに言いたいことを言い合っていましたね。喋るのはアボジが九分、頭山さんが一分でしたが」

「頭山とならば、朝鮮のこと、アジアのことを語り尽くすに最少の言葉で理解し合えたな。あの男は、自国の目先の利害損得だけを考えるような、そんなケチな男ではなかった。アジア全体、世界を見て実行し行動する第一級の人物だったな。朝鮮の置かれた情況のこともよく理解していた。幕末から明治維新にかけて、長州と肥後の間にありながら取り残された福岡藩と、日清に挟まれた朝鮮が手を拱いてなにもせずにいる苛立ちを、維新後の故郷福岡藩に置換えてよくわかっていたよ。この冥界で巡り合ってはいないが、まだ下界にいるとでもいうのかね」

 アボジは芯から懐かしむように言った。

「初めて日本へ来たときに、神戸の西村旅館で逢って以来、その風貌といい、腹の据わった胆力といい、政治や軍の人間であったなら、大西郷を凌ぐほどの人物だった。たかだか秘蔵の刀くらいで慌てるようなやつではないことを、おれは見越していた。あの男の強さの源は、物欲、名誉欲のないことだ。無欲の代名詞のような人間だった」

「わたしも頭山さんにじっと見つめられると縮み上がるようでした。二人の三條小鍛冶をめぐっての遣り取りは、物静かなもの言いの会話ながら忘れられるものではありませんでしたよ」

「あんな爽快な話をしたことはなかった」

「頭山さんが本物の日本男児なら、アボジも決してひけをとらない朝鮮の本物の傑出した人物だと、感心したものですよ。男とはこうでなくてはいけないと肝に銘じたものです」

「頭山がおれのことを評して言ったことと、そのときの様子が忘れられない。『岩田さん、アンタは一旦こうと決めたら梃子でも動かん人だね。アンタから僕を見ると、いかにも鈍物のように見ゆるじゃろうが、僕からアンタを見ると、才の利いた頑固一徹者。そうでなければ革命などできる訳がない』そう言って、俺の杯に酒を満たしながら、自分は饅頭を鷲づかみにして、いくつもひっきりなしに食べていたな」

「そういえば、頭山さんは酒を一滴も飲めませんでしたね」

「そうだったな。頭山とおれの、あのチグハグさを思うといまでも笑いがこみあげてくるな。思い出すだけで、ほんとに愉快だ」

 だれもが上海行に危惧や反対を唱える中、一人だけ、思うがままに信念を貫けばいいと言う人がいました。杉谷玉さんです。

「女の私に、高いこころざしを持った男の心はわかりませんが、鬱々とした無念の十年を晴らすためならば、思い切って行けばいい、敵は幾千万ありとて我往かん、それが男というものでしょう」と励ましていました。

玉さんは、上海行に必要な身の回りの品々をすべて用意していました。身に着けるものは上着や下着からハンカチに至るまで新調していたのです。人はいつなんどき不慮の事故に遭い、下穿きを曝さなければいけないことが起こるかもしれない。みすぼらしい恰好だけは他人に見せないたしなみが必要だというのです。愛する人にぶざまななりだけはしてほしくないという、玉さんのアボジへの想いがこめられていたのでしょう。アボジの物だけではありません。「あなたもアボジと一心同体だ」と言って、わたしのものまですべて新調してくれたのです。また旅立ったその日から、無事に帰ってくることを祈って、いつもと変わらず毎日の膳を欠かさなかったといいます。

上海へ発つ前の晩には、玉さんは、アボジの好物を取り揃えた夕食を作り、銀座の食品店三浦屋から取り寄せたワインも食卓にありました。クーデターがならず日本へ逃げ延びて来たときに、福沢先生が、「よく生きていてくれた、ほんとうによかった」と言って喜んでくれた日と同じ三浦屋のワインだったといいます。

無事生き延びたという感慨をもらした福沢先生の話を知っていて、玉さんは縁起をかついだのだと思います。李鴻章との談判の成功と、無事の帰りをよほど願っていたのでしょう。それにしても玉さんの用意周到さは見事というほかはありません。

食事も終わりに近づいたころ、同席していた本因坊秀栄さんがわたしに向かって、

「延次、今日は家に帰ってお袋の顔でも見てきたらどうだ」と言い、

「家は俺と同じ方向だ、そろそろ帰ろう」と須永さんも同調して言いました。

わたしは別に親の顔を見ようとも思いませんから、急になにを言い出すのかと不思議でした。

アボジはいつになく言葉少なく、穏やかな顔をしてワインを飲んでいるだけです。すると玉さんまでが、

「そうね、久しぶりにそうしたら」と積極的な口ぶりです。

わたしは仕方なく、用事もないのに実家へ向かいました。どうせ出発は翌日の夜のことでしたから実家へ帰ってもやることもないのです。せいぜい父親の的外れな説教を聞かされるのがオチです。

「こんなときは気を利かせて、早く二人にしてやるものだ、玉さんの嬉しそうな、キラキラした眼に気付かなかったのかい」

道すがら須永さんの説明にやっと納得がいきました。理屈としてはその通りですが、わたしの感情はさざ波どころか、激しく波打って抑え込むことができないほどにたかまっていました。

「どうした? 実家に帰るのにそんな仏頂面して……」

 須永さんにも不機嫌さを見抜かれるような顔をしていたのでしょう。

わたしは玉さんに淡い恋心を抱いているのではなく、真剣に恋をしていたのです。アボジと玉さんが、二人だけの濃密な時間を持つことに激しい嫉妬をしていたのです。アボジに敵愾心さえ抱きました。だれにも打ち明けることができず、玉さんへの想いがマグマのように湧き上がって、まんじりともせず上海への出立の朝を迎えていました。玉さんがわたしに一度だけ口にしたときのことを繰り返し思い浮かべて一夜を過ごしながら。

「とうちゃんが……」と言い出して、怒りを含んだ眼差しで一気にまくしたてた日のこと

です。玉さんはアボジのことをそう呼んでいました。

「とうちゃんが、いくら博奕をしようと芸者遊びをしようと、私はひとつも気にならないの、へっちゃら。でも素人のおんなに手を出すのだけは、どうしても我慢がならない。延次さん、とうちゃんがどこのおんなに粉かけているのか知っていたら教えてちょうだい。私はそのおんなを徹底的に追い詰めて別れさせてみせる」

 いつにない玉さんの権幕でした。白状すればアボジのわたしに向かう怒りがどれほどのものか想像するだけで、口が裂けても言えることではありませんでした。

「新橋や芝浦の芸者さんならわかりますけど、素人の女の人なんてわたしはわかりません」

「そうなの。あなたも知らないとは、よほど上手にやっているのね」

 あきれ果てたあきらめ顔で、そのあとポツリと言い足した一言がわたしには忘れられません。

「延次さん、あなた女の経験あるの?」 

わたしは俯いて咄嗟に首を左右にしていました。

「あなたを男にしようかしら」

たった一度きりの、玉さんがわたしに向けた女としてのつぶやきでした。妙に真実味のある、わたしには生涯記憶に残る玉さんに聞いた一言でした。それは玉さんの戯れ言と片付けてしまうことのできない、わたしの初めての青春だったと今でも心の中に大切にしまい込んでいる珠玉のような思い出です。

 そんな玉さんの想いを知ってか知らずか、出発までのアボジは、紅灯の巷へ出かけることも多かったのです。犬養毅さんにもらった餞別の二、三千円ほどの大枚も東京を発つ日までに使い果たしたと聞いたときには、開いた口が塞がりませんでした。手元には、ほんとうに旅費に充当できるくらいのお金しかなかったのです。鷹揚な性分は終生直らなかったのです。しかし思い返すと、アボジも無意識のうちに、残っている借財や遊びのツケをきれいにして、身辺の整理をしていたのかもしれません。(よしみ)を結んだほとんどの人に会い、その中の一人には、甲申政変の詳細を綴った「甲申日録」を預けていったというのも不思議です。何かを察知して感じるものがあったのかもしれません。帰って来るはずの玉さんの元に置いておけばいいものではないでしょうか。

 東京を発つ直前にアボジと二人きりになったときのことです。

「延次、セヴォリーさんにいつもご馳走になったコーヒーをもう一度飲みたいなあ、東京で飲むコーヒーとは全然違うよ」

と言ったかと思うと、小笠原の人たちは、あの凄まじかった台風の暴風雨の被害から立ち直っているだろうかと、二年半前に家屋や家財を破壊された人々のことを、柄にもないしみじみとした口調で案じていました。過去を悔やんだり、世知には惑わされたりしない日頃のアボジとは違う、別のアボジを覗き見る思いがしました。

アボジはもう日本へ戻る気はないのではないか、いやもっと無意識のうちに死を予知しているのではないかと、わたしはふと不吉な思いに捉われたものです。

 三月になり、咲き誇っていた梅を見て、今年の梅も見納めだなと独りごちて、さらに続け、

「桜折るバカ、梅折らぬバカと言うのを知っているか? 梅は接ぎ木をして、どこにでも花を咲かせることができるぞ」

唐突に謎めいたことを言い出しました。上海に活動の拠点を設け、改革のための資金作りや人材の育成を考えたのでしょうか。梅の接ぎ木に例えて何か自分に暗示をかけていたのかもしれません。

 大阪までは十七時間ばかりの汽車の長旅、痔にも悩まされていたアボジにはつらい旅でした。大阪の旅館に入ったのは夕刻、それから十日ばかりを、京都や奈良まで足を延ばしながら大阪に滞在しました。

アボジには大阪に立ち寄る目的がいくつかあったようです。一つは、頭山さんから三條小鍛冶を手に入れ、土産用の錦の布袋や木箱を用意することでした。他の目的は、わたしには知らされていなかったのですが、そのほとんどが、アボジが日本へ来てから交わった人々との再会であり、結果としては最後の別れをするための時間となってしまったのです。

奈良大和への一泊旅行にも同行することになったのは、土倉庄三郎氏訪問でした。土倉氏もまたアボジの支援者で、東京の新聞にも、その活動の様子や動向が掲載されるほどの資産家であり事業家です。

大和行の目的は、上海行の意義を説き、理解を求めることだったのでしょうが、心の片隅には、なにがしかの餞別を期待した挨拶だったかもしれません。そして同時にその金を使う、はっきりした目論見があったことが、大阪に戻ってからわかりました。

 アボジには、日本へ来た当初に大阪の日本人女性との間に生まれた一児があったといいます。土倉氏からの餞別を、その子の養育費の足しにしたかったようです。生まれた子どもは里子に出されているということでした。男児だったこともあり、アボジには、決して頭から離れたことのないわが子だったに違いありません。名前を山口房吉といいます。小笠原の子どもたちと接しながら男の子には房吉を、女の子には朝鮮に残してきた娘を瞼に重ね合わせていたのでしょうか。わたしは、アボジに言い付かって、房吉が最初に里子に出されたという大阪のお寺に、アボジ(岩田周作)からだと言って、お金を届けました。わが子に宛てた封書もありました。しっかり字が読めるようになったら開封するようにと伝えて欲しいとの言つけもありました。あとになって思えば、このことも今生の別れになることを予測しているようなアボジの人知れぬ父親としての思いだったにちがいありません。

 アボジとわたしが、大阪にしばらく逗留することを事前に知っていたのか、李逸植は、すでに大阪の妾宅に滞在していました。暗殺実行者の洪鍾宇もいたのです。洪は、アボジの上海滞在費用を、李逸植に代って李逸植の銀行口座から引き出すという名目で同行することを、アボジが了承していたのです。

「やつらはおれを殺しに来ているのだ、そのことを肝に銘じて注意を怠ってはいけない」わたしには言いながら、アボジはあまりにも大胆で、無用心な行動をするのに、わたしはあきれてしまったことがありました。姿が急に見当たらなくなり、方々を探し回ると、なんと李の妾宅で牛鍋を突つき、しかも仮眠を貪っていたのです。あまりの所業に非難がましく注意をすると、あんな連中なんて肝っ玉が小さいから、おれは屁とも思っちゃいない、といたずらっぽく笑いながらうそぶいているのです。わたしなどの凡人には理解できません。それどころか、神経をすり減らして仕えていることが空しくなったこともありました。アボジが連れ去られようと殺されようとわたしの知ったことではない、もう東京へ帰らせてもらいたいとさえ思ったものです。こんなに杜撰(ずさん)で無防備な人と道連れに殺されてはたまったものではない。自分の人生は踏み出したばかり、苦しいこともあるでしょうが楽しいこともいくらでもあるはずと、わたしが思ったのも道理でしょう。それでも魅入られたようにアボジに付き従っていたのは、やはりアボジの人間としての計り知れない魅力に捉われていたとしか表現できません。野放図で大胆、しかし回転の速い知能や揺るぎない信念に裏打ちされた男らしい魅力が、わたしをはじめ周りの人間を惹きつけてやまないのでした。

 三月二十三日午前四時、乗り込んだ客船西京丸は神戸港を出航、長崎を経由して上海へ向かいました。乗船名簿に記載された名前は、アボジが岩田三和、わたしが北原延次です。アボジが相談もなしに決めた偽名です。乗船券は有効期限九十日、アボジと洪鍾宇は一等、わたしは二等船室でしたが、西京丸の松本事務長に頼み込み、昼間はわたしがアボジの船室に居る許可を得て、万全を期しました。

長崎までの一昼夜、アボジは、面識はなかったはずですが、乗り合わせていた海軍の島崎大佐と時事を論じ談笑するなどして過ごしていました。島崎大佐は、上海の旅館東和洋行でも同宿となり、アボジ暗殺の第一発見者となった人物です。

 長崎までの船中、アボジのもとに福沢先生から電報が届きました。今からでも遅くない、上海行をやめるようにというものでした。

「先生には、どこまでも心配かけるなあ」

アボジは呟きました。

 東京を発つ直前に、上海行の決心を伝えるために、三田の福沢邸を訪れたのですが、あいにく福沢先生は故郷の大分県中津へ帰省中でした。賽は投げられたのです、虎穴に入らずんば虎児を得ず、でしょう、先生。と伝えたかったといいます。

福沢先生が、どれほど自分と朝鮮のことに心を砕いてくれているかを、アボジは身に沁みて知っていました。読み終わった電報をしっかり握りしめたアボジの、姿勢を正し、一点を見つめて物思いに耽る肖像画のような顔が忘れられません。

八 上海の惨劇

 上海に渡ってたったの二日目、三月二十八日アボジに惨劇が待ち受けていようとは思いもしませんでした。なにしろ初めての上海で、街の見物すらしないままに事件は起きたのですから。

 三月二十七日の夕刻に上海上陸を果したわたしたちは、共同租界にある日本人経営の旅館東和洋行に投宿しました。旅館の一号室にアボジとわたし、二号室に同行していた清国通訳官、三号室に洪鍾宇が入りました。わたしたちの部屋は、通りに面した角部屋でした。反対側にある廊下の突き当りの部屋には、西京丸で一緒になった島崎大佐も泊まっていました。

 二十八日の午前中には、アボジはほんの近所まで出かけ、洪鍾宇は銀行へ出向くということでしたが、その日の朝、洪が朝鮮服だったことを奇異に思ったことが印象に残っています。ピストルを隠し持つのに都合がよかったのです。

午後は、アボジは体調がすぐれず、長い籐椅子に横になり、犬養さんに借りた「資治通鑑」を読んでいました。戻ってきた洪もアボジのそばで手持ち無沙汰に椅子に座っていました。

アボジが、わたしに命じて、一階のフロントに行って、西京丸の松本事務長への言伝てを頼んでくるように言いました。アボジと洪鍾宇を残して、わたしは部屋を出たのです。それが取り返しのつかない油断だったのです。アボジにもわたしにも魔が差したとしか言いようがありません。

 洪鍾宇はわずかな間隙を突いて、隠し持っていたピストルを至近距離から三発、アボジに向けて撃ったのです。

 わたしはその音を、フロントで耳にしたのですが、朝から時折聞こえていた爆竹だろうと思っていると、階段を駆け下りて来た洪鍾宇が、わたしの方を振り向きもせず、外へ飛び出していきました。何があったのかと、わたしは洪のあとを追いましたが、姿が見えませんでした。咄嗟に、アボジに何か起きたのではと二階へ取って返すと、島崎海軍大佐と行き遇いました。

「今、金玉均が撃たれた!」

大佐は形相を変えて怒鳴りました。四、五分の間の出来事でした。

アボジは大佐の部屋の前にうつ伏せに倒れていました。撃たれながらも洪鍾宇を追って部屋を出たのでしょう。夥しい血の中に頭がありました。わたしはアボジの両肩を掴んで、アボジ、アボジと喉が裂けんばかりに呼び続けましたが、絶命したアボジは微動だにせず、何の反応もありませんでした。どうやってアボジを部屋まで運び込んだのか、わたしにはまったく記憶がありません。

 無念至極。大油断がアボジを死なせてしまった申し訳なさと、日本に連れ帰れなかった悔いと無力感はいつまでたっても消えませんでした。

 警察への連絡を旅館の主人に頼むと、地元の警察は、日本領事館員と日本人医師を伴ってすぐに駆けつけました。検視では右頬から頭部への銃弾貫通が致命傷ということでありました。

 三十日には、死体引取りの承諾書に署名捺印をし、そのあと中国式の棺を用意しました。アボジの遺体の腐敗を防ぐために石灰詰めにして、船積みの準備を整えました。

 ところが、明朝出航という多忙を極めているときになって、日本領事館から遺体を持ち帰ることを見合わせろ、と言ってきたのです。納得できないわたしは、その理由を聴くために領事館へ出向くと、言を左右にして要領を得ません。そんなことはできない、と強硬に抗議しましたが、いたずらに時間ばかり過ぎて、何もできないのです。押し問答の末、領事は怒りだした挙句、勝手にしろ、と言い放ちました。それじゃ勝手にやらせてもらいますと言い置いて領事館を出ました。わたしにはやるべきことが山積していました。

 遺体の積み出しは船会社に任せ、日本への電報を打ち、凶事を知らせなければと、旅館の主人の手を煩わせて、やっといくつもの電報を打つことができたのです。

「アボジシンダ イサイフミ」(アボジ死んだ 委細手紙)「アボジシンダ イサイメンダン」(委細面談)たったこれだけの文面を考え、宛先を用意しなければなりませんでした。福沢先生、犬養毅さん、頭山満さん、本因坊秀栄さん、須永元さん、杉谷玉さんなど十通近く送ったでしょうか。

 三月三十一日の帰国当日、棺の積込み直前になって、日本語通訳を伴った地元警察がアボジの遺体も荷物も引き渡せないと通告してきました。そんなことは絶対に承服できないとわたしは突っぱね、誰の指示によるのかと、詰め寄りました。日本領事館だと言うのですが、言葉も真意も思うように通じません。再び日本領事館へ行きましたが、領事はわたしに会おうともしません。こんなことをしていては乗船時間に間に合わないと西京丸に引き返しました。小一時間も要したでしょうか。埠頭に着くと、どうしたことでしょう、そこに棺も荷物も跡形もなくどこかに持ち去られていました。わたしは地団駄踏んで警察に抗議しましたが、もうどうにもなりません。西京丸の松本事務長に宥められて帰国の途につくしかありませんでした。

アボジの遺体は、警察から清国官憲に引き渡され、軍艦にのせられ、朝鮮へ運ばれていったのです。

 この結末は、わたしが若輩者ゆえだけとは到底思えません。どんな力が働いたものか、はっきりとした理由はわかりません。しかしこれだけは言えます。日本であれ清国、朝鮮であれ、政治をやる人たちの冷酷非情さは、死んだ人間さえも容赦はしないということです。

 朝鮮に渡ったアボジの死体は、首、胴体、両手足がバラバラに切り離され、「大逆不道玉均」と大書した幟とともに、漢城(現ソウル)を流れる漢江の河岸にある処刑場楊花津(ヨウカシン)に、三叉に組んだ丸太に首を吊るされ、晒し者となって、胴体は捨て置くという、極刑の凌遅(りょうち)刑に処されました。

 儒教社会では、死体をさらに切り刻むことがどれほどの刑罰を意味するのか、それは罪人の一族に対する想像を絶する屈辱をあたえる処遇であり、その一族の抹殺宣告に等しいことなのです。

アボジ暗殺が政界や言論界をはじめ日本にあたえた衝撃は大きいものでした。全国の新聞は朝鮮の所業に口を極めて非難し、日本中で追悼の義援金募集キャンペーンまで繰り広げられました。しかし、わたしは手近にあった新聞さえ一瞥をくれただけで、読む気力もありませんでした。

 上海から東京へ戻って半月ばかり経ったころだと思います。

「福沢先生の名代で」と言って、塔ノ沢で一緒した先生の書生さんが弔問にやって来て、時事新報数日分を置いていきました。その社説のどれもが、先生とアボジの強い結びつきを理解している人が読めば、福沢先生のアボジに対する真情が書かれているのがわかります。先生の、持っていき場のない怒りややるせなさが行間に滲み出ています。

「金玉均氏の訃報に接したときの、先生の荒れようは尋常ではない凄まじいもので…………」

書生さんが問わず語りに話してくれました。

「先生は、朝といわず夜といわず三日三晩ほどは酒を飲み続けでした。わたしたち書生が恐る恐る声をかけても一切耳に入れようともせず、ただ『さっさと酒をもってこい』とおっしゃるだけでした。いくら酒好きの先生でも書斎に酒を持ち込まれることは、これまでにただの一度もなかったのに、初めての振る舞いに奥様をはじめだれも止めることができなかった。前から決まっていた面談の約束もすべて反故になり、ご家族も書生たちも、邸じゅうが極度の緊張を強いられた毎日だったのです。それでも徳利をそばに社説の執筆だけは続けられました。絞り出すようにして思いの丈を紙の上にぶつけられた文章が、お持ちした新聞です」

 原稿を取りに来た時事新報の編集者に話された内容は、紙面には載せられないような、朝鮮宮廷やその取り巻きを痛罵する罵詈雑言の数々だったといいます。

「最後に先生はしみじみとおっしゃいました。『おれが朝鮮や金玉均に注いできた思い入れや、朝鮮にとってよかれと思ってやってきたことの数々はなんだったのだ。すべてが水泡に帰した。十年の時間を費やして何一つ変わりはしない。朝鮮は暗黒の中世世界から一歩も踏み出せなかったということだ。これで国民は外国の奴隷にされるだろう。朝鮮の自業自得というものだ』」

 先生はまた「葬儀だ、義援金だと世間は騒いでいるようだが、金玉均が死んでしまったいま、そんなものが何になる。おれは葬儀など出ない」と、投げやりに言い放たれたとのことでした。しかしアボジに付けられた「古筠院釈温香」の法名は、福沢先生の依頼によって付けられたものだということは、先生のアボジに対する親愛の情がいかばかりだったかをあらためて思い起こさせるものでした。

 五月二十日に東京浅草で執り行われた葬儀の棺には、わたしが持ち帰った僅かばかりの遺髪と、上海行の折、玉さんが用意してくれた心尽くしの服の一部が入れられました。祭壇には棺と並んで、だれが気を利かせたのか、アボジがこよなく親しんだ囲碁の碁盤が置かれていました。葬儀が済むと、ごく親しかった人たちの手で、アボジの棺は青山の共同墓地に埋葬されました。浅草から青山までの道のりは遠くとも、三四十人の近しい方々が棺に同道されました。ほとんどの方が人力車でしたが、わたしは徒歩で玉さんの車に寄り添うようにしていました。太陽は中天にあり真夏のような陽射しが溢れ、車夫の額からは汗が滴り落ちていました。

「延次さん、ちょっとお願いがあるの。少し遠回りをしたいので、みなさんにお断りを言ってきてほしいのよ」

「どうしました、なにがあるのです?」

「あなたはわたしと一緒してほしい。とにかくほんの少し遅れると伝えて」

 前を行く人後ろから来る人に、わたしは玉さんの願いを告げて回りました。

「車屋さん、上野のお山の前で止めてくださいね。それから神田のニコライ堂のそばへ回ってほしいの。車賃ははずみます」

 道すがら玉さんは、わたしにもはっきり聞こえる声で手に持った位牌に語りかけていました。

「とうちゃん、上野のお山ですよ。一緒に電車に乗った日のことを覚えていますか? あれは楽しかった」

 上野広小路から万世橋を渡り、ニコライ堂の手前まで来ると、

「ここはどこだかわかりますか? 済安堂医院(現井上眼科病院)。トラホームの治療に何度もいらっしゃったでしょう」

 最後の別れを言うために、二人だけで出かけた思い出の場所で、アボジに呼びかけたかった玉さんの気持に、わたしは胸を打たれました。突然すぎる悲報と、あまりの悲しみを乗り越えてしまった明るい声は、いたましいばかりです。位牌を持った両手を喪服の袖口から突き出すようにした玉さんの腕は、うっすらと青みを帯びて眩しいような白肌です。その輝きは、玉さんがアボジと過ごした、激しい満ち足りた時間をわたしに連想させました。

わたしの胸奥には焼け付くような嫉妬心が立ち昇ると同時に、見てはいけないものを見た心臓の鼓動と不埒な妄想を悟られないように、顔を伏せて眩しいばかりの玉さんの腕から目を逸らせました。

――わたしがアボジと過ごした時間の話はこれだけです。

 二十三回忌法要の読経に目を瞑って耳を澄ましていると、アボジと共にいた数々の場面が回り灯籠のように脳裏に浮かんできます。アボジは安らかに眠っているのでしょうか。それとも冥界の鬼となって祖国や日本に向かって悲憤慷慨しているのでしょうか。

 法事にはアボジゆかりの須永元さんなど多くの懐かしい方たちが参集されました。

わたしは知らず知らずのうちに、若かった愛くるしいままの杉谷玉さんを探していたことに苦笑するばかりです。

福沢先生も本因坊秀栄さんも鬼籍に入られています。残念なことです。こんなことをいくら言っても詮無いことです。

 さあ、わたしはこれから一人で青山墓地のアボジのお墓へ参ります。そしてみなさんから聞いたアボジにまつわる懐古のエピソードでもアボジに聞かせようかと思っているところです。

「日本人がおれの葬式をやっただって。それは心外なことを。笑止であるぞ」

「よほどアボジへの思い入れがあったのでしょう」

「その思い入れの内に隠された思惑、本心が問題なのだ。日本人の多くが朝鮮を日本の勢力下に置くことを望んでいた。おれや開化派の面々を日本に好意的、日本寄りと思っているのが日本人だった。開化派を支援すれば、日本に目を向けた政権になると思っていたのが日本人の大半だったのだ。おれは日本寄りでも清国寄りでもない、不偏で正真正銘の愛国者だと思っている。だからそんな葬式を笑止だと言っているのだ。おれを殺害する清国、朝鮮の日本に敵対する行為をきっかけに清国討つべし、の世論にもっていこうとする下心、そんな見え透いた茶番劇の葬式を、福沢先生はお見通しだったんだな。そんなに単純なことではないと先生は思っておられただろう。ほかの日本人と見る目が違う。おれは言わなかったが、おれが何を考えているのか、福沢先生は察しておられたように思う」

「アボジは命を賭けてまで、なんであんな危ない上海まで行こうと思ったのですか?李鴻章に何を言おうと考えていたのです?」

「おれは朝鮮でクーデターを企てたときから命を捨てていた。改革に失敗すれば一族郎党にまで累が及ぶこともわかっていたが、どうしてもやらなければいけなかった。それほどまで朝鮮の国情はひどい状態だったうえに、欧米列強は目前に迫っていた。強引に変えるしかなかった」

「逃げ延びた日本では何を考えていたんです?」

「朝鮮が国を亡くすことなく生き延びるには、どうすればいいかだけを考え続けていた。日清両国とも朝鮮のことなど考えちゃいない。両国は朝鮮への覇権争いしか眼中になかった。そんな朝鮮は、ロシアに乗っ取られたポーランドだけにはなってはいけないと考えていた。ロシア、プロシア、オーストリアに囲まれたポーランドが、行き場を失ったようにしてロシアの配下に入ってしまった。どうしたら東洋のポーランドにならなくてすむのかを考えていた。そしておれの考えを李鴻章に納得させることができれば、日本も説得できると思っていたよ」

「それは朝鮮を独立国として認めさせることだったのですか?」

「違う、すこし違う。おれの理想は、朝鮮を東洋のベルギーにすることだった。中立の立憲君主国としてあるベルギーを目指すことだった。どの国にも加担しない、どの国にも頼らない中立国として、朝鮮を李鴻章に認めさせることだった」

「それは理想で机上の空論だったのではありませんか?」

「空論ではない。朝鮮にとっての安寧とは、清国と日本が朝鮮をめぐって争わないこと、これすなわちロシアの南下政策、脅威を食い止めるのにも通じる。清国にも日本にも利があることだったのだ」

「どんどん熱を帯びてきましたね。冥界にいてもそれだけは変わらない。激論を戦わせているときのアボジは、相手を打ちのめさないことには気がすまない人でしたね」

「合間に、おまえや須永さんに眼を遣ると、二人とも無感動ふうに冷静な顔をしていた。

その顔を見ると、おれはなにか間違っているのではないかと、自分まで一旦冷静になれたものだったなあ」

「アボジは、囲碁が相当な腕前、議論と囲碁のどちらが夢中になっていたのです? それとも女?」

 わたしが茶化すように聞くと、

「一番が囲碁、二番が女、その次が議論だったな」

 アボジは至極まじめな答え方をした。そのまともな答えが、わたしには可笑しかった。

「わたしはアボジに告白することがあるのです。お玉さんのことで……」

「それは是非聞きたいものだ。どうしたというのだ?」

「アボジがお玉さんを連れてきてからすぐのこと、わたしは玉さんに惚れてしまったのです。アボジと玉さんが仲良くしていると嫉妬し、アボジなんていなくなれと念じていました」

「おお、あれはいかにも日本婦人らしい控え目な挙措の色気があり、肝っ玉の据わったいい女だったなあ。おまえも隅に置けないなあ。それでおれがいなくなったあと、ねんごろになったというのか?」

「それは秘密です。アボジは囲碁が一番だったけど、わたしはとりたててこれといった趣味もない地味な人間でしたから、玉さんが一番でした」

「それじゃ玉と三人で話すことができたら、おれとおまえのどっちがよかったか玉に聞いてみようではないか」

「わたしに決まっているでしょう。若い方がいいに決まっています」

「馬鹿なことを言うな。冥界では時間の観念もなければ年齢の差もないのだぞ。それにしても同じ女を好きになるとは、よほどおれたちは気が合っていたのだなあ。わっはっは……これは愉快だ。冥界というのはいいところだなあ」

一度でいいからアボジに会いたい。このままうつらうつらしていれば、静かに眠りながらアボジの近くに行けるような気がする。そして共に過ごした時間は、ほんとうにあったことなのか、夢を見ていたことだったのか、アボジに確かめてみたい気がするのです。

――急に背中の方から這い上がって来るように眠気が襲ってきた。今の今まで見ていた夢の続きを見たい。だが睡魔にこのまま導かれていけばぐっすりと深い眠りに落ちて、苦もなくアボジのそばまでいける。

「アボジ、アボジじゃないですか」自分が発している声に目を醒まされました。

「延次じゃないか。どうしてそんなところにいる?」アボジの特徴ある声が聞こえました。ここはどこだろうか。そんなことはどうでもいい、後回しにしよう。

 夢の中では、アボジは棺の中で石灰に埋もれていました。それなのに棺は消えてなくなっているのです。棺の中身はアボジだったのかどうか、アボジは死んだのかどうか確かめようもないのです。別人だったかもしれない。もどかしい思いが晴れないままなのです。

 突然眠りから覚めたわたしは、経験したこともない光に満ちた空間にいました。ここにはアボジがいると咄嗟に思い、また「アボジ、アボジ」と声を限りに呼びかけると、

「延次ではないか、姿が見えないぞ。どこにいるのだ?」

 アボジがわたしを呼ぶ声が確かに聞こえてきます。

一身にして二生を経るが如く 第二章へつづく