捨子花(2)

捨子花(1)よりつづく

十三

こずゑは男の子を出産した。

 赤子をとりあげた助産婦が大きな声を出した。

「コチュ イッソ(唐辛子付いているよ)」

唐辛子を男児の性器になぞらえ、男の子が産まれたことを知らせる喜びの声だった。

 伊礼が陣痛から出産まで、こずゑの枕もとに付っきりだっただけではなかった。伊礼の母親、妹の伊智も伊信も家にいた。朝鮮の祝日、秋夕(チュソク)旧暦八月十五日仲秋の名月当日の早朝であった。

「こんな特別な日に産まれるなんて」

 伊礼はこずゑの手を握りしめ、

「コジュヱちゃん、よかった、よかった」

と咲き誇ったような笑みを満面に浮かべ、我が事のように喜んだ。

 伊礼の喜ぶ様に引き込まれるように、こずゑの両目から涙が流れ落ちた。無事出産した安心感や、伊礼が心から喜んでいる顔を見ているだけで、交々(こもごも)な思いが入り混じり、とめどもなく涙が溢れ出てくる。伊礼も涙を拭おうともしなかった。

 伊礼の母親が、指先でこずゑの涙を拭きながら朝鮮語で伊礼に話しかけた。

オモニ(母)は、男の子を産んでめでたいことだ、きっと一月に死んだアボジ(父)が秋夕を喜んで、男の子にしてくれたのだと言っていると、こずゑに伝えた。朝鮮では、男の誕生はことのほかめでたいことなのである。

「この子の誕生日は毎年秋夕の時期だから、豪勢なお祝いになることだろう」とオモニはつけ足した。

 朝鮮の秋夕は、旧正月と並ぶ名節である。先祖に感謝と供養をささげ、一年の豊作を祈る日である。盛りだくさんの料理が用意され、一家一族をあげてのハレの日だ。

 色鮮やかで艶やかなチマ・チョゴリを着込んだ伊智と伊信も、まるで姉の伊礼が出産した一家の喜びのように、子供の誕生を祝福した。

「私が産んだのじゃないよ。私の大事な妹、コジュヱちゃんなのよ。あんたたちみたいに憎たらしい妹とは違うの」

 伊礼は、笑って憎まれ口を言いながら、はしゃぐ家族のだれかが、生まれた子供を実家の養子にすることを不用意に口を滑らせないかと気を配っていた。

 二人の弟は、男児誕生がわかると朝鮮の習わしに従って、さっそく細長い注連縄(しめなわ)を作り始めた。注連縄には真っ赤な唐辛子と木炭を交互に等間隔で吊り下げ、家の入口に渡した。魔よけのおまじないであり、外部の人間の出入りを禁じる意味をもっているものである。我が家に誕生した子供と同じにしようという弟たちの心遣いであろう。

 伊礼の一家は、秋夕の食卓の準備と赤ちゃんの誕生が重なり産湯の準備まで、目が廻る忙しさになったが、大人たちは総出で協力をした。

 伊礼は面(村)の郵便局へ行き、有福の家へ電話をかけた。電話口に出たのは啓司であった。

「男の子が産まれました。コズヱちゃんも赤ちゃんも元気です」

複雑な心情を思って用件のみを伝えることになってしまった。

「ありがとう。大変だったね。ほんとにありがとう」

 伊礼には、啓司の押し殺したような弾まない声が悲しかった。初めての孫に名前を付ける幸せもない啓司と迪が可哀想でならなかった。

 伊礼にはまだ重要な役目が残されていた。出産後一週間もせず、できるだけ早くこずゑを京城につれ帰らなければいけなかった。

子供のそばに長く居れば居るほど別れがつらくなる。死んで別れることは誰もが経験することであるが、生きて別れることは、その何倍もの悲しみと苦痛が伴うのだ。

 こずゑは、溢れそうになる涙をこらえて授乳をしたが、赤ちゃんが乳首を離すたびに、その場に泣き崩れた。

「しばらくの間よ。成田君が帰ってくれば……」

伊礼はこずゑを哀れに思いながらも励まし続けなければならなかった。

 京城に帰る日が近づくにつれ、こずゑの感情の起伏が大きくなっていった。

「レイちゃん、この子の名前を付けてあげなくては」

こずゑが伊礼を困らせた。

「それは絶対にだめです」

「私が産んだ、成田さんと私の赤ちゃんよ」

「だめです。養子にしてくれる家の人が付ける約束になっています」

 こずゑが里心をもたないように、養子先はだれも知らない家だと、伊礼は嘘をつくよりほかになかった。

 子供の名前をどうしたらいいのか、伊礼は弟夫婦と相談をしていた。

漢字が苦手の伊礼は「末永く幸せに」といった願いを込めたいと仁植に言うと

〈寿福〉はどうか、と案を出した。〈寿〉は『長い間 幾久しく』で、〈福〉は『幸福の福と有福の福』の意味だと教えてくれた。

(キム) 寿福(スボク)〉いい名前ではないか。伊礼は「キム スボク、キム スボク」と口に出して何度も何度も呼んでみた。

 のちに啓司が、生まれた子供のためにと高価な腕時計を買ってきて、

「時計の裏に、子供の名前を彫ってやってくれないか」

啓司が言い添えた。

 伊礼は考えた末に〈有寿福〉と入れた。どこかに「有福」の痕跡が残るようにしてあげたかった。

 こずゑと伊礼が京城へ発つ日の朝は、こずゑが赤ん坊のそばから離れようとせず、眠っている布団に取り縋って泣き伏し続けた。半狂乱に近い悲鳴のような泣き声に、伊礼の家族のだれもが手出しができなかった。

 伊礼は心を鬼にして、こずゑを布団から引き剥がし、実家を後にした。

 温情を挟んではいけない――それがこずゑのためなのだと、伊礼は心に決めていた。母子が生きて別れる残酷さに、伊礼も耐えられそうになかったが、歯を食いしばってバス停まで一キロばかりの、牛車の轍が続く田舎道を歩いていった。

「彼岸花が咲いているのね」

 歩みの遅いこずゑが立ち止まって、緋色が群れている畑に向かってぽつりと言った。

「朝鮮では『相思華(サンサファ)』っていうのよ。花が咲くときは葉がなく、葉が出ているときは花は咲かない。でも根っこはしっかり一つ」

 こずゑちゃんと成田君も同じよ――と、口に出かかった言葉を飲み込んだ。

「さあ、元気を出して。お母さんなんだから強くならなくては」

 余計なことを口走ったと思ったときには遅かった。赤ん坊を思い出させるようなことを言ってはいけなかったのだ。しかしこずゑは意外なことを口にした。

「母親というのは、子供を育てる人のことをいうのよ」

 何か吹っ切れたような強い言葉だった。

 伊礼はこのときの、こずゑの厳しい表情と、咲き乱れている緋色の彼岸花を一生忘れることはなかった。

 京城に帰り着いた二人に、家族のだれも、何かを訊き出そうとするようなことは口にしなかった。

 いつもと変わらない日々が過ぎていったが、迪は憔悴しきって体調がすぐれず、寝たり起きたりを繰り返していた。

「レイちゃんがいなければ、私たちは何もできなかった。ご苦労様でした。ほんとにありがとう」

 お茶を運んだ書斎で、伊礼に啓司が改めて深々と頭を下げた。

 こずゑは、自分の部屋に籠もり勝ちで、食事のときに顔を出す程度だ。産後の体調のこともあるのだろうが、ショックから立ち直っているはずがない。伊礼が話し掛けても、空ろな返事を返すばかりである。

「くよくよしていたら身体によくないよ」

 伊礼が野暮用を作って、こずゑを町に連れ出したことがあった。復学に向けて準備をしようかという頃のことだ。

 本町の通りも店を閉めているところも多く、以前の活気にはほど遠かった。

『一億火の玉』『一億国民総武装』といった戦意を煽る標語ばかりが町のあちこちに見受けられた。

 伊礼には世の中のことは、どうなっているのかまるで分からず、関心もなかったが、こずゑを元気づけようとそればかりが頭を離れない。いくらか気を紛らわせた様子のこずゑにほっとして、帰路の電車に乗ったときだった。急にこずゑが電車を降りようと言い出した。

理由もわからず、何かあったのかと周りを見渡すと、朝鮮人の女性が、幅広の布を腰に括りつけた朝鮮風の恰好をして、幼児を背負っていた姿が目に入った。

 こずゑはその女性に目をそむけ、早く降りようと伊礼を急かせた。

 塞ぎこんでばかりいる自分に、何くれとなく気を使う伊礼に、申し訳ないと思ったこずゑが、伊礼を部屋に呼んだことがあった。

「レイちゃん見て。こんなにたくさんお乳が出るのよ、私が健康な証拠よ。もう平気よ」

 こずゑは丼を胸に当て、母乳を搾り出していた。

 明るく振舞ってみせる健気なこずゑが、伊礼にはいたたまれなかった。

 それはまるで、悲しみや耐えられない苦痛を、母乳に託して搾り出しているとしか思えなかった。

 こずゑは十月に入ると、何事もなかったかのような素振りをして福岡へ旅立っていった。

十四

 「私に徴用令状が来ました。とうに四十五を過ぎている人間にまで来るのですね」

「いつから、どこへ行けっていうのですか?」

「来週早々に平沢(へいたく)駅に八時までに来いということです。細々したことはわかりません」

 平沢は京城から南へ百キロばかりの田舎で、毎日家から通える場所ではなかった。期間も定かではない徴用で、申敏煕までいなくなるのかと、啓司は嘆息した。

 啓司の事務所には申敏煕と女子事務員がいるだけである。日本人の弁護士が出征したあと、貴重な戦力になっていた成田烈も学徒出陣に取られていた。

 昭和二十年(一九四五)にはいってから、アメリカ軍のB29の本土来襲が頻繁となり、銀色に光る機体は、時折朝鮮の上空にも我がもの顔で悠然と現れるようになっていた。

 三月十日夜の、帝都東京への空襲を伝える新聞報道は、ことさら被害が軽微であると強調していたが、抑えた文面は却って逼迫した戦況を物語っていると、国民に疑念さえ抱かせていた。しかし京城は空襲に無縁の、まるで春風駘蕩の日々である。

「アメリカ軍は沖縄へも迫る勢いのようですね。大本営は沈黙しているように思えますが、わが方には何か期するところがあるのですかね」

「本土決戦の秘策を練っているのかもしれんが……」

「京城でもB29をときどき見るようになりましたね。古市町の商店街の家並は、万が一の空襲の延焼を警戒してか、ほとんど取り壊してしまいましたよ」

 申敏煕は、「日本ももう危ないのじゃないか」と、言いそうになったが、日本人の有福啓司の前では、さすがに口を噤んだ。

 ――自分にも徴用が来るようでは。もし日本が負けたら――と、申敏煕は真剣に考え始めていた。もし日本がこの戦争に負けるようなことがあったら、我々朝鮮人はどうなるのだろうか、と想像を巡らせたが思い浮かぶものは何もない。

 申敏煕は、平沢の徴用先工事現場で知り合った京城放送局の朝鮮人職員に驚くようなことを聞かされることになった。絶対に口外しないように強く釘を刺して放送局員は囁くようにして言った。

「同族だから言うけど、日本が負けるのも近い」

「どうしてそんなことがわかるのですか?」

「もちろん噂ですが、重慶の超短波放送では、日本は手も足もでなくなっていて負けるのは必定と言っているそうですよ」

 重慶には、上海から移り朝鮮の独立を目指す大韓民国臨時政府があった。

「それでこれから私たちは、どうなるのです?」

「それはわかりませんが、こんな仕事は適当に手抜きをしておけばいいんですよ。いまさらこんな飛行場の滑走路など作っても無駄です」

 申敏煕の気がかりは、朝鮮の独立が自分たちの家族にどんな影響があるのか、仕事はどうなるのか、とそればかりではなかった。申は二十年も昔の学生時代を思い出していた。

 申敏煕の記憶の奥深くには、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災後の精神的な傷が消えることがなかった。申は地震の当日は、朝鮮の実家で東京にはいなかったが、中央大学に在籍中の学生であった。

 地震の混乱に乗じて、朝鮮人が騒擾を起こしているという流言蜚語に過度の反応をした自警団が、押っ取り刀で武装をして、朝鮮人狩りを始めていた。

東京の様子は手に取るようにわかるだけに、朝鮮人狩り、無差別殺戮のニュースには、想像するだけでも恐怖が走る。もし自分がその時に東京にいたとすればどんな災難が降り注いだかと想像するだけで恐ろしかった。それがもし日本の敗戦によって、凶暴な日本人、とりわけ在朝鮮日本軍の軍隊や軍人がどんな狂気じみた行動を起こすかと思えば、平静ではいられなかった。

 朝鮮独立を目指す民族主義者や、愛国反日運動の活動家が存在することはわかっていた。しかしそれが身の破滅に繋がる危険に、直接結び付くことを思えば、彼らの心情は理解できても、同調など申敏煕には考えられることではない。申ができることはせいぜい、たとえ犯罪の被疑者であっても、被支配者(朝鮮人)であることが理由で被る理不尽、不利益に対して、彼らの言い分を正当に、冷静に代弁することであった。同族として、朝鮮人の心に添って考えてやることが、朝鮮人弁護士としての良心、役目と心得た仕事と自分の心に銘じていた。

 申敏煕は、変化を望んではいなかった。わが身、自分の家族の安寧が最も大切なことであった。たとえ日本が戦争に負けようと、朝鮮が独立してどんな政治が行われようと、家族が無事な生活ができることがすべてであった。

 平沢の工事現場に建つ宿舎は、細長な蒲鉾型長屋のような造りに百人ばかりの徴用工が、板の上に蓆を敷いただけの粗末さに、枕を並べて寝るものであった。

 雑穀の粥状の夕食を済ませると、朝までやることがなかった。徴用工は似たような年恰好の朝鮮人ばかりである。

「最近の日本人は、急に元気がなくなりましたね」

 申の左隣の男が、手持ち無沙汰に話し掛けてきた。

「朝鮮料理なんて食えたもんじゃない、と言っていた日本人が様変わりですね。キムチにはビタミン何とかが多いだの、ニンニクは身体にいいだのと、京城日報に書いてみたりして、やたらに朝鮮を持ち上げては、我々にいい顔しはじめていますからね」

「朝鮮人の女が頭に物を載せて持ち運びするのは、姿勢をよくするのに適った方法とも、何かに書いてありましたよ」

 申を挟んだ反対側の男が応じた。

「大和魂も大和なでしこも、どこへ行ってしまったんですかね」

 二人の男は、皮肉たっぷりの話をとり止めもなく続けているうちに眠り込んでいた。

 日本人を貶めるようなあけすけな言い草に、申敏煕は必ずしも同調したわけではなかったが、朝鮮人社会の底流には、誰もが時代の変化を感じていることが読み取れた。

 申敏煕はこれまでの人生で、取り立てて日本人を憎悪するような経験はなかった。むしろ友好な関係にあり、平凡だが恵まれた環境にあった。一人一人の個別の日本人には、民族的な差別を覚えることもほとんどなかった。

 日本人と朝鮮人が対立するのではなく、互いの人格や文化を認め合い、尊重できる関係になれば、などと非現実的に考えているうちに、申は昼間の疲れた身体を襲って来る睡魔に委ねていた。

 八月十五日の、終戦の詔勅である玉音放送は唐突に始まったわけではなかった。前日十四日のラジオは、十五日正午に重大放送を行うという事前告知を繰り返していた。

「……ただいまより重大なる放送があります。皆様、ご起立願います」の案内のあと、

「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し(かしこ)くも御自(おんみずか)大詔(たいしょう)を宣せられ給う事になりました。これよりつつしみて玉音をお送り申します」

 君が代演奏ののちに、天皇の声がラジオを通して流れた。

「……いよいよソ連との開戦か」

 啓司は、小学生だった日露戦争勝利時の、街の興奮を断片的に思い出しながら口にしていた。それがまったく的を射ない推測であることを知らされることになるとは考えもしなかった。

「また戦争ですか?」

 迪はもういい加減にして欲しいという思いから溜息をついた。体調も思わしくなかった。毅と伊礼も居間のラジオに耳をそばだてていた。

 そして玉音放送は終わった。

 臨時ニュースが突然中断され、五分、十分と過ぎてもラジオから何も流れてこなかった。雑音だけが断続的に続いていた。

 四人の沈黙と、降るような蝉の鳴き声が居間を支配していた。

「だんなさま、何を言ったのですか?」

 沈黙に痺れを切らした伊礼が啓司に訊いた。

「日本が戦争に負けたんだよ」

 きつく握り締めた両の手を卓上に置いたままで、毅が啓司に代わって答えた。

「アイゴー、コジュヱちゃんは大丈夫でしょうか?」

 こずゑはこの夏京城へ帰省しなかった。

 福岡の空襲の様子と、無事だったという手紙に、家族は胸をなで下ろしたが、啓司は、夏休みは帰らずに福岡郊外の伯父や伯母の家で過ごすように伝えていた。

 玄界灘にはアメリカ軍の魚雷が散りばめられ、関釜連絡船の航行は危険が満ちて、不測の事態が考えられるからである。

 伊礼は、こずゑのことを口にして心配しながら、一方では、戦争が終わって成田烈の消息に思いを馳せていた。無事戦地から帰還することだけを念じた。

 八月十六日になって、啓司と毅は連れ立って黄金町の事務所へ出向いた。啓司一人では何か身辺に危険なことが起きないともかぎらないと考えて、二人で出かけた。

 二人は黄金町まで歩いた。黄金町の通りは様相が一変していた。白一色とも言えるほど民族服の朝鮮人ばかりが目立った。

電停には〈日本人電車に乗るべからず〉の張り紙があった。電車に乗ろうにも車両には鈴なりの人で、張り紙に関係なく電車は無理だった。また啓司と毅が見たこともない大ぶりの旗を手にした乗客が電車にぶら下がっている。

 事務所には申敏煕がいた。

「不測の事態が起きては大変だと思って朝早く来ました」

「とりあえず様子を見に来たけど、これからどうしたものか皆目見当がつかない。もうあなたたちの天下だからね」

「突然こんなことになって……」

申敏煕はどう受け答えすればいいのか迷って、曖昧な言葉が口を衝いて出た。

 啓司と申は、お互いがどんな対応をしていいのか戸惑っていた。それまで民族の違いを特別に意識したことがなく、気が合った先輩後輩がともに酒も飲み、協力しあって仕事を進めてきた。それが一夜にして不思議な距離が生じていた。会話は弾まなかった。タバコの吸殻が灰皿を満たした。

 無意識のうちにどこかに潜んでいた、啓司の朝鮮人に対する優越意識が粉々に砕けた惨めさと、申敏煕を常に蔽っていた、何事にも遠慮をしてしまう習性がとれた晴れやかさが交差していた。

「やるべきことは山積していますね。少し落ち着いたら連絡します」

 啓司は招かれざる客のような気持で、毅を促して外へ出た。

朝鮮総督府が見える場所まで足を運ぶと、白亜の建物と北岳山を遮るようにして、不気味な薄墨色の大量の煙が立ち昇っている、見たこともない光景が目に入った。

それは三十五年に及ぶ朝鮮支配を隠滅する火葬場の煙だった。

「お父さん、僕たちこれからどうなるの?」

 日頃はふてぶてしく物事に動じない毅が、怯えたような声で訊いた。

「わからん。たぶんなにもかも打ち棄てて内地へ帰ることになるだろうな」

 啓司にもこの激変にどう対処していいのかの情報も知恵もなかった。

 二人は黄金町通りを、次々に向かって来るいくつもの朝鮮人の一団を避けるようにして家路についた。

大極旗という朝鮮の国旗です―― 申敏煕が教えてくれた旗や、『解放』と大書したプラカードを掲げ、『蛍の光』のメロディで朝鮮語の歌を歌い歩く朝鮮人の目を避けるようにして二人は家に帰り着いた。

 終戦から三、四日経って、伊礼の妹伊信が有福家にいた。

「アンタ、何と言って榎元さんの家を出て来たの?」

 一抱えもある身の回り品をフロシキに包み、自分のもとに来た妹に伊礼は訊いた。

「『朝鮮は独立します。日本人はいなくなるでしょうが、わたしたちも、これからどうなるのかわかりませんから、故郷の安城へ帰ります』と言ったわ」

 伊信はモンペを脱ぎ捨て、よそ行きのチマ・チョゴリに着替え、一時間ほど歩き有福家へ辿り着いていた。

「あの家は、奥さんが入院していて、アンタがいなくなったら困るでしょう」

「そんなことは私には関係ないわ。人使いは荒いし、朝鮮人をバカにするようなことを平気で言うし。できるだけ早く辞めたいと思っていたからちょうどよかったの。オンニのいるこの家とは違うのよ」

 事情を聞いた啓司と迪は、先行きが見えるまで伊礼と一緒にいればいいと、いとも簡単に、同居するように言った。

 伊信の同居は一ヵ月以上に及んだが、そのことが有福家には、日々刻々変化する情勢の中を生き抜いていく上で、好運をもたらすこととなった。伊信が最初にもたらした情報は貴重だった。

 伊信が住み込みで働いていた榎元の家は、父娘が朝鮮銀行に勤めている。

朝鮮銀行は銀行券を発行する中央銀行の機能と、市中銀行の業務も兼ね備えた特殊な金融機関であり、それだけ朝鮮総督府という権力中枢にも近かった。

 十六日の朝、榎元父娘がぼそぼそと話す声を、伊信は聞き漏らしてはいなかった。

「たいへんなことになって、銀行もどうなるか皆目わからないが、預金も引き出せなくなるかもしれないし、愛国債は紙屑同然かもしれないよ」

「預金はすぐにでも下ろしたほうがいいわね」

 機転を利かせた伊信は、有福家に着くとすぐに伊礼にそのことを教えた。伊礼はまた啓司が帰宅すると同じことを伝えた。

 啓司は下ろせるだけの預金を現金に替えた。

 行動のよすがとなる情報に乏しい日本人の家々は、不安に怯え、どの家も息を(ひそ)めるようにして暮らした。

 有福家の三人も、不安と絶望が代わる代わる押寄せることには変わりはなかったが、伊礼の「私はこの家を離れません。また食べ物のことは心配しないでください」という言葉に支えられていた。伊礼と伊信の姉妹は物心両面から有福家に安心感を(もたら)していた。

 飢えるほどに欠乏していた食料も、十五日を期して街に溢れ出ていた。眩しいほど白く輝く白米や白砂糖が、円形の朝鮮風の(むしろ)に山盛りになって露店で売られていた。

 伊礼と伊信はチマ・チョゴリの民族衣装で市場へ出掛け、必要な品物や食料を調達してきた。迂闊に日本人が出歩けば、どんな危険に曝されるか予断を許さなかった。有福家の人々にとっては、伊礼姉妹がそばにいることが、どれほど心強かったかしれない。

 警察が無力化した街は、無法者が跋扈(ばっこ)し、日本人の住宅を襲う強盗や、政治団体を名乗る強迫的な一団が、日本人社会を恐怖に陥れていた。

 こんな危険極まりない輩から身を守るために、伊礼は思いつきから玄関の表札を書き換えることを提案した。

「だんなさま、悪いやつらが、日本人の家だと思ったら、どんな言いがかりをつけてくるかわかりません。表札の名前を変えてください」

「なんという名前にするの? まったく違う名前にすると、ちゃんとした人が訪ねてきたときにわからなくなるよ」

「〈弁 有福〉にしましょう。弁護士の有福という意味です」

「それでどんなことになるの?」

「知らない朝鮮人が来たら、私か伊信のどっちかが相手します。うちは『弁 有福』(ビョン ユボク)という朝鮮人の家だ、といって追い返しますから」

 伊礼は早速、『弁 有福』と啓司が墨書した板切れを玄関に打ち付けて、満足げに見入っていた。

 それにしても――と伊礼は表札の板を打ちつけながら不思議な気がした。あれほど堂々として、何事にも穏やかだっただんなさまが、自信なさそうに表札のことを自分に質問するのが、伊礼には解せなかった。

 街へ行けば『朝鮮独立萬歳』『日本人は海を泳いで帰れ』『解放』だのと張り紙があちこちに見られた。しかし伊礼は、朝鮮が独立しても悪い日本人だけが内地へ帰り、朝鮮人と仲良く暮らしていく日本人は朝鮮にいればいいと思っていた。成田君が戦地から帰ってくれば、こずゑもすぐにでも京城へ戻ってくるものと信じていた。赤ちゃんが両親を待っている。

 成田君は復員してくれば、いち早くこずゑに連絡してくるはずなのに、いまだそれらしい気配もない。

伊礼は、二人に寿福を抱かせてあげたい、二人が晴れて夫婦になることを切に願っている。日本が戦争に負けたことよりも、戦争が終わったことに胸をなでおろしていた。

「だんなさま、コジュヱちゃんはどうなるのですか? 京城へはいつ帰ってきますか?」

 気を揉んでいることを伊礼は率直に啓司に訊いた。

「レイちゃん、釜山と下関の船は動いていないどころか、こずゑはもう京城に戻れないし、私たち三人も内地へ引揚げなければならないのだよ」

 事情が飲み込めない伊礼は頭が混乱し、――寿福ちゃんはどうなる、と口にしそうになった。寿福が、こずゑと成田の子供であるなどと口が裂けても言えない、成田も果たして生きているのか、生きていてもいつ帰ってくるのか皆目わからない。

 伊礼は自分の身の振り方などには考えも及ばなかった。寿福のことばかりが頭を占領していた。

「成田君は帰ってきたのでしょうか?」

 こずゑと寿福を思って、いたたまれなくなった伊礼は、つい口に出してしまったが、啓司は何も気づくことはなかった。

「帰っていたら挨拶ぐらいには来るだろうけど、まだじゃないかな。家に訊いてみるしかないよ」

月が変わって九月になった。

 京城の街は騒然とする中、アメリカ軍が朝鮮総督府を引き継いで軍政を敷くことが決定していた。在朝鮮の日本人は一切の財産を放棄して日本へ引き揚げることとなった。

 有福啓司は迅速に行動を起こし、終戦の翌々日から伝を頼って情報収集に奔走していた。総督府と近い京城地方法院から得た情報は、啓司にとって貴重である。不動産を含めたほとんどの資産は凍結され、持ち出すことがほぼ不可能とわかり、啓司の決断は早かった。

 啓司は、尽くしてくれた伊礼と申敏煕弁護士に資産のすべてを等分に譲渡相続しようと考えながら、ふと養子に出したこずゑの子供に思い至った。

 いかに不義の子とはいえ、自分の血を引く唯一の孫ではないか。いや不義の子だからこそ、行く末を思うと啓司の心底から憐憫の情が溢れ出てきた。啓司は孫にあたる子供に何がしかでも残してあげたいと思った。しかし名前も養子先も知らないうえに、こずゑの子供であることを証明する手立てが思い浮かばなかった。しかもこずゑが産んだということを申敏煕にも告げるだけではなく、申の協力がなければ何もできなかった。

「有福先生、証書は朝鮮語で作ります。副書として日本語でも作っておきましょう」

 申敏煕によって手際よく、整然と作成された漢字混じりの朝鮮語の書類を目の前にして、申と一線が引かれた冷たい空気があると思うのは、啓司の思い過ごしであろうが、言葉すくない会話には感情の入り込む余地がなかった。

 申敏煕は事務処理上の適任者であるが当事者でもある。他に信頼のおける朝鮮人は、啓司には誰一人思い浮かばなかった。二十数年を朝鮮で過ごしながら、咄嗟に思い浮かぶ朝鮮人は伊礼と申敏煕、成田烈の三人しかいないことに、啓司は初めて気がついた。住んでいる土地が朝鮮というだけで、自分は日本の中で生活していたことを思い知らされた。

 八月十五日以降京城の中心街には、得体のしれない姿をした十人から二十人ばかりの集団が、力なく肩を落として歩く様子が数多く見られるようになっていた。彼らは季節にそぐわない冬服を纏っている者もいれば、裸足同然でリュックを背負い、幼い子供の手を引き、鍋を腰に吊るしている人もいた。皆日本人であった。ソ連の侵攻を受け、南へ逃げて来た避難民である。京城本町通りの閉鎖された三中井百貨店跡には、引揚援護所が設けられた。

 九月早々に、アーノルド少将を司令官とするアメリカ軍が京城に入城し、朝鮮に軍政を敷いた。京城は呼称が「ソウル」と改められた。アメリカ軍はすぐに日本人の引揚げに着手し、釜山や仁川に向かう日本人は、乗車駅とされた龍山駅周辺に雲集していた。

 有福啓司と毅は、引揚証明書と汽車の乗車券を求めて奔走していた。

 家では迪と伊礼が引揚げの荷造りに余念がなかった。

「レイちゃん、欲しいものがあったら何でもあげるよ」

 踏ん切りがついている迪はサバサバとした口調で伊礼に言った。

 洋服、家具、ラジオ、蓄音機など持ち運びできないものは、トラック運転手をしている伊礼の弟義植が安城の実家へ運んだ。近隣の日本人の家では、見知らぬ朝鮮人が乗り込んできて『接収』の張り紙をしてめぼしい物を勝手に持ち出すことさえ始まっていた。作り変えた表札が効いているのか有福家には誰も押寄せてこなかった。

「おくさま、私は何もほしいものはありません。でも……コジュヱちゃんに会いたいです、コジュヱちゃんとたくさん話がしたいです」

 伊礼は俯いて涙をこぼしはじめ、溢れ出るものを止めることができなかった。

 割り切って努めて明るくふるまっていた迪も黙り込んでしまい、伊礼の肩を抱き寄せていた。

「こずゑも、どれほどレイちゃんに会いたがっていることか。あなたはこずゑだけではなく、私たちにもほんとうによくしてくれたわ。レイちゃん、ほんとにありがとう。きっとまた会えるよね」

「何年かして、落ち着いたら必ず帰ってきてくださいね」

「きっと、きっと……そうするわ」

なんの根拠もなく迪は繰り返した。

「おくさま、欲しいものがありました」

伊礼が突然思い出したように口にした。

「みんなで写った写真、コジュヱちゃんが高等女学校に入学したときの写真と、一緒に勉強した国語読本が欲しいです」

 迪は乱雑に積み重ねられているアルバムの一冊を取り出すと、ハガキ大の一枚の集合写真を剥がした。本町の写真館で撮ったものだ。

 椅子に腰掛けた、背広と着物の夫妻の横に、学帽を被った小学生の毅、後ろに、高女の制服を誇らしげに着ているこずゑと、チマ・チョゴリ姿の伊礼がいた。

「レイちゃんも私もずいぶん若かったのね。私、もうお婆ちゃんになってしまったわ」

 伊礼は、迪がつぶやくように言った「お婆ちゃんに……」にハッとした。

 迪はまぎれもない寿福のお祖母ちゃんなのだ。迪の鬢にかすかに白いものを見留めて、伊礼は目を伏せていた。迪四十一歳、伊礼三十五歳の秋だった。

 片付いたものから並べた縁先の荷物に、彼岸花色した赤蜻蛉が止まった。

「レイちゃん、今年の秋夕も安城へ帰るのでしょう?」迪が訊いた。

 伊礼は例年その時期になると、一週間ばかりの休みをもらって帰省するのが恒例だった。そして一年前は――こずゑが寿福を産んだ。伊礼には生涯忘れることのない日が目前だった。

 どんな家に養子に出したのか、何という名前なのか、誰の子なのか、一切洩らさないというのが約束だ。こずゑを京城に連れ帰った日の野辺に、赤蜻蛉が舞っていたような気がする。

「今年は帰りません。少しでも長く一緒にいたいです。いつ急に日本へ引揚げる日がくるかわからないでしょう。それまでずっとここにいます」

 十月早々の引揚げの日が決まると、伊礼は半日をかけてこずゑ宛の手紙を書いた。胸がつまって言いたいことの半分も書けない。涙を拭いながら大きな字で紙一枚がやっとだった。書き終えた半紙を三重にして封をした。そのままこずゑに渡してくれと、伊礼は懇願するように迪に念を押した。

  ワダシワ コズエチヤンのコト シンパイシテイマス。ワダシノコト シンパイシテイマスカ。ワダシワダイジヨブ(大丈夫)デス。デモ ミンナニホンエ(日本へ)カエルカラ サビシ(淋しい)デス。ワダシモ ニホンエイシヨニ(一緒に)イギタイデス。

(みんなが)イナグナルト ワダシワ アンソンエ(安城へ)カエリマス。ナンノシゴト(何の仕事)スルカワカリマセン。コズエチヤンノオモテイル(思っている)ゴトワ ナリダクン(成田君)ノコトデス。ナリダグンワ マダセンソ(戦争)カラカエテ(帰って)ギマセン。ワダシノオドド(弟)モ カエデギタガラ ナリダグンモ スグカエデ キマス。アンシンシテ(安心して)クダサイ。

ケイジヨ(京城)ワ ワルイヒド(悪い人)ガ オグナテ(多くなって)アブナイデス。

ソデムン(西大門)ケムシヨ(刑務所)カラ シユジン(囚人)ガ デテギマシダ。

ナムサン(南山)ノ チヨセンジング(朝鮮神宮)ワ モエデナグナリマシダ(燃えてなくなりました)

アシダ タンナサマタヂガ(だんなさま達が)ニホンエカエルカラ テガミ(手紙)オカイデイマス。ナミダ(涙)ガ カミノウエニオチデ(紙のうえに落ちて)ヌレデシマイマシダ。

オクサマカラ ミンナノサジン(みんなの写真)ト コグゴホン(国語読本)オ モライマシダ。ソレカラ コズエチヤンガアソンダ(遊んだ)ツミギ(積木)モモライマシダ。ハナシダイコト イパイ(いっぱい)アルケド テガミワ(手紙は)ムズカシデス(難しいです)

ケンキニシデクダサイ(元気にしていてください)ケジョエ(京城へ)カエデ(帰って)クダサイ。レイチャンワ イツマデモ マテ(待って)イマス。 レイヨリ

有福家の三人は、リュックやカバンにまとめた持てるだけの荷物と、一人当たり千円という決められた現金を持って、龍山駅から引揚げていった。有蓋の貨物列車であった。

 間際になって伊礼が啓司を引き止めて話しかけた。

「だんなさま、コジュヱちゃんの産んだ赤ちゃんは、歩き回っているそうです。一年間何の病気もせず、元気だそうです。一年に一回、様子を伝える約束でしたから」

 啓司は、口を真一文字に固く結び無言で頷き、引揚者でごった返す駅の構内へ消えていった。

十五

一九八三年六月三十日

 KBS(韓国放送公社)の第一テレビは、朝鮮戦争発生三十三周年企画「今もこの痛みが――」を放送した。

そして深夜に取り上げた「離散家族捜します」のコーナーが始まると、予測もしなかった反響が視聴者から寄せられはじめた。放送は翌七月一日早朝まで延長となり、三十六家族が三十三年ぶりの再会を果たした。

 この結果を知った市民からの問合せの電話が、KBSに殺到した。

 朝鮮半島は、一九四五年八月十五日の日本の敗戦により、三十五年に及ぶ日本支配から解放された。しかしアメリカ、ソ連の両大国の思惑に翻弄され、北緯三十八度線を境に国土が南北に分断された。

 一九五〇年六月二十五日未明、ソ連を後ろ盾にしていた北半分の共産国家朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、南侵統一を目指して突然戦端を開き、約三年に及ぶ同胞相打つ戦争となった。

 南の大韓民国では、戦争が始まった日に因んで()二五(ギオ)動乱と呼びならわすようになった。六・二五は朝鮮半島に住むすべての市民を悲劇のどん底に突き落とし、甚大な被害を(もたら)した。国土の荒廃は目を蔽うばかりであった。しかし最大の被害は一般庶民の一家離散であり、一千万とも二千万ともいわれる肉親の別れ、離散家族を作り出したことであった。

「離散家族捜し」の放送は以後十一月末まで続けられた。

しかしテレビ、ラジオでの放送に取り上げられた肉親を捜す人々はごく限られたものとなり、放送されなかった人々は、KBS(韓国放送公社)周辺の壁といわず通路といわず、肉親を捜す張り紙やプラカードを掲示した。その数は夥しいものになった。KBSの公開ホールにも再会を願う市民が連日押しかけた。

 自宅でテレビに釘付けになった市民は、再会を果たした家族のシーンに感動の涙を流し、また悲しみのアイゴーを叫び、全国が涙の海と化していた。

 ソウルの伊礼に安城の弟仁植(インシク)から電話がきたのは早かった。

「姉さん、いますぐにでもKBSに出演を申し込んでください」

 仁植は興奮し、電話口で伊礼を急き立てた。

 伊礼の二番目の弟義植(ウィシク)は、戦争が始まって早い時期からアメリカ軍(連合軍)の輸送部隊と行動を共にし、その後行方不明となり、この日まで家族の前に現れることはなかった。

「義植は戦死したのではない、どこかで必ず生きているはずです。何か理由があって連絡ができずにいるだけです。オモニは義植の元気な様子を見ないことには死んでも死に切れないと言っています。姉さん、僕とテレビに出て呼び掛けましょう」

 八月になって、伊礼と仁植はテレビ出演の機会を得た。

 義植に呼び掛ける手書きのプラカードには、義植の名前と行方不明時の所属部隊名、連絡先となる伊礼と仁植の電話番号を大書きしていた。

伊礼がテレビに映り弟に呼び掛けた翌日、伊礼はまんじりともせず、義植本人か義植を知る人からの電話を待っていた。

 ソウルの伊礼の自宅に電話がかかってきた。電話を取ったのは伊礼である。茹だるような昼下がりの暑さに、伊礼は機嫌がいいとはいえなかった。

(キム)伊礼(イレ)さんのお宅でいらっしゃいますか?」

「そうです、私が金伊礼ですが……」

 受話器を取り上げるや否や答えた。

「突然の電話ですみません。私、ソンヨルといいます」

年配の男の声である。

「ソンヨル? どちらのソンヨルさんですか?」

 伊礼には思い当たる節はないが、すばやく記憶の抽斗を全開にした。

「わからないのはもっともです。成田と言った方が分かり易いですね。昔、日本人の有福さんの家でお目にかかりました」

「成田? あのナリダグン?」

 伊礼は素っ頓狂な大声をあげた。咄嗟に日本語になった。

「そうです、あの成田です」

「アイグ……」感嘆の声しか出ない。

「お義母さん、誰からの電話ですか?」

台所にいた嫁が怪訝そうに訊いた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」

 伊礼は電話口を手で押さえて、気にするなという素振りをした。

「いまどこから電話しているの? 生きていたのね。どうしているの? ここがどうしてわかったの?」

 伊礼は一気にまくし立てた。

「ソウルにいますよ。西小門路の自分の事務所からです」

「何をしているの?」

「西小門路で弁護士事務所を開いています」

「私、いまからそこへ行くわ、待ってて」

 いかにも考えるより行動が早い伊礼らしかった。

「ええ、ええ。私も是非お会いしたくて電話しました。仕事を早く片付けますから五時か六時に会いましょう。ロッテホテルのコーヒーショップでお目にかかりましょう。お出でいただけますか? 四十年ぶりですね」

「もちろん。一刻でも早く会いたいわ」

 電話を置いた伊礼に嫁が訊いた。

「ナリダグンは日本語ですか? 誰からの電話だったのですか?」

 伊礼は返事をしなかった。ただボーッとしていた。ナリタ君はこずゑとともに、伊礼の後半生を決定づけた人物と言っても決して大袈裟ではなかった。

 成烈(ソンヨル)(成田)からの思いもしなかった電話に、伊礼の頭から弟義植のことが消し飛んでいた。

 伊礼は、成烈とこずゑの年齢を何度も数えた。成烈(成田)は還暦を過ぎていた。最後に会ったときの顔を思い出そうとするが、それがいつのことだったかも覚えていない。

古びた学生服を身にまとっていたが、凛とした顔立ちをして、迪が「上原謙みたい」と言った美形の顔は忘れていなかった。しかし六十歳を過ぎた顔は想像できない。

 出掛ける時刻が近づくにつれ、伊礼は軽率に会う約束をしたことを後悔しはじめていた。単に懐旧の情に浸って、昔話をするわけにはいかなかった。

 墓場まで持っていくつもりの話の一端を語らなければいけないのかと考えると、伊礼は憂鬱になった。どこまで自分の方から話をしようかと思って、悩み始め、逡巡していた。

 深慮遠謀を巡らせ策を弄するよりも、感じたままに行動する伊礼らしからぬ苦慮だった。迂闊に何かを言ってしまえば、なにもかも崩壊して収拾がつかなくなるように思えた。

北岳山の麓、鍾路区洗剣亭(セゴムジョン)の住まいからタクシーに乗り、ソウルの中心部に位置するロッテホテルへ向かったが、帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれ、約束の時刻を過ぎていた。

 車中でも、どこまで成烈に話すべきか決心がつかぬままに、伊礼はコーヒーショップの入口に立った。

 笑顔を作って近づいて来るのは、紛れもなく〈ナリダグン〉だった。絹糸のように光沢のある白髪を七三に分けた紳士だ。白髪を除けば「似ている」と、伊礼は口をついて出そうになった。寿福に似ている。

「昨日テレビを見て、すぐにKBSに問合せをしました。お名前だけでは同姓同名もあろうかと、確かめたのです。安城の出身だと知っていましたから、間違いないとは思いましたが……」

弁護士らしく落ち着いた成烈の話しぶりは、自信に溢れているようだった。しかし伊礼には、どこまでも「成田君」だった。

「ナリダグン」

と、伊礼は呼び掛けた。昔のままの口ぶりだった。

「ハイ」

成烈は畏まって日本語で返事した。成烈にとって三十八年ぶりに聞いた名前だった。

 噴き上げ溢れ出るような思いに、伊礼と成烈は互いに何から話をしたらいいのか戸惑っていた。

 成烈の、四十年の無音を詫びる言葉をきっかけに、一気にこずゑと有福家の話になった。

「あの時まで」

と、伊礼は言った。有福家の三人が日本へ引揚げた日のことを指していた。

「あの時、あなたからコジュヱちゃんへの手紙を持たせたかったのに、それが叶わなかった。ずっとあなたを私は待っていた。コジュヱちゃんは、終戦のとき京城にはいなかったの」

 伊礼の言い方は非難がましくなっていた。

 成烈は、一九四五年の暮れに南方から復員して来た。有福家の消息を求めて成烈は(はし)り回った。櫻ヶ丘の家、若草町の弁護士事務所、日本人会の引揚援護所と、こずゑとの伝を手を尽くして捜した。しかしその時はすでに、伊礼は安城の実家にいた。申弁護士は若草町の事務所を引き払っていた。

 大韓民国が建国された翌年の、一九四九年に、成烈は念願の弁護士資格を取得したが、一九五〇年六月の六・二五動乱には、日本軍の経験を買われ、大尉として韓国軍の重要な役目を担った。

「有福先生一家の引揚げ先も調べましたが無駄でした。こずゑさんの学校へも手紙を出そうとしましたが、日本への郵便もできないままに時間だけがいたずらに過ぎていきました。そのあとは……六・二五の動乱、生きることで手いっぱいでした。レイさんなら有福家の住所をご存知かと思いましたが、連絡の手立てもなく、今日になってしまいました」

 成烈の誠実な人柄が滲む話の内容に、伊礼はどう対応していいのかわからなかった。非難するような心持も失せていた。こずゑが成烈の子供を産んだことを言うのはやめておこうと伊礼は決めた。いつか言うときが来る、と言葉を飲み込んだ。

「ご家族は?」

 伊礼がやさしく訊いた。こずゑの顔が浮かんだ。

「韓国軍から帰った一九五三年に結婚しました。三十一歳でした。結婚していない男は、わが国では半人前ですからね。親が薦める人と結婚しました。今の妻です。あなただけにはわかってもらえると思いますが、こずゑさんと結婚の約束をして学徒出陣しました。朝鮮人と日本人の結婚は困難だと、よくわかっていたのですが、僕が一人前の弁護士になれば有福先生にも許してもらえると信じていました」

 伊礼は成烈の話にじっと耳を傾けて聞き入っていたが、目はコーヒーカップやタバコを持つ成烈の手に注がれていた。手の形、大きさまでが寿福とまるで同じだった。

「コジュヱちゃんも思いは同じだったよ。私も応援していた。日本が負けてあんなことになるとは……」

「ご家族は?」

 成烈は伊礼と同じ質問を返した。

「一人息子夫婦と、その子供が二人の五人家族です」

「一人息子」と言うときに一瞬の間をおいて、伊礼の口は知らず知らず強張っていた。

 伊礼は有福一家が日本へ引揚げると、京城にいる理由がなくなり、安城の実家へ帰っていった。何をするかという見通しもなかったが、有福啓司の迅速な処置で、充分過ぎる金品の贈与を受けた。

「僕たちは何も持って帰れない。本当によく尽くしてくれたレイちゃんへの退職金だよ」

 質素に暮らせば自分一人、十年は暮らせると思えるほどの額だった。

 伊礼は実家へ帰ったとはいえ、何の仕事もしないというわけにはいかなかった。しばらくは家事手伝いをしていたが、家には仁植の嫁もいれば母親もまだ元気だった。主婦は三人も必要ない。

 安城は田舎の小さな町であるが、商店もあれば食堂もある。

 伊礼は有福の家で覚えた日本風の料理からヒントを得て、小さなウドン屋をはじめることを思い付いた。

 榎元加代子の家に住み込んでいた下の妹伊信も安城へ帰っていた。

 伊礼と伊信の二人でできる大きさのウドン屋だった。

「伊信、お店の名前は何にする? アンタは国民学校高等科まで行ったのだから学があるでしょ。アンタが決めなさい」

「オンニ(姉さん)、『ユボク』はどう?」

「それ、どんな意味?」

「『有福』をウリマル(わが国の言葉)で読むと『ユボク』で、福がたくさんある、という意味よ」

「それはいいね。アンタ私に似て頭がいいね」

 伊礼は茶目っ気たっぷりに言って喜んだ。

 ウドンだけに絞ったメニューの店は当たった。

 味付けは少し韓国人の舌に合うように変えていたが、利益を少なくして安く提供した。

「유복(ユボク)はどんな意味か?」

 客は必ず訊き、縁起のいい店だといって喜んだ。

「若くて美人の店員がいるから、お客さんが多いのよ」

 伊信が、伊礼をつかまえて言うと

「美人は余計だよ」

伊礼が伊信の頬を突付いた。

 伊礼伊信姉妹の朝は早かった。

「オンニ、私が働いた京城の日本人商店ではいつも朝早くから掃除をさせられた。主人が口うるさく言っていたわ。開店前に、毎日店中を掃除して、入口の戸でもなんでもピカピカに磨き上げろ、と。そうすればお客が増えると言っていた。そのせいかどうかわからないけど繁盛していたわ。いいことは日本人の真似したらもっとお客が増えるよ」

 二人はすぐに実行に移した。

借り店舗であったが、店とつながった六畳ばかりの部屋に実家から移り住んだ。

開業から半年ばかり過ぎて、開店時間も早めると早々に来客があることもわかった。

さらにメニューにも工夫をこらし、屑になったイリコからダシをとった。コチュジャンのスープのウドンが好評となった。人手が足りなくなると母親まで動員した。

()ねたウドンの素材を麺にする、手動の製麺機は一台では間に合わなくなった。

「伊信、アンタ結婚しなさい。麺を作るのに力がないから骨が折れるわ。男手が必要よ」

「麺を作ることが目的で、私は結婚するの? オンニ冗談はよして」

伊信は笑いながら頬を膨らませていた。思いついたらすぐに実行しなければ気が済まない姉の性格を知り尽くしている。

 韓国人には商売人や力仕事をする人を蔑み、力仕事に従事する人間を嫌う傾向が強かった。六百年近い朝鮮時代の儒教の考えが骨の髄まで染み込んでいる。士大夫を尊敬し、誰もが両班(貴族、知識階級)の家系であると言い募ったものだ。

 伊礼は両班という家に嫁ぎ、それがいかに虚像に満ちたものかを身をもって理解していた。見栄や外聞に囚われない現実主義者になっていた。だからこそ伊信には、商売人でも厭わない、誠実で実直な人物と一緒になって欲しいと願うのだった。

 順風満帆に思えたウドン屋の仕事も、一九五〇年まで続いたが、六月二十五日の南北の戦争が何もかも台無しにしてしまった。

 伊礼は、生まれたこずゑの子供を自分の弟仁植の次男として出生届けをした。

 一町歩の田畑を買えるほどの養育費が、有福啓司によって用意されていたとしても、簡単なことではない。

 いかに姉の頼みとはいえ、仁植夫婦はよくぞ承諾をし、それから数年をわが子同然に育ててくれたものと、弟夫婦の懐の深さと優しさに、伊礼は言葉がなかった。

 ――成田君が帰ってくれば、二人の元へ子供を連れ戻す――という、こずゑとの約束を必ず果たしてあげようと、伊礼は誓っていた。そのために子供を預ける先は、他人ではなく身内の者でなければ安心できなかった。

 しかしこずゑはいなくなり、成田烈は、伊礼が安城に帰るまでに戻ってこなかった。成田烈がたとえ戻ってきても、成田は子供の存在さえも知らない。二人の元へ返してあげることはできない。

 有福家が引揚げたときにもらった、こずゑの積木で遊ぶ寿福の様子を見ると、伊礼は寿福が不憫でならなかった。子供の成長は目に見えて著しかった。このまま弟夫婦の子供として放置していいのか、伊礼は焦りを感じるようになった。

 仁植に二人目の子供が誕生すると、伊礼は決断した。

「仁植、私は寿福を私の養子にして育てようと思うのだけれど、どうだろうか?」

「姉さんはもう再婚しないのですか?」

「私は一人で生きていくわ。もう結婚するつもりはないの」

 伊礼は三十七歳、寿福は三歳になり、物心がつく年齢になっていた。

「姉さんの将来、老後のことを考えれば、寿福が大人になればそれは安心だ。僕に異存はないよ」

「これまで育ててくれたことを考えれば、コジュヱちゃんに代わってありがとうとしか言えないわ」

「それは姉弟だからいいじゃないか。畑を買えるほどの養育費も貰っていたから」

 伊礼は寿福を自分の子供として籍に入れた。一九四七年のことであった。

 伊礼の強引さに押し切られるようにして結婚していた伊信夫婦とウドン屋をやり、当分の間母親が伊礼と一緒に住み、寿福の面倒を見てくれることになった。

 寿福は仁植の妻を「オンマ(お母さん)」と呼んでいたが、伊礼を「クンオンマ(大きいお母さん)」と呼ぶようになった。

「寿福は、クンオンマとハルモニ(おばあちゃん)の三人で、この家に住むのよ」

 自分の住まいに連れてきた寿福に、伊礼は何度も言い聞かせた。

 仁植の家と頻繁に行き来し、寿福の不安はないようだった。賢い子だった。

 仁植の妻には、それまで通り「オンマ」と呼びかけ、「クンオンマ」と使い分けるようになった。

伊礼は三歳になった寿福を育てていくことに自信めいたものがあった。しかしそんな自分が、こともあろうにこずゑの子を、こずゑと毅と同じように育てることになるという巡り合わせに、伊礼は、なんという天の配剤かと畏怖の念さえ感じた。神様は確かに存在すると、このとき確信した。

誰に勧められることもなく、町の教会に足を向けるようになったのも、このとき以来である。

 寿福が国民学校に入学した年の六月に、忌まわしい北朝鮮との戦争が始まった。

 入学式の日には、その日のために誂えたチマ・チョゴリを着込み、寿福の手を引いて式に臨んだ。

 出掛ける準備をしながら伊礼は、こずゑの国民学校入学式当日の迪のことを懐かしく思い浮かべていた。

 迪は、高価な和服の着付けに手間取り、伊礼に当り散らしたものだった。迪の態度に自分もムッとした若かりしころに苦笑した。二人が出掛けていくときの、迪の後姿は優雅で輝いていた。

 京城の生活が続いていれば、こずゑが迪と同じようにして寿福の手を引き出掛けたことだろう。複雑な心境になりながら、伊礼はチマ・チョゴリに手を通し、丹念に化粧をした。しかし元気に学校へ通う寿福を見送り、幸福な気分を味わう期間は、短かった。戦争が始まり、寿福がそばにいない時間は不安が消えなかった。

 ソウルを席捲し、急激に南下する北朝鮮軍が安城へ到達するのに時間はかからなかった。安城にいたアメリカ軍もなす術もなく撤退し、北朝鮮軍の支配下に置かれた安城の町民も、息を(ひそ)めて生活する人々、戦火を避けて南へ逃げ出す人々と、ウドン屋の商売も閑散となり閉店を余儀なくされていた。伊信の結婚した相手も軍隊に入って安城にいなかった。

 伊礼は寿福を守ることしか頭になかった。

「寿福、戦争が終わるまで、どんなことがあってもクンオンマのそばから離れてはだめよ。勝手に遊びにいってもいけないよ」

 伊礼はくどいほど寿福に言い聞かせた。

 その年の九月にアメリカ軍が仁川上陸に成功するまでの三ヵ月間、北朝鮮軍は半島南端の釜山に迫り、半島統一を成し遂げるのではないかと思われる、破竹の勢いであった。

 しかしアメリカ軍の仁川上陸以後は、連合軍・韓国軍が中国国境まで盛り返す。その後中国軍の参戦により三十八度線を境に戦線は膠着状態となり、一九五三年の休戦協定まで

戦争は続いた。

「戦争もどうやら終わるみたいだし、私はソウルへ行きたいと考えているの。理由は一つ、寿福をソウルの高等学校に入れてあげたい。そのためには中学校からソウルでなきゃだめ。あの子は兄弟もいなければ親も私だけ。ちゃんとした学問をさせて一人でしっかり生きていけるようにしたい」

 伊信に懇願するように語りかけた。

「このウドン屋はどうするの?」

「ここはアンタたち夫婦がやればいい。アンタは商売の才覚があるからきっとうまくいく。仁植のところから材料も仕入れれば仁植も助かる」

「オンニはソウルで何をするの?」

「私はソウルで茶房(タバン)(喫茶店)をやろうかと思っている。アメリカの兵隊もたくさんいるから、コーヒーが手に入ればなんとかなる」

 有福の家に出入りしていた行商のアジュマを探し出して、市場からコーヒー豆を仕入れる先を見つけてもらう算段をしようと思った。

 伊礼には借り店舗の目算もあった。申弁護士に頼めばなんとかしてくれるだろう。

 一九五四年に伊礼はソウルに居を構え、寿福と二人で住み始めた。

 伊礼のソウルでの生活は、結婚してソウルにいた上の妹伊智の住まいに間借りすることから始まった。

 行商のアジュマはすぐに捜し出した。アジュマは伊礼の無事と再会を喜んでくれ、茶房をやりたい話をすると、アジュマは胸を叩いて「私に任せなさい」と言った。目端の利くアジュマだった。

「私の今のお得意さんは、アメリカさんの家なのよ。何、美国語(英語)? そんなものわからなくても平気よ、韓国人のメイドがいる家に行けば心配することは何もないよ」

 アジュマは有福の家のことを忘れてはいなかった。

「あの家はよく買ってくれたわ。もちろんあなたがいたからだけど」

 アメリカ軍人の家から得た情報は早かった。コーヒー豆の手当ても、器具もアジュマが用意してくれた上に、アメリカ軍人が多く住む梨泰院(イテウォン)に、恰好の借り店舗を探し出してくれた。寿福のことを考えると、梨泰院の治安が少し心配だったが、生活の場とお店を兼ね備えた物件は、戦争で荒廃したソウルの街でそう簡単には見つからなかった。

「解放から二、三十年は生きていくのに必死でした。私はそれまでは有福の家にいて、食べることにも困らず楽をしていたから、どうやって生きていこうかとほんとに迷いました。韓国人は、苦労はみんな同じだったのでしょうが」

 伊礼はしみじみと言った。

「それは僕も同じです。つい最近まで白米のご飯を自粛しよう、という麦飯の日というのが週一、二回ありましたよね。みな貧乏だったのです。それがわが国でオリンピックをするというのですから、夢のようです」

 成烈は、一九八八年開催が決定していたソウルオリンピックのことを口にしながら、四十年近い年月を振り返っていた。

「一九六五年にわが国と日本の国交が開かれたときに、私はコジュヱちゃんに手紙を書こうと思ったんです。いざ住所を、と思ったらそれがわからないのです。引揚げのときに有福のだんなさまが書いてくれた引揚げ先の住所の紙がないのです。六・二五の混乱の最中に失くしていました」

「途中まででも覚えていないですか?」

成烈が真剣な眼差しで訊いた。

「福という字だけは覚えているわ。有福の福と同じだったから」

「それは私もわかります。有福先生の出身が福岡ですし、こずゑさんの学校は福岡女専でしたから」

「私は普通学校の三年生までしか行ってないし、漢字で書いた住所なんて覚えているわけないでしょう」

 まるで自慢でもするように伊礼は笑いながら言った。

「六・二五動乱のあと、私は申敏煕弁護士を捜しました。それでわかったことは、申さんはどうやら北(朝鮮)へ行ったようなんです。連行されたのか自分から進んで行ったのかはわかりません」

 北朝鮮軍は敗走撤退する際に、多くの知識人や芸術家、文化人、技術者を北へ連行していった。連れていかれた人々が、その後どうなったのか杳としてわからなくなった。

 成烈と向かい合いながら伊礼は、寿福のことを言うべきかどうか迷い始めていた。

 ロッテホテルまでのタクシーの中での逡巡を引きずったままである。しかしいつかは成烈に真実を伝えなければいけないだろうと思い始めていた。

 ずいぶん長い時間話しているようだったが、時計は六時を回ったばかりで外はまだ夏の残照で明るかった。

「また、いや度々お会いしましょう」

 成烈は自宅の住所と電話番号を、名刺の裏に書いて伊礼に渡すと、背広に腕を通しながら立ち上がった。

 家に帰り着いたその夜は、伊礼は極端に言葉が少なかった。

「お義母さん、今日はどうかしたのですか? 知り合いの方とお会いになって何かあったのですか?」

 寿福の嫁が心配して訊くほど、伊礼は物思いに耽って極端に口数が少なかった。

「何もないよ、心配しないで。何十年かぶりで、昔の知人と話をして懐かしかっただけよ」

 伊礼は、寿福が生まれて今日までのことを、詳しく、包み隠さず話すときがすぐに来ると、成烈の顔を見たときから自分に言い聞かせていた。

十六

 寿福の学業成績は優秀であった。高等学校の受験の際には、中学の担任が京畿高校の合格に太鼓判を押していた。京畿高校はソウルではなく韓国中での最難関校である。しかしどんなに合格間違いなしといわれても、伊礼は毎週行く教会で寿福の合格を神様にお願いしていた。お祈りしていることを寿福には言ったことはなかったが、それが親心というものだ。

 無事合格すると、さすがに成烈とこずゑの子供だと、人知れず感心していた。

 伊礼の心配が頂点に達したのは、寿福の高校在学中の出来事だった。一九六〇年に起きた、韓国中を政治の嵐が吹き荒れ、のちに四・一九革命とよばれるようになった大規模な反政府デモであった。大韓民国初代大統領、李承晩の四選目を目指した大統領選挙の不正を糾弾する学生が中心となった反政府運動である。

 慶尚南道馬山で起きた、デモ参加の高校生の死亡をきっかけに大学生、大学教授さらには高校生まで巻き込んだ不正選挙糾弾、独裁反対、民主化要求を叫ぶ運動は、李承晩大統領を退陣に追い込んだ。

 寿福もご多分に漏れず、連日のデモに出掛けて行った。

「そんな危ないところへ行くのはやめて」

伊礼は寿福の袖を掴んで懇願した。

「これだけは、クンオンマにどれだけ頼まれても、デモに行かなければ僕の良心が許さない。行かないやつは男じゃない」

「男じゃなくていいから行かないで。代わりにクンオンマが行く」

 鬼のような形相で引き留めようとした。

「訳のわからないこと言わないでくれ」

 伊礼の言いぐさに苦笑しながら、寿福は伊礼の手を振り解いて出掛けていった。

 警察に捕まらないでくれ、ケガしないでくれ、と伊礼は一心に神に祈った。もし寿福が警察に捕まるようなことがあれば、「代わりに私を留置場に入れてくれ」と言い出しかねなかった。

「大統領や政府がこんなことをやっていたら、国を誤らせることになるんだよ」

と、寿福は伊礼にわかりやすく説明した。

「ハラボジ(お祖父さん)の時代の人々、政治家が無能で誤った判断をしたから、わが国は日本の植民地になってしまったんだよ。間違った政治は正さなければいけない」

 伊礼にはそんなことはどうでもよかった。寿福が無事安泰に人生を送ることだけが願いだった。

 伊礼には、高校生になってからの寿福のことで心配の種も生じていた。

 中学生までは学校が長期の休みを待って、必ず安城の仁植の家へ行っていたのが、急に行きたがらなくなった。安城の、国民学校時代の友人に「寿福は兄さんに少しも似ていないな」と言われたことを、寿福はしきりに気にし出したのだった。

「寿永兄さんや妹、弟にちっとも似ていないと言われたよ」

 寿福がさらりと言ったことが、伊礼には却って気になった。寿永は戸籍上の兄である。

「兄弟でも似ていないことはいくらでもあるよ」

 と伊礼は答えていたが、同じ頃偶然に有福一家と伊礼が写っている写真を、寿福が目にすることになった。こずゑが公立京城第一高女入学の時に、本町の写真館で撮ったものだ。

 写真の裏には啓司の字で『こずゑ高女入学紀念 昭和十三年卯月』と(したた)められていた。

「これはクンオンマが働いていた家の人たち?」

 寿福が写真を手にして訊いてきた。

「そうだよ。クンオンマが十六、七歳のころから二十年間ばかりお世話になった家の人たちだよ」

 胸の動悸が高くなったが、心の中を悟られないように精いっぱいさりげなく答えた。

 それから寿福は、たびたび写真を見せてくれと言った。感のいい寿福が何か感づいたのかもしれないと伊礼は危惧したが、寿福は何も言わなかった。しかしその頃から、伊礼のことを「クンオンマ」とも「クンオモニ」とも言わず単に「オモニ」と言うようになっていた。

 寿福はソウル大学校法科大学(法学部)にストレートで合格した。難関中の難関である。学校からは首席合格さえあり得るといわれていた。首席合格者には、新聞社がインタビュー記事を掲載するのが恒例になっていた。本人の名誉でもあるが、学校の名誉でもあった。合格間違いなしとはいえ、ソウル大学校入試は楽観できるものではない。

 寿福の受験を控えた一年間は毎日の補講で、帰宅は夜の九時十時になった。伊礼は昼と夜二食の弁当を用意した。

 寿福が法律家を目指したいと告げたときに、伊礼はやはりそうなのか、と有福啓司と成田君のことをしみじみ思った。血は争えないというのは、こういうことかと納得してた。

 ソウル大学校がどれほど難しいものか伊礼には想像もつかないばかりか、大学がどういうものかもわからない。知り合いに「息子さんはどこの大学を目指しているの?」と訊かれ、「ソウル大学らしいよ」なんの衒いもなく答えると、相手は目を見張って「まあ!」と言うだけだった。そもそも大学の違いどころか、どんな大学があるのかも伊礼にはわからない。

法律家になりたい――と、寿福に聞かされた伊礼は、喜びと同時に一種の恐ろしさも感じていた。将来いつの日か、弁護士になっているであろう成田君と寿福が交差することがあるのではないか、という漠然とした不安だった。

「オモニ 僕もお店手伝うよ」

 大学生になった寿福はやさしかった。

 寿福が受験勉強に没頭している同じ時期に、伊礼は乙支路(ウルチロ)四街に二軒目の茶房(タバン)(喫茶店)を開店した。アメリカ人の家でメイドをしていた女性をマダム(店長)にして、彼女が習い覚えたワッフルやトーストも供した。お客に好評で繁盛した。

「姉さんは、ヌンチが利くね」

 妹たちや弟は羨むように伊礼に言った。

『ヌンチが利く』とは、目の付け所がいい、勘がいい、という意味である。一九八〇年代になって三軒目のお店も持つことになる。

伊礼は休む暇もなく働き、帰りは夜の十一時を回ることもしばしばだった。なにがなんでも十二時には家に帰り着いていなければならなかったが、帰宅時間に気を揉むほどに伊礼は働きづめに働いた。準戦時体制の韓国では、夜中の十二時から早朝四時まで夜間通行禁止で『通禁(トングム)』と呼ばれ、アメリカ軍政時代から続いているものだった。

「オモニ、身体にだけは気をつけて」

寿福は伊礼の身体を気遣うほどに成長していた。

「ほかになにもないけど、身体が丈夫なことだけが取り柄だよ。寿福が社会人になるまでは頑張るよ」

 伊礼は東大門から近い新堂洞に家を買っていた。寿福の成長と初めて買った家が伊礼の心の支えだった。

 寿福の頭からは、日本人一家の集合写真が離れない。父親らしい男性の横に、学帽を被った小学二、三年生くらいの少年が立っている。学校の制服らしい半ズボンに皮の編み上げ靴は、いかにも裕福な家の子だ。この上品そうな子が、自分の子供時代の顔に似ていると寿福は直感していた。眉毛の形や目元はそっくりに思えた。他人の空似ではない、何かあると寿福は思ったが、伊礼に向かって口にすることはなかった。

 寿福には、自分は母親と写真の一家の主人とおぼしき男性の間にできた子供ではないのか、という疑念が芽生え、その思いは次第に大きくなっていた。

 李氏朝鮮時代の両班の家では、主人と使用人の女性の間に子供ができるのはいくらでもあったことだ。支配者と被支配者の関係にあった日本人と朝鮮人の間にも起こり得ることではないかと考えれば、なにも不思議はない。優位に立った人間――日本人が一方的に子供を産ませた所業は許せない、と日本人の男に激しい憤りを覚えた。

 寿福の中からは確信めいた思いが消えなかった。しかし真実を質そうとすれば、母親を責め苛むことになるであろうことが、寿福をやっと押し留めていた。

 ここまで何不自由なく育ててくれたばかりではなく、六・二五動乱の最中、南へ南へと共産軍から逃げた日々の中でも、ひもじい思い一つしないで守ってくれたオモニを苦しめるようなことは寿福には言えなかった。その母親の頭髪にも、最近はカササギのように黒髪の周りに白いものが広がっている。自分を育ててくれた苦労の象徴だ。

 伊礼の経営する茶房には、十歳くらいにしか見えない少年たちが出入りしていた。彼らのある者たちは、来店の客に一枚づつのチューインガムを売り、また別の少年は客の足元に屈み込み、靴磨きをさせて欲しいと言っては客のズボンの裾を引っ張った。わずかばかりの収入を得るために働く貧しい子供たちである。中には動乱中に肉親を失くした孤児もいたかもしれなかった。

 そんな少年たちを見るにつけ、寿福は自分がいかに恵まれた境遇で育ったかを再認識するのだった。

 母の伊礼は、少年たちの出入りを咎めるどころか、十枚のガムをまとめて買ってやることさえしていた。そんなやさしさを持つ母親に、自分の出生の秘密を問い質す勇気は、寿福にはなかった。

 思いが溢れて、寿福はソウルに住む伊智叔母に一度だけ訊いたことがある。

「アンタの両親は、安城のアボジとオモニじゃないの。何を言っているの」

 伊智叔母は即座に答えて、ピシャリと言った。

 一九六五年のソウルは騒然としていた。年が明けたころから日韓国交回復を目指す条約締結に反対するデモが繰り返されていた。驚異的な経済発展を遂げつつある日本と、国家再建に並々ならぬ意欲を持つ朴正煕政権は、過去の忌まわしい歴史を水に流して国交を結ぼうというのである。

 寿福には、国交回復することが悪いことだとは思えないが、日本の高飛車な交渉態度には我慢がならなかった。いわく「日本は三十五年にわたって韓国を支配したが、いいこともした」というのである。日本には反省というものが寸毫もないではないか。寿福は日本という国をますます嫌いになった。

 しかし寿福は、一九六〇年の、四・一九革命のときのようにデモには参加しなかった。

 母には心配させたくない――ただそれだけの理由からであった。

日韓条約に触発されるように、寿福は大学入学時に考えていた法律家になりたいという希望が薄れていた。国際関係に携わる仕事をしてみたいと思うようになっていた。

「私に難しいことはわからない」

 伊礼は法律関係の仕事に(こだわ)ってはいなかった。「思い通りにしなさい」と伊礼は言った。

 寿福は大学を卒業すると、約三年弱の兵役義務を果たすことになった。入隊に必要となる書面に目を通しながら、もう自分の出生については詮索することをやめようと考えていた。それは書面に記された血液型の欄に目がいったときだった。

 いまさら養母や安城の両親の血液型から、自分の出生について調べてみたところでどうにもならない詮無いことと自分に言い聞かせた。

 寿福は兵役満了後の、大手新聞社への入社を決めて兵役に就いた。

十七

 キムジャンが近づくと、伊礼は気持がウキウキしてくる。十一月のソウルは冷え込む日も多くなり、小雪の舞うこともめずらしくない。キムチを漬ける作業は、寒さに手がかじかみ、しゃがみ込んだままの姿勢も腰にこたえる。それでも伊礼はこの季節が好きだ。

 白菜をはじめ大根、唐辛子、ニンニク、山の幸の松の実、(なつめ)、果物のリンゴや牡蠣(かき)、イカ、アサリと海の幸などの準備に忙殺される。

 一九八三年のキムジャンには妹の伊智、寿福の嫁のほかに、近所の友人二人も駆けつけてくれた。有福家にいたときから必ず手伝いにきてくれた、(ワン)十里(シムニ)の行商のアジュマがいないのは寂しい。今年亡くなった。自分がもう七十三歳だもの――伊礼は時の経過をしみじみ思った。

 有福家でのキムジャンは伊礼が孤軍奮闘したものだ。家族のみんなは何もできず、ただ縁先からキムチ漬けを物めずらしげに眺めていた。

 女が集まっての作業は楽しい。

「うちのオヤジも一緒に漬け込んでしまいたいわ」

 近所の年配の主婦が言うと、

「ふにゃふにゃのナマコのような役立たずと、ウズラの卵みたいなのを二個漬けてどうするの」

 卑猥な反応に全員が笑い転げて、取り留めのない女同士の雑談が止むことはなかった。

「ハルモニ(おばあちゃん)、日本にいるアボジ(お父さん)にキムチを送ってあげるんでしょう?」

 二人の孫も手伝いながら、寿福のことを口にした。

「日本にはキムチがないだろうから、特上のキムチを作って送ろうかね」

「そうしよう。アボジもキムチを食べたいだろうね」

寿福は十三年勤めた新聞社を退社し、通信社に勤めるようになり、転職した四月から東京へ単身赴任していた。アメリカ、ヨーロッパを希望していたが、最初の外国勤務は日本だった。これも何かの因縁だろうと、伊礼には感慨深いものがあった。日本への出発に際しても、伊礼は有福家のことは一切口にしなかった。歯切れのいい伊礼が、有福家のことに限ってはいつも優柔不断で寡黙になった。伊礼は一時も有福家のことを忘れたことはなかった。

 寿福の結婚を機に、いまの住まいを鍾路区(チョンノグ)洗剣亭(セゴムジョン)に建てる際にも、総赤レンガ造りの二階建てにした。ゆうに百坪近い敷地である。

 赤レンガの家にした理由はもちろん、櫻ヶ丘の分譲地にあった有福家の思い出につながっていたものであるが、伊礼が、いつの日かこずゑと再会する日の来ることを夢想して建てた家である。

 キムチを漬け終わったばかりの十二月初めに、成烈から伊礼に電話をはいった。

「成田君です。お元気ですか? 今日はちょっとニュースです」

 成烈は名前をおどけたように言い、自分でも興奮しているのがわかる。

「ニュース? 何があったの?」

「ええ、毅君の、有福毅君の住所がわかったのです」

 きっかけは成烈の京城大学時代の友人、田島の来訪だった。

「田島です、わかりますか? 大学時代の同級生の田島です」

 ソウルに来ているという。何十年ぶりだろうか。成烈はすぐに思い出した。

「君の弁護士事務所の連絡先を日本の同級生に聞いたよ。事務所に電話したら日本語が通じなくてね。当然だよね」

取引先の韓国人に、電話番号を聞き出してもらったという。成烈は弁護士事務所のほかに、ソウル市内にある私立大学の講師も兼ねていた。電話は大学へかかってきた。

 成烈と田島は、京城帝国大学予科の外国語によるクラス分けから大学法学部まで同じコースを歩んだ。成烈にとっては、日本人学生の中では比較的仲のいい同級生だった。

 学徒出陣以来の、四十年ぶりの再会である。田島は旧交を温める場所を本町にしないか、と言ってきた。

「本町(忠武路(チュンムロ))は(さび)れて昔のような店はないよ。明治町(明洞(ミョンドン))にしよう」

 昔のままの意識が抜けない日本人に、成烈はうんざりしながらも親しかった田島だから許してやろうと苦笑していた。

 会えばその場で四十年前の学生に戻っていた。電話口では互いに成田君、田島君と呼び合ったが、抱擁し合うとすぐに名前は呼び捨ての、俺、お前になっていた。

「田島、お前の渾名(あだな)は『昆布』とか『昆布巻き』だったな。覚えているか?」

「学校卒業して初めて渾名で呼ばれたよ。よく覚えているさ」

「どうして『昆布』だったか知っているか?」

「忘れた」

「朝鮮語で『タシマ』と発音すると、それは『昆布』の意味だからさ。予科時代に俺がお前の渾名をつけた」

「いい渾名だな。また『昆布』に戻りたいよ」

 田島は残り少なくなった髪を撫で付けた。

 同級生の消息、近況を語り尽くしたころ、成烈は田島に訊いた。

「中学は京城中学だったことは知っているけど、小学校はどこだった?」

「俺は、京城師範附属第一小学校だよ」

 有福こずゑや毅と同窓だ、何か消息もわかるかもしれないと成烈は考えた。

「日本で京城師範附属小の同窓会はあるのかい?」

「同窓会の集まりに行ったことはないが、あるよ」

「だったら調べて欲しい人がいるんだ。七、八歳俺たちよりも年下だけど……」

 成烈は毅の名前を告げて、連絡先を教えてくれるよう田島に依頼した。

 どんな関係なんだ、と聞く田島には家庭教師をやっていたことだけを話した。

成烈は田島を二晩続けて接待した。二日目の夜は仁寺洞(インサドン)の奥まった料亭に連れて行った。

「今夜は俺が持つよ」と田島が言った。

「何を言うか、俺が連れてきたんだ。賓客に払わせるわけにはいかん。それがわが国の流儀というものだ」

 通された部屋は造りも調度も韓式のこじんまりとしたオンドル部屋である。

「おお、オンドルバン(房)ではないか」

 田島は無邪気に喜んだ。

 部屋にあるのは、赤青といった五色の原色が縞模様になった、厚手の座布団だけだった。

「本当は料理が運ばれてくるまで、花札をしながら待つのだが……」

 成烈が説明を始めたと同時に、こぼれ落ちるほどの数々の料理が卓ごと運ばれてきた。食事の用意ができると、鮮やかなチマ・チョゴリ姿の若い女性が二人、入口の引き戸を開け、チマを広げて屈み込み挨拶した。成烈と田島の側に寄り添うように席に着いた。

「まあ今夜は韓国情緒を堪能してくれ。言っとくが、この二人は下品な買春ツアーの宴会に出るような似非妓生(キーセン)とは違うぞ。不埒な考え起すなよ。それじゃ再会を祝して二回目の乾杯だ」

 成烈は二人の妓生に視線を遣り、にやにやしながらグラスを上げた。

「こんなに若いメッチェンを側にして酒飲むなんて久しぶりだなあ」

田島が懐かしい言い方をした。

「そういえばメッチェンだのハイラーテン(結婚)だのと、粋がって使っていたなあ」

 自分では一切箸を使わない食事が始まった。妓生が長めの銀の箸で料理を口元に運んで食べさせてくれた。

「この酒は何だ?」

小さなグラスにはいった薄い琥珀色の液体だ。

梨薑酒(りこうしゅ)といって、梨をベースに生姜、桂皮、蜂蜜が入った食前酒だよ。二日酔い止めの薬効もある。李朝の昔から造られている」

「これは?」

「それは薬酒だ。通称正宗(チョンジョン)と言うがね」

「日本酒そっくりだね」

差し出す料理一つ一つにも興味津々の田島の質問攻めに、二人の妓生も雰囲気からわかるらしくゆっくりとした顔で笑っている。

「それにしても、京城で生まれ、京城で育ったというのに、何も知らなかったんだなあ」

「当時の日本人は、朝鮮のものはなんでも取るに足りないもの、劣っているものと決め付けていたからね。食文化も優劣でものを見、優劣ではなく相違だということに気がつかなかった」

 有福家の人たちには、朝鮮を下に見るような素振りも様子もなく、自分にも淡々と接していたことが懐かしい。

 酒が入り、身体の中から温まっている田島がもじもじしながら成烈に訊いた。

「オンドルというのはこんなに熱かったかな?」

 熱いという言葉に、成烈はこずゑと持った時間の、仁旺山下の孝子町(孝子洞(ヒョジャドン))の家を思い出していた。オンドルに横たわっていたこずゑが、か細く「熱い」とつぶやいたときの情景が、成烈の身体の芯に生々しく蘇る。

屋根の裾から下がった氷柱(つらら)が、障子に影を映していた。まったく同じ季節の十二月のことだった。

 旨い酒とハングルに目が回りそうだと言いながら、満足して帰国した田島から、御礼と有福毅の消息を書いた手紙が届いたのは、年が明けた旧正月休みの最中だった。

 (したた)められた手紙の内容から、田島は親身になって有福毅のことを調べてくれたことが推察できた。田島の手紙によると――

 毅は福岡で弁護士と行政書士を併設した事務所を経営していた。

 また毅は、三、四年前にソウルを訪れ、自分の友人を通して成烈や伊礼、申敏煕弁護士を捜したが見つけ出すことができなかったこと、戦前に住んだことのある借家や自宅を訪ねてみたが、それらしい家もなかったことなど聞き出した内容が書き連ねてあった。

 無音を詫びたい旨と、会う機会があれば嬉しいとも言っていることが書き添えてあった。さらに、これは余分なことかもしれないが、という書き出しの追記で、こずゑのことに触れていた。

  ……借り出した同窓会の名簿に一通り目を通していると、『有福こずゑ』という名前に目が留まりました。あまり見かけない日本人の苗字ゆえ、有福毅氏の身内の方かとも思いましたが、通常日本人女性は、結婚後苗字が変わるので、有福毅氏に改めて詮索するような電話は致しておりません。お気掛かりであれば、貴君より直接有福毅氏への連絡の折にでもお問合せいただければと存じます――。

 こずゑの住所などの記載はなかった。成烈にとっては、毅のことよりも最も知りたいこずゑの情報であったが、結婚して姓が変わっているにちがいないと考え、敢えて『有福こずゑ』の名前を田島には伝えていなかった。隔靴掻痒は仕方がなかった。

 田島が調べてくれた有福毅の住所に手紙を書こうと思いながら、旧正月や仕事の忙しさにかまけているうちに、毅からの手紙が届いた。

  成烈 様

  冠省 四半世紀もの長い間の無音御海容下さい。

  先般、学友でいらっしゃる田島氏より思いがけない電話をいただき、ご健勝ご活躍のご様子慶びに堪えません。

  田島氏よりお聞き及びかと思いますが、小生も福岡の片隅で同業に任じております。

  京城(ソウル)引揚げの折にはお目にかかれず、そのままになってしまいました。ご無事を祈りつつ引揚げの途についた日が昨日のことのように思われます。

  姉こずゑは既に戦中より福岡に居りましたゆえ、両親と小生の三人が、一九四五年十月に父の郷里である福岡へ引揚げてまいりました。

  父啓司は、戦後多難な時代ではありましたが、福岡市内に弁護士事務所を開業いたしました。一九六五年七十歳になるまで現役を続けておりましたが、同年の日韓国交回復を見届けるようにして、翌一九六六年他界しました。

  母迪は、京城(ソウル)在住中から身体が弱く、戦後の食糧難や、朝鮮生まれ朝鮮育ちゆえ日本(福岡)での生活に馴染まず、心身疲労からか鬱病のようになり、父よりも早く一九六〇年五十六歳の若さで亡くなりました。

  姉のこずゑは、福岡女専を卒業すると、寝たり起きたりを繰り返す母親に代わって家事一切をみていましたが、女専時代が戦争中のため、勉強らしい勉強もできなかったことを悔いておりました。その後、期するところがあったようで早稲田大学に編入し、東京の夜間高校で国語の教師をしながら大学院まで進み、平安朝文学の研究を続けました。

  両親はそんな姉に「女は結婚するのが一番だ」といくつもの見合いの話を持ち込んだりしておりましたが、姉はその気がなく見向きもしませんでした。気を揉む両親もいつしか諦めてしまったようです。現在も独身のままで、東京のある女子大学で国文学の教授をしております。年に一、二度くらいしか会いませんが、元気にしています。

  両親は小生のことになると全くの放任主義、無関心でした。

  「おまえは親の意見なぞ聞く耳持たず、意見を言えば必ずその逆のことをする」と言って何も言いませんでした。その結果が、おそらく父親が望んでいたであろう法律関係の仕事、弁護士をやっているのですから、父親にしてやられた、というのが正直な小生の気持です。

  こうして筆を執りながら、たった四人の家族といえども京城に居た時分から戦後の日本での生活まで、特に引揚げてからの思いは決して同じものではなかったのだと感じています。

小生の独りよがりの考察によれば、父はサバサバ人間でした。

母親が放棄した財産のことなどを口にすると「そんなもの砂上の楼閣だったんだ。日本人は朝鮮人の屈折した思いの上に胡坐をかいて、ずいぶんいい思いをしたではないか。天罰が下ったんだろうよ。人間万事塞翁が馬、だよ。また頑張ればいい」

ほんとにサッパリしていましたが、一九五〇年の朝鮮動乱には心を痛め、「申敏煕弁護士や成田君やレイちゃんは大丈夫だろうか」と、しきりに心配していました。

  母親はメソメソ愚痴人間でした。

  なにかといえば「私は、内地は人間も空気も大嫌い。みんな器量が小さくてどんと構えていられないのかしら。空気だってジメジメしていて、京城のカーンと冴えた青空が懐かしい。町の造りも食べ物もチマチマしていて、みみっちいね」

  よほど日本が気にくわなかったのでしょう。「一度朝鮮に行ってみたいな」が口癖でした。結局彼女はソウルへ行く夢が叶わないままに終わりました。

  姉はダンマリ人間でした。

  姉は京城時代と日本に引揚げてからの戦後では、まるで別人のようでした。黙り込むというよりも何か深く物思いに耽り、日本の古典文学にのめり込むことで、煩わしい世事から逃れられるとでもいうように読書に没頭した毎日を送っていました。今の生活は彼女に合っているのかもしれません。

  小生は子供時分と何一つ変わらずの、わがまま、好き勝手、天衣無縫のヤンチャのままです。「五十四歳にもなって」と家族の者たちは呆れ返っています。

  三年半前にソウルへ行きました。三十五年ぶりの街の変貌発展に驚き、時の経過の早さに感慨深いものがありました。観光ガイド付の、少人数ですが団体旅行のために自由時間も少なく瞬く間の四日間でした。それでも成田先生やレイちゃんに会えないものかと密かに思って、あれこれ捜してみましたが、わからずじまいで帰国しました。残念です。

  機会があればまたソウルを訪れたいと思っております。それまでにはレイちゃんの所在も申先生の連絡先も教えていただけるものと期待いたしております。

  聞くところによれば、貴国では五十歳以上の海外渡航が解禁になったとか。是非とも来日をご計画されんことを願っております。福岡へお運びいただければ大歓迎いたします。浴びるほど酒を飲んで旧交を温めたく思います。

  だらだらと私事ばかり書き連ねてしまいました。先生の積もり積もったお話はお会いできた折の楽しみにして筆を擱きます。最後になりましたが厳冬の季節くれぐれもご自愛の程お祈りいたしております。  草々 

                               有福毅 拝

一九八四年一月○日

追記 姉、有福こずゑの連絡先を書き添えておきます。為念

       東京都世田谷区代沢三丁目○○番地○○号

十八

 旧正月を祝う習慣のない日本にいる寿福は、ソウルへ帰ってこなかった。国際電話で長話をしただけのソウルの家族には、少し寂しい旧正月であった。

 代わる代わる電話口に出て新年の挨拶を交わした。半年ほどのうちに、日本語がずいぶん上手くなったこと、食事も口に合って苦労はないことなど、寿福の弾んだ声は元気だった。

「でもキムチだけはオモニの作ったものでなくちゃ、だめだね」

 丹精込めて作ったキムチを送っておいた。お世辞も入っているだろうが、伊礼は素直に嬉しかった。子供たちや嫁が寿福と話したあと、伊礼が電話口に出ると寿福が言った。

「昔ソウルに住んでいた日本人と話す機会があってね……」

 伊礼はどきりとした。まさか有福家の誰かではないかと勝手な想像をした。

「その人は日本債券信用銀行の役員でね、その銀行は、昔の朝鮮銀行の財産を元にしてつくった銀行で、役員も当時の職員が中心になっているらしいけど」

 朝鮮銀行と聞いて、伊礼は咄嗟にこずゑの友人だった榎元加代子とその母親を思い浮かべた。

 こずゑと成田君の間に割って入ろうとした榎元加代子のことで思い悩んでいたこずゑに

「成田君はコジュヱちゃんのことが好きだから安心なさい」と、直感でこずゑに言ったことを伊礼は鮮明に覚えていた。

「その人は『エノモト』という名前じゃないかい?」

 口にしながら、そんなはずはない、榎元加代子の父親が生きていればもう百歳近いはずだと思い直して伊礼は可笑しくなった。

「新聞社にいたとき、オモニと言い争いしたこと覚えている?」

「覚えているよ、ついこの前のことじゃないか」

「日帝時代の日本人はみんな、わが民族を抑圧していた悪いやつらだと僕が言ったら、オモニが反発したよね」

 伊礼には自分が過ごした有福家の日々が、ひどいどころか快適でさえあったと、寿福に話して理解してもらえなかった。

「その人が言うには、朝鮮総督府が押し付けた創始改名を『なんとバカげた法令だ』と言って、日本人の庶民はせせら笑っていたというんだ。普通の人たちと権力者は違う、オモニが僕に話してくれたことは本当だったんだと思ったよ」

「難しいことはわからないけど、いい人はいっぱいいたよ」

「当時の日本人の悪行は三つあると、その人はいうんだ。一つは王妃の閔妃を殺害したこと、二つ目は創氏改名、三つ目は……韓国人の若者を戦争に狩り出したこと」

「戦争に狩り出した若者」という寿福の言葉に、伊礼は固まり黙ってしまった。

 ――寿福よ、それがおまえの人生を決めたこと、本当は『金寿福』という名前には決してならなかったこと、自分と一緒に生活することもなかった――。

――寿福の生涯を決定づけた分水嶺。そんな言葉を伊礼が知るわけはなかったが、成烈の学徒出陣は紛れもなく分水嶺であった。

 成烈から電話が来た。何の脈絡もなく寿福が触れた学徒動員の話が呼び水になり、憑かれたように寿福の出生に繋がる呼び出しとは、神の見えざる手を思わずにはいられない。

「お義母さん、いつもの成烈さんから電話ですよ」

 旧正月が明けてすぐの日に、早急に会いたいと成烈が言ってきた。

 一年前に権利を手に入れた明洞の、三軒目の茶房の個室で伊礼と成烈は会った。個室は商談や会議用に時間決めで利用できる、落ち着いた特別室である。

「こんないい部屋があるんですね。今度僕も使わせてもらいますよ」

成烈が感心している。

「あなたは特別格安料金、時間制限なしでいいわ」

「それはありがたい。ところで……今日お会いしたかったのはこれです」

 成烈は内ポケットから分厚い封筒を取り出して言った。

「こずゑさんの居所がわかったんです。一刻も早くあなたに伝えたくて」

「これは……?」

 封筒を裏返しながら、伊礼は差出人の名前を凝視していた。『有福』という字だけが読めた。                           

 毅からの手紙を受け取った経緯をかいつまんで話したあと、成烈はできるだけ文面に忠実に韓国語に翻訳しながら音読した。

 ひと言も聞き漏らすまいと成烈の声に耳を傾けていた伊礼は、吐息も聞えないほどに身じろぎしないでいた。しかし伊礼の心は、成烈が聞かせてくれる手紙の内容に向かってはいなかった。墓場まで持っていくと誓っていた寿福の出生の秘密を、いつどんな機会に寿福と成烈に明かすべきか、そのことで伊礼の頭の中ははちきれそうだった。

「有福先生も奥さんも亡くなられて……」

 読み終えた成烈が、伊礼の様子を窺うようにして声を落した。

 伊礼は卓に両肘をつき、頭を抱え込むようにして成烈の手紙を読む声に聞き入っていた。成烈の声が止んでもしばらく顔を上げなかった。目の前のコーヒーカップには手もつけていなかった。

「コジュヱちゃんは元気にしていた、よかった」

 伊礼が独り言のようにぽつりと言った。

「こずゑさんは結婚していなかった」

 成烈は伊礼の言葉をなぞるように言った。

「あなたたちのことはなんでも知っていたよ」

 椅子に寄りかかり、天井に目を向けて伊礼が呟いた。

「やはりそうでしたか。たぶんそうだろうと思っていました。こずゑさんは、あなたに何でも包み隠さず話をしていたのでしょう」

 伊礼は黙って返事をしなかった。

「僕は生きて帰るという彼女との約束を守りました」

成烈は続けた。

「彼女は僕にこう言ったのです。『死ぬのはイヤ。絶対死なないで。手が千切れても、足が無くなっても帰ってきて』と。僕はこずゑさんと結婚したいとはっきり言いました。出征中は、彼女がいることだけが唯一の心の支えでした。軍隊という所はひどい所です。個人の事情を書き記す手紙さえ検閲され、当たり障りのない文章しか書けません。届いた手紙が女性からのものなど、全部あて先人に届く前に読まれてしまいます。結局私とこずゑさんの間に手紙の行き来はないままに戦争は終わりました。僕は終戦時にはマリアナ群島の一つにいました。アメリカ軍の指示により内地への兵隊の引揚げ復員が始まりました。僕は京城でも内地のどちらでもいい、こずゑさんの元へ行くことだけを考えていました。彼女は福岡にいるに違いないと思い、内地へ引揚げ、それから自分で福岡へ行けばいいと楽観していました。しかしアメリカの軍人は『おまえはコリアンだから釜山行きの船だ』というのです。もうそのときは、朝鮮にいる日本人の引揚げが始まっていることは知っていました。そんなときに朝鮮に帰されても、有福家の人たちもこずゑさんも、もう朝鮮にはいないだろうと思うと、僕は打ちのめされるようでした。ほんとは自分の国へ、それも解放された自分の国へ帰れるのですから嬉しいはずなのに、どうしてこうも人生は思うに任せないのかと、投げやりな気分のままでソウルへ戻ってきたのです」

一言も発しない伊礼を覗き込むようにして成烈が訊いた。

「僕何か気に触るようなことを言いましたかね?」

「ごめんなさい。あなたたちは、これからどうするのかばかり考えていて……ぼんやりしていたわ」

「あなたたち」という曖昧な言い方をしたが、それはあなたたち二人と寿福の三人というよりも、そのほとんどが寿福のことに他ならない。

 私ももうすぐ彼女との約束が果たせる。――成田君が帰ってくれば、子供を自分の元へ――というこずゑの願いが叶う。

 伊礼は同時に、いままで経験したことのない疎外感と寂しさに襲われた。寿福が自分のそばからいなくなるということが想像できなかった。

「毅君に返事を書くつもりですが、あなたの住所も知らせておこうと思いますがいいですか? とりあえず毅君宛の手紙だけにして、こずゑさんへは書きません。突然の手紙で驚かすのはどうかと思います」

「それがいいと思うわ。コジュヱちゃんへは互いの様子がわかって落ち着いてからにしましょう」

 突然であまりにも急な展開に、伊礼はどうしたらいいのか戸惑っていた。物事を順序だって考えるのは苦手である。

 弟の仁植に相談しようと思った。思い立つと伊礼の行動は素早かった。高速バスを利用すれば一時間余りで安城(アンソン)へ行ける。

 バスのシートに身を委ねていると、ソウルで過ごした寿福との三十年がまるでドラマでも観ているように、小さな出来事まで次から次へと思い浮かんでくる。

 ソウルの国民学校に転校した寿福は田舎者と小馬鹿にされたが、半年もすると勉強でも運動でもクラスのだれをも凌駕し、以来首席を譲らなかった。

 夏休みともなれば、寿福は勉強道具と着替えを持ってひと月以上も安城の実家で過ごした。安城の兄弟たちと一日中外を駆け回って過ごしながら、夜の便所を寿福は異常に怖がった。

「ヒョン(兄さん)ついて来て」と言っては長男に笑われていた。母屋とは離れた所にある便所が苦手だった。

 一歳年上の長男と勉強すると、一学年上の内容を寿福が教えるほどに勉強ができた。こんな子は見たことがないとみなが驚いたものだ。

 寿福が安城へ行くことを渋るようになったのは、「おまえたち兄弟は顔が似ていない」と友人に言われたときからだ。伊礼の養子になったことと合わせて、賢明な寿福が何かを感づいたからに違いなかった。

 中学から高校に進んだころに、寿福は伊礼に対してよそよそしい態度をとるようになった。伊礼は反抗期のせいだろうと放っておいたが、一九六十年の四・一九デモには伊礼の懇願にも耳を貸さず、デモに行くことに固執した。寿福の態度には、もやもやした気持をデモにかこつけて、どこかにぶつける様子が顔に表れていたと伊礼は思う。濃い眉をぴりりと吊り上げて伊礼を振り切った形相に、伊礼は怯んだ。

 高校の受験にも伊礼がついて行くことを拒んだ。

「僕は何でも一人でやる」と言い放ったことが昨日のことのようだ。

 安城のバスターミナルには仁植が待っていた。

「重要な相談とは何事ですか?」

 仁植は伊礼の荷物を手に取りながら訝しげに訊いてきた。

「おまえたち夫婦に是非聞いてもらいたいの。寿福のことなんだよ」

 伊礼は日頃に似合わない深刻そうな眼差しだった。

 実家に着くと伊礼は、外套を脱ぐのももどかしげに、たたみ込むように話し始めた。

「家庭教師だった成烈氏と四十年ぶりに会ったことは話した通りだけど、それからすぐに日本から、日本の有福毅君から成烈氏宛に手紙が届いたの。コジュヱちゃんの住所もわかった。東京にいて、結婚していなかった」

「姉さん、それで寿福のことは成烈氏に話したんですか?」

「話していない。どうしたらいいかわからないから、おまえの考えを聞かせてほしくて今日ここへ来たんだよ」

「僕の考えを言う前に、ねえさんの気持はどうしたいと思っているの?」

「私は、きっちりと包み隠さず寿福に話さなければと思っている」

「僕も賛成だ。できるだけ早く話したほうがいい」

「それでも……、寿福の嫁とか子供たちのことを考えたら、どうしていいかわからなくなって……」

「それはその後で寿福が考えること。嫁さんの実家のことも姉さんが思い煩うことはない」

 仁植は冷静に話してくれた。

「おまえたち夫婦にも、いろいろ面倒なことが起きるんじゃないかと思ってね」

「そんなことは心配しなくていいよ。姉さんは精一杯、いやそれ以上に寿福にやってあげたじゃないか。そんな人は滅多にいないよ。寿福は賢いやつだし、いまではしっかりした大人だよ」

「成烈氏にも話さなくちゃいけないし、コジュヱちゃんには、私の籍に入っていることの理由も……頭が痛いよ」

「それはもちろんだが、姉さんは寿福のことだけ、寿福にとってなにが一番大切かだけを考えればいいよ。できることなら寿福には一度ソウルへ帰ってもらって話したほうがいいけどね」

 電話や手紙ですませるような内容でないことは、伊礼にも充分すぎるほどわかっていた。寿福にどうしてもソウルへ帰って来るように言えば、どんなことだと訊かれるのも目に見えている。

 安城の仁植夫婦が実の親ではないこと、今になって本当の親が現れたこと、いままでそのことを隠していたわけでも避けていたわけでもないことの事実を告げなければならない。難しいことではない。しかしなぜそんなことになったかを寿福に理解してもらうには、遠く朝鮮総督府高官K氏の事件のことから説き起こさなければ、わかってもらえないだろう。

 ここまで深く寿福と縁を持ち続けたのは、ひとえに自分の感じるままに正直に生きてきた結果だとしか言えない。伊礼の情である。情など理路整然と説明できるものではない。これまでの経緯と自分の生き様を、寿福に伝えるのは至難のことに思えた。

 仁植が言った「ただ寿福のことだけを考えて」という助言だけが支えだった。伊礼は、寿福にとってなにが一番大切かという一点に絞って、一生分に相当するのではないかと思えるほどに悩み考え続けて、寿福に電話をすることにした。

「寿福、近々一度ソウルへ帰って来れないものかね?」

 深刻にならないように、伊礼は努めてさりげなく言った。

「オモニから直接電話とはめずらしい。どうしたのです。忙しくて旧正月にも帰れなくてすみませんでした」

「どうしても会って話したいことがある。私と二人だけで話がしたいのだよ」

「…………?」

「それもできるだけ早く話したいのだよ」

「電話でどんなことなのか、簡単に説明できませんか。結構忙しくて帰れるかどうか」

「とにかく時間を作ってくれないかね」

「僕の出生に係わることでしょう。わかりました、なんとかします」

 伊礼は寿福の勘のよさに、顔から血が引くほどだった。黙り込んでしまったことが、寿福の言うとおりだと認めているようなものだった。

 寿福は三・一節(サミルチョル)の祝日休みを利用して帰国した。三・一節は一九一九年の独立運動を記念した韓国の祝日である。

 寿福はお土産に、日本製の電気炊飯器と発売されたばかりの任天堂のファミコンを持って帰ってきた。

 子供たちは大喜びだったが、伊礼だけは気が重く寿福を待ち受けていた。

金浦空港に降り立った寿福は、三月に入ったとはいえ肌を刺すような寒さに、ソウルへ帰って来たことを実感していた。

 タクシーが街の中心部に近づくにつれ、方々に三・一節を祝う大極旗(韓国国旗)が掲げられているのが目についた。車は中央政庁のある景福宮の脇から洗剣亭(セゴムジョン)の自宅へ向かっていた。どこからか〈……ムクゲの花 三千里 華麗な山河……〉の聞き慣れた愛国歌(国歌)が流れて来ていた。

 一年近くの東京勤務に、どこか日本に心を許すような気持が芽生えていたが、国旗を目にし愛国歌を耳にすると、寿福の愛国心に火が点り、やはりウリナラ(わが国)は素晴らしいとしみじみ思った。

 久しぶりの家庭料理に舌鼓を打ちながら、家族の矢継ぎ早の質問責めに合い、家族の温かみを堪能していた。

「アボジ、東京ディズニーランドへは行った?」

「行ったさ。お父さんは通信社だから、東京ディズニーランドの記事を書かなければいけなかったからね」

「いいなあ。僕たち行ってみたいな」

 子供たちは屈託がない。

「ヨボ(あなた)、よく四日間も休みが取れたわね」

 妻も喜びを満面にしている。

「なに、本社にも大事な用事があったからね」

 寿福は妻にも子供たちにも、帰国の本当の目的は言わず言葉を濁した。

 伊礼だけは寿福の慎重な対応に、すべて心得ていると安心した。いずれは嫁にも子供たちにもわかることであるが、二人で話すことが先決だった。

 夕食が済むと、土産のファミコンを家族中で楽しみ、満ち足りた一日が終わった。翌日は朝から明洞の茶房へ出向き、伊礼と寿福だけの、本来の目的の話に時間を費やすことを約束していた。

 明洞の茶房の個室――

 寿福と向かい合わせに座った伊礼は落ち着かない。成烈と話したときと同じ所に寿福が座っていることにも緊張が増した。

「寿福、今日の話というのは、おまえが電話で言ったとおり、うすうす感じているおまえの出自のことだよ」

「安城の両親が、私の本当の親ではないということでしょう」寿福がさらりと口にした。

「そうです。そのことを今日の今日まで言わなかったことは、私がいくら謝っても、おまえは許してくれないことでしょう」

 伊礼が言葉を切っても寿福は何も言わず、目をかっと見開き唇を引き締め、伊礼を見つめている。重苦しい沈黙があった。

「寿福、何か言っておくれ」

 居たたまれなくなった伊礼は、涙がこぼれそうになるのを我慢して、やっと口にした。

「私は何を聞いても大丈夫です。話を続けてください。オモニのおっしゃることを全部聞いてから、おたずねすることを訊きます」

「おまえの本当の父親から、去年の夏三十九年経って電話がかかってきた」

 テレビの離散家族捜しの番組がきっかけだったこと、先月母親の消息がわかったことまでを、伊礼は包み隠さず長々と話した。

 寿福は頭の中にメモを取り、刻みつけるように、小さく頷きながら伊礼の話に耳を傾けていた。タバコにも飲み物にも手を出さなかった。

 何かを決心したように寿福は大きく息をして、口を開いた。

「いくつか伺っていいですか? 私の父親はどこの誰なのですか?」

「ソウルに住んでいて、弁護士と大学の講師をしている、六十二、三歳の人です」

「そうですか」

寿福は心動かされることもないように静かに続けた。

「母親は誰です?」

 わずかな沈黙のあと、伊礼が俯きかげんにして

「おまえも見たことのある集合写真、私が働いていた日本人一家の……」

寿福のまぶたが強ばり眉毛がぴくりと動いたのを、伊礼は見逃さなかった。

「あの中に写っている男の子と私は兄弟なのですか?」

「いや、あの写真の女学生が、おまえの母親なのだよ」

 寿福の想像もしなかった伊礼の答えに、寿福はしばらく口が利けなかった。

 自分が韓国人と日本人の間に生まれた混血児であったことに、寿福は少なからず衝撃を受けたのだと、伊礼は直感した。

 ――選りによって日本人との合いの子だなんて。まだ罪人の子といわれた方がましだ。

 反日が国是であり、骨に沁みるほどの反日教育を受けてきた寿福には、自分の中に日本人の血が半分流れていることは、到底受け容れることのできないことだった。

「あなたは、いや、ごめんなさい。オモニは私がその日本人から生まれたことを証明できるのですか?」

動揺している寿福の心中が、うわずったものの言い方に表れていた。

「私がその人が臨月になったときに、安城の実家へ連れて行きました。助産婦も私が頼み、出産にも立ち会ったのです。おまえも知っているハルモニ(お祖母さん)の部屋で産まれたのです」

「わかりました」

 寿福は沈んだ力のない声だった。

 どこの何者かも知れず生きてきた四十年であったのかと思うと、寿福は独り取り残されたような気分に陥り悲しかった。この国はどんな国より血統血縁を大切にする国である。いまさら実の親がわかったところで、姓や名前を変えられるものではない。自分を置き去りにした親が憎かった。目の前にいるオモニと呼んできた老婆が遠い存在に思えてきた。

「わかりました」と答えた自分が、何をわかったというのだろうか。答えようがなく、意味もない間合いをとっただけの言葉のような気がする。

 たとえ実の親がどこにいるのかわからなかったとしても、安城の戸籍上の親が実の親ではないことを何故言ってくれなかったのだろうか。ましてや親が誰であるかわかっていたのにと思うと、寿福は悔しさがこみ上げそうになるが、オモニを前にしては、どうしても口には出せなかった。どんな苦労も(いと)わず自分を育ててくれたオモニを責めることもできず、寿福は懸命にやるせない思いを飲み込んだ。

「オモニ、タバコを一本吸ってもよろしいでしょうか」

 親や年配者の前では、タバコを口にしないという慣習を破っても、自分を落ち着かせるためには、寿福にはタバコが必要だった。マッチを擦る手が微かに震えていた。

「もっと訊きたいことがあります」

 タバコを吸って落ち着いた様子の寿福が言った。

「今日はなんでもすべて話します」

「この年齢(とし)になるまで、どうしてこんな大事なことを教えてもらえなかったのでしょうか?」

 寿福の口調は穏やかだったが、やはり伊礼を咎めるような訊き方になっていた。

どうして教えてくれなかったのか?――と問われて、伊礼は言葉に詰まった。

「アイゴー、寿福許しておくれ」

 伊礼は涙が溢れ、両頬を流れるものが止まなかった。

「私が悪かった。許しておくれ、許しておくれ」

 涙を拭おうともせず、伊礼は同じことを繰り返し、テーブルに突っ伏した。

 伊礼には真実を告げる機会は何度かあったのだ。安城の友人に兄弟が少しも似ていないと言われたことを聞いたとき。有福一家との写真を寿福が目にした高校生のころもそうだ。寿福の結婚話が持ちあがった時。すべての機会を逃したのは自分の責任だ。なぜ本当のことを言う勇気がなかったのかと、自分の優柔不断を伊礼は後悔した。よかれと思ったことが全部間違いだったのだ。元はといえば、弟夫婦の籍に入れたことに起因している。余計なことをしてしまったと悔やんでも悔やみきれない。母親こずゑの、いや両親の元へ必ず子供を返してあげると約束し、そのことを頑なに守ってきた。いっそのこと両親が死んでしまっていたならば、寿福に、こずゑと成烈のことを言えただろう。なんという皮肉なのだろうか。人間はどうしてこうも蒙昧で、罪つくりなことをしでかしてしまうのだろうか。どんな事情があるにせよ、子供は生んでくれた親の元で育たなければいけないのだと、この時ほど伊礼が胸を抉られるような思いをしたことはなかった。

 親は子供がたとえばどんな大罪を犯そうとも、最後は赦すことができるが、子は親の過ちを責め、遠慮なく追及し、赦してはくれないものだと伊礼は悟った。幼ければ幼いほど子供にとって親の判断や決断は絶対であるゆえに、子供は親を赦さない。

 伊礼は一言も弁解や言訳をせず、ひたすら寿福に許しを乞うた。

 寿福は席を立ち、伊礼の後ろに回ると、テーブルに伏せて声を出して泣く伊礼の肩を抱き締めていた。

「きついことを言ってすみませんでした。実の親どころか、その何倍もの愛情を注ぎ、育てていただいたことにはどう言ったらいいのか言葉が見つかりません。ほんとうに感謝しています」

 寿福の両目には、目の前の白くなった伊礼の髪が霞んでしまうほどの涙が溢れ出てきた。

 ようやく顔をあげて伊礼が寿福に言った。 

「どうしてこれまで言わなかったかの理由はたった一つ。言ってしまおうと思ったそのたびに、少ない脳みそを精いっぱい働かせて、そのときそのときに何が寿福にとって一番いいことか考えた末に判断したということ。それが間違いだったということなら、私はおまえに、許して、と言うしかない」

 片方の親が日本人でなければ、ずっと早く言っていたかもしれないと、ほんの一瞬言おうとしたが生唾と一緒に飲み込んだ。

戦後解放から今日まで、韓国に居残った日本人や、日本人との間に生まれた合いの子が、韓国社会で身を潜めるようにして、あるいは韓国名を名乗って肩身を狭くして生きていかなければならない苦労を考えれば、伊礼は真実を告げることを躊躇せざるを得なかった。

「もうオモニ、それだけで充分です。僕もいまは二人の子供の親ですから、よくわかります。子供のためなら親はこれっぽっちも自分のことなど考えませんからね」

 寿福が伊礼に穏やかな表情を見せるまでに長い時間が必要だった。

「寿福、おまえはできるだけ早く、ご両親に会わなければいけないよ。おまえは幸い今東京にいる。コジュヱちゃんも東京だからね」

「母親の名前は『コジュヱ』というのですか?」

「私も会いたいよ」

 伊礼は呟くように言いながら、いつもの明るい伊礼になって、手元にあった紙のナプキンに『有福コズヱ』と書いた。

「『有福(ユボク)』はウドン屋の名前じゃないですか。『アリフク コズエ』というのですね」

「そうだよ。おまえにとっても大事な名前。おまえのお祖父さんにあたる人が、おまえと私のことを考えて、たくさんのお金をくれた。いい日本人もいた。お祖父さんやお祖母さんはとてもいい人たちだったよ」

「父親と母親は私のことを知っているのですか?」

「あっ、いけない。とても大事なことを言うのを忘れていた。おまえのことばかり考えていて、何度か父親の成烈氏に会っていながら、コジュヱちゃんとの間におまえが生まれていることを伝えていなかった。おまえに本当の両親がいることを、どうやって言おうかで頭の中が一杯だった」

「えっ、父親はコズヱさんとの間に僕がうまれたことを知らないのですか?」

「おまえに全部話してすっとした。今から言うよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。言ったら今すぐに会いたいと言うに決まっています。私にも少し考える時間をください」

 子供が生まれたことは、こずゑの口から直接成烈に伝えるべきだ、自分が口出しすべきではないと、伊礼は軽はずみに行動しようとしたことに気づいた。

「そうだったね。これからは全部寿福が考えて行動することだったね。仁植にも同じことを言われたよ。思い立ったらすぐに動こうとする私の悪い癖だね」

「今すぐ会いたいと言うに決まっています」

と口にしたが、実の親だという人間は果たして本当に自分に会いたいと思っているのだろうかと、寿福は疑い出していた。

 自分は決して望まれて、祝福されて生まれてきた人間ではない。その程度の軽い命だったのではないか。生命を長らえるだけの価値のある人間だったのだろうか。

 寿福は捨て鉢な気持になりそうだった。実の親に会う意味がどこにあるのだろうか。

 そんな軽い命をどんな危険からも匿うようにして育ててくれたオモニこそ実の親に匹敵し、オモニだけが親であれば充分ではないか。ましてや母親は許されざる民族の日本人。われわれ韓国人が平然として『倭奴(ウェノム)』と言い、(ひずめ)の割れた者たち『チョッパリ』と呼び、罪悪感も抱かずさげすんできた民族の血が自分の中にも流れていることなど、到底容認できないことなのだ。『チョッパリ』とは人間の姿をしていながら犬畜生にも劣る獣なのだ。

 韓国人は日本に住む『在日僑胞』を『半日本人(パンチョッパリ)』と呼んで見下してきた。しかし彼らの両親はまぎれもなく韓国人で、『パンチョッパリ』でもなんでもない。自分こそ正真正銘の『半日本人(パンチョッパリ)ではないか。そんなことをいまさら妻や子供たちに言える訳がない。娘は過敏に反応する思春期の真っ只中にある中学生だ。自分も妻も子供たちも、徹底した反日反共の教育を受け、過剰すぎるほどの民族主義者に育っている。日本人の血が、自分と自分の子供たちの中にも脈々と流れていることを素直に認める器量など持ち合わせていない。すべてが残酷に過ぎる。今となってはなにも実の親に会う必要などないのではないかとさえ、寿福は思った。

「オモニ、私は明日東京へ戻ります。成烈氏には会いません、ですから私がこの世に居ることを言わないでください」

「どうして? 血を分けた親と子が会うこと、会いたいと思うのが人間の情というものではないのかい?」

 伊礼は予想もしない寿福の言葉に驚き、なぜ会いたくないのか理解できないでいた。

「親が望まない子供として生まれてきた僕が、どうして会わなければならないのですか?」

 不遜としか思えない寿福の言い様に、伊礼の目に突然怒りが広がった。

 出産して間もなく赤ん坊から引き離されたとき、掛けられた布団にしがみつき泣きじゃくったこずゑ。安城の家からバス停までの農道に立ち止まり、彼岸花を見ながらこずゑと交わした会話を思った。

「お母さんなんだから強くならなくっちゃ」と伊礼が口にしたとき、「母親というのは育てる人のことをいうのです」と言ったこずゑの、それ以上にない悲痛な心と、きっぱりと言い放ったときの目を、伊礼は忘れることができなかった。

「望む、望まないではない。愛し合った両親の、愛の証しとして生まれてきたのだ。おまえの両親がどれほど愛し合っていたかを、私は知っている」

「…………」

 伊礼の怒っているような強い口調に、寿福は沈黙した。

「日本人と朝鮮人が結び付くことの難しさや障害があっても、二人は一緒になることを心に誓っていた。両親だけじゃない、おまえのお祖父さんである有福啓司氏も、どれほどおまえのことを気にかけていたことか」

 伊礼は、寿福の誕生時に啓司に託された腕時計を明日渡す、渡す日のことを長い間待ち続けていたと、懇々と寿福に語って聞かせた。

 渡された腕時計と、書き留めたこずゑの住所を携えて、寿福は成烈に会うことなく、東京へ旅立っていった。

十九

 三月も十日を過ぎると、ときには暖かい日に恵まれ、春を待ちわびていたかのように、街行く人々は重苦しい冬のコートを脱ぎ捨て、街に華やいだ雰囲気が漂っていた。

 解放から四十年ちかく経って、急展開で成烈や有福姉弟の消息がわかり、寿福に何もかも話して、伊礼は長年の肩の荷を降ろしたようで、寛いだ日々を送っていた。

 気がかりといえば、寿福が成烈やこずゑと会うことによって起きるであろう事態が、妻や子どもたちにどんな波紋を広げるのか予測がつかないことであった。

 成烈が伊礼に連絡してきたのは、暖かい陽が射す日の昼下がりであった。

「私、来月日本へ行くことになったのです」

 成烈は弾んだ口調で告げた。

 四月初旬に東京で開催される、未成年者の犯罪に関するシンポジウムに、急きょ講師を務める大学の教授の代役で参加することになったという。

 近年、特に一九八二年に夜間通行禁止が解除になって以来、未成年者の犯罪が急増し、その防止対策が喫緊の課題になっていた。

「毅君に頼んで、こずゑさんに東京へ行くことを伝えてもらったのです」

 成烈はさっそくこずゑに手紙を書き、返事を待っているのだと伊礼に告げた。

「日本へ出発するまでに返事をもらえれば、それに越したことはありませんが、いずれにしても東京へ着いたら、こずゑさんに連絡するつもりです」

 シンポジウムへの参加よりも、有福こずゑに会うことが目的であるかのように成烈は興奮していた。

 二人が会えば、こずゑが寿福のことを話すのは目に見えている。それはほかのどんな話よりも大事で重い内容のものだ。

「コジュヱちゃんと、とことん話し込んできてくださいね」

 伊礼は頼み込むように、こずゑの親になったような思いを込めて成烈に言った。

「できるだけ冷静に話すつもりです」

「そうしてください。あなたのご家族は何もご存知ないのでしょう?」

 伊礼は成烈の今の生活を気遣った。

「もちろん知りません。しかし家族のことを思い(わずら)うことはなにもありません。家族には充分尽くしてきたつもりです。学徒動員から数えて四十年、六・二五動乱から数えれば三十四年、私の命がいつ消滅していてもおかしくはありませんでした。余禄みたいな命でした。運がよかったと同時に、私はいつもこずゑさんの姿が瞼に浮かぶと、ここで死んではいけないと自分を鼓舞して生きてきました。彼女がいなければきっと死んでいたと思います。そのことを思えば、現在の家族に対しても、こずゑさんに会うことの後ろめたさなど露ほどもありません」

 成烈は、こずゑの姿と言いながら、心の中では、あの孝子洞(ヒョジャドン)の家で切り続けた心のシャッターの、こずゑの裸身を思い浮かべていた。

 急に決まった訪日に、旅券やビザの申請など渡航準備に忙しい毎日を送っていた成烈は、気を揉みながら祈るようにして、こずゑの返事を待っていた。

 こずゑから分厚い封筒のエアメールが成烈のもとに届いたのは、日本へ発つ前日であった。成烈は封を切るのももどかしく読み始めた。楷書で認められた一字一句には、こずゑの思いの丈が込められているようであったが、何枚目かの便箋から始まった驚愕の内容が書かれた箇所に、成烈は息を詰めて読み進めることができなくなっていた。

  成烈様

  前略 何からどのように書けばいいのやら、途方に暮れながら筆を執りました。

  気持ばかりが先走り、ペンを持つ手が震え、失礼なことを書き連ねてしまうのではないかと危惧しながら書いています。

  一九四四年一月に貴方が出征されてから、ちょうど四十年の星霜を重ねながら、思い浮かぶお顔は、そのときが止まったままの貴方です。

  日本が戦争に負け、別々の国になるなどとは想像だにしませんでした。貴方が戦地から無事ご帰還されることだけを願い、寄り添って慎ましやかに生涯を送ることを夢見ていたことが、つい昨日のことのように思い出されます。

  福岡での学生生活を終えれば一刻も早く京城へ戻り、貴方を待つことだけが私の役目、ご帰還の暁には双方の親の許しを得て……。なんとうぶな女学生だったかと不明を恥じ苦笑を禁じ得ません。そんな私は、京城の親元へ戻るどころか一九四五年になると関釜連絡船の渡航がますます困難になり、そのまま私だけが福岡で終戦を迎えるという考えもしなかった事態になってしまいました。十月になって三人の家族が引揚げてまいりました。着の身着のままのあわれな格好に、大きな荷物を抱えて帰ってきた姿に私は涙してしまいました。アメリカ軍の手で、DDTという殺虫剤を全身に振りかけられ、敗戦の屈辱を滲ませて引揚げてきました。

  顔を合わせるやいなや、私は貴方とレイちゃんの安否を尋ね、貴方のことはわからないが、もし復員していれば何か言ってくるはず、ということまでしかわかりませんでした。

  福岡の博多港は戦地から引揚げて来る兵隊や満州、中国、朝鮮などからの引揚者と、祖国への帰国を待つ朝鮮の人々で溢れ返っていました。兵隊も陸続として復員して来るのを見るにつけ、絶対に死なないと約束して出征していった貴方も京城へ帰り着いているに違いない、と信じました。手紙を書けば消息もわかるはずと脳天気に考えていました。人間の往き来どころか郵便さえ不通になるなど思いもしませんでした。後になって朝鮮への帰りを待つ人に手紙を託すという方法があったのに、と気がついたときはもう後の祭りでした。

私は、戦争中は授業らしい授業もなく、終戦の混乱の中いつ卒業したのかもはっきりしないままに学生生活を終わりました。

  住む家もない私の一家四人は、父の実家でもある伯父の家に居候でした。敷地にある別棟の物置が仮の住居です。土間には農具が並べられ、薪、炭俵、漬物の樽が雑然とおかれた、奥にある八畳ばかりの一間が四人の住まいです。

  何の苦労も知らない母にとっては耐え難い生活の上に、伯父夫婦の陰口や中傷は、母の精神を次第に蝕んでいったようです。引揚者に対する偏見や差別は、他人からよりも身内からのほうがより過酷なものです。曰く、朝鮮では贅沢三昧をしてきて、その味をいつまで経っても忘れようとしない、内地のしきたりや慣習に従おうとしない、というものです。

  その上に収入というものがないのですから、伯父夫婦にとって私の家族は寄生虫みたいなものです。

  父は家族を養っていく責任感の重圧と戦っているようでした。しかし四人の心と思惑はバラバラでした。内地の習慣や農村社会の生活に馴染まない母と弟、福岡で生まれ育ち、生活の建て直しに精力を注がねばならない父、数年の福岡での経験のある私と、四人の間には隙間風が吹いていました。

  父ははっきりした見通しもないままに、住居兼事務所の一軒家を借りて弁護士事務所を始めました。父にはさらに大きな課題がありました。敗戦国日本は、戦争の放棄を初めとして憲法の全面的な改正がおこなわれ、それに伴って各種法律も変わってしまいました。法律家としての父は、新憲法に沿った法律の勉強も大変そうでした。

  母は、朝鮮とはなにもかも違う新しい場所、新しい時代に適応できず心身ともに弱くなっていきました。

  暗く沈みがちなわが家にあって唯一の明るい話題は、毅が東京大学法学部に入学したことでした。学校制度も大きく変わり、本人にとってはそれなりに苦労もあったのでしょうが、本来が何事にも動じないようなふてぶてしい性格の子でしたから、両親のことなど目もくれず、さっさと東京へ行ってしまいました。朝鮮にいれば京城帝大を目指し、貴方の後輩になったことでしょうね。

  私は学校を卒業してからというもの、何かをしたいという意欲も湧かず、鬱々とした日々を過ごしておりました。病弱な母に代わって家事一切が私の役目でしたが、家事といっても大してすることもありません。昼間は父の事務所の手伝いをしながらの毎日です。

  父の事務所を継いだ貴方と一緒になって、普通の家庭を築くという未来図が絶たれたことが、私には何も考えが浮かばなくなったことの大本にあると思います。果たしてそんな私に、生きている価値があるのだろうかと、負の思考ばかりしていました。また持ち込まれる縁談が鬱陶しく、両親の意に添えない自分がほとほといやになっていました。

  結婚をすれば子供が生まれるということに、恐怖にも似た思いが内から突き上げてくるのです。そんな人間がどうして人の妻になどなれるというのでしょうか。誰にも会いたくない私は、深く考えることもせず、ある夜睡眠薬自殺を図っていました。眠ったままで消え入るように死んでしまえば、何も思い煩うこともないと多量の薬を飲んでいました。

  電気を点けたままの部屋で、夜中に便所に立った母が枕もとに転がっているビンを発見し、私は父が引くリヤカーで近所の病院へ担ぎ込まれたそうです。一命を取り止めた私は、それから一種の軟禁状態におかれました。貴方はご存知ないと思いますが、そのころ私は、太宰治という作家の『人間失格』や『斜陽』といった小説ばかり耽読していたのです。今思い返すと、ものに取り憑かれた浅はかな人間だったとしみじみ思います。

  ちょうどその頃でしょうか、朝鮮半島の三十八度線を境にした南北の対立が激化し、新聞の紙面でも朝鮮に関係する記事が目につくようになりました。私は極力朝鮮に関する記事を読まないようにしていました。目を背けることは気になってしかたがないことの裏返しでした。五十年に朝鮮動乱がはじまったときは、みんなで心を痛めました。朝鮮に住んでいた人間は、いや私の家族は国家のことではなく具体的に知っている人のこと、貴方やレイちゃんやレイちゃんの兄弟姉妹を思い、なにごともなければと祈るような気持でした。そんな中、私はニュース映画で観たシーンに衝撃を受けました。五歳くらいの女の子が弟の手を引いてソウルの街中に立ち尽くし茫然自失状態の映像でした。女の子は薄汚れた白のチマ・チョゴリに裸足でした。ナレーションは「親がどこへ行ったかわからず途方に暮れる姉弟」というものでした。二人の表情はいまだに瞼の裏から消えません。親は死んだのか、置き去りにしたのか、泣くこともなく親を捜しているような目に、私はなにも観ずに映画館を飛び出していました。健気に生きて親を捜す幼子に、胸の激しい動悸が止まりませんでした。

  自殺など図った自分を恥じました。その映像がきっかけだったと思います。人間は懸命に生きなければいけないのだと気づき、私は本格的に平安文学を勉強しようと決心し、東京へ出て早稲田大学に編入したのです。その後のことは毅からお聞き及びだと思います。

  ここまでまるで他人事のように、淡々と書き連ねてきましたが、貴方にどうしても伝えなければいけない事が残りました。両親にも、ましてや毅にも言わなかったことです。

  貴方と私の間には子供がいます……。

想像だにしなかった一行に、成烈の便箋を持つ手は震え、心臓は高なった。顔が強張り、紅潮していくのがこめかみの血管の鼓動でわかった。どうして今日まで知ることができなかったのだ。誰を責めるわけでもなく成烈は自分を失ったように何も考えられなくなった。

学徒出陣後はこずゑとの音信が途絶えた。こずゑのいた学校の寮へは男の名前では手紙も葉書も出せなかった。もし便りの行き来ができたとしても、軍用郵便では何一つ重要で具体的なことは書けなかった。すべての郵便物には軍の検閲が入るのだった。成烈に伝える術がこずゑにはなかったことが容易に想像できた。伝えたくてどんなに悶え苦しんだことだろう。

いま子供はどこにいる?

  ……男の子が生まれました。子供のことは片時も忘れたことはありません。出産したことを知っているのは、私の家族とレイちゃんの弟妹だけですが、子供の父親が貴方であることを知っているのはレイちゃんだけです。両親には「相手は誰か?」とどれほど責められたことでしょう。それでも頑なに答えませんでした。なぜ言わなかったのかは、賢い貴方のことですから充分ご理解いただけると思います。ただ貴方のお帰りを待っていたということだけをお伝えすればわかっていただけることでしょう。

  出産したのは安城のレイちゃんの実家です。一九四四年九月二十三日、その日は朝鮮の秋夕という祝日でレイちゃんの家族がみんないらっしゃいました。朝の十時ころだったと記憶しております。ご想像いただけると思いますが、未婚の、しかも学生の分際で子供を育てることができる訳も許される訳もありません。出産するとすぐに子供と引き離され、子供は養子にだされたのです。でも私にはわずかな希望が残されていました。養子先をレイちゃんだけが知っていることで、貴方が兵役免除になり私の元へ戻って来さえすれば、子供を私たちの元へ養子先から必ず連れ戻すとレイちゃんが約束してくれていました。レイちゃんは私にとって両親よりも信頼のおける唯一の人でした。それがなんとしたことでしょう、子供と引き離されたどころか、国が引き離されることになってしまったのですから。子供にとってなんと(むご)いことでしょうか。それからというもの、レイちゃんと音信不通になり、私には子供を取り返す何の手立てもなくなってしまいました。朝鮮動乱が起きたときの心痛は体調を壊してしまうほどのものでした。貴方やレイちゃんのことを心配していたと書きましたが、何よりも残してきた子供の安否を思うと眠ることもできない夜が続きました。

  一九六五年に国交が回復すると、うろ覚えのレイちゃんの実家の住所へ手紙を出しましたが、宛先不明で戻って来てしまいました。貴方へも送ったのですが届きませんでした。朝鮮動乱を挟んだ二十年はなにもかも消し去っていたのです。ご理解いただけますでしょうか。

  私の手元にある子供の痕跡はたった一つ、子供と繋がっていた(へそ)の緒だけです。子供の写真一枚あるわけではなく、私の脳みそに刻まれた赤児の頬っぺたの感触と匂い。

  生きているのか死んでいるのかさえ定かではありませんが、決して忘れることのない誕生日。今年は生きていさえすれば四十歳になりました。レイちゃんの実家を後にして、途中で見た緋色の彼岸花と、レイちゃんが教えてくれた朝鮮での彼岸花の呼び名『相思花(サンサファ)』の名前と、「相思花は根っこがしっかりと繋がっているのよ」と教えてくれたレイちゃんの言葉を生涯わすれることができません。

  日本へおいでになるご予定とのこと、貴方にお時間がおありであれば、私はいくらでも体を空けてお待ちいたします。ほんとうにお婆ちゃんになってしまって老醜を晒すのが恥ずかしいのですが、ご容赦ください。私と会うことで奥様やご家族にご迷惑ではないかとも思いますが、貴方の判断にお任せいたします。

  貴方に最後にお会いしてからの四十年、変わることなく持ち続けた私の心を、平安時代の歌人、藤原定家の和歌に託して手紙の結びといたします。

『来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ』

  これで私が貴方にお伝えしたかったこと、しなければいけなかったことのほとんどを書いたつもりです。脈絡のないつたない文章、乱筆をお許しくださいませ。

  また読み終えられた折には、ご投火いただければ幸いに存じます。

  最後になりましたが、何事にも無理をなさらずお身体を(いた)わられんことをお祈り致しております。 かしこ

                                  こずゑ拝

読み終えた成烈は、自分を(わら)いたくなった。この歳になるまで自分は思慮深く慎重で、並み以上には賢いと思っていた。しかし深く考えたつもりでも人間の考えることはたかが知れている。冷静と思いながら一度思い込めば、その思いに縛られていることに気づかない。浅薄なものだ。

 こずゑが自分の子を宿し、五体満足な男の子を生み、そのことを片時も忘れることがな

かったばかりか、生涯独身で通そうとしている。自分に対しても四十年同じ想いを持ち

続けていることに、成烈は深く打たれた。

 同時にまた一方では成烈の中には一つの疑問も生まれていた。

 こずゑが頑なに子供の父親が誰であるかを明かさなかったのは、ただ未婚の母親である

こと、学生の分際だったからという理由だけだったのだろうか。もし自分が無事にこずゑ

の元に帰還していたとして、二人はほんとうに結婚できたのだろうか。

 子供の父親が朝鮮人である、ということがわかったときの両親の反応を予測し、その結

果を危惧していたことも、自分が父親であることを言わなかった大きな理由なのではない

のか。

 朝鮮総督府は内地人と朝鮮人の結婚を奨励し、ときには結婚した夫婦を表彰したことさ

えあった。しかし朝鮮人はいうにおよばず、朝鮮総督府が唱えるお題目に、日本人も冷や

やかな目を向けていた。朝鮮社会は支配者の日本人と、被支配の朝鮮人という格差社会で

あった。階級格差を越えた結婚がいかに困難で、世間から奇異の目で見られるかははっきりし

ていた。

こずゑの両親がいかに知的水準も高く、わが子に理解のある人物だったとしても、二人

が結びつくことは相当に困難なことだったと思う。そのことをこずゑはわかっていた。だ

からこそ手紙の中では曖昧に書いているのだ。成烈に賢察してほしいというのはそれをさ

していた。

 出征中の軍隊で味わった、朝鮮人に対するいわれなき差別、陰湿ないじめなどが思い起

こされ、日本人に対する憤りが沸沸として改めてこみ上げてきた。

 こずゑと自分の離別は、個人の力ではどうにも(あらが)い得ない、目に見えない力にねじ伏

せられ、なるべくしてなった離別だったとしか思えない。

 一方では解放から今日まで、徹底した反日思想に塗り込められた韓国では、日帝時代の

世代を冷遇する風潮があった。成烈はその偏狭な処遇にも反発を感じ、日帝時代を懐かし

む心持も持ち合わせていた。こんどの訪日にはどこか浮き立つものがあるのも正直な気持

だ。日本に対する憎しみと懐旧がない交ぜになった奇妙な気分であった。

 事情はどうであれ、こずゑと自分の間に子供が生まれていたというのは考え及びもしな

いことであった。そして子供の消息は伊礼だけが知っている。そのことをなぜ伊礼は告げ

てくれなかったのかと、成烈は怒りにも似た思いが募った。

 日本への出発を控えて成烈はあまりにも忙しく、前日に受け取ったこずゑの手紙の内容

を伊礼に確かめる時間もなかった。

成烈は金浦空港で出国審査をすませ、搭乗ゲート近くの公衆電話から伊礼を呼び出した。

「いまから日本行きの飛行機に乗るところです」

「まあ、今日だったの。お気をつけて」

伊礼の明るく朗らかな返事に、成烈は苛立っていた。

「是非訊いておきたいことがあって電話しました。昨日こずゑさんから手紙が届きまし

た」

「元気でしたか? 何が書いてありましたか?」

「とんでもないことが書いてありました。私たちの間には子供がいたのですね。そしてあ

なただけが子供のその後を知っていると」

「…………」

「子供はどこにいるのです? 何をしているのですか?」

成烈は詰問するような口調になっていた。

「いまは言えません。何も言わないという約束があるのです」

「誰との約束なんですか?」

「…………」

「生きているのですか、それとも……。それも言えないというのですか?」

「生きています。そして今東京に……」

 公衆電話に入れた十ウォン硬貨がなくなって、通話は途切れた。

二十

成烈たちシンポジウム参加の韓国人一行の滞在先は、紀尾井町の銀白色に輝く赤坂プリンスホテル新館であった。シンポジウムが開催される会場が、このホテルから歩いて行くことのできる日本都市センタービルである。指呼の距離にある便利さだ。

会議には、香港、シンガポール、オーストラリア、アメリカ、カナダなど環太平洋地域の主要国と日本国内の法曹関係者が一堂に会していた。しかし会場に用意された同時通訳のイヤホンから流される言語は英語だけである。成烈をはじめ十数人の韓国人一行は、もちろん誰一人として日本語に不自由はしなかったが、誰もが一様に複雑な感慨を抱いていたに違いなかった。自国と自国の言葉に誇りをもつ気概と、完璧に理解伝達ができる自分たちの日本語には、韓国人参加者の一人一人にそれぞれの歴史が秘められていたが、互いにそのことを話題に持ち出すことはなかった。

朝夕ホテルとシンポジウムの会場の間を歩いて往復した。どこか湿り気のある空気は、ソウルとはやはり違う、と成烈は顔の肌を撫でる風に外国を実感していた。

 一日目の会議が終わりホテルへ帰りながらの道すがら、一行のリーダー格の、ソウル大学教授が提案した。

「皆さん、初日ということもあり親交を深める意味でも、今夜は町に繰り出しましょうよ。赤坂には韓国クラブといわれるバーやクラブが何軒もあるらしいですよ。わが国のアガシ(若い女性)がホステスとしてたくさん働いているということです」

 できるだけ早くこずゑと連絡を取り合い、会う算段を考えていた成烈であったが、一行に付き合わざるを得ないだろうと戸惑いながらも、仕方がないとあきらめていた。

 プリンス通りとよばれている、車も少ない通りを横切り赤坂プリンスホテルの敷地に入ると、ソウル大学の老教授が、右手に見える瀟洒な洋館を指差しながら、

「僕は解放前に、あの館へ一度来たことがありましてねえ」と、感慨深げに話し始めた。東京大学に留学していた時のことだという。

「招待されたというのか、呼び出されたというのか、十人ばかりの朝鮮人留学生が集められて、お茶の饗応を受けたのです。あそこは李王朝の王世子(皇太子)李垠(イウン)殿下の邸だったところです。何の話だったのか緊張していて全く覚えていませんが、李垠殿下方子(バンジャ)(まさこ)妃夫妻に紅茶をご馳走になりました」

 いかにも高貴な方の住まいと思われる、中央にドーム型の屋根のある、チューダー朝風の二階建ての建物である。赤坂プリンスホテルの旧館として現在でも使われ、バーやレストラン、結婚式場としても利用されているとのことであった。

 李垠殿下と方子妃――。幼年時に日本へ連れてこられ、日本の皇族として遇されながら、戦後は平民として不遇の後半生を送っていた。一九六三年に帰国を許された李垠殿下と、梨本宮(なしもとのみや)家の姫であった方子妃は、内鮮一体の象徴として結婚し、時代に翻弄されながら数奇な運命を余儀なくされた。

 内鮮の結婚――。成烈はわが身とこずゑに思いを重ね合わせていた。李垠殿下と方子妃には日韓混血の子供もいたはずだ。身分はどうであれ、日韓の一筋縄ではいかない複雑な環境におかれた夫婦と子供は、自分たちと何ら変わることはない。四十年を経てわかった親子というのは、どう接したらいいものだろうかと思わずにはいられなかった。

 部屋に帰り着いた成烈は、遅い時間を気にしながらも、毅に聞いていたこずゑの家へ電話をいれた。呼び出し音が続くが応答がない。受話器を持った手は汗ばんでいる。

成烈は、ダイヤルを間違ったのではと、番号を確かめダイヤルを回したが、やはり電話に出る気配がなかった。

どこかでホッとする気持と、なぜ出ないのだろうと不審に思いながら受話器を置いた。

電話を諦め、訪日前日に受け取った、こずゑからの手紙を取り出し、読み直し始めた。

――来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に…… こずゑがどれほど待っていたことだろう、届きもしない手紙を書いて、送り返されてきた自分の手紙にどれほど悲しい思いをしたことだろう。自分は今、たった二回のコールの無反応に苛立ちを覚えている。成烈は、独りよがりで、いい気なものだと苦笑いしていた。どこまでも広がる東京の街の光を眺めて、こずゑの住まいはどの方角なのだろうとぼんやり考えていた。どこか旅行にでも行っているのだろう。自分が韓国を出国する前に、一報入れておけばよかったのだ。

 翌朝になっても空しい呼出し音が続き、成烈は仕方なく福岡の有福毅に電話を入れることにした。日本での滞在予定も残り少なくなっていた。

毅が電話口に出た。

「ソウルの成田です」

「成田先生。ソウルからの電話ですか?」

「いや、いま東京にいます。未成年者の犯罪に関するシンポジウムに参加するために、大学の教員の資格できたのです。ところで、こずゑさんのところへ電話するのですが、お出にならないのです」

「姉が今入院しとるとですよ」

「えっ、どうしました?」

「脳梗塞で倒れて、近くの病院に」

「脳梗塞? それは何ですか?」

成烈は、日本語の意味がわからなかった。

「どんな病気なんですか? 重い病気なんですか?」

「血管の血が詰まるとです。言語障害が起きたり、歩行困難などの身体の障害も」

「いつ倒れたのですか?」

「一週間ばかり前に。昨日まで集中治療室にいて、今日一般病棟に移るはずです」

 一週間前といえば、こずゑが自分宛に書いた手紙を投函してすぐではないだろうか。

「すぐにでも病院へ行きます。どこの病院ですか?」

「ちょっと待ってください。見舞いに行けるかどうか病院に確認して、こちらから電話します」

「どこの病院なんですか?」

「目黒区の、東邦大学大橋病院です」

 成烈はシンポジウムへの出席をあと一日残していたが、重い病気だと聞いて、気が動転していた。なにをしたらいいのだろうか、と考えても一旅行者であり帰国の日も迫っている自分に、何をできるわけでもなかった。ただ毅からの連絡を待つしかなかった。

 会えるかどうかどころではなくなった。しかし成烈は、こずゑに大きなお土産を用意していた。金浦空港の公衆電話から聞き留めた伊礼が言った子供のことである。

「生きている。今東京に……」

これ以上のお土産はないと、胸にしっかりと刻み付けていた。

 夜になって成烈は、ホテルの部屋を一歩も出ずに毅からの電話を待った。約束していた大学時代の同窓生との会食も、田島を通して断った。帰国を一日二日延ばすことも考えていた。

 毅からの電話で様子がわかれば国際電話を入れ、伊礼にこずゑの入院を伝え、途切れてしまった子供の詳細を訊き出さなければと、まんじりともせず毅の連絡を待っていた。

 床についてうとうとした寝入りばなに、伊礼は電話に起された。十時を過ぎていた。年寄りの夜は早い。

「成烈さんから電話です。こんな時間に何事でしょうか?」

 嫁の不審そうな問いに、伊礼は「明日にしてちょうだいと伝えてよ」と電話口に出るのを渋った。

「どうしても今話したいことがあるとおっしゃっていますが……国際電話だそうです」

 伊礼は何があったのかと訝しげに受話器を手にした。嫁が聞き耳を立てている。

「こずゑさんが脳梗塞で倒れて、入院しているのです」

 成烈は早口で、前のめりになりそうな口調であった。

「なんですって? コジュヱちゃんが倒れた?」

 成烈は経緯を話すと、続けて言った。

「どうしても今、わたしたちの子供のことを詳しく教えて欲しいのです」

 伊礼はもう嫁の不審げな様子を憚っていられなかったが、寿福のことを伝えるのに咄嗟に日本語でしゃべり始めた。肝心なことは寿福が自分で家族に話すまで何も言うなという約束を守るためだった。

 明日、今聞いたことを寿福に伝える、できれば寿福が病院に行くように説得すると言って、成烈の連絡先を訊き電話を切った。朝早く明洞の茶房へ出かけ、寿福に電話をしようと思った。

 三月の初めに帰国し、自分が成烈という韓国人と有福こずゑという日本人女性の間に生まれた子供であると聞かされた寿福は、伊礼の気持を(おもんばか)って口にはしなかったが、少なからずショックを受けていた。

 父系血縁の宗族意識の高い韓国社会にあっては、学歴や社会的ステータスよりも、どの血族かというのはもっと重要なことである。全州李氏であるとか金海金氏であるといった一族の血縁は、結婚や、あるときはビジネス社会にも大きな影響を及ぼすことがあるものだ。族譜という系図に記載された自分の名前は、同じ宗族血縁のどこに位置するかが一目瞭然である。

 すでに二人の子供のいる寿福は、妻や子供たちのことを思って悩んでいた。自分の家族はどこから来た人間で、どこに属すればいいのか。梯子を外された、宙ぶらりんの人間ではないか。

 寿福は、伊礼を含め両親と思っていた安城の夫婦と、実の親を恨めしく思った。生まれた子供のことを考えたうえでの処し方とは思えなかった。

 しかし時間が経つにつれ、恨む気持よりも、血のつながりを強く意識する心が芽生え、本当の親に会いたい、おまえは私が生んだかけがえのない子供なのだと言って欲しいと、心の奥底から突き上げてくるものを抑えきれなくなることがしばしばだった。見捨てられた子供ではない、親の力ではどうにもならなかったと、言ってもらいたいと思うようになっていた。

 寿福は、伊礼には自分が存在することを、父親である成烈氏にしばらく伏せておいてくれと頼んだが、そのときの動揺から冷めて、落ち着いて考えることができるようになっていた。

 できるだけ早く実の親に会おうと思い定めはじめたころに、伊礼から電話がきた。東京へ戻ってちょうどひと月が経過していた。

「コジュヱちゃんが脳梗塞で倒れ、いま入院している。会ってあげられないか。おまえに会うことができれば、元気になるかもしれない」

 伊礼は涙声になっているようだった。

 寿福には伊礼が心からそれを願っているのが伝わってきた。オモニはどこまで情の篤い人なのだろう。自分のことは一切考えず、訴えるように言う伊礼を寿福はいとおしく思った。菩薩のような人だ。

「今、成烈氏が東京にいるんだよ。おまえのことをコジュヱちゃんに話したいと電話してきた」

「えっ、二人が東京にいるということですか?」

「成烈氏は赤坂プリンスホテルに泊まっている」

「わかりました。私は両親に会います。そして自分からオモニに聞いた私の生い立ちのことや、現在の自分のことを伝えます。成烈氏の部屋番号を教えてください。オモニほんとうにありがとう」

 寿福の目からも涙が流れていた。伊礼への感謝の涙だった。

 もうこれ以上オモニ一人に、心を痛めさせることはできない。オモニには鳥が羽根を畳んで休むように、穏やかな日々を送って欲しいと、寿福は心から願った。

 外堀に架かる弁慶橋のボート乗り場近辺には、散り始めた桜の花びらが吹き寄せられている。赤坂見附の地下鉄を降りた寿福は、弁慶橋を通って赤坂プリンスホテルへ歩いて行った。

桜を目にして、東京勤務ももう一年かと感慨にふけった。思いもしなかった東京駐在が引き金になったかのように出生の疑問が解け、日本と自分の縁の深さに思いを致さざるを得なかった。

 弁慶橋を渡り切った右手に、銀白色の高層ビルが夕陽を浴びて聳えている。

 寿福と成烈は、赤坂プリンスホテル新館一階のコーヒーラウンジで待ち合わせていた。寿福はさほどの緊張もなく、ホテルエントランスまでのなだらかな坂道をゆっくりと歩いていった。

 寿福は目印としてベージュのブレザーにノーネクタイでお伺いすると伝えておいた。コーヒーラウンジの入口に立つと、窓際の席で初老の紳士が立ち上がって寿福の方に目を向けている。

 歩み寄った二人は互いに「金寿福(キムスボク)です」「成烈(ソンヨル)です」と短く名乗り合った。

 微笑んでいる風情の成烈が寿福には作り笑いをしているように見え、直立不動の姿勢はまるで軍隊の上官に接しているようだ。軍隊経験者にありがちな立ち方だと思った。

「どうぞお座りになってください」

成烈が丁寧な言い方で促した。

「遅くなってすみません」

寿福が数分の遅れを詫びた。

 さほど待っていないと成烈は言ったが、テーブルの灰皿には数本の吸殻と残り少なくなったコーヒーカップがあった。

 二人の間を沈黙が支配した。

 寿福はビジネス上で初対面の人と会っているのと変わりがない気分だった。

(キム)伊礼(イレ)さんから既にお聞き及びでしょうが……」

 館内にはカーペンターズのBGMが流れている。何という曲名だったかと、寿福はどうでもいいことを考えていた。

「最初に伺ってよろしいでしょうか、金伊礼さんとはどんなご関係で?」

 初対面とはいえ、成烈の口の利き方はまるで年上の人間に対するような丁寧な言葉遣いである。

「金伊礼は私の母です」

 成烈が口をわずかに開けて驚きの表情になった。

「養子ですが、金伊礼は私の戸籍上の母です」

「まさか。それはどういうことですか?」

「私も四十年間、この三月に聞かされるまで金伊礼の養子であること以外何も知りませんでした。安城の、母の弟夫婦が私の両親だと聞かされていました。またなぜ自分の弟夫婦を私の里子先にし、籍に入れたのかわかりませんが、母伊礼の説明だと、自分の身内に里子、養子にすることが私にとって最善と考えたからということでした」

 寿福は眉一つ動かすことがなく無表情で、伊礼から聞かされた自分の出自、生い立ちを淀みなく手短に話した。

「昨年の夏、私も四十年ぶりに金伊礼さんと会い、その後何度かお会いしましたが、そんなことを彼女は一言も言いませんでした。なぜいわなかったのでしょうか?」

「ひと月前に私が出生の秘密を聞かされてからは、私のことをあなたに告げることを少し待ってほしいと頼みましたが、それ以前の……、なぜ母伊礼が口を閉ざしていたのかは私にはわかりません」

 成烈は、寿福の語り口や顔を目の前にしながら、表情や醸し出す雰囲気が、こずゑの父有福啓司によく似ていると思わずにはいられなかった。無駄口をたたかず理路整然と誠実に対応していた啓司の人柄が偲ばれた。この人物も頭が切れると思った。

 成烈は、暗記してしまうほど読み返した毅とこずゑからの手紙や伊礼から聞いた話から、解放を境にした世の中の激変と混乱に、伊礼が途方に暮れた挙句決断した、寿福を自分の養子にした処置に思いを馳せた。六・二五動乱の苦難にもめげず、自分たちの子供を育て上げてくれたことに頭が下がった。こんな立派な大人として巡り合うことができたことが嬉しかった。

「私にはどうしても解せないことがあるのですが……」

寿福が言った。

「私に答えられることでしょうか」

「わが国を乗っ取り、支配者として君臨していた日本人の女性とどうして結婚しようと思ったのですか?」

 どう言えば寿福に理解してもらえるかと、成烈はしばらく考えを巡らせていた。

「解放後の徹底した反日教育を受けている若い人たちには理解できないかもしれませんね。もちろんその当時でも不当な差別や理不尽さに、日本に反発する心情はいくらでもありました。しかし教育というのは恐ろしいものです。日本式の、日本人にするための教育を受けた人間は、朝鮮人としての矜持を持ちながらも頭の中は九十パーセントの日本人になっていたのです。さらに食っていくため、生きていくためには、反日運動家でもないかぎり、一日一日の生活に必死でした。私にとっては、有福家は救いの神でした。家庭教師のほかに弁護士事務所の手伝いという仕事をさせてくれ、大学さえ卒業することができたのです。今のわが国の教育では、すべての日本人が悪行の限りを尽くしたように言いますが、有福家の人たちは何の差別もしませんでした。そのことはあなたのオモニ伊礼さんが最もよくわかっていると思います。こずゑさんも、……あなたの実の母親ですね、民族ということに何のこだわりもない人でした。民族の違い、支配被支配の関係にあり、結婚はそう簡単ではないことは充分わかっていましたが、私にとって、こずゑさんはそれを厭わないだけの控えめで聡明な、魅力的な女性でした。どうしても一緒になりたいと思う唯一の女性だったのです。ここに彼女がくれた手紙があります。是非読んでほしい」

 成烈はこずゑから届いた封書を差し出した。

「まだ手紙を読みこなすほどの日本語の理解度はありません」

「それじゃ、かいつまんで私がウリマル(韓国語)で読んでみます。それで彼女がなにを考えていたかわかると思います。その前に言っておくと、彼女と結婚したいという私の気持に揺るぎはまったくありませんでした」

 成烈は便箋に目を移して途中から読み始めた。

 ――貴方が無事戦地から帰ってくることだけを願い、寄り添って質素な生活を送ることを夢見ていました。……貴方を待つことだけが私の役目、帰ってきたならば双方の親の許しを得て……。……ソウルに子供を残している自分が、(日本で)別な人と結婚するなどできない。結婚すればその人の子供を生むことになる。そんなことは恐ろしくてできない……途中で相思花を見たときレイちゃんが、「相思花は根っこはしっかりとつながっているのよ」と教えてくれた言葉は生涯忘れることはできません……。

「自惚れかもしれませんが、彼女はそれほど私のことを愛してくれていたのです。古風かもしれませんが、操を立てるということを知っていた芯の強いすばらしい女性です」

 寿福は両手を組み、俯き加減にして成烈の言葉に聞き入っていた。

「私はこの年齢(とし)まであなたが生まれているとは全く知りませんでした。国交が回復される

まで二十年以上も連絡を取り合う方法や宛てなどなかったのですから。同じ国に住んでい

たら懸命にお互いを捜したでしょうが。それでも彼女は私以外の人は眼中になく、今日ま

でずっと独身を通してきました。私は一九五三年に三十一歳で結婚しました。こずゑさん

のことを思うと不徳の致すところです」

 端正な顔を崩して、成烈は自嘲ぎみに笑った。

「その人は独身で、何か仕事をしているのですか?」

 寿福は心を動かされるように訊いた。

「東京のどこかの私立女子大学で、日本の古典文学の教授です」

「あなたも、その人も大学の先生ですか。子供の私は鼻高々ですね」

 成烈の前で寿福は初めて砕けた口の利き方をしたが、思い直したように真剣な顔になっ

て続けた。

「私があなたたちの子供だと証明できるものが何かあるのでしょうか?」

 当然とはいえ、成烈には思いがけない寿福の問いに言葉に詰まったが、

「あなたのオモニ伊礼さんが一番の証人ですし……自分では言いにくいことですが、こず

ゑさんがすべてを……」

 成烈は言いよどみながら、さらに言葉を繋いだ。

「そうそう、こずゑさんは臍の緒だけは大事に持っていると手紙に書いてありました」

 寿福はここまで聞き出すと、矢も楯もたまらず、実の母こずゑに会いたいという思いに

胸が締め付けられた。

二十一

 寿福と初めて会った翌日に、成烈は寿福と病院で待ち合わせる約束をしていたが、当日になって寿福は仕事を抜けることができず、一人でこずゑの見舞いに出向くことになった。身内以外は面会が許可されていないこともあり、福岡の毅から病院の了解を取り付けてもらった。

 毅の話によると集中治療室から一般病棟に移った日から、四肢の麻痺へのリハビリも始めていて快方には向かっているが、言語障害をきたしているため満足な会話ができないと聞かされていた。こずゑには成烈が見舞いに行くことが伝えられていた。

 成烈は東京に来て以来、ホテルとシンポジウム会場の往復だけでどこにも出かけていなかった。主催者が用意した東京都内コースと箱根芦ノ湖の観光コースのどちらも参加しなかった。こずゑと会うという大きな目的も、帰国の前日にやっと実現するが、こずゑの入院は想像もしないことであった。

 赤坂見附から池尻大橋の病院までタクシーを利用すれば地理不案内でも簡単であるが、成烈は都内地図を広げてルートを確かめていた。青山通りから国道二四六号線で一本道で、十五分もあれば行けるだろうと地図を見ながら考えていた。地図を眺めていると、外苑前という表示に目が止まった。

 どこか聞いたことのある地名だと記憶を辿ると、東京は初めての訪問なのに、一九四四年十月に記憶は遡った。京城日報に写真付で大々的に報じられた学徒出陣壮行会の記事である。

 六万余の、出陣する学生を見送る人々を集めて、そぼ降る雨の中で盛大に執り行われた壮行会の会場が、神宮外苑陸上競技場であった。

 その日から三ヵ月足らずで自分も学徒出陣したのだ。こずゑと引き離され、以来二度と会うことのなかったあの忌まわしい出陣は、外苑という地名のところから始まったのだ。

 どれほどの恋人との別れがあったことだろう。そして何人の学生が愛する人との再会を果たすことができたのだろうか。

 日本人との結婚など考えられないと言った寿福の机上の反日とは違う、日本に対する憤怒が渦巻いていた当時の朝鮮人学生の苦悩は、解放後の世代には理解できないだろう。権力者さえ抗しきれない国家というもののベクトルの前ではすべての個人が非力なのだ。競技場をロボットのように整然と歩く出陣学徒の写真が目に浮かぶ。

 今日四十年にしてこずゑと再会するのかと思うと、成烈はなんともやりきれない感慨がマグマのように溢れ出てきた。成烈は病院への途中寄り道をしてみようと思った。

 タクシーの運転手に行き先を告げたあとで、成烈は言ってみた。

「神宮外苑陸上競技場を回って池尻大橋へ行ってくれませんか」

「国立競技場のことですかね?」

 四十四、五歳くらいの運転手であるが、ここにも戦争を知らない世代がいる、ましてやわが国の何万人もの若者が日本兵として戦争に狩り出されたことなど知らないに違いない。

「ここが国立競技場ですが……一周してから池尻大橋へ行けばいいのですね?」

「そうしてください」

 渋谷を過ぎるとタクシーはほどなくして病院に着いた。

 なだらかな勾配の狭い通りに面して、横長な白塗りの地味な五階建ての病院である。

 一階の玄関を入ると、成烈が想像していた大学病院と違い、こじんまりとした面会受付

が正面にあった。成烈は教えられた五階のこずゑのいる個室へ向かった。

最初に何と語りかけたらいいのか定まらぬままに、入院者の名札を確かめ、開け放たれた室内に入っていった。

部屋は陽射しを遮るように暗緑色のカーテンが引かれ、膝の高さほどの低いベッドにこずゑは臥していた。こずゑの近くには介添え人の中年の女性が手持ち無沙汰に坐っていた。

成烈はどちらへともなく「ナリタです」と言った。

無意識のうちに大きな声になっていた。こずゑと目が合った。

 椅子から立ち上がった介添え人の女性が愛想よく言った。

「お待ちしておりました。有福さんは今日はご気分がよろしいようでよかったですわ。私は席を外しますから、こちらへどうぞ」

 ベッドの側に椅子を用意しながら、成烈に坐るように促した。

 こずゑは何も言わなかったが、介添え人が、

「だいぶお話もできるようになられましたよ」といい足した。

「こんなもので……」

 成烈が差し出した、小ぶりな生花のフラワーアレンジメントの見舞い品を受け取り、ベッド近くに置くと介添え人は部屋を出て行った。

成烈は介添えの女性がいてくれて時間を稼いだようで、落ち着いてこずゑに向かい合うことができた。

「やっと来ることができました」

 じっとこずゑの目を見て言った。

「……ごめん、な、さい、ね」

 きれぎれに、絞り出すように、こずゑがか細い声を出した。こんな無様な恰好でという意味と、遠いところを来てくれて申し訳ないの両方を意味しているのだろう。

「毅君に聞いていたよりずっと元気そうで安心しました」

 こずゑは、口元を微かにほころばせるようにし、二三度まばたきをして成烈に答えた。

「ごめんなさい」という甘ったるい曖昧な言葉に、成烈は、〈ああ、この人は日本人だ〉

と郷愁のような感情に包まれていた。

 自分の主張を決して引っ込めようとしない韓国人の、強さを前面に出す性質に長い間馴染んでいた。妻も典型的な韓国人女性の逞しさと明るさを持っていた。

 妻は客人をもてなすときも、「精いっぱい作りました。みんな食べていってくださいよ」と言う。こずゑの家で夕食をご馳走になったときに、母親の迪が必ず口にしたことを思い出していた。「何もありませんが、どうぞ召し上がれ」

 なんと控え目で、謙遜した言い方だったことだろう。

 韓国人にとっては、もどかしく思えるばかりに日本人女性は控え目であったが、優柔不断にも見えた。日本人の中でも、こずゑはさらに一歩も二歩も引き下がる性格だったように思う。四十年経っても人間の性格というものは、そうそう変わることはないようだ。

 そんな性格のこずゑが、有無を言わせず決然とした態度を見せたことがたった一度あった。学徒出陣することを初めてこずゑに告げたときだ。

 〈……志願を取り消して。……絶対に死なないと約束して……〉。たじろぐほどの強さだった。

 成烈が、こずゑの病状の程度に安堵の言葉を洩らした後に、二人は言葉を失くしたように長い時間お互いを見つめ合っているだけであった。何かを言えばそれだけぎっしり詰まっている四十年の思いが、軽いものになり、さらに話せば、それは自分の真情から遠ざかり、真実味を失くしていくことを二人は知っていたのだ。

 こずゑが長い間黙っているのは、病気のせいかと思われたときに、こずゑはかすれたような声を出した。

「よく……東京へ……来られました」

 掛け布団の上に置かれた右腕が動いた。左手は布団に蔽われて見えなかった。右手は握手を求めているのだと、成烈は思った。

「今日までに二つ目の約束を果たすことができました」

 成烈は差し伸べた両掌で、こずゑの手を包むように握った。

「三つ約束したことを覚えていますか?」

「…………」

「第一は、両手両足もがれても生きてあなたのもとへ帰って来ること、二つ目は絶対に弁護士になること、これはあなたのお父さんへの恩返しでもあるのです。でも……三つ目はできなかった、できません。一緒になることです」

「充分です、……それだけで……充分です」

 こずゑの口調によどみはなく、はっきり言葉にしていた。握り合った手に入った力で成烈には、こずゑの気持がわかった。

「わたしたちは、ずいぶん長い旅に出ていたのですね」

 成烈は口にしてハッとした。あたかも長い旅が終わったような印象を与えることを口走ったと成烈は後悔していた。

 二人がともに過ごす家があるわけがない。こずゑに旅の終着はないのだ。彼女の心に重くのしかかって晴れないでいるのは、自分と再会することで解き放たれるものではない、と成烈は気づいていた。

 心の奥深く澱んだままで晴れないものとは、旅の途中でうち棄てざるを得なかった子供のことなのだ、ということに思い至った。

 こずゑが成烈のことを一途に思い続けていたと思うのは、男の思いあがりなのだ。

 驚かせるようなことを言ってもいいものかどうか、成烈は躊躇したが、寿福と会ったことはどうしてもつたえなければいけない。

「こずゑさん、いまから話すことは落ち着いて聞いてください。ビッグニュースでとてもいいことなのです」

「大丈夫です。なんでも……おっしゃって」

 成烈はこずゑの手をしっかりと握り直して、前屈みに近づくようにして話し始めた。

「韓国に残してきた私たちの子供はしっかり生きていたのです」

 こずゑは目を見開き、成烈の次の言葉を待った。

「そしていま、東京にいるのです。私は昨日初めて会いました。今日一緒にお見舞いに来る約束だったのですが、仕事の都合で来られなくなりました」

「ほんとう…なんですね?」

「ほんとうです。伊礼さんが育てました」

「レイちゃんが……」

 こずゑの目が輝き、心なしか顔に朱がさしたように見えた。

「レイちゃんが」と口にしたきり、こずゑは何も言わなかった。両の目に涙が溢れ、目尻から左右に流れ落ちた。涙は止まず、鬢を濡らし続けた。

 成烈は、伊礼と寿福から聞いた四十年のあらましを語って、こずゑの涙を拭い取った。

「元気になって。近々子供が訪ねて来ますよ」

 こずゑは何度も何度も小さく頷いていた。二人は握り合った手を離すことはなかった。

 帰路は地下鉄を利用してみようと、病院を出て五、六分の駅までを歩き始めたとき、成烈はどこからか街に流れてくるオルゴールの曲が気になり耳を澄ました。

五時になっていた。近くの学校の下校を促すシグナルのようだ。遠い記憶を呼び覚まされるメロディである。歌詞さえいまにも口ずさむことができそうだが、出てこないじれったさと感傷的な気分がこみ上げてきた。普通学校(小学校)で歌ったのだろう。

 成烈は、通りの八百屋で品物を物色していた年配の女性に訊いた。怪訝そうな顔をしながら「夕焼け小焼けでしょ」と女性は答えた。

 題名を聞くと、歌詞まで一気に思い出した。幼い日につながっている琴線に触れた。

 いまでは大都会ソウルに飲み込まれ、昔の面影もない、J普通学校があった(ワン)十里(シムニ)。なだらかな丘陵の畑が瞼の裏に広がった。

 女教師の弾くオルガンに合わせて歌った小学校唱歌に、五十年以上も昔の、希望に満ちていた日々が重なる。

 こずゑと家庭を持って、幼い子供がいたならば、三人が手をつなぎ薄暮の野道を歩いて

「夕焼け小焼け」を歌ったに違いないと空想しながら、成烈は池尻大橋駅の階段を下っていった。

二十二

 母親有福こずゑを訪ねる前日の夜、寿福は、ソウルを発つ日に伊礼に手渡された腕時計を取り出した。

 祖父にあたる人が母伊礼に託し、伊礼が寿福に渡す日を長い間待ち続けたという時計である。逃げ惑ったあの六・二五動乱の戦火の最中にも伊礼が肌身離さず持ち続けた心のこもったものなのだ。

 寿福は裏面に刻印された漢字に見入った。名前の前にある有というのは〈有福〉を意味しているのであろう。自分が〈有福〉の血を受け継いでいることを表わすために刻印されたものに違いない。

 寿福という名前は、戸籍上の兄である安城の長男寿永と同じ漢字を付けるという韓国のしきたりに則ったものだとばかり思っていたが、それだけではなかったということに思い至った。有、寿、福というのは、有福という名字が、幾寿(ひさ)しく残るようにという深い意味もあったのだと寿福は確信していた。伊礼の思いが込められた深謀遠慮が偲ばれる。

 それにしても他人の子をそこまでいとおしくするものは伊礼にとって何なのだろうかと、寿福には理解できなかった。あれほど血縁を後生大事にし、他人には素っ気ないのが韓国人気質なのに、伊礼はどうしてこうも有福との結びつきを大切にしてきたのか。生みの母に聞けばわかることなのだろうか。

 こずゑに会って話すことや訊きたいことを脈絡もなく思い浮かべていると、ベッドに入っても気持が昂ぶり寝つくことができないままに、いつの間にか窓は白みかけていた。

 病院の玄関に着くまで、何と名乗ればいいのだろうと寿福は考え続けていた。自分は本当に〈金寿福〉なのだろうか。〈金〉という姓の人間なのだろうか。

 寿福は何かを決心でもしたように足早に病室へ向かった。

 こずゑは上半身が半起きした姿でべッドにいた。部屋へ足を踏み入れた寿福は、ベッドの足元に立ち、正面からこずゑに向かい合った。

「はじめまして、寿福(スボク)です」

ゆっくりした日本語で言い、わずかに日本風に頭を下げた。

 こずゑはしばらく寿福を微動だにせず見つめていたが、

「よく……いらっしゃいました」

 喉の奥の方から出た声で言った。舌が滑らかでないようだった。

 顔をベッドの脇にある椅子に向けて坐るように合図した。

「日本語が上手ではないが、許してください」

「よくわかりますよ、上手です。名前をもう一度……どんな字を……書くのですか?」

 寿福が内ポケットから手帳を取り出そうとすると、こずゑが手の平を広げて差し出した。

 こずゑの意図を察した寿福は、左手にこずゑの手を取り、ジュ・フクと日本語読みに口にしながら、指で大きく〈寿・福〉と書いた。

「韓国語読みでは〈スボク〉と言います」

 寿福はこずゑの手を持ったままでいたが、両手で包み込むようにして強く握った。

「会いたかったです」

 自分の言葉に導かれるように鼻の奥からこみ上げてくるものがあった。こずゑの手は子供の手ほどしかなく、指も細かった。

 こずゑは感動で声が出ない。口角を下げたかと思うと嗚咽が漏れ、

「許して……」

 やっと聞き取れる嗚咽に混じった一言だけで、あとは言葉にならなかった。

 長い間――五分、いや十分間――二人は頬を伝う涙を拭おうともせず、手を握り合っていたが、寿福は片手を離してこずゑににじり寄ると、薄桃色のカーデガンを羽織っているこずゑの肩に手をかけて、やさしく抱いた。

「許して……ごめんなさい……許して」

 こずゑは同じ言葉を何度も口にした。

 詫びる言葉を繰り返すこずゑを、(なだ)めるかのように寿福が言った。

「僕は幸せでした。オモニが……」と言いかけて、「金伊礼氏がずっと側にいたから僕は幸せでした」

 伊礼を母と呼ぶことに寿福はわずかに戸惑いが生じていた。

「レイちゃん、伊礼さんはずっと独り?」

「結婚はしません。国民学校四年生の僕を連れてソウルへ行きました。それまでは伊信叔母さんと二人で、安城でウドンの食堂をしました。食堂の名前はユボクといいました。漢字で有福でした」

「お店の名前が有福でしたか」

「忘れられなかったのでしょう。有福の名前を使い、他人の子の僕を育てるのは、何か理由があるのでしょうか?」

「レイちゃんの、いや伊礼さんの心はわかりませんが、伊礼さんにとって私は、娘だったのではないでしょうか。私の母が病気がちでしたから、私と弟は伊礼さんに育てられたようなものです。あなたには理解できないかもしれませんが、彼女は私の家族同然でした。彼女が安城へ里帰りするとき一緒について行ったこともあります。それから……私はあなたを安城の彼女の実家で生んだのです」

「……初めて聞きました」

「忘れもしません、一九四四年九月二十三日、朝の十時頃です。どんなボケ老人になってもこれだけは忘れません」

「僕の誕生日です。そして僕は金仁植の次男として面事務所に出生が届けられたのです」

「許してください。どんなことしてでも私が育てなければいけなかった。私はあなたを捨てたことになります」

 こずゑは嗚咽を漏らし、しゃくりあげながら続けた。

「生きて別れることは、死んで別れることの何十倍も辛い。そんな辛いことを平気でしてしまった私の所業を許して」

 こずゑはいつまでも泣き止まなかった。

「もう泣かないでください。僕も二児の親です。あなたの気持はよくわかりました」

 こずゑは枕元に右手を伸ばしてハンカチを取り、涙を拭いた。左手は布団に入れたままで、麻痺が残り思うにまかせないようだった。

 やっと落ち着きを取り戻したこずゑが訊いた。

「伊礼さんは元気ですか。どうしていますか?」

「病気もしないで、まだ仕事をしています」

「七十歳過ぎてもまだ?」

「ソウル市内に喫茶店を三つも持っています。仕事をするのが元気の(もと)だと言って、いくら言っても仕事を辞めようとしません。僕があなたに会えばきっと元気になるはずだと国際電話をしてきました。本心は自分があなたに会いたくて会いたくてしかたがないのでしょう」

「私も会いたい。でもこんなことになってしまって……」

 寿福はポケットから伊礼にもらった腕時計を取り出し、こずゑに手渡しながら言った。

「三月にソウルへ帰ったときに、オモニに持っていくように言われました。裏を見てください。あなたのお父さんが日本へ引揚げるときに、子供のために――僕のことですね――と言って、買ってくれたものだそうです。たいそう高価なものだったそうです」

 ――父は生まれた孫のことを、それほどまでに気にかけてくれていたのか――。父は一方的に妊娠を非難し、出産を忌まわしいものとは思っていなかったのかもしれない。心底自分のことを愛してくれていたのだと、こずゑは亡き父を思った。そして朝鮮戦争も挟んで苦難の極みにあった四十年もの間片時も忘れることなく、父から預かったものを大切に保管してくれていたレイちゃんの律儀さに、改めて頭が下がる思いだった。

 こずゑは今すぐにでも伊礼の胸に飛び込み、伊礼の匂いを嗅ぎたいと強く思った。私はレイちゃんの娘、寿福はレイちゃんの孫だと思えるような感動を覚えた。

「僕はあなたから生まれた。あなたは僕を十ヶ月間お腹の中で育ててくれた。そしてオモニは僕が大学生になり、社会人になり、一人前になるまでの二十数年間を育ててくれた。僕はこの世に生まれてきてよかった」

「私じゃなくて、レイちゃんが……レイちゃんが」

こずゑは言葉が続かなかった。

「これ以上は身体に悪いです。早く元気になってソウルへ来てください。僕はここへ来てよかった。また来ます」

 寿福はこずゑの手を取りながら

「オカアサン 元気になられることを祈っています」こずゑの目を見続けた。

 寿福は初めて日本語で「お母さん」と言った。

 こずゑにとっては思いもしない呼ばれ方であった。一生聞くことはないと思っていた。

 寿福の視線に耐えられなくなったこずゑは、上掛けを顔に押しあてて嗚咽が止まらなかった。

二十三

 九月に入ってすぐに、伊礼のもとへこずゑのソウル来訪を寿福が伝えてきた。秋夕の休暇を取り、二十三日昼、金浦空港着の日本航空の便で、こずゑを伴なって帰国する予定だと寿福は言った。

 伊礼はこの上もないハシャギようで、早速カレンダーの日付に「コズヱ」と書き入れた。

「ハルモニ(おばあさん)、この記号は何ですか?」

 書き込みを目敏く見つけた下の孫が訊いてきた。

「日本語だよ」

「ハルモニは日本語が書けるの?」

「書けて、話せて、聞いてもわかるよ」

 伊礼は自信ありげに答えた。昔、日本人に漢字の読み書きも教えてもらい、手紙だって書いたことがあると言った。その率直で自慢げな言い方は、まるで子供だった。

「コジュヱちゃんが来るまで、あと十五日、あと十日」と、口にして待ち侘びる様子は子供よりも幼かった。

 伊礼は教会へ行き、神に感謝を奉げた。

 ――神様は、私の心の中をみんなお見通しで、何もかもご存じだった。私の願いを叶えてくださった――。伊礼は涙を流して神様に喜びを伝えた。

 伊礼は、寿福に出生の秘密を話してからは、そのことで悩み続けたであろう寿福夫婦と子供の、一家四人の安寧を祈ってきた。こずゑの病気を聞くと、ひたすら快癒を神に祈った。

 神様にたくさんのことをお願いしてしまって、神様は忙しかったことだろうと、申し訳なく思った。伊礼は感謝の気持を表すために、牧師に多額の寄付を申し出た。

 アメリカ人の牧師は、伊礼の肩にそっと手を置きながら、たどたどしい韓国語で言った。「あなたの人を愛する大きな心に、神が報いてくださったのです」

 伊礼は牧師の言葉に大粒の涙を流した。

 伊礼は、こずゑの来訪を神様に伝えるだけではもの足りなかったのか、友人のハルモニたちや、茶房の常連客をつかまえては、方々に喜びに振りまいていた。

「その娘が二歳のときから、私が育てた日本人の女性が、四十年ぶりに訪ねてくるのよ。コジュヱという名前だけど、今は東京の有名女子大で教授をしているの」

 伊礼には自慢する気持ちも他意もない、喜びを知ってもらいたいだけのことで、その表情はほほえましく、邪気のない可愛いおばあちゃんだった。

 こずゑの来訪が近づくと、伊礼は準備にいそがしく、南大門市場や東大門市場へ足繁く出かけていった。

 秋夕(チュソク)であれ旧正月であれ、家事一切は寿福の嫁が取り仕切るようになって久しい。伊礼が口出しすることもなくなり淋しさも感じていたが、こずゑを迎える準備には、打ち上げ花火のフィナーレを飾る大輪のように、伊礼は嬉々としてソウル中を歩き回り、買物を満喫した。こずゑの布団一組を新調するために何軒もの店を覗き、納得するまで見て回り、品物は前日にやっと届けられる始末だった。

 目星をつけた一軒の布団専門店で、気に入った一組の布団を素っ気なく「いくら?」と指さした。

「五万ウォン」

 間髪をいれずひと言「高い」と言い、続けて「二万五千ウォンにして」

「三万五千ウォン。これじゃ儲けが出ないがしかたがない」

 伊礼は見定めた一組がどうしても欲しい。布団の上に腰を下ろしながら

「色がいまひとつだし、糸がほつれているよ。二万五千ウォンにして」

伊礼は立ち上がって店を出ようとした。

「二万五千ウォンでいいよ」店の女主人が呼び止めた。

 伊礼は最初からもくろんでいた布団カバー、枕をそれぞれに値切って「全部でいくら?」と聞いた。

「三万五千ウォン」

 伊礼は現金を渡しながら、すぐそばにあった枕カバーを掴むと

「これはおまけね」

久しぶりに買物の快感に浸ることができた。

 清渓川(チョンゲチョン)商街の道具や金物の店では、家の周りの段差という段差に置く、坂道を作るためのステップ・コーナーを買い求めた。玄関の間口の広い段差には、左官をよんでなだらかなコンクリートの小さな勾配まで造ってしまった。こずゑの車椅子を考えてのことである。嫁のあきれてものも言えないという顔を見て、

「こうしておけば、いつでも何度でも来られるでしょう。私が車椅子を使うようになっても便利よ」

 伊礼はあっけらかんとしていた。

 食材の買出しにも余念がなかった。

「コジュヱちゃんの好みは私が全部知っているから、料理も私が作るよ」

 何十年も経てば好みも変わるだろうに、と嫁は密かに思ったが好きなようにさせておこうと放っておいた。

 寿福は大きく広げた紙の上に二本のピンを立て、いくつもの楕円を描いていた。糸を長くしたり短くしたり、ピンの間隔を近づけあるいは遠ざけて楕円を描くことに夢中になっていた。韓国人と日本人と頭の中で呟きながら、糸に委ねたペンを走らせた。同心円も所詮二本のピンを限りなく近づけたものではないか。糸が長ければ長いほど、まん丸の円に近かった。

 糸の長さというのは何なのだろう。韓国と日本という二本のピンを一つにはできないけれど、糸はいくらでも長くすることはできる。糸の長さとは、自分の心の大きさではないのか。自分が二つの民族の血を受け継いでいることに拘泥するよりも、もっと大きな目をもてば、世界観も変わっていくことができる。自分はむしろ恵まれた境遇にあるのかもしれないと、寿福はぼんやりと考えていた。

 全斗煥大統領の訪日が決まり、寿福は多忙を極めていた。

 一年半前の一月、寿福は新聞社の第一線の政治部記者としてソウルにいた。年が明けて早々の一月十一日は、日本の中曽根康弘総理大臣が訪韓の日であった。

 ソウル市内は日本国総理大臣の歓迎準備に追われ、市内各所はものものしい警備体制が布かれていた。ソウル市庁舎からメインストーリーの世宗(セジョン)路を経て、景福宮光化門から青瓦台(大統領府)までの一キロあまりには、大極旗(韓国国旗)と日章旗が並び飾られ、零下十度にもなろうかという極寒の街は警察官だけのような厳戒態勢であった。

 寿福は凍てついた歩道に足を取られそうになりながら、光化門の後ろの中央庁にはためく日の丸の旗を見ていた。中央庁に掲げられた日本の国旗を見るのは初めてである。

 中央庁が朝鮮総督府であった時代の日の丸は知らないが、日帝の亡霊を見ているのではないのかと、通りに設けられたアーチに書かれた『歓迎』の文字にそぐわない複雑な心境であった。

 また中曽根総理一行の宿舎にあてられた新羅ホテルも、年配者や日帝三十六年の歴史を知る者にとっては、日本との因縁を感じるものである。奨忠壇公園近くの高台に位置し、警備上から決まったものであろうが、その場所がかつて博文寺と呼ばれたお寺だったことを知る者も少なくなっていた。博文寺とは、韓国では日韓併合の張本人であるとされる伊藤博文に因んだ寺であったのだ。解放と同時に取り壊され、その跡地に近年になって建てられたホテルが新羅ホテルなのである。

 寿福にとっては知識としての日帝の残滓であったが、ソウルの街に日帝時代の地図を被せてみると、忌まわしい遺物がいくらでも残っていて寿福の神経を苛立たせた。

 ――一年前には日本と何の縁もなかった自分がこうして東京にいる。

 そして韓国大統領として初めての、全斗煥大統領の来日を間近にひかえて、朝早くから夜遅くまで仕事に飛び回り配信に追われている。日曜日さえ仕事になることも少なくなかった。

 そんな中で寿福は、週に一度は母こずゑの自宅を訪れていた。こずゑは麻痺した部分のリハビリのために六月中まで入院していたが、回復も早く杖を頼りに歩けるまでになっていた。車椅子と半々の生活であった。

 こずゑは寿福の訪問を心待ちにするようになっていた。寿福に「お母さん」と呼ばれることがどれほど嬉しく、もったいないことかと常々口にした。

 寿福もまた日に日に元気になっていくこずゑを見るのが楽しみだった。

「お母さん、僕は九月になったら秋夕の休みにソウルへ帰ります。僕と一緒にソウルへ行きましょう。オモニがどれほど喜ぶことか。僕が車椅子を押して連れていきます」

 寿福の勧めに、こずゑも四十年ぶりのソウルに思いを馳せるようになっていった。

「寿福(スボク)、私に韓国語を教えてちょうだい。あなたの奥さんや子供たちと少しでも話ができるようになってからソウルへ行きたいの」

「スボクさん」と呼んでいたこずゑに、呼び捨てにするように言ったのは寿福だった。

「私が知っている韓国語はね」こずゑはさも嬉しそうに言った。

「ハナ・ツゥル・セ・ネと一から十までの数え方、オモニ、アボジでしょ、それからオンニ、伊信さんがレイちゃんを呼ぶときに言っていたのを真似していたのよ。あとはね……ケンチャナヨ(大丈夫、平気よ)。レイちゃんがいつも言っていたわ。そうそう私がレイちゃんに漢字を教えてあげていたときに、すぐ『モリガ アッパ(頭が痛い)』と言うの。それがまた可愛くてね」

 韓国語を学ぼうとする謙虚さに寿福は好感を持つと同時に、日本や日本人をすべて悪いと決めつけてする教育や韓国の風潮、特にマスコミの姿勢に疑問さえ抱き始めていた。

 一年前までの自分も同じであったが、日本での生活が続くうちに日本に対する考えが変化し、長い間に染付いた反日一辺倒だったこれまでとの隔たりに驚いていた。

 こずゑの住まいは、私鉄の小田急線と井の頭線が交差する下北沢駅の南口から、歩いて六、七分の住宅街の一角だった。何度も通ううちに、寿福には下北沢が親しみのある町になっていった。

「商店街の中ほどに、春日井精肉店という肉屋さんがあって、そこのコロッケが美味しいのよ。車椅子では行けないから、こんど来るとき買ってきて」

 こずゑは寿福に甘えるようにお願いした。

 小さな間口の各種の店が軒を並べる繁華な通りである。寿福はいつの間にか春日井精肉店で顔を覚えられるくらい、こずゑの家へ行くたびにコロッケを買い求めた。

 九月六日、韓国大統領の初めての来日となる、全斗煥大統領が国賓として羽田空港へ降り立った。

 安倍晋太郎外務大臣ほか日本の政府高官の出迎えをうけ、大統領のスケジュールは分刻みで、赤坂の迎賓館での歓迎式典、皇居での宮中晩餐会と続いた。

 寿福は経験したことのない緊張と忙しさの渦中にいた。

 沿道に並び、迎賓館に翻る大極旗を目にし、迎賓館で奏でられる愛国歌(国歌)に、心の中で和しながら、寿福は涙ぐんでいた。また思いもかけないことだったが、君が代にも胸の奥底に響くものがあった。

迎賓館の正面に、李順子大統領夫人を間に挟んで天皇陛下と全大統領が並んでいる。その光景に、寿福は不敬なことだが自分は大統領夫人の位置にあるような、韓国と日本の二つの円が交わった中に、と何か晴れがましいような気分を味わっていた。

 寿福にとっては二晩続きの徹夜の仕事が、大統領の帰国とともに終わった。

二十四

 ソウルへ発つ日の前日に、寿福はこずゑの家へ出向き、初めて泊まった。

 多忙を極めた全大統領の訪日から帰国までの日々を取り返すかのように、寿福はこずゑとの寛いだひとときを過ごした。

 まだ残暑の厳しい昼間であったが、車椅子生活で外出もままならないこずゑと、買い足りなかった土産の買物がてら下北沢の狭い通りの商店街を歩いた。

 一通りの買物をすませたこずゑが、近くの神社へ行きたいと言った。

「今年は神社の例大祭にも行けなかった。いくつもの神輿が出て賑わうのよ。久しぶりに飛行機に乗るから安全祈願もしたい」

 神社と聞いて寿福は気が進まなかったが、何でもこずゑの言いなりにしてあげようという気持のほうが勝った。あの時代に日本人が朝鮮神宮をはじめとして、半島の各地に神社を造り、参拝を強要したことを思った。寿福にはまだ、日本人が何百万人も初詣と称して神社参拝に出かける気持がわからない。

 車椅子を押して北沢八幡神社へ向かった。境内には人の気配もなく、まだ蝉さえ鳴いていた。

「もう秋ね」こずゑがぽつりと呟いた。

 こずゑの目は神社の参道わきに咲く彼岸花に向けられ、止めた車椅子の上でしばらく何も言わず、彼岸花を眺めている。

 こずゑは彼岸花の別名を思い浮かべているのだった。

 ――曼珠沙華、地獄花、幽霊花そして捨子花。

「さあ本殿まで行きましょう。石段があるから車道から」

 こずゑは吹っ切れて思い直したように元気よく言った。辛い思い出の花なのに、今日こうして寿福と二人で見た彼岸花を慈しむような安らいだ気持になっていた。

「ソウルも交通事故多いんでしょう?」

「そうなんですよ、渋滞もひどいし」

「それじゃ子供たちのために交通安全祈願の御守り札を買いましょう」

 こずゑは、青と赤の二つの御守り札を買い求めた。

 寿福には意味がわからず、こずゑの説明を聞いても迷信としか思えなかった。

 寿福は泊まることはもちろんだが、こずゑの家で水入らずで二人だけの夕食をするのも初めてだった。こずゑの発病入院以来、家政婦を頼み家事一切を任せていたが、この日だけは一日中二人で過ごしていた。

「ソウルへ行けるなんて思いもしなかった」

 こずゑがしみじみと言った。

「国交が回復したあと、知り合いから何度もソウルへ誘われた。小学校や高等女学校時代の同級生が『なぜ行かないの?』と不思議そうに言っていた」

 名字は変わっていたが、どこから訊き出したのか第一高女時代の榎元加代子から電話がかかって来たこともあった。

「日本人は自分が卒業した国民学校(小学校)へ団体で訪問するということをよく聞きます」

「みんなただ懐かしさだけで出かけていくのよ。でも私はどうしても行けなかった。どんなに誘われてもお断りしたの。それだけじゃなくて、韓国、ソウルに関係するすべてのことから目をそむけていた。ソウルや韓国のどこかがテレビに出てくると、スイッチを切ったの。それは……あなたを置き去りにした自分をどうしても許せなかった。そんな人間が生きている価値はないという思いから、自殺まで図っていた。懐かしさと観光目的でソウルへ行く人たちと一緒に行けるはずがなかった」

 寿福は、長年のこずゑの苦しみや悲しみが滲み出るような話にじっと耳を傾けていた。

六・二五動乱で死んでいてもおかしくなかったのに、ずっと自分のことを思い続けてくれていたことが、寿福にひしひしと伝わって小鼻の辺りがあつくなった。

「一緒に行く気になってくれて嬉しいです。オモニは当然でしょうが、妻や子供たちも私の帰りよりもお母さんのおいでを、首を長くして待っているはずです。僕の出生から生い立ちまで充分に話して、すべて納得してくれていますよ」

 こずゑは不自由な左手を添えて、寿福のグラスにビールを満たしながら

「ありがとう」こずゑは涙をこぼして言った。

「安城の両親もソウルへ来てくれると聞いています。安城の母は幼少の僕に母乳を与えて、三歳になるまで育ててくれました。ソウルのオモニは僕のすべてでした。僕は安城の母をオモニ、ソウルのオモニをクンオモニ(大きいお母さん)と呼んでいました。そして日本の母はオカアサンです」

 こずゑは「ありがとう、ほんとうに嬉しい」二度も三度も同じことを繰り返していた。

「僕には三人も母がいる。贅沢ですね。六・二五動乱で両親を失くした孤児がたくさんいたというのに」

 出発の当日は朝が早かった。寝ぼけまなこで起きてきた寿福に、こずゑが元気一杯に声をかけた。

「スボクおめでとう」

 寿福は起きたてのうえに、聞き慣れない挨拶をされてキョトンとした顔をした。

「今日はあなたのお誕生日でしょう。私は、九月二十三日になると欠かすことなくあなたに『おめでとう』と言うことに決めていたの。本人を前にして言うのは初めて」

 こずゑはもう泣かなかった。

 二人が乗る飛行機は、日本航空九五一便、成田空港十時発のソウル行きである。

 ――九月二十三日、十時、成田――寿福が生まれた時刻と成田。これはいくらなんでもでき過ぎだ、作り話でもこうはうまくいかないと、こずゑは一人笑いをした。

 たった二時間半のフライトがこずゑには信じられない。釜山までの汽車の中で読んだ成烈の手紙や書いた返事、時化(しけ)に遭い、ひどかった関釜連絡船の船酔い、寿福を出産したあとの泣き通しだった福岡までの辛かった旅……。

 つれづれに思い浮かべているうちに、飛行機は日本海を越え朝鮮半島上空だった。

 機内で出された朝食をすませたあとは、こずゑは窓に額を押し付けたままだった。横にいる寿福にも、対面して坐っているスチュワーデスにも気がいかなかった。

 雪に被われてはいるが畳々とした韓国の山なみが切れ、広々とした大地が見えはじめると

「もうすぐソウルですよ、何が見えますか?」寿福が訊いた。

「大きい河。漢江かしら」

 涙で目が霞みそうになりながら答えた。

 シートベルト着用のサインが表示されると飛行機は降下を始めていた。

 ――当機はまもなくソウル金浦国際空港に着陸いたします。これより空港ロビー内までの写真撮影はご遠慮ください――。

 写真撮影禁止? 感傷に浸っていたこずゑは、寿福やレイちゃんたち韓国に住む人々の置かれている現実を垣間見た気がした。北地域との戦争状態は続いているのだ。空港ビルへ移動している飛行機の小さな窓からは軍用機の姿も見て取れた。

 空港ビルへ足を踏み入れると、瞬時にそこが韓国であることを実感した。奥深く眠っていたこずゑの嗅覚が反応し、朝鮮の匂いを一瞬にして思い出したのだ。どんな匂いかと訊かれても説明できない。小学校から高等女学校の時代まで利用した路面電車の中や、生活の至るところで吸っていた空気の匂い、故郷という言い方が許されるのならば、そこで生まれ育った者だけにしかわからない故郷の匂いとしか表現のしようのないものだ。

 内地と朝鮮という呼び方をした時代に、朝鮮に戻って来たときの、乾いた空気の感触と渾然となった匂いは、四十年の時を超えても同じものであった。

「お母さん、僕はあっちに並びますから」

 寿福の呼びかけに、こずゑは怪訝そうに寿福の指さすほうを見た。

 入国審査の列は、内国人と外国人は別になっている。寿福と自分は国籍が違うことをいまさらながら思い知らされた。

「荷物の受取りのところで待っていますよ」

 航空会社の職員が車椅子を押してくれていた。持ち物の税関検査をすませ、寿福と並んでロビーに向かうと、磨りガラスの自動ドアが左右に大きく開き、ロビーに設けられた鉄柵のむこうに迎えの人だかりが目に入った。

 伊礼は準備万端整え、リビングのソファで手持ち無沙汰にイライラしながら寿福の嫁の用意を待っていた。子供たちを残し、こずゑと寿福を迎えに二人で出かけることにしていた。

 この日のために伊礼はチマ・チョゴリを新調していた。さんざん迷った挙句、紺碧の空のような色のチマと純白のチョゴリを作った。

「そろそろ行こうよ。いくら久しぶりに愛しい夫に会えるといっても、あんた化粧が長いんだよ」

 まるで幼稚園児の、遠足に行く朝のような伊礼に、嫁はうんざりし、嫌味まで言って子供より始末が悪いと苦笑を洩らした。到着の二時間も前に空港へ行ってどうするのよと内心あきれていたが、義母の邪気のなさは毎度のことと諦めた。

「早く行って私は飛行機を見たいの。飛んでいる飛行機は見たことあるけど、一度すぐ近くで見てみたいから、いくら時間があってもいいのよ」

「お義母さん、国際線の旅客は飛行機が到着してから一時間近くもロビーへは出て来ないのですよ」

 いくら言っても伊礼は聞く耳を持たず、嫁は十時には家を出る約束をさせられた。

 嫁が運転する自家用車で空港へ向かった。まだ自家用車を保有する家は少なかったが、伊礼が奮発して買ったものだ。車の中で伊礼ははしゃいでいた。

「資生堂の化粧品や口紅を適当に五、六個買ってくるように、寿福に頼んでくれたでしょう。忘れないで買ってこないと私困るのよ」

 嫁は、伊礼の化粧品が少しも減らないことを知っている。どうせ友だちに配るだけということもわかっている。息子が東京にいるから日本製の化粧品を土産に買ってきてくれると、友人たちに無邪気に息子の自慢をしたいだけなのだ。みな日本製は良い物だと思い込んでいる。

「あんたも頼めばよかったのに。何をおねだりしたの?」

「私は何も言っていませんよ。日本のお母さんに会えるのが一番楽しみですわ」

 空港に着くと二人はそれぞれに時間を潰したあと、到着ロビーにいた。

 日本航空九五一便の到着を知らせる表示が出たときには、伊礼は最前列の真ん中で鉄柵にしがみついて、こずゑと寿福を待った。

 途切れとぎれの行列のように到着客が出て来る。その度に自動ドアが開閉し中の様子が見え隠れしていたが、伊礼は寿福と車椅子の女性を目にすると、鉄柵を離れ、人込みをかき分け大慌てで鉄柵が途切れた通路口へ急いだ。

 キャリーを押して出て来る到着客と迎えの人々を遮るように警備員が立っていたが、こずゑと寿福がロビーに姿を現すやいなや、警備員の制止を振り切り、伊礼は年寄りとも思えない身のこなしで鮮やかな青いチマを翻して二人の前へ小走りに突進した。

 車椅子のこずゑを正面から抱きしめた伊礼は、叫ぶような声を出していた。

「コジュヱちゃん、レイちゃんよ!」

エピローグ                             

 決して言うまいと心に誓っていたことを、寿福に全部包み隠さず話してしまうことになったのは、去年の夏成田君が私の前に突然現れたことがきっかけだった。それというのも私と仁植が、テレビに映ったことが、あり得ないことを引き起こした、あの番組がきっかけになるなんて。死んでも話すことはないと、骨の髄までしまい込んでいた私の心のポンプに、成田君が、――いや成田君と言ってはいけないね……、成烈さんが呼び水を注ぎ込んだばっかりに。おかげで私には墓場まで持って行くものが何もなくなったよ。でもほんとうにすっきりした。

 教会の牧師様がおっしゃっていた。「人は人生を賭けて何を残したかではなく、何を与えたかが大切なんです」今初めてその言葉の意味がわかるような気がする。頭のいい人は言うことが違う。

 それにしてもテレビというのはすごいね。神様にもできなかったことがテレビはできた。私が墓場まで持っていこうと心に誓い、どうしていいかわからなかった宿題を、いとも簡単に解いてしまったんだもの。寿福とコジュヱちゃん、成烈さんの三人が、だれも傷つくこともなく巡り会えたのもテレビの力だなんて。神様もびっくりだろうなあ。でも、でも神様、私はやっぱり神様を(うやま)っています。イエス キリストが人々の幸福を願う心だけはテレビには真似できませんものね。できることならあの世に召されて地獄に行きたくないので、これからも教会に足を運び、祈りを奉げます。天国へ行って、有福のだんなさまにもおくさまにも会えるように祈ります。一年に一回は寿福の様子を報告すると約束したことを、四十回分くらいまとめて話すことになるかもしれないけど、許してくださいね。あなたたちには孫の寿福どころか曾孫(ひまご)詩苑(シウォン)明寿(ミョンス)もいるんですよと、伝えることができますから。それからテレビにも出たし、「週刊女性」という雑誌のグラビアにも載ったことを土産話で持っていきますよ。『七十代女性の経営者』というタイトルでした。雑誌記者に訊かれたことに答える形でしたが、「より充実して生きるためには何が大切か」とか「元気に過ごす秘訣は?」とか小難しいことばかり質問するのです。「そんなことは何もわからない、ただ一所懸命働くだけ」と答えておいたら、記者が適当に書いてくれました。

深く考えるということは私には不似合いだけど、残り少ない人生を考えると、自分なりに一所懸命何かを与えてきたのかもしれない、自分で自分を褒めてあげていいような気がするの。これで天に召される時には、跡形もなく、きれいさっぱりと消えてしまうのは本望だと心から思うよ。この世とあの世の境にある扉を静かに押して、誰にも気づかれないうちにそっと向こう側へ往ってしまうなんてすばらしいよ。

 今日は家の中には誰もいない、静かだなあ。

 寿福とコジュヱちゃんは、朝早くから出かけていった。成烈さんと三人で一日を過ごすと言っていた。南山のタワーに昇ってソウルの街を見渡しながら、コジュヱちゃんに故郷(ふるさと)を堪能してもらうとも話していた。一日といわず何日間でも一緒にいたらいいよ。

 寿福とコジュヱちゃんが帰ってきたら、二人に聞いてもらいたい一言があるの。コジュヱちゃんには「お騒がせなコジュヱちゃんだったね」と、寿福には「私の人生は幸せだった、私には日本も韓国もなかったよ」と言ってあげなくちゃ。

 コジュヱちゃんは八日間をわが家で過ごし、寿福と東京へ戻っていった。あんなに何週間も前から首を長くして待っていたのに、あっという間に時間が過ぎていったね。

コジュヱちゃんはずっと一緒に住んでいたように家族に溶けこんでいたよ。それにしても中学生の孫娘、詩苑(シウォン)がコジュヱちゃんになついていたのにはおどろいた。

 寝る時間になると「わたし、イルボン ハルモニ(日本のおばあさん)と一緒に寝る」と言って、いつの間にか幾晩かをコジュヱちゃんの布団に潜りこんでいたんだから。二人だけでは言葉が通じるはずがないと思っていたのに、ちゃんと話をしているのにはビックリした。どんなことを話したのか知らないけれど、明日はコジュヱちゃんが日本へ帰るという日の夕食時に「みんな是非東京へいらっしゃいね」とコジュヱちゃんが言うと、

「アボジ(お父さん)、わたしは高校卒業したら日本の大学、イルボン ハルモニの大学へ行く」

 突然、詩苑が真剣な眼差しで宣言するように寿福に向かって言った。

 みんな目を見張り、呆気にとられたような顔になって、いっせいに手許の箸が止まったのは忘れないね。そのとき瞬間的に――この娘は将来、日本人の男性と一緒になるかもしれない、と第六感みたいなものが働いて、私はコジュヱちゃんの顔にじっと見入ってしまったよ。(了)