大邱(テグ)サグァ

               *

 三寒四温の季節から寒さが遠のき始めた三月の初旬、海水の音と匂いが軽やかな波となって釜山港埠頭の岸壁に打ち寄せている。

 黄賢(ファンヒョン)(ジュン)は夜の春霞を通して立ち並ぶ高層ビル街を見遣りながら、博多行きのフェリーに足を運んだ。大き目のリュックだけの軽装は気ままな若者の一人旅のように見えるかもしれないが、黄賢俊にとってはやっとの思いで辿り着いた前途の第一歩の船旅だ。賢俊の胸奥には晴れがましさが満ちてはいるが、海外旅行のときめきはない。

 金のかからない交通手段としてのフェリーの利用だった。八万ウォン(八千円弱)の船賃は、初めての外国行きが船旅というのも乙なものだと自分に思い込ませることにした二等船室だ。

 大学卒業後、就職活動に三年もの時間を費やし、やっとの思いで決まったのは日本の企業だった。二週間の研修案内が届き、北九州市にある研修センターへ向かう船旅がいま始まろうとしている。乗船券とパスポートを握りしめている手には汗が滲んでいるのも何もかもが初めての経験によるものだと自覚しながら、黄賢俊は踏み入れたロビーのフロントに案内を乞うた。二〇時の出航には早すぎるかとも思いながら、一時間前には乗船口に並んだ。初めての経験ゆえ気持ちに余裕がないから仕方がない。

 教えられた二等船室には折り畳まれた毛布が壁際に並べられ、三十人ばかりの乗客が身体を横たえられるように整えられていた。賢俊が入室すると思い思いの場所を占めた五、六人がいるだけだった。

 遠慮気味に入口に近い一角にリュックを置きながら賢俊は船室全体を見渡した。

 ――もっと明るくて清潔だったような気がするが……。

 写真と実際は往々にして違っているものだ、改めて船室を確かめるほどのこともない。賢俊は自分の思い違いだろうと納得して、用意していた船酔い止めの薬を取り出した。春の大韓海峡(対馬海峡)は凪いでいると聞いてはいたが念のために用意した薬だ。ロビーの売店で買ったオロナミンCとともに薬を流し込んだ。日本語で書かれたラベルの小瓶を手にしたときに日本でも同じものがあるんだと改めて海外航路を思った。元々は日本のものだなんて知る由もない。

――それにしてもロビーは写真通りだったのに、船室だけがどうしてこうも古くさいんだろう。

気疲れのせいなのか酔い止めの薬のせいなのか横になり、出航して小一時間もしないうちに賢俊は眠ってしまった。

               *

 二時間ばかり眠っていたのだろうか。中途半端な時間に目覚めた賢俊は、薄暗い船室の天井を眺め、ゆったりした揺れのリズムに身を委ねている。海は凪いでいるのだろう。船室にそれとなく目を凝らすと、いつの間にか小さく仕切られたスペースはほとんど乗客で埋まっている。隣の若い男の人は寝つけないのか起き上がって胡坐をかき、手元の袋物をまさぐっている様子だ。明かりを落とした室内では何をしているのかはっきりとは見えなかったが、何かが黄賢俊の投げ出した足に当たった。ところどころ擦り切れた安物の絨毯を転がってきたリンゴだった。

「ミヤネ(ごめんなさい)」男は声を落として囁くように口にした。

「ケンチャナヨ(かまいませんよ)」賢俊もリンゴを手にしながら小さく返した。

「腹がへって眠れなくてね。あなたも一ついかがですか?」

「いいんですか? いただきます。これは大邱(テグ)リンゴですか?」

「そうです。おれの邑(村)で獲れたやつです」

「どこからいらっしゃったんですか?」

「慶尚南道陝川(ハプチョン)郡(韓国南部)の海印寺(ヘインサ)の近くです。邑にはあっちこっちにリンゴ畑があります」

海印寺は高麗朝時代(九一八~一三九二年)から続く八萬大蔵経の版木とともにユネスコ世界遺産にも登録されている有名な寺院だ。

「私も慶尚北道の金泉(キムチョン)出身ですから近いといえば近いですね」

 北と南の違いとはいえ同じ慶尚道の出身、旅先で逢う同郷人に親しみがわいてくるのはお互い同じようだ。二十代にはちがいないが着ているものが時代がかった民族服に賢俊は違和感を覚えた。男はがっしりした骨格に白のチョゴリ(上着)とパジ(ズボン)の、一目で韓国人とわかる民族服の恰好をしている。

 賢俊は目が冴えてきて寝つけそうにないな、少し雑談でもして無聊を慰めようかと思い、男を誘ってみることにした。

「迷惑でなかったら話でもしませんか。寝ている人たちもいますから、少し寒いでしょうが甲板へでも行ってみませんか」

 他にも眠れずにいる人もいるようだ。賢俊から対角線上の角で本を手にしている人が視界の先にいた。学生のようだが賢俊たちよりも先に船室を出て行きそうな素振りだった。

「そうしましょう、おれもすぐには眠れそうにないから」

               *

 鄭榮植(チョンヨンシク)は寝つけないままに毛布に包まっていたが、空腹を覚え、持参していたリンゴで腹を満たそうと起き上がって手元の袋をまさぐった。家を出てから何も口にしていなかったことに気づく始末だった。極度の緊張から食欲を催さなかったことに苦笑を洩らした。榮植にとっては大邱(テグ)から釜山までの汽車も船に乗ることも生まれて初めての経験なのだ。

生まれ育った邑で十歳のときからずっと百姓だった。家は集落一の貧しい小作農で、二十数年も生き延びてきたことが不思議なくらいだ。一年のうちに白米を口にすることはほとんどない。主食は麦ならまだましで、粟か稗、コーリャンやトウモロコシが混じる程度のことだ。空腹は習い性のようなものだ。両親と妹、榮植の四人が生きていくには、朝早くから日が暮れるまで牛馬よりもっと働くしかなく、収穫の大半は地主に取られ、残りの三割を得ることでぎりぎりの生計をたてるのがやっとのことだった。現金収入の手立ては不定期の日雇い仕事しかなく、繁忙期に声をかけてくれるリンゴ園の受粉作業と収獲時の手伝いは貴重な働き口だった。

 晩春の麦の穫り入れが終わるまでの二、三か月は食糧が底を尽き、地主から前借りした麦や粟をわずかずつ口にして糊口を凌ぐ生活は、惨めさが空腹と同居していた。ましてや持病のひどい喘息で床に伏したオモニ(母)を、医者に診せる金などあろうはずがない。

「内地の九州で職工を募集している。応じてみたらどうだ」

 榮植一家の窮状を見兼ねた邑の長老が声を掛けてきてくれた。

 一か月の給与は日雇いで得る一年分くらいにはなると聞けば迷わない者はいないだろう。榮植は激しく心を揺さぶられた。しかし一方では年老いた両親、しかも病に伏すことの多いオモニ(母)のことを考えると決断は簡単ではなかった。一番の働き手の自分がいなければ目前にある麦の収穫期はどうするのかと揺れ動く迷いに耐えられず大声を出して喚きたくなる胸の内をやっとの思いで押しとどめた。これまでも家族四人掛かりでやっとの思いでやり遂げてきた。どう考えてもアボジ(父)と妹だけですべての農作業をやりおおせる訳がない。居直ることも許されない小作人がどれほど惨めなものか、このときほど榮植が一家の境遇を呪ったことはない。

「この郡内でもどれだけの小作人の家が邑を捨てて間島(カンド)(満州)へ逃げ、また別の家は禁を破って焼畑農業の火田民になって流浪しているのか、おまえも知っているだろう」

 親切心から長老は何度も家に足を運んで榮植を説得した。

「オッパ(兄ちゃん)、私は徹夜してでも穫り入れも田植えもなんとかする」

非力を顧みず妹も懇願するように言った。

 地主に小作人の管理を任されている代人が言ったことに、榮植は苦渋の選択を余儀なくされた。

「溜まっている借金だってこの秋までに返してもらわないと。返す約束をしなければ田植えどきの農具も牛も貸すことができない。結局困るのはおまえの家だ。現金を稼ぐ算段をしないでどうする」

 代人は息も絶え絶えの人間にさらに鞭打つように無情の言葉をかぶせてきた。

榮植には家に残るのか出稼ぎに行くのかを自分で選ぶ自由さえも残されていなかった。アボジ(父)と妹に麦の刈り入れと田植えを託すほかに道はなかった。

 榮植は受け取った前金は全額家に置いてきた。借金から始まる職工仕事であるがこれも致し方ないことだ。

 ――内地行きの決断は果たして正しかったのだろうか。一度医者に診てもらうように言い置いてきたが、オモニ(母)はちゃんと言いつけを守ってくれるのだろうか。

 同じ思いがとりとめもなく繰り返し頭の中で渦巻いて、ますます目が冴えるばかりだ。

「小牛か豚を一頭買って育てたらどうでしょうか?」

育てあげれば収入の足しになるのではと、榮植は出がけに父にもちかけたが、力なく拒否されていた。

「おれたちが食うものにも事欠くのに、牛や豚に食わせるものがどこにある」

「赤犬を育てるというのもだめでしょうか」

妹が提案した。大きくなった犬を犬肉市場に売ればという考えだろう。

「同じことだ。犬に食わせる食糧の当てもない」

 代を継いでの小作人根性が染みついている父には、前向きの考えは微塵もない。

日雇いとはいえ、毎年変わらずに仕事をくれたリンゴ園へも義理を欠くことになる心苦しさも、出稼ぎに行くことへのためらいを大きくしていた。

「許してください、今年はお手伝いができません」

 榮植はリンゴ園の主人に消え入りそうな声で出稼ぎに行くことを告げた。

 報告を聞いた主人は無言で榮植の肩に手を置き、一言だけ言い添えてくれた。

「わかったから頑張ってきなさい」

 榮植は垂れた頭を上げられなかった。

 主人は、道中の腹の足しにしなさいと、餞別代わりにひと抱えのリンゴをくれた。

 貰ったリンゴをいまこうして船室の床に並べながら、どのリンゴにも主人の心がこもっていると、榮植はしみじみと大きさも色合いも少しずつ違うリンゴをいとおしむように一個一個手にして主人に感謝した。白いリンゴの花、青い実が赤く熟れて収穫になる。長年携わってきたリンゴ園の作業のひとコマひとコマが瞼に浮かび、榮植の心は後にした邑に引き戻されて、いまにも涙が零れそうになるのを必死の思いで押しとどめた。

 一個のリンゴが傾いた床を転がっていった。隣りの人の足で止まった。

「ミヤネ(ごめんなさい)」

 隣りの人に謝った言葉だったが、同時にリンゴにも語りかけるように「ミヤネ」がやさしい声色の言葉になった。

 ――おまえ、あの邑に帰りたいんだな、ごめんな。

               *

 漆黒の海は穏やかで寒さもさほどではない。黄賢俊と鄭榮植は、リンゴを手にしてまるで旧知の仲のようにしてベンチに肩を並べた。

「その恰好で寒くはないですか?」

賢俊はチョゴリだけの榮植を気遣うように聞いた。

「寒いも寒くないもこれだけの一張羅しかないんだよ。あんたはいい服着てるね」

「いや、安物ですよ。(チョン)()のユニクロで買いました」

 賢俊は奮発して買った茶色のジャケットを見遣りながら応えた。

「鐘路って(ケイ)(ジョウ)のかい?」

「はあ?」

 ケイジョウって聞いたことはあるが、賢俊にはピンとこなかった。ケイジョウとはと問い返せば、せっかくの気楽な会話が込み入った小難しい話になってはと気をつかい、話題を変えて自己紹介風に言った。話の向きを変える接ぎ穂が欲しかった。

「私は黄賢(ファンヒョン)(ジュン)といいます」

「おれは榮植、鄭榮植(チョンヨンシク)

 ぶっきらぼうな言葉づかいや服装はいかにも田舎の人だ。賢俊は榮植の頭髪も気になり、しげしげと見ながら、いままでに経験したこともない不思議な感覚を覚えていた。百年前の時代に引きずり込まれて、居場所なく取り残されたような戸惑い感に捉われ、まるで見ず知らずの町の路地に迷い込んだ気分だ。高熱にうなされ視点が定まらなかったときの感覚にも似ている。酔い止めの薬を飲んだはずなのに、やはり船酔いなのか。それとも幻覚に翻弄されているのだろうか。

 鄭榮植は昔の風俗を描いた絵か写真で見たことのある髪型をしている。二つに分けた頭髪を両耳の上で輪に束ねている。祖父だってそんな髪型をしていなかった大昔の韓国・朝鮮人だ。賢俊が乗り込んだのは釜山二十時発博多行きフェリー、ニューカメリアのはずなのに、二等船室に足を踏み入れたときも一旦目覚めたときも、周りの雰囲気、乗客の様子も榮植の身なりも今の時代からかけ離れている。賢俊は戸惑うばかりだ。それを一身に体現しているのが目の前にいる鄭榮植だ。時代を何十年も遡っている空間にいるとしか思えない。賢俊は今自分がどの時代のどこに居るのか確かめてみようと思って訊いてみた。

「榮植さん、この船はニューカメリア号ですよね、博多行きの」

「いや、金剛丸でしょ。日本人の引率者が乗船前に金剛丸と言っていたような気がするが……」

 言われてみれば韓日を往復するフェリーなら、船内の至るところにハングルと日本語が併記されていてもおかしくないはずだが、日本語ばかりでハングルがどこにも見当たらない。

 榮植は興味もなさそうに答えて、何かを探すような仕草で懐あたりをまさぐっている。

「博多行きですよね?」

賢俊は不安になって重ねて訊いた。まさかとんでもないところへ向かっているわけじゃないだろう。

「そりゃそうだろう、おれたちは博多からまた汽車に乗って八幡(現北九州市)というところへ行くんだから」

 航路だけは間違いなさそうだが、おれたちという言い方と、日本人の引率者とはまた奇妙なことをと、疑問が深まるばかりだ。汽車というのも時代がかった言い方だ。

「八幡へ、何しに行くんです?」

「仕事だよ。製鐵所の職工をやるんだよ」

 榮植が懐をまさぐって取り出したものはタバコだった。

「賢俊さん、マッチ持っていない?」

 ライターではなくマッチ? 賢俊が見たこともないタバコのパッケージと、両切りの紙巻タバコを指に挟んで差し出した。

「私、タバコ吸わないので……。これは何というタバコですか?」

 タバコの銘柄くらいはタバコをたしなまない賢俊だって知っているが、フィルターのない両切りのタバコなど見たことがない。

「キンシだよ」答えながらタバコの箱ごと賢俊に手渡した。

<金鵄>と書かれているが、賢俊には読めないうえに意味もわからない。

「以前は<ゴールデンバット>といったけど、日本とアメリカの戦争が始まってから呼び名を変えたよ」

 戦争? 賢俊にはもう何からなにまで見聞きしたこともない、奇想天外なことばかりだった。

 ――自分はいま想像もつかない世界に居るのではないのだろうか。熱烈な宗教の信者が、時間も空間も異次元の世界に心身を置くのに似ているように、超現実世界に放り込まれているのではないだろうか。ちゃんと元の世界、二十一世紀の二〇一九年に戻れるのであれば、いま居る次元、場所に身を委ねることが無難なのではないか。 

賢俊は居直るように腹を括ることにした。居直ったような、いや達観したような心持ちになれば賢俊には榮植のいろいろが見えてくるにちがいない。この際何でも聞いてやろうと思った。風貌から話しぶり、持ち物からしても自分より少しばかり年上なのだろうか。榮植もそう思っているにちがいない。

「榮植さんは、お歳はいくつなんですか?」

遠慮深そうに訊くと面白い返事が返ってきた。

「数えたこともないけど(ひつじ)年の生まれだよ。二十三かな」

 日本とアメリカの戦争中に二十三歳の未年生まれとはいったい西暦何年の生まれなのか計算の仕方もわからない。それにしてもずいぶん老けて見えるものだ。

「賢俊さんはなに年の生まれ?」

「私は(さる)です」

「それじゃおれの方が一歳年上のお兄さんというわけか」

 賢俊は二十二歳の一九四〇年代の人間にさせられてしまったと、おかしさがこみ上げてきた。

「榮植さんは結婚されているんですか?」

 二十三歳では独身だとは思うが、昔の人は早婚だったと聞いている。

「なに? これを見ればわかるだろう。総角(チョンガー)だよ」

 榮植は自分の頭を指さしながら苦笑している。結い上げた髪形の総角は独り者の象徴なのだ。早婚の風習が残る邑では二十歳を過ぎての独身は肩身が狭いと榮植は言い、「妹を先に嫁がせないといけないんでね」と言い足した。

               *

 未婚を恥じるような榮植の言い草につられて、賢俊はわが身のことに思いを巡らせている。自分だって結婚なんていつのことやらというのが正直な思いだ。

 大学時代に付き合っていた恋人はいまどうしているのだろうかと切ない気持ちがじんわりと広がってくる。結婚や将来のことまで語り合った日々もあったと未練がましさが押し寄せてきた。

 途中休学して二年間の兵役につき、北朝鮮と境を接する江原(カンウォン)()の陸軍部隊に配属になりソウルを離れた。最初の一年近くはひと月と空けずに恋人から手紙がきていたが、軍隊生活が残り十ヵ月ほどになったころから音信が途絶えた。手紙が来なくなるのはみんな同じだと部隊の同僚たちも自嘲気味に口にしたが、賢俊は「俺の彼女はそんなことない」と言い張っていたことが恥ずかしく思い起こされる。復学してから卒業するまで恋人を探し続けたが、むなしい時間だった。就職活動を始めたころは何としても彼女を安心させる就職を決めると心に誓い、彼女を必ず捜し出すことと就職活動に精力を傾けたが、不毛な時間を過ごさなければならなかった。

 今では彼女もだれかいい相手を見つけて結婚し幸せになってくれていれば、それでいいではないかと、ものわかりよく諦める気持ちもあれば、もうあんな性格気立てもよく、それに自分と相性もいい女性に巡り合うこともないだろうと、こみ上げてくる切ない気持ちが繰り返し訪れる三年間だった。その間、体を寄せ合っていた生々しい感触が記憶の片隅にかすかに残っているだけで、女性の肌から遠ざかって久しい。

 だれが言い始めたのか、賢俊世代の大学生の間では将来に絶望的な三放とか五放、さらにはn放(限りがない)、すべてを放棄し諦めるという言葉が流布している。恋愛、結婚、出産、就職、マイホーム、豊かな生活など夢のまた夢、人間関係さえも遠ざけ諦めるということだ。自虐的な、自嘲の笑いさえも出てこない時代を呪うばかりだ。将来に絶望し自殺した人のことを聞いても、驚きもなく、そうなんだとそれをなんとも思わないほどに感情が麻痺してしまっている。こうしていま自分が大韓海峡の上にいることのほうが、賢俊には現実感に乏しく不思議にさえ思えてくるのだった。

故郷を離れて遠く九州まで職工の出稼ぎに出掛ける榮植と、七十数年を隔てた自分とやろうとしていることになにも変わりがないではないか。

               *

「海も静かだし星がきれいですね。星空なんて久しぶりに見ました。月は海面に映っていますよ」

 ソウルの夜空なんて賢俊は見上げた記憶もない。ましてやいまの季節は中国大陸からの黄砂とPM二・五に覆われ、大多数の市民はマスクが手離せない。

「おれの邑では星なんて一年中見えているよ」

 榮植は夜空を見上げる様子もなく興味もないようだ。

「月が明るい夜は好きじゃないどころか迷惑なくらいだ」

「どうしてですか?」

「そりゃそうだろよ、山に入れないんだから」

 夜陰に紛れて薪を取りに行く、取りに行くのではなく盗み取りに行くのだと榮植は笑っている。賢俊には榮植の言うことが理解できない。

「一部の金持ちが個人で持っている山を除いて、たいがいの山は公有林といって朝鮮総督府の持ち物。勝手に木を伐ったり、薪を取りに行って、それがバレたら駐在所に突き出されて、罰金を取られるよ。だから真っ暗闇の夜にこっそり盗りに行くんだ」

「ドロボーってわけですか」

「そうよ。危険は承知で、そうでもしなけりゃオンドルの燃料どころか煮炊きに必要な薪もない。飢え死にするか凍え死ぬかのどっちかだよ」

 オンドルの燃料に練炭を使っていた時代があったことは賢俊も知っていたが、薪で煮炊きをしたり、オンドルを温める燃料が山から盗ってきた薪などと想像できないでいた。

「逞しいんですね」

「生きるか死ぬかなんてそんなもんだよ。追いつめられれば人は何だってできるさ」

 榮植の薪の話から、賢俊は就職活動中に三年もの長い間を過ごした()試院(シウォン)の部屋を忌まわしく思い返す。まともなアパートの高い賃料を払えない地方出身の大学生や日雇いの労働者が、最低限の生活を営む簡易宿泊所のことだ。三、四坪程度のエアコンの設備もない部屋、キッチンやトイレ、シャワーは共同の宿泊所だった。月の賃料が五十万ウォン(五万円弱)ばかりの夜帰って寝るだけのような部屋。キッチンといっても簡単なラーメンを作って食べるだけのような毎日だった。真冬ともなれば幾枚もの毛布に包まって寒さを凌ぐ生活。同じ屋根の下にいる人たちと会話を交わすこともなく、朝早くに出掛けアルバイトの日々。スマートフォンだけが社会との窓口みたいな孤独な生活だった。将来の希望の欠片も見出せない冬の夜の侘しさは、発狂してしまうかもしれないという恐怖心が、自殺願望を押しとどめてくれるというパラドックスに助けられたような気がする。生活に疲れ、将来一人前の生活も望めず自殺した人の話も、アルバイト先の同僚から聞かされることが後を絶たない。

               *

「やっぱり外は寒いよ、中の談話室みたいなところへ行こうよ。タバコも吸いたいし、だれかマッチを持っている人がいるかもしれない」

榮植は話を中断して早々に立ち上がった。

 五つほどのテーブルがある談話室には学生服姿の人が、物思いに耽るようにして独りタバコをふかしていた。賢俊たちと同じ二等船室にいた人だ。

「すみません、マッチを貸してもらえませんかね」

 榮植は学生服の人の隣りに無遠慮に腰をおろしてタバコを差し出した。日本人かもしれないのにウリマル(韓国語)で話しかけた。遠慮会釈もなくあっけらかんとした口ぶりだ。

 学生服の人は微笑を浮かべてマッチを取り出した。テーブルの上の灰皿にはすでに三、四本の吸い殻がある。ヘビースモーカーなのだろう。

「内地人(日本人)かもしれないと思ったけど、同胞の人でよかった。あなたもやっぱり眠れませんか? よかったら一緒に少し時間つぶしましょう」

人懐っこく榮植が語り掛けている。

 内地人? その言い回しに賢俊は怪訝な思いで二人に見入った。今は、朝鮮半島が日本に統治されている時間の中に居ることに改めて思い至る。

 賢俊は榮植の後ろに立って学生と榮植のやり取りを興味もなく見ていたが、学生と目が合った賢俊は誰か懐かしい人に再会したような思いがした。

――この人は誰だ? おれは見たことがある。

 急に胸が高鳴り始め鼓動が喉元までせりあがってきた。懸命に記憶を辿った。初等学校(小学校)か中学の同級生、高校、大学時代の……。どこまで遡っても思い浮かぶ人物がいない。

「大学生かい?」

 タバコに火をつけた榮植がマッチを返しながら横柄な聞き方をした。学生は微笑みながら頷くだけだ。

「内地の学校に通っているのかい? どこの学校?」

 榮植は話し好きで初めての人でも物怖じすることがない開けっぴろげな人柄のようだ。

 寡黙そうな学生もつい引き込まれるように穏やかに、か細い口調で答えた。

「これから東京の大学に入学するところです」

「たいしたもんだね、戦争中だというのに。働きに行くおれとはえらい違いだな」

 賢俊は学生の様子に目を離すことなく耳を澄ませて、まだ誰だったかと記憶を手繰っていた。いまは一九四二年ということを忘れてしまっていた。学生時代の知人であるはずがないのだということにやっと気づいた。学生の次の言葉に、記憶に手繰り寄せられるものがあった。何の勉強をするのかという榮植の質問に、学生が仕方なさそうに簡単に答えた。

「英文学です。英詩を」

 英詩という一言に、ぼやけていた記憶が鮮明になった。

――これは、この人は(ユン)東柱(ドンジュ)だ! 中学、高校の国語の教科書、そこに載っていた写真の人だ! 間違いない。韓国人ならだれもが知っているあの国民的詩人の尹東柱。

 顔かたちはいかにも育ちのよさそうな端正な目鼻立ち、静謐な雰囲気を醸し出す表情は、写真でみた通りのものだ。教科書で見た写真は大学の帽子を被っていたが、学生服だけの上半身の写真とまったく同じ人だ。

 賢俊の心臓の鼓動は際限なく脈を打ち続けた。

「どこの出身、家はどこなの?」

 榮植は、遠慮する様子もなく慶尚道なまりの蓮っ葉な言い方で質問するが、尹東柱は薄い笑みをたたえて答えたものかどうか困った風情の表情をしている。

「満州の北間(プッカン)()(現中国吉林省)の出身です」

尹東柱は新しいタバコを手にしながら答えている。

「そんな遠くから東京の大学へ行こうっていうんだから、実家は金持ち両班(ヤンバン)(特権階級)の家柄なんだろうな。おれなんかとは天と地ほどのちがいだよ。あんたも一つ食うかい?」

 榮植は懐からリンゴを取り出してテーブルの上においた。

「ほうリンゴですか。いただきます、リンゴ、好きなんですよ」興が乗ってきたようにしてリンゴを手にしている。

 黙って話を聞いていた賢俊は、二人に見えないように密かにスマートフォンを取り出してテーブルの下で電源を入れた。インターネット検索のNAVERを立ち上げて、<尹東柱>を検索しようとするが、待ち受け画面は表示されるが、どうしてもアプリが立ち上がってこない。乗船間際までは何事もなくどのアプリも問題なかったのにと苛ついた。<尹東柱>を調べる手段が断たれてしまった。詩や小説といった文学に親しむ習慣がなかったことが悔やまれる。教科書の詩の記憶もわずかしかない。――天を仰いで……、みたいなそんな詩だったような気がする。天とか空、星といったものに詩人の心が託されている心象風景だったと思う。そのほかに尹東柱で知っていることといえば、日本のどこかの刑務所服役中に獄死をしたというくらいだ。するといま目の前にいる人が数年後に死ぬということなのか。

 賢俊は尹東柱を凝視し、小さく身震いがした。

 榮植と尹東柱はリンゴを食べ始めていた。

「あんたは百姓なんてしたことないんだろ。その朝顔の蕾みたいな柔らかそうな手を見ればわかるよ。ところで名前はなんていうの?」

 尹東柱は黙ってしまい、遠くに視線をずらしたその目は言いたくないと告げているようだ。

「名前くらいいいだろう、何かと話づらいよ。おれは鄭榮植。八幡の製鉄所に出稼ぎにいくところさ。二年契約でね」

「平沼といいます。よろしく」

言い淀んでいたがはっきりした口調だった。

「日本人かい? ウリマル(朝鮮語)通じるんだから朝鮮人なんだろう、歳はいくつ?」

「創氏改名ってやつですよ。日本人風の苗字にしろという通達でしたから。変えたくなかったんですが、やむを得ない事情があって……歳は二十四です」

「おれの家は苗字も名前も変えなかった。手続きするだけでも手数料を取るというからそんなことに使う金なんてどこにもない。やむを得ない事情って何だかわからんが、名前を変えたからといって得することもないんでしょ?」

 賢俊は尹東柱の事情というのを聞きたいと思った。創氏改名というのがどんなものなのか言葉は聞いたことがあったが、学校では何も詳しいことは教えてくれなかった。日本はわが国を奪い、言葉も氏名も奪った。未来永劫許すことのできない悪行をわが国に施したという徹底した反日教育をたたき込まれただけだ。

「この人だって朝鮮の名前のままだよ」

榮植は賢俊を指差しながら言った。

 賢俊は話を振られてドギマギした。一九四二年の人間になりきらなければと自分に言い聞かせるように、初めて尹東柱に向かって口を利いた。

「創氏改名は内地の大学に入学手続きするためにやむを得ず、とかですか?」

「そうです。東京に行き、学校に入学するためには創氏改名をしないと内地への渡航証明書を出してもらえなかったんですよ」

「そうなんですか、仕方がないですね。そこまでしても東京の大学で学びたいという向学心ってすごいですね。詩を勉強されるということは、ご自分も詩を書いていらっしゃるんですよね、平沼さんは」

「ええ、へたくそなものをね。でも全部ハングルで書きます。それだけは譲れません、われわれ朝鮮人の心ですから」

「そりゃそうだよ。賢俊さんもおれも銭を稼ぎに行くだけで何も日本人になるわけじゃないんだから」

 榮植は尹東柱の思いも代弁するように胸を張った。

「リンゴで思い出しました。リンゴを題材にした、つたない童詩があります。読みますか?」

 尹東柱はテーブルにあるナプキンと万年筆を手にして、自作の詩を書き始めた。

    リンゴ(伊吹郷訳・影書房)

  アカイ リンゴ ヒトツヲ

  トウサン、カアサン

  ネエサン、ボク、ノ四ニンデ

  カワノママ シンマデ

  ゼンブ ワケテ タベタ

「下世話なことだけど、詩なんぞを書いて金稼げるものなの?」

 榮植はリンゴの童詩が書かれたナプキンを手にしながら尹東柱に質問した。

「金儲けには無縁どころか、世の中には無用なものかもしれませんね」

「それでもそんなことを勉強しようというのだから、何かよっぽどの理由があるんだろうな。おれにはさっぱりわからんが」

「人には、人生には損得勘定ぬきで、どうしてもやらなきゃいけないこと、自分の中で突き上げてくるものには逆らえないなにかがあるのでしょう。理性ではどうにもコントロールできないものとでもいうのでしょうか」、

「おれみたいな無学な者にはよくわからんが、そんなものかねえ」

「性欲みたいな欲望と似ているのかもしれませんよ、私が詩を書きたいというのは。衝動とでもいうんですかね」

 尹東柱は榮植と賢俊にもわかりやすいように、笑いながら自分の気持ちを伝えようとしている。

「どんな詩を書きたいとお考えなんですか?」

 賢俊は初歩的な質問をした。後世の人間の賢俊には、目の前の人が国民に知らない人はいないほどの有名な詩人で、愛国の民族詩人、抵抗詩人という評価を得ている。それがほんとうに巷間語り継がれているような意図で書かれた詩なのかどうか聞いてみたいと思った。

「私はクリスチャンですから全能の神と交感できるような、神に感謝を捧げるような詩を書きたいですね」

 教科書で読んだ詩の冒頭にある<天>とは全能の神だったのかと、賢俊は勝手に理解し、改めて読んでみようと思った。

「国や言葉を奪われている民族の悲憤や抵抗を書こうとは?」

「そんなことを詩や小説にして、それが官憲に知れたら治安維持法で警察にしょっぴかれます。そんなことは私には書けませんよ。文学をやる人間や芸術を志す者は、その存在自体が有害人間なんですよ、今の世の中は。こんな話は止めましょう。この船の中のどこでだれが聞き耳を立てているか、注意しないと」

 尹東柱は周りに目を配るようにして、もの静かな語り口をさらに声をひそめて言った。

「時間つぶしの世間話がえらく難しいことになっちまったな。両班・地主が考えていることっていうのは、おれにはさっぱりわからん。どうやって食い扶持を見つけ出すかが心配なおれと違って、何の心配もしなくてすむ人種のことは」

 榮植の口ぶりはひがみっぽさもなく、真っ正直な言いぐさが場を和ませる。

「小難しい話になってすみません。詩を書く人なんて会ったことがないもんですから」

「気にすることはないよ。それよりこのリンゴという詩は、おれの家のことを言ってるようなもんだな。これ、もらってもいいかい」

榮植はナプキンをひょいとつまみあげた。

「私の家も小地主かもしれませんが、自作農でもあるんですよ。榮植さんのおっしゃることはわかります」

「そりゃ嬉しいね。百姓の関心事は天気のことばかり。旱魃や長雨がどれほど百姓にはこたえることか」

「満州は冷害と旱魃ですね」

「天候不順だと百姓仕事だけではなく、日雇いの仕事もなくなる。そうすると一家餓死するほかないんだよ。だからこうやって出稼ぎに出るわけさ」

「出稼ぎ先の職はどうやって探したんですか?」

 賢俊は自身の就活に重ねるようにして訊いた。

「官斡旋の職工募集に応募されたんですか?」

尹東柱が補助線を引いた。

「何だ、そりゃ?」榮植が返した。

 尹東柱がわかり易く説明した。

 それまで民間の企業が朝鮮人の職工や土工の労働者を自由に募集していたが、戦争の拡大に伴い、朝鮮総督府の意を受けた外郭組織の労務協会が、官の名のもとに労働者募集の任にあたったのが官斡旋といわれるものだ。募集の方法はどうであれ、軍需産業を中心とした企業への労働者の送り込みは、日本にとって喫緊の課題だ。金を稼ぎたい朝鮮人側と企業の需要と供給の一致は、年々内地への職を求める渡航者数を増やしていった。

               *

 内地行きを決心した榮植は、邑役場で一通りの面談に臨んだ。人手不足の企業からすれば採否を決める面談ではなく、人物の調書取りだった。

 役場の朝鮮人の職員は、ノート大のわら半紙を前にして榮植にインタビューをした。

榮植の生年月日から始まり、家族構成と各自の年齢、本貫(氏族の発祥地)、住所、これまでのおおよその年収、日本語の理解度などを訊かれた。調査用紙に書き込まれる日本語は、榮植には理解できない漢字ばかりだった。

調書の内容は働くことになる職場と、地元警察、特高(特別高等警察)内に設けられている内鮮係という部署が管理することになっているものだ。内地にいる朝鮮人の監視のための協和会という親睦団体に名を借りた組織を掌握しているのが内鮮係だ。食糧配給を受け取るためと内鮮融和を図るというのは名目上のことで、警察の真意は民族運動や独立運動をする朝鮮人の監視を主目的としていた。

日本語の程度を訊かれた榮植は、

「普通学校(小学校)三年生までしか行ってないので、カタコトの日本語と、学校で習ったアイウエオの五十音が読めるだけです」

と答えた。榮植の関心事は給料のことだけだった。

「会社の規定の給料通りで、内地人と半島出身者との待遇格差はありません。それは社長通達が出されていて規定の給料が支払われますから、何も心配いりません。郵便為替で家への送金も会社でやってくれることになっています」

 食費や協和会の会費など差し引かれはしたが、後日の榮植は聞かされた通りの給与を手にし、家族への送金もできたことを確認することになる。

 榮植にとっての気がかりは、地主への借金返済とオモニ(母)を医者に診せる費用のことだった。親に尽くす<孝>を第一に考えるのは朝鮮では絶対的な儒教社会の何ものにもかえられない倫理、価値なのだ。不孝は人にあらずの考えが徹底されている。

「内地で働いている人の中には、嫁さんや家族を呼び寄せている人たちもいるんですよ。頑張ればいまよりずっといい生活もできるでしょう」

 面接の職員は励ますように言ったが、榮植は結婚もしていなければ、そんな考えもない。とにかく一家の窮状を救い出すことしか頭になかった。

 榮植は尹東柱が話した渡航証明書をもらう手間はなにもなく、すぐに手にすることもできたうえに、日本人風に名前を変えることもなく、鄭榮植のままで内地に向かっている。官お墨付きの渡航には便宜が図られている。

               *

 榮植の出稼ぎに向かうまでの話に耳を傾けながら、賢俊は日本企業への就職が決まるまでの経緯を思い、同時にまた現在韓日間で大きな問題になっている徴用工訴訟にも関心を寄せていた。無関心ではいられなかったからだ。

 賢俊は大学で環境工学を学んだ。しかしソウルの三流レベルの大学卒業では目ぼしい会社への就職など夢のまた夢でしかなかった。

 SKYと並び称されるソウル大、高麗(コリョ)大、延世(ヨンセ)大以外は歯牙にもかけない韓国の財閥大企業はいうにおよばず、中堅の商社、建設会社など幾多の、名前の知られた企業の入社試験はことごとく不合格だった。そのたびに田舎の両親の顔がちらつき、吐きそうになるほど胸を締めつけられた。乏しい貯えや収入の中から学費やソウルでの生活費を捻出してくれたことを思うと、両親に申し訳なくいたたまれなさが募った。

 そういえば「(ウル)(ゴル)(タップ)」という古い言葉があったなあとぼんやり思った。学問の府を「象牙の塔」と呼ぶことに皮肉をこめて、子弟を大学にやるために農家が牛を売って学費を作ることから、大学は牛の骨でできた塔という意味だ。教育に惜しまず金を注ぎ込むお国柄の面目躍如だ。大学にそれほどの価値があるのだろうかと、賢俊は疑問を抱いたことはたびたびだったが、学歴による格差が歴然としている社会にあっては、大学進学は当然のことだった。それでもこれほどに就職に際して苦境に立たされるとは思いもしなかった。ましてや日本の企業に職を得るなど想像もできないことだった。日本人の留学生との出会いを感慨深く思い浮かべて、あれが縁だったのかなあ、と人知の及ばない定められた運命というのがあるのかもしれないと思う。

絶望に打ちのめされそうになりながらも耐え忍んで就職活動を続け、いつ終わるともしれないアルバイトの日々、時間だけがいたずらに過ぎていく毎日は、暗澹たる思いだけが澱のように積もるばかりだった。こんな国のこんな時代に生まれた不運を恨んでも何の進歩もなく、天を仰いでも出口なしにどうすることもできなかった。

 アルバイトに疲れ、心身ともにぐったりとして考試院の狭いベッドに潜り込んでいた賢俊は、気だるいばかりのメールの着信音にうんざりしながらスマートフォンに手を伸ばした。軍隊時代に親しかった先輩からの久しぶりのメールだった。

――東京へ来て半年になる。アルバイトだが結構充実している。ソウルよりも時間給もよく、仕事環境も悪くない。賢俊、就職は決まったか? まだだったら一度日本へ来てみる価値あるよ。住まいのことは心配するな、メール待ってる。

アルバイトという非正規職なのに結構充実しているというのはどういうことなのだろうか。賢俊がいま働いているコンビニのアルバイトは低賃金のうえに理不尽を強いられるひどい待遇だ。お客の少ない時間帯には正規の休憩時間扱いではなく、強制的に休憩を取らされ、その時間は時給にカウントされない。朝の九時から夜の九時まで時間だけは拘束されながら、一方的に休息を取らされ、その時間分は働いたことにはならないのだ。非正規職への容赦ない仕打ちが常態化している。就職活動をしている一流大学卒の非正規職さえもいることに、だれも驚きもしない異常さなのだ。日本に滞在している先輩の、充実しているという意味が賢俊にはどうにも理解できない。日本と韓国の何がちがっているのだろうか。

 先輩の明るい文面に、賢俊はかすかな光明を見る思いで気持ちが動いた。日本に無縁でもなかった。兵役を終えた後の学生時代を過ごした下宿で、同年齢の日本人語学留学生と懇意になり、留学生の覚束ない韓国語の相手をしているうちに日本語に興味を覚え、互いに韓日両語を交えた会話が、日本への関心を抱くきっかけになった。

 そのころの賢俊は、就職のことが頭を離れない多くの韓国人学生のご多聞にたがわず、英会話学校へ通い始めていた。就職に際して英語や中国語など外国語の資格、留学経験、ボランティア経験など、身上書に記載できるようなものがどうしても必要と、韓国のほとんどの学生が考えている。課外で取る資格はスペックと呼ばれ、そのための学資の捻出も一筋縄にはいかない。TOEIC800点以上という学生はざらにいる。それほどに就職は狭き門だ。  

賢俊は英語学校をやめた。学費が続かないことと、どう頑張ってみてもTOEIC800点以上なんて至難の業だとわかった。日本人留学生との出会いがきっかけになった日本語は興味半分で独学継続をしていた。

 先輩のメールに喚起されるように日本を意識し始めたときに目にしたのが、日本企業の就職説明会が記載された就職情報サイトだった。

ソウルの江南区にある国際展示場で開かれた日本企業100社ほどの就職説明会の一部始終を、賢俊はありありと思い出すことができる。賢俊の質問にも耳を傾け、また自社との適性を知ろうとする質問を繰り出し、丁寧な自社紹介をしてくれたのがプラント建設を本業とする中堅の会社だった。昨年十二月のことだ。

 身上書を基にした質疑応答に賢俊は小さな感動を覚えた。日本語で身上書に添って自己紹介のあらましを話した。質問されたことは、日本へ行くとなった場合の家族の了承をとれるのか、日本以外の外国での仕事を命じられても対応可能かだった。卒業した大学のことなど一切聞かれることもなく、面接の日本人はきっぱりと言った。

「わが社はどの大学を卒業しているかなど考慮しません。最も専門的に取り組んだ学科の分野は何かを聞かせてください」

 どこの大学を卒業しているかを問わないというのは、韓国の企業では考えられないことだ。「信じられない」と言うと、面接の担当者は、

「学校のブランドで採用の可否を決めるほどわが社は甘くないですよ」とこともなげに言った。

 国が違えばこれほどに採用の基準が違うのかと、賢俊は感動した。面接担当者は、給与その他待遇は日本人学生となんら変わらないとも言い足した。

「一週間以内に合否の連絡をメールします」これだけだった。

 黄賢俊が入社内定のメールを受け取ったのはぴったり一週間後だった。日を空けず内定の封書が届き、そこにはすでに日本での入社前研修の案内が同封されていた。しかし内定の通知を受け取りながら、賢俊は一抹の不安を抱いていた。

 徴用工訴訟の大法院(最高裁)判決が出たのは、賢俊が日本企業の内定をもらった時期と重なった。やっと決まった就職が韓日間のいざこざのために内定が取り消されるのではないかと不安に駆られた。賢俊は新聞報道に敏感になり、成り行きに注目していた。何事も善か悪かに二分して、悪に対しては感情的に排斥する韓国社会の悪弊は対立を激しくするばかりで、和解という妥協をしないのが韓国人だ。どこまで韓日間の歴史問題や時の政治に翻弄されなければならないのかと、賢俊は憤怒を覚え、嘆息した。

               *

 七十七年前――いや、自分がいま居る一九四二年だ――の榮植が出稼ぎに行くまでの経緯や面接の様子に、賢俊は偶然ではない奇妙な一致に気づいた。

 尹東柱が口にし、わかり易く説明してくれた<官斡旋の職工募集>と、自分が得た日本企業への就職内定までのことだ。就職難にあえぐ韓国の大学生と、人手不足解消にやっきとなっている日本企業。その橋渡し仲介を企画したのはKOTRA(大韓貿易投資公社)だ。韓国政府傘下のまぎれもない公的機関である。榮植の<官斡旋>とKOTRAの仲介。何が違うというのか。

 それでは二〇一〇年代になって、にわかに韓日間政府の対立が注目を浴びている<徴用工問題>の<徴用>とは榮植の時代にどう受け止められていたのか。

 賢俊はスマートフォンのインターネットで、榮植と尹東柱の二人に気づかれないよう慎重に<徴用工>の検索を試みた。やっぱりNAVERもグーグルも、どのアプリも何の反応もせず、役に立たない。賢俊の苛立ちだけが募った。尹東柱なら知っているかもしれない。唐突でもいいと賢俊は尹東柱に訊いた。

「平沼さん、徴用ってなんですか? 徴用制度というのはそもそも何なんですか?」

 尹東柱は首を傾げて万年筆を取り出した。

「どんな言葉なんですか? 字を書いてみてください」

 賢俊はやっとひねり出すようにして、おぼつかない漢字を書いて差し出した。

 学校では漢字などほとんど学ぶ機会もなかった。ハングル一辺倒の自国第一主義が果たして正しいのかどうかと疑問に思いながら<徴用>と書いた。

「ああ<徴用>のことですか。おおよそのことはわかります」

 日本政府(近衛内閣)は中国戦線の拡大に多くの兵を招集した。それにより各職場では労働者不足となり、国家総動員法に基づく国民徴用令を一九三九年に発令した。一般国民の工場などの企業への服務就業を国家が一方的に強制できるというものだった。

「いまのところ日本人だけに適用されていますが、いずれ朝鮮人の動員もあるかもしれませんね」

 尹東柱は淡々と話しているが、何かを見据えるようにして沈鬱そうな表情になった。

「おれは二年契約で働きに行くのだが、おれたちもその徴用とかいうので働かされるかもしれないということ? そうなったら無給で使われるってことかい?」

榮植が敏感に反応した。

「いまのところは無給ということはないみたいですが、どうなることやら私にもわかりません」

「おれたちはどうしたらいいんだい?」

「お上には逆らえない。まあ目立たないように、身を顰めるようにして、仕事も自分の意志で選べるようになる時まで待つしかないということでしょうね」

 尹東柱の説明には、民族運動や独立運動など、抵抗の臭いがする内容やニュアンスなどどこにもなく、自分に言い聞かせるように考えを伝えていた。

 この人はほんとうに権力に逆らって逮捕され、刑務所送りになったのだろうかと、賢俊は疑問に思い、時代の犠牲にされた尹東柱のいたたまれなさを思わずにはいられない。

 いつの時代も名もなき庶民は、権力のある者、国家の政策に翻弄され、水面に漂う木の葉のように時の流れに身を委ねるしかないのかと、賢俊は、生まれ育ちを歎じることも、夢想に現を抜かすことも何の意味もないと自覚するしかない。それでも学歴や資格によって峻別される格差社会を思わずにはいられない。学歴による格差というものも生まれ育ちや貧富の差が反映され、さらに貧富差が拡大される現代の韓国社会にやるせなさは募る。一流大学、一流企業という用意されたようなコースに乗ることができるのは、ごく一握りの家庭の子女ばかりだ。官吏登用試験の「科挙」の受験資格が、特権階級の両班だけに与えられていた李朝の時代となんら変わらないのが韓国だ。

「ドブ川から龍が出る」ということわざはいまや死語だと、賢俊はわが身だけではなく、大半の若者を見回してしみじみと思う。名も財産もない家、貧乏人の家庭から出世する人が出るなど韓国社会では皆無だと、ドブ川の龍はどこの国のことわざかとあざ笑いたくなった。

 榮植も尹東柱も自分も、それでも健気に懸命に自分の信念に忠実に生きようとしている。

両班であれ底辺の生まれ育ちであれ、若者には夢を開かせる平等な未来が約束されているはずだ。賢俊の胸奥には雲の切れ間から一条の光が射すような思いが湧きあがってきた。

進む道は違っても三者三様の託した夢を語り合えたこの船上の出会いだけでも大切にしようと賢俊は言い聞かせた。

 しかし尹東柱の静かなたたずまいを見ればみるほど、悲しさや憤り、やるせなさがこみ上げてくる。

――平沼さん、いや尹東柱さん、あなたは東京に行ってはいけません。すぐに釜山港へ引き返さなければなりません。立派な詩なんて書かなくてもいいのです。後世に民族詩人だ、抵抗の詩人だと崇め奉られなくてもいいではないですか。

 賢俊は土下座してでもそう叫び、歴史を変えてもいいではないですかと懇願したい思いを必死になって押さえた。

「ずいぶん話し込んでしまいましたね。私はこれから甲板へ行って、満天の星空でも眺めてきます」

 尹東柱は立ち上がりながら「おやすみなさい」という一言と、はにかむような微笑と研ぎ澄まされた静謐な雰囲気を残して、甲板への出口に向かって歩いて行った。

               *

 眠れない夜の無聊を慰めるために船室を抜け出してはみたものの、戻って横になったが頭が冴えて寝つけない。賢俊は、榮植と尹東柱との邂逅の不思議を反芻して、ますます眠れそうになくなった。七十七年前の同世代の人たちと自分は何がちがうのだろうと何度も考える。

 尹東柱は三年後にはこの世の人ではない。それがわかっていない人間とはいえ、残りの三年を詩作という世界に没頭し、わが青春を一刻たりとも手を抜かず、七十七年後にも色褪せることのない珠玉の詩をもたらした。それが彼の運命で、生き長らえることのできなかった時間ではあるが、凝縮された人生を全うしたと同じではないか。天から与えられた命の限りを詩とともに生きたと思えばと、賢俊は考えることにした。そして去り際に見た尹東柱の、はにかむような微笑は生涯忘れないだろう。自分だけが知っている宝物にしようと、賢俊は胸に手を当てるようにして深く刻み込んだ。

横にいてすでに深い眠りについている榮植は、八幡で仕事に就いたあと、どんな境遇におかれたのか、徴用もされたかもしれない。また解放後(戦後)どんな生活だったのだろうか。明るさと屈託のない素朴な人柄は、リンゴ園の一つも手に入れてこよなくリンゴを慈しむ生活を送ったことを願わずにはいられない。しかし解放を期に慶尚南道の家へ帰還したとしても、北と南に分断され同じ民族が相撃つ戦いとなった一九五〇年の六二五(ユギオ)事変(朝鮮戦争)を榮植は経験したのだろうか。三年も続いた戦乱では無事だったのだろうか。苦難の時代をどうやって過ごしてきたのだろうかと思えば、胸が痛む。榮植のあけすけで見栄を張らない韓国人らしからぬ真っ正直さを思い、長命を祈るばかりだ。

 祖父母に聞かされた六二五事変の苦難の日々、事変後に生まれた賢俊の父や父の弟妹を育てた苦労話などに重ねて、榮植の一生に思いを巡らせているうちに、賢俊も眠りに落ちていた。

 賢俊は夢の中で、学生時代の下宿で仲よかった日本人留学生と議論を戦わせていた。韓国語と日本語が入り乱れ、唾のしぶきが飛び、互いに掴みかからんばかりの勢いだった。

「田畑で働いているような人たちを力ずくで追い立てるようにして、日本企業の徴用労務者にしたとは非人道的、酷すぎるだろう」

「徴用工についての誤解もはなはだしい。徴用令という法律に基づいて合法的に労務に就かせたのが徴用といわれるものだ」

「有無を言わせずわが国の国民を日本へ連れていき、過酷な労働を強いたのが強制連行の徴用だ。そのことに対して賠償しろというのが、徴用工賠償の判決なのだ」

「バカを言わないでくれ。そもそも当時の朝鮮人は日本国民だった。その国民に徴用令状を発行して、国民の義務として動員で働かせたのが徴用といわれるものだ。徴兵の令状が俗に<赤紙>といわれたのに模して<白紙>といわれたのが徴用の令状なのだよ」

「強制的に連行して無給で働かせた。まるで奴隷と同じだ。だからいま損害賠償をしろと言ってなにが悪い」

「まったく違う。法に基づいた徴用で日本人朝鮮人の区別なく、給料は支払われ留守家族には収入減の補償までしている」

「徴用工にされたのは二十万人とも五十万人ともいわれている」

「それだって数字の根拠がないばかりか、朝鮮人に対して徴用令が適用されたのは一九四四年の九月から。それも一九四五年の四月で打ち切りだ」

「人数や期間なんて関係ない。苦痛を強いたことに対して賠償するのは国家、企業、人間として当然のことだろう。法律なんて関係ない」

「感情、情緒で物事を言ったら話にならない。理路整然と話を進めなきゃ。まずたったの八か月で数十万人を運ぶというのは不可能だ。当時アメリカ軍の潜水艦からの魚雷を警戒して関釜連絡船の運航は不定期を強いられ、一九四五年四月以降はほとんど運行できなかった。賠償のことにしたって、一九六五年の日韓請求権協定(日韓条約)の締結で個人に対する補償や賠償などすべて解決済になっていることは知っているだろう?」

「…………? そんなことは関係ないんだよ。わが国の大法院(最高裁)が個人の請求権は消滅していないと言っているんだから、日本の企業は賠償に応じればいいんだよ」

「そんなこと言ったら条約や国と国との約束も国際法もあったもんじゃない。交通事故のケガで示談が成立して何十年も経って、古傷が痛むから病院に行く、だから治療費よこせというようなもんだな。そんな理屈が通る訳がない」

「劣悪な環境での過酷な労働に対する慰謝料というのはないのか。法がすべてだというのか。人間としての情けというのはないのか。日本はガタガタ言わずに、金払えばいいんだよ。謝罪もすればいいんだよ」

               *

賢俊は自分の夢の中の怒鳴り声で目が醒めた。

 起き上がった賢俊が船室を見回すと、自分以外には誰もいないことに気づき、船室の様子もまた乗り込んだときとひどく違っているようだった。あのネットの写真で見ていたフェリーのニューカメリア号の二等船室に変わっていた。

 鄭榮植も尹東柱もみんな夢だったのだろうか。二十一世紀の現代に帰ってきたにちがいない。だれも周りにいないのは、博多港に着いたのだろうか。博多着は七時三十分のはずだが、と思いながら時計を見た。まだ一時間も余裕があるが、賢俊は大慌てで身の回りを整え、ロビーへ向かおうとリュックを背にすると、昨夜口にしなかったリンゴが転がっていた。持っていこうかどうしようかと躊躇したが、これを手にすればまた一九四二年に引き戻されそうな気がして、そのままにしていくことにした。

 賢俊はデッキに足を向けた。フェリーは朝ぼらけの博多湾外に停泊し港への着岸を待っているようだ。遠望する博多の街のビル群も一日の始まりを待って、蜃気楼のように春霞に包まれている。

 デッキに立った賢俊は、本来ならば初めての日本の景色を見て、ときめくような気分を抱いてもいいはずなのに何の感慨もなく、思わず知らずのうちに榮植と尹東柱を探すことに気持ちを奪われていた。民族服とあの髪型の榮植、学生服の尹東柱ならば、探すまでもなく一目でそれとわかるはずだ。それとなく見回しながら一廻りしたが、それらしい人物はどこにもいない。今風の若者のグループやスーツ姿の男性の一団、老夫婦などが思い思いに街の遠景を楽しんでいるだけだった。二〇一九年春の次元に戻ったのだろうと半信半疑のまま、賢俊はロビーへ戻り、さらにレストランへ向かった。五、六人の船客がコーヒーカップを手にして寛いでいるだけで榮植も尹東柱もいない。

 テーブル椅子の一つに着いた賢俊は、

「そうだ、そうだった。忘れていた」と独りごちて、スマートフォンを取り出した。一九四二年から現代へ戻っているのなら、スマートフォンが機能しているはずだ。

真っ先に尹東柱を検索しなければ。検索アプリはいとも簡単に起ち上がった。ソウルを出る前に買い替えていた最新のスマートフォンだ。尹東柱を検索すると、ぎっしり書き込まれたテキストと、いくつもの写真が並んでいた。数時間前まで一緒だったまぎれもない尹東柱の顔写真や実家の写真、いくつかの詩碑の写真だった。食い入るようにしてテキストを読み進めた。

一九一七年、北間島の生まれ、延禧(ヨンヒ)専門学校から東京の立教大学英文科、東京神田の韓人YMCAに住所登録したこと、実際の住まいは高田馬場駅近くの下宿、京都の同志社大学への転籍、治安維持法違反容疑で逮捕、福岡の刑務所での獄死。尹東柱が自分から口にしたことを補足するような内容が書き連ねられていた。敬虔なクリスチャンにして詩人と記載されていた。

――尹東柱の最期の地となった福岡をいま目前にしているのだ。祖国の朝鮮半島と指呼の隔たりしかない地で死んだ尹東柱の思いはいかばかりだったのだろうか。

賢俊はいま一度福岡のビル街の遠景をこの目に収めようと急ぎ足でデッキへ戻って行った。フェリーは朝日にくっきりとし始めた街並みをみせる博多港にゆるゆるとした速さで進んで行った。

 デッキの一角にスーツ姿の十人ばかりの一群が横並びになり、日本語で書かれた横断幕を広げ、団体の記念撮影をしているのが目に入った。横断幕には「新日鉄徴用工訴訟団」と大きく墨書されていた。

 賢俊は目立つ横断幕にもいささかの興味は覚えたが、それよりも列の中央に掲げられた二つの遺影に惹きつけられた。一団に近づき写真に目を凝らした。白の開襟シャツの写真に何かを揺さぶられるものがせり上がってきた。髪型も服装もちがっているが、その写真は榮植ではないかと腕に鳥肌が立ち、全身が強張った。似ているというのは単に気のせいかもしれない。なにしろ一度話し込んだだけで、しかもいま目にしている老人の写真では判別はつかない。

目が離せなくなった賢俊ではあったが、下船のアナウンスに救われるようにして写真から目を逸らし、その場を離れた。

               *

 北九州市郊外の市全域と洞海湾を見渡せる皿倉山にある会社の研修センターは、宿泊施設も備えたりっぱな三階建てで、韓国の財閥企業グループの研修施設にもひけをとらないだろうと思えた。研修センターでは座学だけだが、北九州工業地帯の中心、洞海湾に臨む一角には、実務的な研修をするプラント建設現場を再現した設備ももっているという。

 五十人ばかりの新入社員が二週間の日程で研修を受講することになっている。技術系の者だけの研修で、全員男子大学生だったが、賢俊は十人ずつに班分けをされた一つの班の班長に指名された。外国人である自分が、班長が勤まるのかと不安になり、人事部の研修担当者に本当に自分でいいのかとお伺いをたてた。

「わが社は外国人であるとか、どの大学出身かなど一切考慮しないことになっている。黄君が班長に指名されたのは年齢が一番上という理由、それだけだ」

 研修責任者の返事は、ソウルでの企業説明会で聞かされた無機質な答えと同じだった。

「日本語に……、コミュニケーションを取るのに少し不安があるのですが……」

「そんなことは研修期間中に少しでも上達すればいいではないか。全員が協力し合うのも研修の目的の一つだ。わが社が建設を進めているのは中近東だったりアフリカだったり世界中の至る所にある。いちいち国籍だとか外国人だとか言っていたら仕事にならない」

 手渡されている研修者の名簿を見ると、出身大学も専攻学科も多岐にわたっている。採用基準はどこにあるのかよくわからないが、一流大学への偏向が著しい韓国との違いは一目瞭然だった。何が違うのだろうと賢俊は考える。

 くどいほど聞かされ、韓国国民も信じて疑わない定説のような自国自讃を思い浮かべてみる。いわく、韓国人は世界有数の優秀な民族である。いまや民主主義の先進国の一つとしてOECD加盟国であり世界中から尊敬を集めていて、数年後にはGDPでは日本に追いつき追い越すであろう。韓国語は世界一独創的、機能的で、どんな外国語も表記できるのがハングルである、などなど。

 これほど優秀な民族であるが、本当に開かれた平等な民主主義の国として胸を張れるのかと考えると、どこか違うような気がする。一握りの財閥企業と創業者一家は現代の両班(貴族特権階級)、それに連なる一族や財閥企業に勤務する人間たちの勝ち誇ったような振る舞い。数年前に起きた大韓航空創業者一族による航空機内で繰り広げられた横暴な振る舞いのナッツ姫事件はその最たるもので世界中の笑い者になった。生まれ育ちの家柄や出身校による格差、差別は、李氏朝鮮の時代や解放前までと何も変わるところがない。李朝時代の両班は代を継いでの両班で、肉体労働への偏見侮蔑ははなはだしかったが、現代でもその感覚は体の奥深く染みついている。農民や勤労者はどこまでいっても労働者でしかなかった。その持病のような差別意識は人々から消えることはない。現代の民主主義社会になっても格差は縮まるどころか拡大するばかりだ。それが学生の就職活動での塗炭の苦しみとなり、二十代の若者の失業率十パーセントとなって表れていると断言できるのだ。機会均等や開かれた社会には縁遠い、学歴や資格、縁故で動く社会だということがよくわかる。

 二週間の研修を終えて一旦韓国へ戻る賢俊を囲んで、同じ班の日本人同期生たちが研修の打ち上げ名目の懇親会を開いてくれた。会場は小倉駅近くの繁華街にある韓国料理店だった。二週間もの間、韓国料理から遠ざかっていた賢俊への心遣いの会場選びというのがわかった。日本人と韓国人の分け隔てなく、単純に同期生として受け入れてくれたことが嬉しかった。お店の名前は「八萬苑」だった。

 上下のへだてのない宴席だが、年上で唯一の外国人である賢俊が座の中心だった。戸惑いながら乾杯の音頭までとらされた。日本も韓国も長幼序ありだなあと妙に感心し、納得するものがある。これからも日本社会でもやっていけそうだ。未来を切り開く場は何も韓国の企業でなくてはいけない理由などどこにもないのだ。賢俊は八幡に職を求めた榮植の決断のことも思い返した。

同僚のみんなや日本の大学生が、どんな学生生活、就職活動などしてきたのかなどを訊いてみたいと思った。

「サークル活動7にアルバイト3ですかね」「俺は半々かな」「夏休みなどはほとんどアルバイトで、一年分の遊興費を稼ぎましたよ」

異口同音にそれぞれが肯き合っている。ガツガツしたところがなく、学生生活を楽しんでいるのが日本の学生らしい。羨ましくもある。短期留学や語学力などのスペックは、日本では必要ないのだろうか。スペックの取得に脅迫観念さえ抱いていた長い時間を思った。

 同じ質問が返ってきた。

「黄さんや韓国の学生はどんな学生生活なんですか?」

 賢俊は学生時代を謳歌するということに無縁の、見栄えのいい就職先を猟犬のように追いかけた日々を苦々しく思い、正直に答えたくない、できることならば話題を変えたい、そんな思いに駆られた。

「アルバイトに明け暮れていたよ」

 賢俊は忌まわしい思い出ばかりの日々を思い浮かべて答えた。虚ろな表情になっていたにちがいない。

「ところでみんな韓国というと何を連想する?」話題を変えて質問した。

 全員思案を巡らせていたが、思い思いのことを口にし始めた。

 文在寅大統領、朴槿恵、ロウソク集会、ハングル文字、ソウル、慰安婦問題、徴用工、セウォル号事故、サムスン電子……。

 新聞やテレビで話題になる事柄なんだなあと納得もし、文化や芸術などの項目が一つも出てこない、その程度の関心しかないのかとがっかりもさせられた。しかし韓国の学生に日本のことを訊いても同じようなものかもしれない。

「俺は()(ヨン)かな」

 賢俊の近くにいる一人が笑いながら答えると、全員が関心を向けた。

「何それ?」

「知英、知らない? 韓国の歌手、女優だよ。俺の姉貴が彼女のファンだから、少し興味があって知っているだけだけど」と言って知英のことを話し始めた。

 知英はK-POPの人気女性グループKARAメンバー七人の一人だった。だったというのは契約解除を期にグループを離れ独立。二〇一四年から単独日本で女優としての芸能活動を始めたからだ。KARA時代に日本の紅白歌合戦へ出場したこともあり、その知名度と日本語も堪能なことから女優としてテレビドラマなどに出演現在に至っている。

 韓国でも名声を得た人気グループを離れ、彼女がなぜ日本での活動を選択したのか、賢俊は知らない。のちにわかったことであるが、信じられないようなギャラの少なさが解散の理由ということだった。それも大きな理由かもしれないが、韓国の人々の生活に根強く残る儒教に裏打ちされた差別意識からくる格差社会にも理由の一端があるような気がするのだ。芸人を蔑み、あるいは日本では考えられないほどのネット上での誹謗中傷や嫉み、身分意識の偏見が知英には受け入れることに我慢がならなかったのではないか。

 特権階級の両班が農業や製造業、肉体労働を低く見る風潮は現代でも変わりはしない。知英が伸び伸びと活躍できる場を日本に求めたとしてもおかしくはない。賢俊はわが身に照らして、そして鄭榮植が職を求めて日本を目指したこととも思い合わせ、知英が閉塞社会を脱出しようとしたのではないか、そしてなによりも知英は日本にロマンを求めているのではないかと賢俊は思う。

 ウリナラ(我が国)ウリナラと、うんざりするほど自国愛を声高に叫ぶ国民が、外国への移民を夢見て、実際に多くの国民が国を出て行くのは何故なのかと思う。アメリカやカナダ、オーストラリアに憧れ、親族などの伝手を頼って移民をした数は膨大だ。在米韓国人は二百五十万人というのは異常としか思えないほどだ。民族愛、祖国愛とは裏腹に、いとも簡単に祖国を捨てる心情は祖国愛や民族主義とどうつながっているのだろうか。移民先での成功を夢見ての移民は、日本統治時代に多くの朝鮮人が波状的に内地(日本)へ渡っていったことと、思いは同じだったのではないか。貧しさを逃れ、日本で生き延びる道を求めたのは、アメリカやカナダにロマンを求めて移民することとさほど変わりないのではないかと、賢俊はわが身とも重ね合わせるのだ。

 自分の意志で職を求めた内地(日本)への渡航も徴用も一緒くたにして、日本を非難する世論に、賢俊はわずかとはいえ疑問を抱かざるを得ないのだ。韓国人にとってはなにがなんでも日本は悪でなくては成り立たない国なのだ。それに対する否定や疑問は、自分が日本企業へ就職する弁明とは思わない。韓国の主張は善で日本は反省もしない悪という論調に逆らえば強烈な批判を浴びることも承知のうえだが、解放前の徴用が始まった官斡旋までの職を求めての内地渡航は、一種のロマンだったのではないかという考えには、そんな不埒な考えをと轟轟たる非難が浴びせられることだろうと、賢俊にはわかっている。

「今夜はこんなに大勢でお越しいただきありがとうございます。滅多なことでは満席になりませんから、貸切気分で食べていってください。これは私からの差し入れです」

 七十歳くらいの恰幅のいい店主がマッコリ一瓶をテーブルに置きながら挨拶した。座が盛り上がったのはいうまでもない。

「ところで今日は何の集まりですか。若い人たちばかりで元気がいいですね」

「新入社員研修の打ち上げです。それと彼の……」幹事役の一人が賢俊を指差して続けた。「彼は唯一の韓国人で、明日一旦帰国するので再会を期して? ですかね」

「ほう、韓国の方で日本の会社に。私の親父と同じですね、大昔のことですけど。戦前に朝鮮からこっちに来て八幡製鐵に職を得て、戦後そのまま日本に居ついたという訳です。だから私も北九州生まれの在日韓国人。あれが親父です」

 店主はキャッシャー近くの壁に掲げた賞状用の額縁の隅に入っている写真を指差しながら言った。

 額縁には小さな白黒の写真とともに、ハングルと日本語で縦書きされた詩のようなものが掲げられていた。

 額縁に目を移した賢俊は写真に目を止め、凝視した。飲みかけのビールを喉に詰まらせ、むせんだ。

 賢俊の過敏な反応にはだれも気づかず、店主に質問した者がいた。

「<八萬苑>の名前の由来はなんですか? 飲食代が八万円というわけじゃないでしょう」

 冗談を交えてみなの笑いを誘った。

「ああ、それは親父が付けた屋号ですがね」店主は間を置きながら続けた。

「親父の故郷が慶尚南道にある海印寺という有名なお寺の近くで、そこに納められている仏教聖典が書かれた『八萬大蔵経』という版木から取っているんです」

 賢俊は店主の声を遠くに聞きながらこめかみが脈を打つほど興奮し、落ち着きを失くしていた。何もかもがあの船上の夜の話に符号している。そんなことがあり得るのだろうか。だれに話してもわかってもらえることではない。

 賢俊は、リンゴが足元に転がってきたときから、尹東柱が立ち去っていくまでのシーンを繰り返し繰り返し録画を見直すように辿っていた。

「黄さん、どうかしました?」

 周りに促されて我にかえったが、自分がどんな状況にあるのかを咄嗟には理解できないでいた。

「韓国はどこのご出身ですか?」

 店主の質問に、賢俊はやっと平静になって周りが見えた。

慶尚道です、慶尚北道の金泉ですと答えれば、店主がどう反応するかすべて予測できる。それはあの一夜の船上での出来事が、夢でも空想でもない異次元異空間の実在した出来事だったと証明されることだった。

 賢俊は質問に答えずに不躾に額縁を指差して、命令でもするように言った。

「あの額縁を取り外して手元で見せていただけませんか。じっくり見たいのです」

 店主は怪訝そうに、しかし手軽に額縁を取外して賢俊に手渡した。

「あの空いているテーブルのところで少し話をしたいのですが……」

「いいですよ、私にわかることであれば」

 賢俊は同期生たちにちょっと座を外すと断りを入れながら、座を立った。盛り上がっている宴席で誰も賢俊をとがめだてする者はいない。

「この写真はほんとうにお父さんなんですか?」

「うちの親父です。もう二十年前に亡くなりましたがね」

「お名前はなんとおっしゃるんですか?」

「鄭榮植といいます。この額縁を準備して、ここに書かれている詩を店に飾ったのも親父ですよ。写真は親父が死んだあと、私が入れたものですが」

 賢俊はもう驚くことも動揺することもなく、ハングルと日本語が並べられた尹東柱の「リンゴ」の詩に見入りながら、店主の話に一心に聞き入った。写真が榮植だとわかり、博多港外の船上で見た訴訟団が持っていた写真は榮植ではないこともはっきりした。

「この小さな紙に書かれているものは、親父が生涯宝物だと言って大切にしていたものです」

 インクが染みて読み取りにくい尹東柱自筆のハングル文字の詩は、まぎれもなく、ナプキンも筆跡もあのときの、本物だった。

「有名な詩人の尹東柱が俺にくれたものだというのが親父の自慢の種でした」

「尹東柱のことを何かほかにおっしゃっていませんでした?」

「そうですねぇ……」

 店主は切れ切れな記憶をなんとか呼び覚ますように額縁に手を置きながら、

「尹東柱はタバコを好きでひっきりなしに喫っていたと言ってました」

 確かにテーブルに置かれた灰皿に何本もの吸い殻があった光景も賢俊には印象的だった。

「そのほかには何か?」

「ずっと後のことで親父が墓参団の一行に加わって初めて韓国へ行ったときのことですが、ウリマル(韓国語)で書かれた尹東柱の本を買ってきまして」

 本など滅多なことでは読まない榮植が熱心に読んでいたのをよく覚えていると、店主は懐かしむように語った。

「親父がポツリと漏らしたことをいま思い出しました。『あんなに若くして、それも獄死というのはなんとも痛ましいことだ』としみじみ言っていました。特別私に語りかけるというのでもなく『獄死というのは死因とはいわないだろう。特高の拷問というのは、生かさず殺さずで自白を強要するというのじゃないか』と死因に疑問を持っていると言ってました」

「お父さんがそんなことを」

 賢俊には榮植のまるで親友を失くしたような悔しいやるせない思いが伝わるようなエピソードだ。

「私はそれで親父の疑問に応えることができるような資料はないかと、図書館などでいろいろ調べてみたんですよ」

 店主が尹東柱の死因を調べ始めたのは一九七四、五年ころで、図書館にも思わしい資料があるわけではなかったが、尹東柱の最期の場所になった福岡刑務所関係の文献にあたっているとき、終戦間際に起きた九州大学医学部の生体解剖事件に目をとめた。それはアメリカ人捕虜をモノのように扱って、生きた人間を生体解剖するという前代未聞の所業だった。事に携わった関係者は戦後の裁判で戦犯として裁かれている。

 生体解剖事件にヒントを得て、店主が立てた死因の仮説は受刑者の尹東柱への薬物人体実験によるものではないかというものだった。二十七歳の青年がいかに過酷な拷問だったとしても拷問によって死ぬものだろうか。不自然に思われる死にはまた別の疑問も抱いた。

それは尹東柱の従弟、(ソン)(モン)(ギュ)の死だった。同い年の夢奎の死亡は尹東柱の死からひと月足らずの三月になっている。二人はともに薬物人体実験の対象になっていたのではないか。そのことを証明できるような文献も残っている。よほどのことがない限り同年齢の青年が申し合わせたように同時期に亡くなるものだろうかと単純な疑問を抱いた。

 尹東柱の父親は尹東柱の遺体を引き取りに福岡刑務所を訪れた際、生前の宋夢奎に会っていた。尹東柱の父親は宋夢奎にとっては叔父にあたる。その叔父にこんなことを言っている。「得体の知れない注射をされ、なにかの薬物を飲まされています。そのせいだけではないでしょうが、ご覧のとおりの体です。ガリガリに痩せてしまいました。私も長くはないでしょうね」

「真相は私のような素人にはわかりませんが、そんな私の仮説を親父に話すと、親父は怒りに震えるような表情で『ウェノミ(日本人野郎が)』と口にして黙り込んだのです」

 賢俊も同感を覚え、尹東柱が何を思い、死期に臨んで最後になにを叫んだのだろうと、あの静かなたたずまいの尹東柱を反芻した。

キリスト教の熱心な信者の尹東柱は、拷問を受けながらイエス・キリストの受難と復活に自分を一体化させていたに違いないと賢俊には思えてきた。しかし人工的な薬物による死には神も信仰もないじゃないかと、賢俊は憤りがこみ上げてきた。

額縁に目をおとしながら、榮植の写真を見つめて賢俊が訊いた。

「お父さんは解放後(戦後)国へは帰られなかったんですか?」

「ええ、帰らずにそのままずっと北九州に居ついて、ここで亡くなりました」

               *

 八幡駅に降り立った榮植はプラットホームから見る工場の広大さに度肝を抜かれた。榮植が見知っている工場というのは故郷の郡内にある綿工場しかなく、八幡製鐵所の規模は榮植の想像をはるかに超え、線路に隣接するように左右に伸びた黒い塀は一つの街を囲む城壁のようだった。

「京城の旧市街ほどあるんじゃないか」同道の面々も口々にその大きさに驚嘆の声をあげていた。一升瓶のような形をしたものが白煙をあげ三つも四つも遠望できた。

「あれが溶鉱炉だ」日本人の引率者が自慢げに言った。

 榮植たち一行は、これからの住まいになる寄宿舎に連れていかれた。木造平屋建ての兵舎のような建物だった。畳敷き六畳間に四人が押し込められた。誰いうともなく「オンドル床はこの下になっているのか」と、物珍しく畳を撫でさすっている。

 翌朝は工場の構内に連れていかれ、通用門から溶鉱炉まで歩いたが、構内というのに二十分も歩かされ、それだけで製鐵所の大きさに改めて驚かされた。溶鉱炉、平炉、圧延などの工程に添って下見の見学をするだけで一日を要した。

 溶鉱炉にはじまって燃えたぎる鉄の流れは、あるものは白光し、またあるものは火の海を思わせる川となって流れ、工場の天井まで煌々と照らし出し、溶鉱の飛沫は危険と背中合わせだった。構内のどの工程も経験したことのない三〇〇〇度にも達するような鉄の灼熱につつまれ、こんな所で一日いれば人間が干からびてしまうのではないかと、榮植は恐怖さえ覚えた。驚きと恐怖とともに祖国朝鮮を呑み込んだ日本という国の強大さを見せつけられた思いに納得もした。

 榮植は圧延工場に配属となったが、最初の半年間は職夫とよばれる見習い工からはじまった。そのあとからは溶鉱炉も平炉もほとんどすべての工程の仕事に就かされたが、どこへ行っても血の池地獄のような溶けた鉄の灼熱から逃れることはできなかった。どの工場でも日本人の男たちは櫛の歯が抜けるように兵隊にとられ、そのたびに補充要員として何度職場を代わったかしれない。それが一九四五年の八月まで繰り返された。製鉄所の勤務体系は三交代制であるが、人手不足から残業は常態化して徹夜の作業を強いられるのは当たり前の過酷な作業に榮植は耐えた。

「その時分はひと月に不定期で一日か二日休みの日があり、唯一の楽しみが朝鮮料理を口にすることだったそうです」

「朝鮮料理店が八幡にあったんですかね?」

「街の南側にある皿倉山の中腹の崖下に、朝鮮人夫婦が住む粗末なバラック小屋程度の家があり、そこでキムチなどのささやかな朝鮮の家庭料理風のものを食べさせてくれたそうです。それがどれほど待ち遠しかったかと、親父は懐かしく話していました」

 たった二週間ほどで韓国料理を堪能している自分と思い合わせて、賢俊は榮植の気持ちが痛いほど偲ばれた。

「国の食べ物ももちろんですが、そこでは闇のタバコが手に入り密造のマッコリを飲ませてくれるのが親父たち朝鮮人のなによりの楽しみであり、それ以上に通常では知り得ない生の密かな情報が聞けたといいます」

「知り得ない情報とは?」

「いろいろな朝鮮人が出入りするので、新聞やラジオでは決してわからない極秘の戦況とか、みんなわかっていたみたいですよ。日本はあと半年ももたないのではなどといったものだったそうです。そんな噂が流れると、徴用で連れてこられた人たちは、いい加減な仕事になったり、ずる休みするなど手抜きが目立ちはじめたらしいですね」

 人の口を介して流れてくる情報は、そこそこに榮植たち朝鮮人の職工や徴用工の耳には入っていたらしかった。

「その家は単に朝鮮料理を食べにいく場所ではなく、情報の交差点の役目を担っていたんですね」

 八幡製鐵で働き始めた榮植は、爪に火を灯すようにして貯めた金を故郷へ送り続けた。両親を気遣い妹の様子を伺うための手紙を出すが、思い通りのことが書けず、職場の同僚にわずかばかりだが手間賃を渡して代筆をしてもらった。

 榮植が八幡に来てから一年も経たず、一九四二年末にオモニ(母)が死んだ。二年契約、しかも前金に縛られた榮植は、母親を看取ることも葬儀に帰ることも許されなかった。朝鮮社会で親の葬式にも不在ということが、日本社会に較べてどれほどの親不孝なのか、会社にわかってもらえるはずもなく、帰郷を申し出ることさえもできなかった。

 製鉄所の仕事は重労働の上に、人手不足と過酷なノルマをこなすには残業は当然で長時間労働を強いられる。戦争は終わりそうになく、榮植たち労働者には戦況も知らされない。また戦争が長引くにつれ食糧事情も悪くなる一方らしく、内地に来たころに比べてもはるかに劣悪な食事に耐えなければならない。皆が皆、目に見えて体はやせ細っていった。

 アボジ(父)と妹の無事と元気でいることを願い、年季が明ける日々と帰郷だけが榮植を支える糧だったが、契約期間まであと半年を残すころ、妹から手紙が届いた。その内容は榮植の体も気持ちも限界に近いものに、さらに鞭打つようなものだった。

 アボジ(父)の体が弱わり、小作の農作業に耐えられなくなっていること、どうにか守ってきた小作の田畑を減らされ、餓死さえ覚悟しなければいけないかもしれないという絶望的な手紙だった。理不尽な地主と小作関係に縛られる重圧だけが生きている農村社会を恨み、生まれた家を呪うしか榮植には嘆きの捌け口もなかった。榮植に残された、一家が生き延びるたったひとつの手段は、父と妹を自分の手元に呼び寄せるしかないという決断だった。内地に来れば妹だけでも何か働き口をみつけ、三人がどうにか食いつなげるのではないかという根拠のない一縷の望みに託すほかに考えが浮かばず、一九四四年の夏に二人を内地に呼び寄せた。

「呼び寄せたのはいいが、妹にも働いてもらわないと食っていけないと思った親父は、製鐵所で何でもいいから働かせてくれと上司に泣きついたそうですよ」

「女の人を製鐵所で、ですか?」

「もうその時分は日本人の男という男は兵隊にとられ、製鐵所でも背に腹は代えられずで、妹もすぐに働くことができたそうです。ただまさか男の手にもあまるような仕事とは思わなかったのではないですかね。賄いのような女向きの仕事を考えていたようですが」

「どんな仕事をさせられたんでしょうね?」

「堆積しているデコボコの鉄鉱石の山を鉄の熊手で掻き出してザルで運ぶ仕事だったそうですが、赤茶けてゴツゴツした硬い鉄鉱石は、熊手なんて打ち込んでもはね返されて、要領を覚えるまでは掻き出すこともできなかったそうですよ」

「榮植さんと同じ職場だったんですかね」

「いや、その頃親父は溶鉱炉の近くで別の仕事だったそうです」

 日本語がわからない妹は、同僚に罵声を浴びせられ、腕は木のようにこわばり、体は翌朝起きるのもままならないほどの節々の痛さを味わっていた。しかも臨時雇いで、同僚の半分にも満たない給料だった。

「何が辛いといって言葉が通じないことほどの苦痛はなかったって、のちのち妹は――私の叔母ですね――私に笑い話のようにして話していました」

兄妹で必死になって働いていたが、九月になると榮植はそれまでの契約労働の給与生活を外され、減額された給金しか得ることのできない徴用工扱いとなってしまった。それから解放(終戦)までの一年弱をどうやって生き延びてきたのか、榮植には記憶がない。ただはっきり覚えているのは、一九四五年の八月十五日を期して職場を解雇になったことだけだ。榮植に残されたものは、帰国する朝鮮人に支払われた徴用解除金とわずかばかりの慰労金だった。

「戦争が終わって、どうして親父が故郷へ帰らなかったのか、その理由や経緯はわかりません。親父たちみたいに内地に職を求めてきた者たちと違って、徴用工として連れてこられた人たちはすぐに国へ帰ったようですが」

 終戦の翌年(一九四六)の三月ころまでに、日本にいた朝鮮人二百万人近くのうち、百四十万人が帰っていったが、さまざまな理由で六十万人は日本に残り、現在まで続く在日韓国・朝鮮人のはしりとなった。

「考えられることは、父親と妹を呼び寄せていたこと、それに故郷に帰っても田畑があるわけでもなく、働く手立てもなかったからではないでしょうか。わが一族ながら恥ずかしくなるほど貧乏だったんですね。それに解放(終戦)の翌年には父親、私のジイサンが亡くなっています。妹と二人っきりの、いわゆるディアスポラですな」

 店主はおおらかに笑いながら言った。真っ正直なところは榮植譲りだ。

「ディアスポラ?」

賢俊は初めて聞く言葉だった。

「故郷を失くした人、故郷を捨てた人のことですね」

「ご主人は大学へいかれていますよね」

 店主のわかりやすい語り口や端々にこぼれる言葉などから知性を兼ね備えた人だと、賢俊は推察して訊いた。

「大した学校じゃないけど一応卒業しました。なんで大学なんていかなきゃいけないかと親父は反対しましたがね」

「そんな勉強をして金になるのかい? 両班の考えることはわからないね」と留学する尹東柱に向かって榮植が言ったことを賢俊は思い出しながら、息子の進学をまったく理解できなかった榮植の顔が目に浮かぶようだ。

 帰国を断念した榮植が戦後の混乱、食糧も乏しくまともな職もない時代を生き延びるのは並大抵のことではなかった。居残っていた朝鮮人同胞とともに、榮植は自然発生的に広がった闇市の一角で商売に手を染めたこともあったが、より稼ぎのいい職を求め、荷揚げの沖仲仕、港湾労働者となった。過酷な肉体労働であったが、幸いなことに榮植は屈強な体と、苦労を厭わない精神が逞しい生活力の源泉だった。

「そうこうしているうちに、戦後の米ソ冷戦時代となり、一九五〇年六月には南北に二分された朝鮮半島で朝鮮動乱となり、親父の仕事としては不眠不休のような忙しさだったそうですよ」

「ということは祖国の戦禍にも遭わず……」

「人間万事塞翁が馬っていうことですよ。少し余裕ができた親父は一九四九年に私の母親と結婚し、翌年私が生まれたということです。母親も在日の同胞の娘です。だれが二人を引き合わせたと思います? あの皿倉山で朝鮮料理を提供していた夫婦ですよ。狭い世界ですね」

 祖国の戦乱が日本に好景気をもたらし、それがひいては榮植の収入の増大につながる僥倖になるとは、なんというアイロニーだろうか。朝鮮半島というところはどこまで時代に弄ばれる運命にあるのかと、現代人の賢俊からも嘆息が漏れる。自分を採用した会社の創業が一九五〇年というのも六二五(朝鮮)動乱と多分に関係があるのかもしれないと思うと、複雑な思いに駆られる。

「そのころのことは思い出話として両親に聞かされたことがあります」

 解放されたあと、日本に残った朝鮮人は自称戦勝国民を名乗り、警察の取り締まりもなんのその、無法の限り肩で風を切るように好き勝手を繰り返していた。だが日を経るにしたがい日本人の反感を買い、次第に行動範囲は狭められていく。日本人の朝鮮人への反感は、個人への反撃、攻撃の形となって、榮植にも容赦なく降り注いだ。

 沖仲仕は「ごんぞう」とも呼ばれ、荒くれ者が集うヤクザな世界だった。彼らは酒、女、博打に明け暮れる、明日をも考えない人間たちがうごめく世界だった。朝鮮人への差別、ときには暴力も伴う反感は、戦前さえも受けたことのないいじめの苛烈さだった。それでも榮植は耐えた。朝鮮人にとっては沖仲仕ほどの稼ぎのある場がなかったからだ。見兼ねた親切な同僚の日本人で助言をしてくれる人がいた。

「鄭(チョン)よ、名前が悪いんだよ。チョンというのは日本人が朝鮮人を侮辱的に使う言い方と同じだろ。肉体労働するのに名前なんてどうでもいいんだよ。真っ正直に本名を名乗らず日本人風の苗字にしとけよ」

 創氏改名もせず過ごしてきた榮植は、どんな苗字にしたものか何も出てこなかったが、ひょいと思い付いたのは「平沼」だった。尹東柱が船上で口にした日本名だ。

「だから私の通名(日本名)は平沼というんですよ。今もそと面では平沼さんで通っています。親父がこの額縁の詩を後生大事にしていたわけですよね」

 不平不満も漏らさず、きつい仕事に耐えていた榮植は、雇い主の信頼も得て、在日韓国・朝鮮人の沖仲仕を束ねる小頭(班長)に抜擢されたころから運が向き始め、貧乏に変わりはないが生活も安定した。

「私の母親は料理が得意でしてね、キムチを作らせたら天下一品でした。食事のおかずは毎回毎回キムチでしたが、キムチさえあればそれで充分でした。ただ弁当だけは……」

「弁当がどうしたんですか?」

「小学校で給食が始まるまでの短い期間でしたが、昼食の時間に弁当の蓋を開けると、ニンイクの臭いが瞬く間に広がって」

店主は遠く深い記憶を懐かしみ、苦笑を洩らすように言った。

「自分の作ったキムチを知り合いに分けているうちに、味が評判を呼び、わざわざ遠くから買いに来る人まで出てきたんですよ。北九州にもそこそこの在日がいましたからね。ちょっとした商売になり始めた、それがこの八萬苑を始めるきっかけになりました」

 榮植は沖仲仕の仕事を辞め、夫婦でささやかな韓国料理店を開業した。お客は沖仲仕時代の同僚が贔屓にしてくれたことから繁盛し、次第に店の間口も広げていった。

「キムチ作りの味加減は母親のものでしたが、親父にはたった一つだけこだわりがありました。それはキムチ作りに必ずリンゴを加えることでした。それに……」

 韓国のどの家庭もキムチを独自のものにするために、いろいろ工夫をすることも、果物を入れることも賢俊は知っている。もちろんリンゴも定番かもしれない。

「それにリンゴはわざわざ韓国から取り寄せた大邱リンゴでなくてはいけませんでした」

 榮植には思いもよらない人生の移り変わりだったのだろうが、自分の力で切り開いていった青春を実感できたことだろう。賢俊は心から祝福の言葉を送りたいと思った。この店が榮植さんにとってのリンゴ園ではないですかと。

店主と賢俊の二人は、ほとんど日本語での会話だったが賢俊は、

「サグァ(リンゴ)、テグ・サグァ(大邱リンゴ)だ」と韓国語で大きな声を出していた。

「クレヨ(そうです)、テグ・サグァなんです」

 店主も引き込まれるように韓国語を口走っていた。 (了)