田園都市高校野球部

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 口を利く人がいて大学を卒業すると外資系の化粧品メーカーに就職した。入社試験もなく、面接だけのいわゆるコネで入った会社だったが、三年で辞めた。別段興味がある業種でもなく、プータロウをやるわけにもいかないというだけの理由から得た仕事だ。大学の専攻が化学だったことから研究所へ配属になった。シャンプー、リンス、ヘアカラー製品の処方開発の部門だった。担当させられたのは毛染め、それもよりによって白髪染め製品の部署だったのには閉口した。朝から晩までアンモニアの臭い、しかもいかにしたらアンモニア臭を抑制できるかを研究するのが課題というのには参った。化学なんてものを専攻したことを芯から悔やんだ。どだい化学なんぞを専攻したことも積極的な理由からではなく、消去法から選んだ学科だ。中学校の夏休みの宿題で出される課題図書の読書感想文に、読んだ本のタイトルと、たった一行だけ「面白くなかった」と書いて教師にこっぴどく怒られて以来、国語というのが大嫌いになった。「面白くなかった」という究極的な感想を書いてなにが悪いのかと教師に反発した。そのせいかどうか大学の専攻を決めるときも国語からはじまって、あれはいや、これも嫌いと消していき、残ったのが化学だったというだけのことだ。

 化学の応用化学専攻と名前だけは一丁前の学科だったが、お世辞にも真剣に勉強したとは言い難い。成績も人並み以下だったが留年もせずに卒業した。

大学の四年間を通してそこそこ力を入れてやったことといえば、部活のボクシングだった。団体競技が苦手で、一人でやるスポーツということが理由だった。エクササイズボクシング程度にやるかと思って始めたが結構入れ込んだ。下部のリーグとはいえ試合にも出た。友達に誘われて軽い気持ちで始めたのに、いっぱしのボクサーになったつもりくらいに打ち込んだ。一概に飽きっぽい性格ということでもないらしいが、化粧品会社を三年で辞めたのは、長々とションベン臭いアンモニアと付き合うのかと思うと嫌気がさしたからだ。退職は、おれのこれからの人生を考え、リセットしようと初めて思ったからだが、リセットなどと大袈裟にいうことじゃないかもしれない。とにかく年寄り臭い商品に関わるのはたくさんだ。母親にいわせると「おまえは社会を甘くみている。軽率だ」ということになるらしいが、おれは反論もしなかった。一人食っていくくらいなんとでもなるさと高を括っていた。そんなとき神奈川県の広報誌に掲載された中学高校の教員採用試験の案内が目に入った。教員かぁ、教員なら研究所みたいにチームを組んでする仕事の煩わしさはないだろうし、中学生や高校生の若い連中と交わっているだけでも楽しそうじゃないか。好きなようにありきたりの毎年決まりきった内容の授業をすればいいだけで気楽にちがいないと一人合点をして、採用試験のにわか勉強を始めた。ダメ元の勉強だったのに瓢箪から駒みたいなこともあるらしく、おれ程度のしがない奴が合格通知を受け取ってしまった。講師ということだったが、おれは田園都市高校の教員になった。平成三十一年(二〇一九)のことだ。

田園都市高校は創立十年そこそこのなんの変哲もない東急田園都市線江田駅から徒歩二十分の丘陵地帯にある公立高校だ。古狸みたいな年配の教師がのさばっていない、経験浅そうな若い教員中心の学校だ。生徒と教員の年齢が近いからだろう、生徒はどいつもこいつもタメ口で話しかけてくる。好き放題にやっている雰囲気がただよっている。

 勤め始めて一週間も経たないときに、おれは校長に呼ばれた。「()()君、相談なんだけど……」と言うから、新米の講師に何事かとおれは身構えて校長室に出向いた。

「輪田君、相談というよりもお願いなんですが、君、野球部の部長と兼任の監督をやってもらえませんかね」

 丁重な物言いだが、もう決めているというのが顔にベッタリ貼りついている。

「はあ? おれ、いや私がですか?」

「そうです。体育科の先生たちは二つも三つもの部を兼任してもらってる」

「野球なんてボールを触ったこともありませんよ」

「そんなことはどうでもいい。うちの野球部は練習試合を含めてこれまで一度も勝ったことがないから経験なんて必要ないんです」

 随分おれと部員を侮辱した監督の決め方だと思ったが、だれがやっても同じということなんだろうと、無責任に引き受けることにした。ここでもお手軽に決めてしまう性格をもろ出しで、おれは野球部の部長、責任教師兼監督になった。全戦全敗のチームの監督なんて責任感に乏しいおれにはちょうどいいのかもしれない。高校野球協会(高野協)の規約を書いた書面を渡されたが、目も通さないで机のひきだしに放り込んでおいた。どうせ六法全書みたいな小難しい文言を書き並べてあるだけだろう、そんなもの読む気にもならない。

というわけで、授業中は化学教師用の白衣を着て、課外活動では白いユニフォームを着るはめになった。よっぽど白に縁があるのだろう。野球部に白星をもたらすことができるかもしれないと、根拠もなく夢想した。

終業式も終わった三月中旬、学校へ出向いた。生徒は春休みだが教員はなんだかんだと出勤している。新任のおれも新学期にむけてやることが多く毎日通いつめだった。一息ついた頃、野球部の面倒を見るように言われていたことを思い出し、グラウンドに初めて足を運んだ。どうせのんべんだらりと練習しているんだろうと勝手に想像しながら部員たちに近づいていった。近くにいた部員に声をかけた。

「こんど部長兼監督になった輪田なんだけど」

 練習を中断した全部員がおれを半円で囲むように集まった。

 ――おぉっ、ちょっと待て。

 部員たちはおれのほうが引いてしまいそうになるくらい、全員帽子をとって誰かの号令一下、直立不動の姿勢をとった。規律正しいうえに、帽子をとった全員が丸刈り坊主頭だったことにおれは圧倒されるようだった。高校野球の生徒たちはみな丸刈りと決められているのだろうか。そういえばテレビで見る甲子園に出場している学校も確かに丸刈りだったような気がする。

「先生、こんどの日曜日は試合なんです」

「練習試合か?」

「いえ、春季神奈川県大会の初戦です」

「公式戦ということか?」

「そうです。この地区の四校リーグ戦です」

 夏の甲子園大会は知っていたが、春季県大会があり、秋には秋季県大会があるということさえおれは知らなかった。てっきり夏の甲子園大会予選だけだと思っていた。さしあたっての春季県大会が土日に日程が組まれていると聞いて、ウンザリした。休みがそんなことで潰れるのかよ、勘弁してくれよ、監督なんて引き受けるんじゃなかったな、後悔先に立たずということか。

「試合には行くが監督業はできないから、試合はキャプテンに任せるよ。ところでキャプテンは誰?」

「僕です」

 左端にいてキャッチャーのレガースを付けている生徒が軽く手を挙げた。

「名前は?」

「里田です」

「里田? 田中マー君の奥さんの親類か?」

「いえ、関係ないです」

 おれに敵意を含んだような視線を寄越して憮然として答えた。他の部員が声を出して笑った。春季大会の地区予選は三戦全敗で終わった。

 新学期に四人の一年生が入部した。

「キャプテン、入部する一年生が少なくないか?」

「毎年こんなもんです」

感情のこもらない言い方をする。どんな性格をしているのか想像しにくいやつだ。

 新入部員を迎えて、うきうきするような雰囲気がチームに流れてもよさそうなものだが、どうもキャプテンの白々しさがチームに蔓延しているとしか思えないな、これは。でも人のことは言えない、おれが気乗りのしない押し付けられた役目と思っているのだから。声も出して練習に励んでいるのだろうが、試合に勝てる雰囲気というのも伝わってこない特徴のないチームなんだろう。

 同僚先輩の体育教師に聞いてみると、自分の担当部活のことで手一杯で素っ気ない返事が返ってきた。

「覇気に乏しいのは、前任の部長監督が礼儀とか服装とかまでうるさいやつでさ、野球部の連中は委縮していたから、いまもその名残じゃないの」

 試合も練習もそのせいだなと、おれは妙に納得した。こいつら野球は好きだけど、楽しくないんじゃないかと思えてきた。おれが国語を毛嫌いして面白くもなかったのに比べれば、野球を好きなだけましだ、なんとかなるかもしれないと、おれは少し意欲がわいてきた。それにしても入部する人数が少ないのは何故なのか、腑に落ちなかった。

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 ゴールデンウィーク明けの土曜日、似たり寄ったりのレベルの町田市の私立の学校と練習試合になった。その学校は自由すぎるほどの自由な学園としてだれもが認める学校だ。出る釘は打たない、個性を伸ばす自由奔放を謳歌している学校だ。茶髪、ピアスの着用も自由、もちろん制服などないどころか、ひょっとすると校則なんてものもないに等しい学校で、自由が売りで有名だ。どんな野球部なのかユニフォームの着こなしなどを興味津々で見ていた。いや試合なんてほとんど見ていなかった。選手たちの表情や態度ばかり観察していた。野球の流れの勘所もわからないおれは、試合に関して作戦もへったくれもないばかりか、監督とは名ばかりで、守備位置決めも打順もキャプテン任せだった。相手チームを見て野球とは何の関係もないことばかりが気になった。

 練習試合がおれにとっての最大の収穫になったのは、相手チームのオッさん監督の話を聞けたことだった。試合は大量得点同士の九回引き分けで終わったが、試合後の選手たちの様子が対照的過ぎることに、おれは目を見張った。

「先生ところの子どもたちはどうしてあんなに明るいんですかね?」

「うちの生徒たちは野球部に限らずみんながみんなといっていいほど物怖じしないんですよ。校風ですかね。物怖じしないから自分たちで決めて実行したことに後悔するというのがほとんどない。体育祭にしろ文化祭にしろ、卒業式の企画進行さえも全部生徒たちがやるというのがうちの学校なんです」

「それじゃクラブ活動の計画や練習メニューも全部生徒たちで……?」

「ほぼそうですね。私は部員が作った練習メニューの一つ一つにどんな意味をもたせているかを質問し、少しのアドバイスを加えるだけです」

 わがまま勝手とも違う、どこか自由に、だが自覚をもってやっているのが伝わってきた。監督の話の最後におれはとにかく感心してしまった。

「うちの子たちが楽しく野球に取り組んでいるのには訳があるんです。一人一人がそれぞれの目標というか夢をもって野球に向かっているんですよ」

 おれは次第にこの学校の野球部に興味をもち始めた。

 母親にいわれるほど、おれは世間を舐めちゃいないし、意外に真剣に立ち向かう性格も兼ね備えているんじゃないかと思うくらいに真剣に耳を傾けた。

 監督に耳を傾けているだけでも参考になることを次々としゃべってくれた。話好きなオッさんだ。

「うちの部員は発想がユニークなんで、技術の上達よりもそっちの方が面白く、目を見張るようなんですよ」

「どうユニークなんです? それが明るさにもつながっているってことですかね」

「今年のスケジュールに〈全員で神宮球場のプロ野球観戦〉というのもあります。今年のメンバーになって初めてのことです。『何を学びに行くんだ?』って聞いたら『夏の大会決勝戦の会場下見ですよ』というから笑ってしまったけど、私は感心しました。こいつら物怖じしないし、明るい。今年は何かしでかすんじゃないかと期待しています」

 相手チームの監督の話を聞いている間、おれのそばには一人の女子生徒がいて、熱心にメモをとっていた。野球部のマネージャーになりたいと自ら志願してきた一年生の美由希だった。本当は選手として入部したいと言ってきたが、選手登録としての女子部員は高野協で認められていないらしく、仕方なしにマネージャーを志願して入部してきた生徒だ。。女子の野球部マネージャーなんて聞いたこともないと思ったのはおれだけだった。いまどき珍しくもなんともないらしい。

今回の練習試合をアレンジしたのも美由希だった。とにかく行動的な子だ。中学時代にはソフトボールをやっていて、女子の野球部がある高校への進学も考えたくらいに野球にも詳しい。スコアブックをつけることもできる。

 週明けの練習時に、美由希は練習試合のスコアブックとA4一枚に書き出したものをおれに差し出した。オッさん監督の話の内容まで克明に書かれている。一読して質問した。

「一番気になったことは何だい?」

「丸刈り坊主頭の子は一人もいなくて、それどころか金髪やツーブロックモヒカン刈りの子がいたことです」

 自由奔放にやっている雰囲気に映るのはそんなことにもあると、おれも妙に感心した。

「そのほかには?」

「どうやって部員を集めているのか、むこうのマネージャーに直接聞きにいったんです。そこでわかったことは、この用紙に書いておきました。野球部員募集のチラシを入学式のときに配ったそうです。一枚もらってきました」

 そこにはおれの考えも及ばない内容が書き連ねられていた。目からウロコだった。

――わが野球部が究極的に目指しているのは、将来どんな仕事に就き、どんな人生を歩むかを野球部の活動から考える場にすることです。現在の部員みんなが明確な夢を抱き、それを実現するためには、いま何をしなければいけないかを部員全員で考えて部活に打ち込みます。ある三年生は大学野球部のマネージャーを目指しています。将来スポーツライターになることを考えている者、いろいろなスポーツデータを扱う会社への就職、スポーツ番組のディレクターやアナウンサーになりたいなど多岐にわたっています。これほど明確な将来を描いて部活に精進しているサークルは、我が校には他にないと自負しています。ただ課外活動を楽しみ、仲間を作るといっただけではないのが、我が校の野球部です。野球の上手下手は関係ありません。野球が好きで将来の自分探しをしたい人こそ大歓迎です。来たれ野球部!

 この子たちの考えていることに比べたら、おれの大学選びや就職の動機など、いいかげんなものだった。雲泥の差で恥じ入るばかりだ。

 美由希の緻密さ熱心さにも驚きだ。町田市の私立高校で聞き出したことの続きはこうだ。

「部員は全部で二十人いるそうですが、先週土曜日の練習試合を休んでいる子が二、三人いたそうですよ。そんなの事前に申告しておけば自由で強制しないとのことでした」

 二十人も部員がいればなんとでもなるということか、枯れ木も山の賑わいだなと、おれは皮肉っぽく考えた。

「部員が多けりゃいいってもんじゃないだろうに」

「いえ、部員が増えた効果は大きく、ここのところメキメキ力をつけてきたと、向こうのマネージャーが言ってました。それに……」

「それに何だ?」

「増えた部員の中には、途中から二塁に入った子は左足に義足をつけているんだけど、そんなのだれも気にも懸けずで、入部を希望する子はだれでもウェルカムだそうです」

 ここのところ練習に活気が漲っているのが見た目にもはっきりしている。どうやら女子部員マネージャーの美由希の存在が大きいらしい。男ってやつは年齢に関係なく女好きなのだ。美由希の存在が気になって手抜きがなくなったらしいというのが活気の元になっているにちがいない。美由希は取り立てて美人ではないが、とにかく元気いっぱいの健康美人といった感じの好感を持たれるキャラクターの上に、キャッチボールの相手くらい平気でこなす技量まで持っている。おれのキャッチボールの相手にもなってくれる。おれよりはるかに正確な投げ方コントロールをもっていて上手い。ノックバットさえ手にするほどだ。おれが手抜きでグラウンドに行かずとも、美由希は必ず部員とともにいる。実質的な監督みたいなものだ。いかな我が野球部といえども、高校一年女子の監督というわけにはいかないが。

 活発でいつも明るい美由希がふっと暗い翳を見せることがある。全員がグラウンドに散ってだれもいないベンチで、一人ボールケースに入った何十個もあるボールを一個づつ丁寧に磨いているときや、だれもいない部室でぽつねんと椅子に座ってなにもしていない風景を目にしたときだ。

「何か悩み事でもあるのか? 物思いにふけっているようだけど。美由希らしくないな」

 さして深い意味もなく美由希に声をかけると、美由希が突然窓に流れる雨しずくのような涙を流しはじめた。

「監督に言うようなことではなくて、超個人的なことで考えごとをしていて……」

「差し支えなければおれに話してみろ、気の利いたことの言えるおれじゃないけど」

「家族のことです。うちは母と中学生の妹の三人なんですけど、昨日三人で言い争い、ケンカみたいになって……」

 母親は美由希が小学一年生のころ離婚してシングルマザーになり、二人の娘を育てていた。翌年の高校進学を控えた妹が、どうしても進みたい学校を母親に告げると、母親は一言のもとに妹の思いを拒否した。母親は妹の思いを聞き入れなかった。理由は経済的に厳しい私立高校受験進学を母親に拒否されたことがケンカの発端だった。

 美由希は自分の進学と重ね合わせ、妹の願いを叶えてあげたいという思いから、三人の言い争いに発展したというのだ。自分が行きたかった学校への進学が叶わず、美由希は公立の田園都市高校を余儀なくされた思いから、妹が希望する私立の女子高への進学を後押ししていたが、経済的理由を持ち出した母親にはそれ以上なにも言えず、妹を納得させるしかなかった。妹の思いは十分すぎるほどわかる。

 中学校ソフトボール部のエースとして、だれもが認める技量を持っていた美由希は、どうしても野球をやってみたかった。しかし女子の野球ができる学校はごく一握りの私立女子高しかない。

「女の子が野球なんかやって将来どうするっていうのよ。私学の入学金や授業料を出す余裕なんかありません」

 アルバイトでもなんでもすると言い張っても、野球ができる私学の女子高への進学は諦めるしかなかった。母親に言われなくとも野球をやろうとすれば、授業料の他に野球の道具代、ユニフォームなど多額の出費が伴うことは美由希はわかっていた。選択肢は、マネージャーになって野球に関わることだけ、それがいまの美由希なのだ。将来は女子のプロ野球まで夢見ていたが、叶わない夢とすべてを断念しての田園都市高校野球部マネージャーなのだ。

 やりきれない思いを見せられても、おれは掛ける言葉のひとつも出てこない。出てこないが、何か美由希のうっ憤を晴らすものはないものかと考えているうちに思い付いたことがあった。美由希に、自慢のソフトボールを投げさせ、部員に打たせてみようと咄嗟に思い付いた。

「みんな、美由希が投げるソフトボールをどれくらい打てるか、全員打ってみてくれないか」

 下から投げるソフトボールの投手の球くらい打てるだろうという、舐めた顔がズラッと並んでいる。

「里田からいけ。舐めてかかると打てねえぞ。野球より五メートルばかり距離が短いんだからな」

 美由希は腕を大きく一回転させると、正確なコントロールで内角高めに投げ込み、キャプテンの里田を空振りさせた。全員を相手にして、美由希が打たれたのはたった三本のシングルヒットだけだった。

 ニコニコしながら意気揚々と引き上げてきた美由希に向かって、男たち全員が最敬礼した。「恐れ入りました」と口にしながら。

五月の中ごろキャプテンと美由希が前触れもなく突然、生物化学準備室に訊ねてきた。

「監督、相談っていうか提案したいことがあるんですけど、意見を聞かせていただけませんでしょうか?」

 いままでとはずいぶん様子が違うキャプテンの態度や物言いに、おれは驚いた。こんなに積極的なキャプテンを知らない。

「急にどうしたんだ。それにずいぶん明るいな、おまえ」

「監督、私たちどうしてもやりたいことがあるんです、聞いていただけますか」

「キャプテンと私の発案なんです」

 美由希も勢い込んで乗り出してきた。

 おれの隣りのデスクにいる同僚教師が笑いを漏らしている。

「何が可笑しいんです?」

「いや、監督、監督というから、そういえば輪田さんは野球部の監督だったなと思って」

「おい、キャプテンも美由希もここでは先生と言えよ、笑われてしまっただろう」

 おれは自分でも可笑しくなった。準備室では頼りない監督業をいつもからかわれているから。

「提案って何だい?」

「野球部員拡大のために〈野球部フェア〉をやろうかと思うんです、学期の途中ですけど」

 マネージャーの美由希が計画の原案を広げながら説明を始めた。

「とにかく野球部に関心をもってもらうためのイベントを開きたいのです。テレビでよくやっている投球の的当てとか、硬球を打つ体験、ピッチャー体験など、要は実体験をしてもらって野球部に関心をもち、できれば入部希望までもっていけたらと、考えているんです」

「なかなかいいアイデアじゃないか。おれは異議なしだ。それじゃ部員募集にあたってはおれからも提案がある。一つは〈長髪可〉二つ目は〈定期考査前一週間の練習中止〉三つ目は〈週の練習日は三日以内とする〉。四つ目は〈定期考査、赤点とったら即退部〉おれがずっと考えていたことで、〈長髪可〉は現在の部員には丸刈り坊主頭禁止を含む」

「俺たちも全員長髪にするということですか?」

 キャプテンが目を点にして質問した。

「そうだよ。もちろん校則で定めている範囲での長髪だから、金髪やパンチパーマはダメだけどな」

 野球部フェアと部員募集の告知は校内の掲示板に掲載され、フェア当日は予想以上の反響を呼び、参加者見学者多数の活況のうちに開催された。

 フェアの成功で三人の一年生男子と、二人の女子マネージャーが新しく加わり、選手は総勢十九名になった。驚いたことに人数が増えただけではなく、三人のうち二人はシニアリーグ(中学硬式野球)の経験者だった。高校の野球部入部を断念した理由は、高校野球では丸刈り坊主頭を強要されることを嫌ってのことだということもわかった。彼ら二人は長髪可に念を押して、入部後の変更がないことを何度も確認した。それほど坊主頭にすることを嫌っていることを知って、おれは高校野球の古臭い体質が続いていることに不快感さえ覚えた。全国の高校野球の多くが丸刈りの坊主頭なのが、世間や大人社会がイメージする一方的な価値観がもたらすものであり、時代とともに変化する高校生たちの価値観を理解しない無言の強制ではないかと思わずにはいられなかった。ぶち壊すことがほかにもたくさんあるように思えてならない。学年間の、過度の上下関係の強要や理不尽ないじめなどだ。

――一年生三人の入部に時期を合わせるように、チームのムードが一変した。

 これはおれが言ったことではなく、美由希の感想だった。

美由希がおれに耳打ちして言った。

「最近みんなのやる気がすごくて、この勢いで突っ走れば夏の大会初戦突破も夢じゃないような気がします。監督もよく見てください」

――いちばん遅れているのはおれか。

「シニアリーグ出身の一年生二人の力量は、三年生のレギュラーにも劣らないということに刺激を受けているというのもありますが、部員全員に夏の大会への思いが異常なくらい強くなっているような印象をうけます」

「それはいいね」

「なんでも気持ちの持ち方ひとつということなんですかね?」

 美由希は一年生のマネージャーとはとうてい思えないほどの眼力があり、美由希自身が急激に成長しているようで大人びたことを口にする。

「野球部フェアは大正解だったな。キャプテンと君の力だな」

「それもあるかもしれませんけど、チームのムードを変えた一番の功労者は監督です。みんななんて言ってるか知ってますか?」

「おれがか? おれは特別なことは何もしていないぜ」

「『監督は俺たちの気持ちがよくわかってるよな』って言ってます。丸刈り坊主頭禁止なんて思いもしなかったって。前の監督とは大違いだそうです」

 ――旧日本軍の軍隊じゃあるまいし、いまどきあんな頭なんてそっちの方がよっぽど頭がイカれているだろうよ。長髪の方が自然だろう。

「いまみんなで夏の大会に向けての野球部のスローガンを作っているところです」

 美由希の溢れるほどのアイデアと行動力に、おれは驚かされるばかりだ。腰かけで引き受けた役目なのに、いつの間にかおれが美由希の熱意に巻き込まれて夢中になりそうだった。

「来週、スローガンを発表します。楽しみにしていてください」

 ――おれはこの手の標語が好きじゃないんだよな、『今を変えます、○○党』みたいな空疎で嘘くさいやつが。

どうせ〈目指せ、甲子園〉とか〈全敗返上〉とかそんなもんだろうと小馬鹿にしていたが、週明けに練習に顔を出すと、勝ち負けにこだわらないスローガンが目に飛び込んできた。バックネットの裏側に幅五メートルほどの横断幕が掲げられていた。

『ボーっと練習してんじゃねーよ』

 おれは笑ってしまったね、だけどいいスローガンじゃないか。どっかで聞いたことのあるような一文だった。

 六月末から野球部は一週間の練習休みとなった。期末テスト直前だった。

「この時期の一週間のブランクは厳しいですね」

 キャプテンがおれにぼやいた。

「おまえ、やる気満々じゃねえか。それに髪伸ばしてグッと男前になったな」

 三か月ばかり前までのフテくされたようなやる気のなさとは大違いだ。

「おれたち教師も、試験問題作ったり採点だったり大変なんだよ。練習したくてたまらなくなるためのインターバルにちょうどいいだろう。試験が終われば溜まったものを爆発させて毎日練習すればいいだろう」

「週に三日以内と決めたんじゃなかったですか?」

「大会直前はそんなの気にしなくていいよ」

「それって『朝令暮改』っていうんじゃないですか」

「『ちょうれいぼかい』? なんだ、それ? 『朝礼集会』なら知ってるけど」

「四文字熟語でいうでしょう、コロコロ規則を変えること」

「おれ、国語超苦手だから知らねえよ。おまえは成績も優秀らしいから詳しいな」

 おれはキャプテンの里田の熱気にほだされるように、こいつらと一緒にやってやろうじゃねえか、という気が膨らんできた。

 考査明けの初日の練習中に校長が顔を出したのには驚いた。「何事です?」と訊いてしまった。

「輪田さんが監督になって野球部が様変わりしていると副校長がいうから見学に来ました。多くの生徒たちや職員も噂しているそうじゃないですか」

本当はド素人の私じゃなくて、体育担当が……、と言おうとして咄嗟に校長に質問した。

「サッカーの面倒見てる体育科主任の木戸さんが、野球部を毛嫌いしているって本当なんですか?」

ついでにこっちからも質問してやった。

 虚を突かれたように黙り込んだ校長が、いたしかたないという表情をつくってしぶしぶ口を開いた。

「だれか体育の教師が野球部を見てくれと言ったんです。そして余分なことを私が口走ってしまって……」

「…………?」

「野球部は運動部の花形じゃないですかって余計なことを。そしたらサッカー大好きの木戸さんが気を悪くして。体育担当全員に野球部は放っとけと言ったんですよ」

 ――やっぱりな。管理職なんて何事も無難に無難に波風立てたくないだけの理由でおれが監督……。

 反骨心がマグマのように湧きあがってきた。名前だけの監督だったつもりが何がなんでも部員たちが喜ぶ顔を見たいと心から思った。単純なんだよな、おれ。

 予選の組み合わせが決まると、おれは筆頭マネージャーになった美由希に相手チームの練習を見にいかせた。美由希が詳細なレポートを作り上げるのを待って、三時間以上の全員ミーティングをもった。

「全国制覇、甲子園優勝を目指そう」

開口一番大真面目に言ってやった。

 鳩に豆鉄砲どころか大砲を喰ったような表情が全員の顔全体に広がった。数秒おいて大爆笑になった。そりゃあそうだろう、これまで創部以来敗戦を積み重ねてきた、由緒正しい輝かしい球史を持つ野球部なのだから。

 おれは平成から令和に元号が改まった今年を期して、この名誉ある記録に終止符を打つための腹案を温めていた。

「全国制覇というのは冗談でもなんでもない。本気で考えている」

 おれの真剣度が伝わったかどうか。全員がツバメの巣の雛鳥のように口を開けて呆けた顔をしている。

「美由希、全員の名前を書いた模造紙を出してくれ。いいか、今からみんなで話し合って名前の前に番号を振ってくれ、打球を遠くへ飛ばすと思う順番に」

ガヤガヤ言いながらなんとか書き終わった紙を張り出して、おれはおもむろに口を開いた。

「おれが学生時代にボクシングをやっていたのは知っているだろう。ボクシングで勝ち負けを決めるには三つしかない。ノックアウトとテクニカルノックアウト、これは審判が一方的に試合を終わらせて勝ち負けを決めること、それにポイントによる判定だ。だが判定で勝負が決まるのは面白くもなんともない。要はだれもがノックアウトだけが頭にある闘いということで、ブチのめすかブチのめされるかのどっちかがボクシングだ」

「監督が言いたいのは、ブチのめす野球を目指せということですか?」

キャプテンの里田が反応した。賢いやつだ。

「その通り。バントとかフォアボールなんてケチなことは一切考えるなということ。思いっきり、力いっぱいバットを振って打ちにいけ。空振りや三振なんて気にするな。そんな野球をする」

「それで打順はどうするかを決めるということですね」

「ジャブをいくら繰り出しても相手は倒せない。最初からストレートパンチだけでいく。ジャブなんてケチなものは必要ない。予選初戦までの十日間は打つだけの練習。それを見て打順を決めるが、とにかく一番遠くへ飛ばすやつが一番バッター、次に飛ばせるやつが二番、以下それに準じて九番までを決める」

 こんなことを考えた裏にはおれなりの見立てをしていた。ボクシングでは自分がいくらジャブを打たれようとどうしようと、真正面からストレートパンチを繰り出してくるボクサーには恐怖心を覚え、ビビって逃げのボクシングをすることになるのを、おれは経験から知っていた。その恐怖心から逃れようとする心理を野球に応用しようと決めたのだ。

「里田、おまえはキャッチャーだから聞くが、相手チームのバッターがぶんぶんバットを振り回してきたらどう思う?」

「ちょっとビビって、ピッチャーについ外角のサインや変化球のサインを出してしまいますね」

「そうだろう、そうするとどうしてもピッチャーは余計なことを考えてしまい、おずおずと投げたり、結果フォアボールになる確率も高くなったり、守っているやつらも強い打球が飛んでくればエラーにもつながり易い」

 おれは守備のことを考えないわけじゃなかった。だけど途中から入部してピッチャーをやっていた一年生の西本勇希が、みんなが目を見張るような投球をするのを見ていたし、全員が認めるエースになりつつあった。おれも一度バッターボックスに立ってみたことがあるが、バットにかすりもしなかった。さすが中学のシニアリーグでピッチャーをやっていただけのことはある。打たれたところで西本のボールならたかだかヒット、次から次に長打を打たれることもあるまい。どんなに打つバッターだって十回のうち七回くらいは打ち損じたり三振だったりと打率三割程度なのだ。守備のエラーなんて気にしない。

 バッティング練習に明け暮れた十日間は、みんな溌剌としていた。なんといったって打つことが何より好きなのだ。おれの指示通り、思いっきりバットを振りまわす練習をして初戦を迎えた。

               *

 一回戦はわが田園都市高校野球部史に残る初勝利になった。

 先頭打者里田の三塁打からはじまり、一回表に五点を先取してしまった。キャッチャーで一番バッターというのも相手チームの常識の裏を突き、どのバッターもバットを力いっぱい振り回すので、ド素人チームと見くびってくれたのかもしれない。なにせ何もかもがこれまでの野球のセオリーを度外視したものだった。おれの野球音痴の成せるワザと、全員の共感を得た成果だった。

 試合後の部員たちの喜びようは半端ではなかった。

「全員今日の感想を言え」

試合後の簡単なミーティングでのことだ。

「嬉しい」というやつが一人もいなかったのは以外だった。

「快感!」「野球がこんなに楽しいと思ったのは初めてです」「監督を胴上げしたい気分です」

「バカ野郎、それは甲子園で優勝したときだ」

 大爆笑になった。はち切れんばかりの笑顔が打ち上げ花火のように咲き誇った。

「監督の感想もお願いします」

美由希がおれに一言しゃべれと促した。

「そうだなあ、おれは最初から勝つと思っていたよ。それにしても応援に来たやつが少ないな。美由希、つぎの試合からは応援席を満員にする方法を考えろ」

「そればっかりは……」

的外れな感想を言うなと言いたげだった。

「部員の一族郎党来るようにしろ。おれは今から校長に電話して、職員、生徒来れるやつはみんな来させろと言うから。おれたちをなめるなよとも言うよ」

 ――何か言い足りないな。

 下を向いて手の指で髪の毛を梳くようにすると思い出した。

「彼女がいるやつはみんな彼女を応援に来させろ」

「それ、どういうこと?」「彼女なんていないよ」「試合とどんな関係があるわけ?」

 クスクス笑いながら思い思いのことをしゃべり始めた。

「彼女の前では男なんていいとこ見せようと張り切って、普段の倍の力が出るだろうと思ってさ」

「監督も彼女呼ぶんですか」

だれかが茶化した。

「そんなのいないよ。彼女がいたら監督なんてやってないよ。デートに忙しくておまえらに付き合う時間なんてないだろう」

 これ以上ない笑いが広がったけれど、彼女がいないのは本当だから仕方がない。

信じられないことが続いた。二回戦三回戦も勝ちベスト十六まで勝ち上がった。三回戦で勝った相手はシード校の一角にあげられていた私学だった。

「輪田さん、化学変化を起こしましたね」

校長はわけのわからない感想を言った。おれの担当教科にひっかけて粋に表現したつもりらしい。そんなことよりアイスクリームの差し入れでもしろや、こんなクソ暑い中頑張ってんだから。

二回戦三回戦ともおれは同じ訓示を垂れた。

「テレビゲームのマリオが敵をなぎ倒すイメージで最後の最後までやれ。ボクシング精神だ」

翌日の神奈川中央新聞にピッチャーの西本が試合中の写真入りでトピックス風に囲み記事でとりあげられた。

 ――田園都市高校 西本勇希投手

 これまで一回戦敗退が続いていた田園都市高校を四回戦まで導いたのは、一年生エース西本勇希投手である。緩急をとりまぜた巧みな投球でシード校xx高打線を翻弄、最少失点に押えた。一年生とは思えない巧みな投球は凡打の山を築き、二対一で勝利した。まだひ弱さの残る一年生ではあるが、シニア時代の実績から一、二の強豪校からの誘いを受けながら田園都市高校への入学という道を選んでいた。未知の力を秘めた将来性のある投手であることにはまちがいない。その片鱗を見せた投球の勝利だった。今大会注目を浴びる一佼である。

 四回戦はボロ負けだった。

サッカー部顧問で体育科主任の木戸は応援にも来なかったばかりか「そうそううまくいくもんじゃない。調子に乗り過ぎた結果だな」とこれみよがしに職員室で言いふらしていたが、おれは屁とも思っちゃいない。これ以上野球部に勝ち進まれちゃ俺の立つ瀬がないと、木戸の顔には墨汁で書いてあった。

おれの中では四回戦に敗れたがゆえに、わが野球部にとって四回戦は甲子園決勝まで進んだ結果の準優勝に匹敵するものだった。敗因は西本の絶不調にあったが、それは西本の心の動揺に起因していると、おれだけではなくチームの全員が感じていたはずだ。絶対許すことのできないインターネット上での出来事のために。

 言い訳ではなく負けたことの一因は、言いたい放題の掲示板のせいだとおれは思っている。酷いとしか言いようのない卑劣さだった。暴き立て書き立てた人間たちの匿名性におれは心底腹が立った。まだ十五歳になったばかりの少年が受けた心理的動揺は、想像以上だったはずだ。

負けはしたが「やったね」っていう充実感に浸り、当分の間何もしない夏休みを満喫しようと思い定めていたおれの解放感という贅沢は台無しになってしまった。すべては無責任な掲示板のせいだ。

 西本勇希が「野球部を辞めたい」と言ってきたのは当分部活から解放されるとホッとした気分のときだった。

「どうして辞めるんだ?」当然のように訊いた。

「とにかく辞めたいんです、もういいです」としか言わない。投げやりな言い方だった。

 おれにも何が何でも辞めるなと説得するほどの情熱が野球にあるわけでもなく、所詮クラブ活動なんだからという思いがある。それでも一応辞めたい理由を聞くくらいの野球部への愛着はおれにも芽生えてはいた。

「僕が言わなくても、もうみんなわかっていますよ」

 直接のきっかけは新聞の囲み記事によってもたらされたその後の悪意に満ちた掲示板だった。見向きもされなかった学校がシード校を破り、さらに西本勇希のことを取り上げた記事が脚光を浴びたその日から、ネットの掲示板、SNSなどに野球とは何の関係もない悪質としか言いようのない書き込みが出回ったことが原因だとすぐにわかった。

「ネットの掲示板見ましたか? ひどい」

 美由希が泣き声混じりに電話してきた。「ひどい」を繰り返すうちに美由希の声が絹糸のように細くなった。

 登校もしなくなった西本勇希に会って話だけでも聞きたいと、おれは渋る西本の家に出向くことにした。いつの間におれはこんなに熱心な監督になっていたんだと自分でも笑いそうになった。

 東急田園都市線あざみ野駅から線路沿いのなだらかな坂道を十分ほど歩いた瀟洒な住宅が建ち並ぶ分譲地の一画が西本の自宅だった。階下に二台分の車庫があるいかにも金持ちらしい邸宅だ。おれのボロ家とはえらい違いだ。通された応接には西本の父親が待っていた。母親も氷を浮かべた麦茶をもって顔を出した。

「いつもいつも勇希がお世話になっています。今日は暑い中ありがとうございます」

 細面でスリムな美人だ。勇希にそっくりだ。おれはつい見とれてしまったが、母親が退室するとそんな場合じゃないと思い直し、父親に視線を戻しながら訪問した目的と訊きたいことのいくつかを反応の鈍い脳みそで反芻した。

 匿名の掲示板は頭に叩き込んでいたが、やはりその内容はやりきれない思いにさせられる不愉快なものばかりだ。

 いわく、西本勇希は在日朝鮮人、本名 (パク)(ヨン)()。自宅の住所、家の大きさや色などの外観、家族構成、父親の職業、姉妹の在学中の学校名、等々。

 虚実ないまぜのプライバシーが丸裸にされた、当人でなくともワナワナと心拍音が外に聞こえるほどの怒りが込み上げてくるような内容だ。

「やはり退部する考えに変わりはないか」

 父親と簡単な挨拶をすませると、おれは不器用にズバリ質問した。

 返事もせず下を向いている西本に代わって父親が落ち着きのある口ぶりで話し出した。

「こんどのことはある程度予測できたことなんですよ」

「予測できた……?」

「えぇ、えぇ、勇希が野球部に入りたいと言ってきたときから。それほどに中学のときから注目されていました。でも新聞にあれほどハデに書かれるなんて思ってもいませんでした。予想以上でした。あれさえなければねえ」

 父親は大きくため息をつきながら話を継いで言った。

「ネットの掲示板には顔写真だけではなく試合中の動画まで。『あのふてぶてしい態度はなんだ』と一方的な言い掛かり、『在日は在日だけで野球やってりゃいいんだよ』と、ヘイトスピーチそのものの到底高校生に向かって言うような、許されるものではないですね。動画なんてバックネット裏から撮影されていて。山形県高野協では、肖像権の侵害にあたるとしてバックネット裏からの撮影、インターネットへの公開を禁止する警告を発しているというのに、マスコミも主催者もこの野放しの状態です」

 個人情報保護が強く叫ばれている表面ではわからない陰には、これほど切実な書かれた側の耐え難い現実があるということを思い知らされることになった。

「従軍慰安婦や徴用工の問題とか政治には無縁と割り切っていても、我々在日韓国・朝鮮人には、日常生活さえ脅かされる切実な問題なんですよ。ましてや思春期の子どもたちにとっては学校生活さえ息を顰めてビクビクしながら過ごす毎日なんです。怯えを被害妄想という人がいますが、その気持ちは当事者にしかわからないと思いますよ」

 おれは父親の話にただ耳を傾けているしかなかった。西本勇希に向かって、学校にも野球部にも戻って来いよ、なんて言える雰囲気にはほど遠い。

「監督はご存じでしょうが、勇希は東京の私立高校から野球の特待生で誘いをうけていました。甲子園さえ夢ではなかった。でもそんな強豪校で活躍して目立ってしまえば『在日だ、本名は朴だ』と暴き立てられ、思い上がっているなどと、いらぬ中傷や誹謗に晒されるのがいやで、もう野球はしないと決めて今の学校にしたのです。その私立高校はまた修学旅行の行先が中国だそうで、パスポートの色が違うことが勇希にとってどれほど苦痛なことか……。大好きな野球をあきらめるに際しては家の中で荒れて『どうしてこの家は日本人じゃないんだよ? 朝鮮人なんて大嫌いだ』と」

 野球部フェアで部員募集のチラシを手にした日の勇希は「俺、また野球ができるよ」と嬉々として家族に話したという。長髪も可ということ、上下関係なんてない、イジメは絶対にさせないというおれの確約が、勇希の入部を後押ししたと父親はおれに強調した。

「タバコ吸われますか?」

間合いをおくように、父親が自分からテーブルに置かれたタバコを手にしながら、おれに勧めた。

「いただきます」

 一息ついて、張りつめていたものから解放され、やっとおれは西本に語りかけた。

「もう一度考え直して野球する気はないか?」

「いやです」

キリキリとおれを睨むように断言した。

「楽しんで野球やればいいじゃないか」

「野球じゃねえんだよ、そんなんじゃねえんだよ」

「バカヤロウ、なんだ、その口の利き方は」

父親が激しい口調で咎めて続けた。

「監督さんだぞ、年長の方なんだぞ。そんな無礼な口の利き方。年長者は敬えといつも言っているだろう」

 ずいぶん大仰な。韓国人社会はいまでもそんな教育を、とおれの方が肩を強張らせて緊張してしまった。

「すみません」

しおらしく軽く頭をさげながら、西本が拳を握りしめて続けた。

「何もかも見透かされ書きたてられた者の気持ちは監督さんにはわからないでしょうから、野球を楽しんでなんて能天気なことが言えるんですよ」

「どういうことだ、わかりやすいように監督さんに説明しろ」

父親が穏やかな口調で静かに促した。

 うまく言えるのかどうか考えをまとめようとするように西本は沈黙している。怒りや溢れる思いがこみ上げてくるのだろう、両手の拳をかすかに震わせている。

「思っていることを全部ゆっくり話してくれたらいいよ」

おれも野球のことなんかどうでもいいじゃないかという気になっている。

「怖いんです。いつも誰かに見張られていたり、外に出れば後をつけられているんじゃないかと。変装してしか外に行けない。ましてや学校に行くなんて通学ルートだってバレバレだし。こんな恐怖なんて俺にしかわからないと思います」

 西本の言うことにおれが相槌をうつ資格もないほど、西本には切実なんだろうとしかわからない。生徒の苦痛を推量して寄り添うこともできそうにないおれは、教師の資格なんてねえなと思った。

「私にも勇希君の思いが少しはわかった気がします」

 西本の言うことを静かに聞いている父親と西本に向かって、おれも思いの丈をしゃべろうと思い口にした。

「在日の方々の思いは、申し訳ないですが正直言って共有共感するほどの知識も見識も持ち合わせていません。でも今回のことで私がいちばん頭にきていることは、匿名で書き立てる卑劣さです。名無し匿名で中傷し嘲笑い、面白がっているやつらを見つけ出せたら、ぶんなぐりに行きたいです。教師を馘首(くび)になってもかまやしません。それどころかボクシングをやっていた私が拳で殴ったら凶器とみなされて犯罪者になるかもしれません。それくらい怒りの気持ちを収めることができない。こんな気持ちをお父さんと勇希君にわかってもらえれば、それだけで今日お邪魔した甲斐があるというものです」

 おれの言うことをじっと聞いていた西本が、真正面からおれを見て両目から涙をこぼしはじめた。

「俺、オレがいちばん言いたかったのは、監督さんがいま言われたことだったのです。匿名で好き放題を言う卑怯、卑劣さに我慢がならないのです。だけど、そんな気持ちを乗り越えてまで、野球をしようということにはなりません」

 西本勇希に耳を傾けながら、野球部を退部すればスッキリするというものではなく、何かもっと深い思いがしこりのように西本の心の中にあるような思いを抱いた。鈍感なおれがそんな印象を受けるだけの、別の思いがあるのではないのか。その理由はわからなかった。

退部だけでは済まない、ことによったら退学も辞さないほどの理由、なにもかもから逃げてしまいたいほどの、少年の繊細な神経を粉々にしてしまうような何かが。

ほどなくして西本の思いは、両親やおれにはわからない思春期の気持ちの揺らぎや苦悩を、美由希が教えてくれることになる。

               *

 夏の大会予選に負けたチームの夏は、二年生一年生の新チームのスタートでもある。

「さっそく新チームとしての練習スケジュールや練習試合のことを考えなければいけないんですが、西本君のことが気になって」

 マネージャーの美由希が今後どうしていくのかの相談に来た。

「西本君の家に行ったんですよね。どんな話になったんですか?」

「このまま続けてさらに西本が活躍することになればなるほど、あることないこと書かれて家族中いやな思いをするんじゃないかとも言ってた。どうするのかまだわからないというのが正直なところだな。退部どころか退学も辞さないほどの感想を持ったよ」

「そうなんだ。西本君、付き合ってる彼女のこと何か言ってませんでした?」

「なんだそりゃ?」

「私と同じクラスの子なんだけど、西本君のこと好きになっちゃったからって。私が西本君に取り次いであげて、付き合い始めていたんです。だれも知らないけど、その子応援にも来てたんですよ。それからは西本君もがぜん頑張っちゃって。すぐアツアツになったよ、二人とも」

「どんな子か知らんけど、いいじゃないか」

「はっきりいって芯のしっかりしてる子。小っちゃいけど美人の部類ね。西本君だって鼻筋の通った爽やかな顔してて背も高く、いわゆるイケメンでしょ。監督と違って」

「不細工で悪かったね。それで西本が不登校になったり、野球部辞めるというのとどんな関係があるんだい?」

 男と女のことはおれにはどうも苦手だ。母親が結婚の話題をもち出すと、いつも「しらねえよ、放っといてくれ」と答えることにしている。

「私の想像だけど、西本君は自分が在日だということを彼女に絶対知られたくなかったんじゃないかな、他の誰よりも。彼女に聞いたらメールの返事もよこさないって泣きべそかいてた」

西本の彼女は「在日ってそんなに重大なことなの?」って問い詰めるように、美由希に繰り返しくりかえし訊いてきたという。返事が来ないことの彼女のショックは、西本以上ではないかと美由希は自分のことのようにうち沈んでいた。

「知られたくなかったことを、自分のあずかり知らぬところで虚実とりまぜて無責任に暴き立てられたのが、よほどショックだったんだろうな。在日ということを明かされるのを極度に恐れていたみたいだから。ほとぼりが冷めるのを待つしかないな」

              *

 夏休みにはいった七月末に、前キャプテンの里田が新チームの練習に顔を見せた。前髪にシャギーをいれた今風の髪型にしている。

「ますます男前になったな。今日は練習の手伝いかい?」

「そうなんです。ボールを握らなくなったら毎日手持無沙汰で。それと西本のことが気になって、様子見に来ました。秋の県大会のことも西本がいればいい線いくんじゃないですか」

「見ての通りだけど、西本はまだ出てこないよ」

「今日のスポーツ新聞もっているんですけど、見ます?」

 里田は新聞を広げ隅の方の小さな記事を指さしながら

「トラブル起こさないよう気をつけてくださいよ。僕たち三年生部員の自戒も含めてのことですが」

 練習や対外試合には縁がなくなっても、三年生が何か問題でも起こせば、まだ野球部としてお咎めや処分の対象になるということを里田は言っている。

 短い記事だ、一読した。県内私立校の野球部員数名の喫煙飲酒不祥事とそれに対する高野協が下した処分内容が記されていた。

「この中の一人は俺と中学が一緒だったんですよ」

里田が嘆息しながら言った。

「仲良かったのか?」

「ええ、まあまあ。決してワルじゃないですよ。他の部員に誘われてやったんでしょうね。付和雷同ってやつですよ」

 高野協の警告をうけて、学校が自発的に六か月間の対外試合自粛を申し出ていた。

「こんな記事なんてどうってことないんですよ。それよりネットの書き込みが半端ない」

「「やはり西本が書かれたようなこと書かれているというんだな?」

「それ以上じゃないですか。ネット世界では正義の士、自分は正しいことを言っていると信じて疑わない投稿者が溢れているということですよ。家族や住所のことはいうに及ばず、中学時代の学業成績や行状。それにもっとひどいことを……。そいつをレギュラーに取り立ててもらうために親が監督に金品まで渡していると、あることないこと取り混ぜて。もう悪意としかいいようがありません」

「何故中学時代のことまでわかるんだ?」

「それは新聞ですよ」

 夏の大会を前に新聞社は、大会に登録された選手の名前と出身中学名を高校野球の特集記事として掲載することによるからだと、里田は言った。部員の多い学校は登録される選手を選別する。そこでは登録されなかった部員の不平不満が生まれ、選手の親も一緒になって、匿名の悪意に満ちた書き込みが横行する。ましてや今回のように不祥事が絡めば何をいわれるかわかったものじゃないというのだった。スパイもどきのタレこみなんて日常茶飯事だという。

 おれはまだネットの書き込みを見たわけでもなく里田からの又聞きで、里田の憶測や誇張も混じっているだろうが、西本のこともあってだんだん腹が立ってきた。未成年者の飲酒喫煙がいけないことは本人たちが分かっていることだけど、匿名の掲示板の横暴、正義面のやつらを張り倒してやりたくなる。

「西本のことも弁護士を通せば、個人情報保護法の観点から書き込んだ人間を特定して、訴えることもできるらしいぞ。あぶり出してとっちめにいくか」

「ワダッチも……あっ、ごめん。監督も思いのほか熱くなるんですね、クールな人かと思ってた」

「ワダッチ? おれのことか」

「そう、陰ではみんなそう呼んでいます。気が緩んで言っちゃった」

「まあ、どっちでもいいけど、陰でコソコソやることが嫌いなだけだ。堂々とワダッチと言えばいいだろう」

「そこまでは気が退けるけど、みんなに言っときます」

「それよりもおれには連帯責任というのがどうにも納得いかない。なんで何もしていないメンバーまで対外試合禁止なんだよ。おまえ、そう思わないか?」

「同感です。秋の大会目指している他の部員がかわいそうですよ」

「昔の軍隊内務班の初年兵いじめ、連帯責任と同じじゃないか」

               *

 高校野球ファンの著名な女流作家が書いた月刊誌のエッセイがちょっとした波紋をひろげていた。趣旨はあちこちで起きる不祥事への対外試合禁止処分や自粛の連帯責任に対する一考察である。不祥事に関わり合いのない部員まで責任を負うことへの疑問を呈したものだ。このエッセイを受けて、別の週刊誌の甲子園大会特集記事に賛否両論が掲載されて広がりをみせていた。

 高野協がいう「教育的見地」「不祥事への抑止効果」という理由に、おれはどうしても納得がいかない。高野協は教育を云々する機関なのか、ずいぶん高尚で偉い機関なんだなと皮肉の一つも言いたくなる。不祥事に関わっていない部員のスポーツをする権利への配慮はないのか。西本へのプライバシー侵害も元はといえば、高野協の承認のもとマスコミ(新聞)が西本本人の承諾なく、名前や出身中学の公表掲載に端を発しているのではないのか。時代の変化についていかない旧態依然の決め事のままに、名前の掲載などが野放しにされていることによるのではないかと思わざるを得ない。教育的見地を云々する以前の、生徒の人権に対する配慮がない上から目線に、おれは腹が立ってきた。

「爆サイ神奈川県版見てます?」

里田から電話がきた。「爆サイ」は地域ごとのネット掲示板である。

「そんなの、見てないけど、どんなことが書いてある?」

「ネットの話題の中心が微妙に変わってきて、高野協やマスコミ批判となってきました。『おまえら、安全地帯にいて、偉そうなこと言ってんじゃねえ』って」

「いい雲行きじゃねえか。おれも書こうかな」

「バカ言わないでください。匿名で無責任な訳知り顔のやつらばかりですから」

 野球部のこと、西本やおれのことに心を砕いてくれる里田が、おれの指南役風になってきた。

「それと、西本からメールがきましたよ。どうやら野球続けたいらしいです。親父さんが、これまでの経過とお願い事を書いて、高野協と新聞社に手紙を書いたと言ってました」

 おれはすぐに行動に移さなければと思い、西本に電話を入れた。やはり新チームは西本中心のチームになるのは目にみえているのだ。

 つながった電話を、西本はすぐに父親に渡した。自分の言葉一つ一つをかみ砕くようにして冷静に話す父親の顔が見えるようだ。賢い人物のことだ、理路整然と手紙を認めたにちがいないと話に耳を傾けた。

「私はこういうことを書いたんです」

言葉をつなぎながら、その内容を簡潔に話してくれた。

「息子は小学生のころから親しみ打ち込んだ野球に、青春真っ只中の時間を思う存分使いたいのです。私たち親はそのために協力を惜しまずなのです。そのことの邪魔になる一切を息子の周りから取り除いてあげたい。新聞紙上に名前を出さなければならないというのなら、我が息子の名前だけはNとかなんとかイニシャルにでもして載せてほしい。そんなことはただ野球を満喫したい、楽しみたい、そのための部活という人間にとっては、名前など何の益にもならないことだと。知らず知らずのうちに、勝利を、競争を煽るような現在の野球部部活は本来の目的を逸脱しているとしか思えない。このたび受けたネット上での誹謗中傷の類いは、息子の人生さえもあやまたせる一因にもなり兼ねないことだ。主催者におかれては部活の本来の姿に立ち返り、熟考対策を講じていただけないものか。こういった内容を書いて県高野協に送りました」

 父親は穏やかな口調でおれに語ってくれた。

「監督には手紙のコピーを差し上げますよ。それに息子はとにかく田園都市高校の野球部が好きなんですよ」と言い足した。

 非の打ちどころのない内容だと、おれは感じ入った。おれは何をしたらいいのかと、まるで自分の人生の分岐点でもあるかのような心持ちになり、おれらしくもなく考えに考えた。得た結論は、そんなことかと自分でも単純だなと思うほどあっけないことだ。西本の父親と同じような内容を、学校長名で書かせて県高野協と新聞社に送ればいい。学校として高野協に加盟しているのだから当然のことだ。生徒を守るというのはそんなことを指すのだ。

 校長に具申し、手紙のひとつも書いてくれとお願いした。

「うーん、それはちょっと……」

 予想した通りの反応だ。とにかく校長が恐れているのは、教育委員会と高野協に睨まれることと頭の髪の毛が抜けることだ。上の方が気になって仕方がないようだと人差し指を頭の上に立てていつも職員はヒソヒソと言い合っている。鴨川シーワールドのイルカのショーとは違うんだから、頭髪のことを気に掛けるのはいいとして、上を見て仕事をするなと言ってやりたい。

「個人情報の保護は今の世の中何より重要だと思うんですが。部の責任教師として、わたしも連名で構いません。是非お願いします」

 考え尽くしたおれの結論だから、どうしてもやってもらわなくては困る。どのみち高野協から無視されるだろうが言うべきことは言っておく必要がある、一方通行の通達ばかりでは癪に障るでしょうと、おれは校長に申し立てた。

 校長に具申、お願いしたと里田に言うと、

「前キャプテンとして部員の総意だと俺も校長に言いましょうか」と、敏感に反応した。

 校長に逃げ場を作らせないためにはいい方法かもしれないと、おれはほくそ笑んだ。

 秋季大会の参加選手登録を控えた七月末、マネージャーの美由希が早口の電話を寄越した。

「監督、西本君が練習に来てますよ!」

初勝利をあげたときのように華やいで興奮した口ぶりだ。

「そうか!」

おれも美由希につられて声が弾んだ。西本を登録するかしないかで大きな違いがある。美由希のあわてぶりが、そのことを証明している。

「西本君の彼女が説得したみたいですよ」

「彼女に聞いたのか? なんと言って説得したんだって?」

「詳しいことはわからないけれど……」

と言いながら美由希は概略を伝えてきた。

 西本の彼女は西本の話を聞きたいとは言わず、私から話をさせてくれ、そうしないと自分が自分に納得できないと強硬に言ったという。

 話の概略はこうだ。

 西本が在日韓国人であることを隠し通そうとしていたとは思わない、いずれちゃんと話してくれればすむことだ。自分にはそんなことどうでもいいし、興味もない。まして慰安婦がどうの徴用工問題がどうのなんて難しすぎて何のことかもわからない。もし西本が在日であることが明かされて、そのために野球も辞め、自分とも付き合いたくないというのなら、自分のことしか考えない一方的で卑怯な態度じゃないかと。

「あなたは私のことなんか全然考えていない。だから私の言うことを耳の穴カッポじってよく聞いて」と涙ながらに訴えるように語りかけていた。

「もし私が在日韓国人で、いまのあなたと同じ立場だったとしたら、私はどんな態度をとっただろうかと考えてみたの。そうしたらあなたと全く逆の態度、絶対にあなたを無視するなんてしないって。国籍がどこかなんて、私には何の関係もなかった。私が好きなあなたはあなた、あなたに好かれていたい私は私だった。それ以上でも以下でもなかった。夏の大会のときの自信に満ちた堂々とした態度、あれがあなたの素のままの姿なのよ。大学に進んでも野球やりたいんでしょう。だったら野球部辞めるなんて言わないで」

 彼女の一言一言は、姑息にリングを逃げまわる西本に強烈なストレートパンチを浴びせたようなものだ。惚れた女のストレートは西本をすっきりさせたに違いない。

「『(落語)芝浜』の、魚屋の女房みたいなしっかり者のいい女じゃねえか」

 おれはべらんめえ口調を真似て独りごちた。

               *

 甲子園の全国高校野球大会が始まった。これまで大して関心もなかったが、テレビ放送を待ち構えるようにして開会式に見入った。おれも変われば変わるものだ。だけど観ているうちにウンザリ、いやになってきた。

「選手入場!」地方大会を勝ち抜いてきたチームの晴れがましく誇らしげな行進がはじまりだった。

なんだこりゃ、 両手を大きく振り上げ膝を持ち上げるように行進する歩き方の不自然さに、おれは顔をしかめた。次第に選手たちがロボットに思えてきた。どこかで見た記憶がある光景だと思いを巡らせているうちに、太平洋戦争中の神宮外苑競技場の学徒出陣壮行会行進がオーバーラップした。銃の代わりにバットを担がせたらパロディだ。なんであんな忌まわしい戦争の記憶が蘇るような行進をさせるのだ。テレビを観ている人たちは何も感じないのだろうか。おれのチームだったら「普通に歩け」と怒鳴ったかもしれない。

ソファに腰かけて観ていたが、時代錯誤なシーンに嫌気がさして、長いソファに寝そべることにした。

後に続く式次第にもゲンナリだった。大会会長の開会の挨拶、文部科学大臣、高野協会長の話と誰がしゃべっても変わりばえのしない空疎な内容だ。選手たちも真剣に聞いているやつなんていないだろうに。高校のボクシング全国大会に文部科学大臣が来たという話を聞いたことがない。おれの目には野球だけが持てはやされる異様な風景だった。開会式は形式が最も大事な大人のための儀式なのだ。だれも疑問に思わないのだろうか。主人公は高校生ではないのかの思いを強くした退屈な一時間だった。前日に開会式のリハーサルまでやったと聞いて、笑ってしまった。一分一秒の狂いもなく、主催者が決めた通りにやることに何の意味があるのだろう。どこに目をむけての開会式なんだろう。おれには大臣様、高野協会長様のためのショーとしか思えなかった。テレビを消して寝てしまった。

 ひとときの怠惰な昼寝から目を覚まして、ひと試合くらい観てみようかとリモコンの電源を押した。大会初日の第一試合が終わったばかりのようだった。どっちのチームが勝とうが負けようが別段興味もないが、映し出されている試合を終えたベンチの様子にはそれとなく気を引かれた。片づけをする選手たちを監視するような、野球帽を被った大人の動きを目で追った。おぉ、これが高野協かと思いながら、形になった高野協を見ていた。おれが勝手に高野協と思っただけだけど。高野協の係員は、なにかとお節介がましくスムーズな退出を促しているのが見てとれる。集音マイクでもあればもっとその様子がわかるだろうが、どう見てもおれには係員が偉そうにしているとしか思えない。選手たちは「あんたに言われなくてもわかっているよ」とでも思っているにちがいない。

 画面が勝利チーム監督のインタビューシーンになった。当たり障りのない受け答えが続く。おれには耳をすまして聞きたくなるような内容はなにもない。練習試合で町田の学校の監督に貴重な話を聞いてからいつの間にか五か月もの時間が、と別なことを思い妙に感慨深い。ぼーっとして春季大会の試合を眺めていたのが間抜けだったなあと我がことながら苦笑を洩らした。   

春季大会と同じ頃の話題を思い出す。甲子園では春の全国選抜大会が開催されていたが、何の関心もなかった監督という役目にちょっとだけ目を向ける事件が甲子園を舞台に巻き起こっていた。

石川・星稜高校 対 千葉・習志野高校の試合中、習志野の二塁走者が捕手のサイン盗みをしたとして審判に異議を申立てていたが、お咎めなしで試合続行、習志野高校の勝利で試合は終わった。しかし審判の処置に納得できない星稜高校の監督が習志野高校の控室に出向き、ことの真偽を質したことから騒ぎは大きくなっていた。ここまではまだ内輪のやり取りでことは収まるはずであった。収まるはずのサイン盗み問題が収拾つかなくなったのは、事件が週刊誌やテレビのワイドショーなど無責任なマスコミの餌食になったことによる。星稜高校の監督は迂闊にも週刊誌の記者に思いの丈を正確に吐露したつもりが、週刊誌の曲解も交えた記事に高野協が即座に反応したのだ。高野協は試合後の監督の行為に腹を据えかねていた節がある。星稜高校の監督は、審判は単なる試合の審判ではなく、審判の権威は高野協の権威が目に見える形になったものだということを軽率にも失念していたのだろう。高野協の逆鱗に触れるとどんなことになるかを知らしめるため、高野協は一方的に星稜高校監督に牙をむいたにちがいない。

 おれはその後掲載された週刊誌の記事を読んで思ったね。高野協は高校野球を守るという大義名分をかざして実は高野協という組織の権威には指一本触れさせないというのが最大の関心事だということを。その最たるものが、日本学生野球協会の憲章を金科玉条の盾に、高野協の許可なく自分勝手な行動は許さないということだと。マスコミの取材にも規制がある、自由な発言は認めないということだと。今回のサイン盗みという問題には具体的な見解も示さず曖昧なまま、星稜高校の監督が勝手にマスコミ対応したことを揚げ足取りふうに注意という処分を言い渡してお茶を濁しているのだ。高野協の虎の尾を踏めば除名処分も辞さないという勢いに、

 ――あぁそう、上等じゃねえか――おれはそんな捨て台詞のひとつも吐いて、虎の尾をあえて踏んだ勇気に星稜高校の監督あて共感の手紙のひとつも書きたくなった。

しかしまた一方ではおれの天邪鬼が頭をもたげてきた。

 星稜高校と習志野高校。ともに全国的にも有数の強豪校、トップクラスの野球部であるがゆえに、おれたちレベルの野球部から見れば高校野球というよりも野球界のセミプロ集団、そんな学校間の喧嘩とおれたちの野球にどんな関係があるというのだ。全国大会でも喧嘩でも勝手にやってろという気にもなってくる。高野協の加盟校だから確かに頂上を目指すということに変わりがないかもしれないが、おれたちには無縁の論争じゃないか。おれたちはもっと大らかに野球を楽しむことのほうが大切じゃないだろうかと思える。みんながみんな甲子園を目指すことにどれほどの意味があるのかという思いが募る。マネージャーの美由希にプレーをさせることが何故いけないのか、女子選手を認めないと高野協の規約には書いてあるらしいが、なぜダメなのかの理由が「女子は危険だ」というのだからお笑い草で時代錯誤も甚だしい。あれもダメこれもダメの禁止事項の羅列だ。暇にまかせてインターネットで、「高校野球、女子、甲子園」と検索して面白い記事を見つけたとき、おれは声に出して笑ってしまった。

 ――まさに甲子園練習を開始しようとした時だった。……ナインがいざ飛び出そうとした瞬間、その列に加わっていた女子マネージャーが、大会関係者に呼び止められた。どうやら大会規則の「人工芝部分での活動に制限」の部分に抵触するらしい。……危険防止のため、女子マネージャーは人工芝部分から出て、土のグラウンドに入ってはいけないということらしい。

 なんと時代錯誤なことだろう。日頃野球になじんでいるマネージャーだぜ、危険に男子も女子もあったものか。美由希ならノッカーの役目だってできるだろうと思う。その後二~三の詳細を決めて女子マネージャーの練習参加は認められたらしいが、時代錯誤、男尊女卑の高野協の旧態依然の脳みそには変わりはないようだ。

美由希には練習だけでも男子部員と同様にさせてやろうかなと思う。丸刈り坊主頭が当たり前という思い込みと女子選手は認めないというのは同じレベルの先入観に過ぎない。西本の父親が書いた手紙は、子どもにもっと楽しく野球をやらせる環境を考えてくれ、ということではなかったのか。

西本の個人情報がダダ漏れになったことの元はといえば、高野協が認めた選手名の新聞への公表からきているのではないのか。西本の父親の手紙への返答もなく、見て見ぬふりのままではないか。どうしてくれるのよ、とおれは言いたい。守っているのは生徒たちではなく自分たちの組織と利権ではないのか。保身の権化だ。

               *

秋季大会の田園都市高校の結果は悲惨だった。西本の練習不足と、何より精神的な動揺からきていると思える西本の不安定な投球が原因だった。

「監督が落ち込んだ顔してちゃダメじゃないですか。原因ははっきりしています。野球はやっぱり投手と捕手のバッテリーですよ」

 美由希は相変わらず元気いっぱいだ。おれも自分では普段と変わらないと思っていたのに、次第に勝ち負けにこだわるようになっていたのかと自戒した。

「私、だれにも相談せず、首都大学リーグのいくつかの学校にコーチに来てくれないかと当たったんです。そうしたら週一回だったらコーチを派遣してくれる了解を取り付けたんですよ。でも大学にもメリットあるんです。大学は自分の学校のセレクションを受けてくれそうな優秀な高校球児を探していますから。西本君のこと知ってましたよ。監督は技術的にはまったく当てにできないですからね」

あっけらかんと言い放つのも美由希らしい。

「おまえ、よくやるなあ。ずうずうしいというか、たいしたもんだよ。技術のないおれは何をしたらいいんだい?」

 美由希の言う通りだと、おちゃらけ風に訊いた。

「何か落ち込んでいる部員の相談に乗ってもらえればそれで充分じゃないでしょうか、夏の予選のときのように。みんな『臥薪嘗胆』を合言葉に頑張るって言ってますから」

「また難しいことを言う。どんな意味なんだ?」

「リベンジ。そのためにはどんな練習でも頑張るってこと。里田先輩に教えてもらったんですけどね」

 主体性のない監督業をやっているうちに、次から次へと持ち込まれる美由希のアイデアの大波に呑まれるように、何やら妙な按配になってきた。徒党を組んだり集団で何かやるのが苦手で教員になったのに、いつの間にか野球部の頭目に祭り上げられてしまった。何とか水素だの何とか塩素だのと化学式だけ眺めていればよかったはずなのに、試合のスコアブックまで読めるようになってしまった。校内で部員と行き交いでもすれば、朝は「おっ~ス」昼は「んちワ」と言って向こうから頭を下げる。運動部系サークル連中の挨拶言葉を何とも思わなくなっている。こっちの方が職員室で「おっ~ス」と言ってしまうことがある。それだけ部員と接触しているということだ。彼らの元気いっぱいの挨拶の仕方が変わってきた裏には部員たちのメリハリのある明るさが見て取れる。チームも新チームのまとまりが感じられるようになってきたそのころ、大学生のコーチが来るようになった。

 大学生コーチが来校する日と別の日では部員の練習の様子があきらかに違っていることに気づいたのは、ふた月ばかり過ぎたころからだった。コーチがいるときに緊張するのはわかるが、おれの目には緊張というよりもオドオドしているようにしか映らない。こんなときは美由希に訊いてみるのがいちばんだ。

「確かに違いますね」

美由希が眉間にわずかに皺を作った。

「どうしてなんだ?」

「技術的なことでは学ぶことが多くてとてもいいと思うんですよ、だけど……」

「熱心に教えてくれるんだろう。何がダメなんだ?」

「『えぇ、って言うな、ハイと言え』とか『人の話を聞くときは帽子を取って気を付けして聞け』とか、とにかく礼儀にうるさくて。うちの部員は笑ったり冗談言い合ったり、ミスしても他の部員が笑ったりからかったりして伸び伸びやってきたでしょ。それがどうもコーチの性に合わないらしくて」

「そうか、おれが一度コーチと話してみるよ。おれ的にはちょっと見捨てておけないな」

 日本人というのは、どうしてこうもクソ真面目で礼儀正しいことを崇め奉るのか、何が面白くてジョークの欠片もないような言動をよしとするのか、おれはときどき辟易する。根がチャランポランにできているおれは、何事も完璧を目指すことが苦手この上もない。いい加減のどこが悪いのか、適当に手抜きをしないと心身症患者が世の中に溢れて、しまいには心療内科の医師不足でたいへんなことになってしまうんじゃないだろうか。

「礼に始まり礼に終わる。それがチームの強さにつながっています。このチームはその基本的なことができていません」

 コーチはおれを責めるように言い募った。おれにはどうもモヤモヤした違和感が残る。

「コーチの考えにも一理あると思いますが、私は礼儀とか根性とかの精神的な部分を強調するのがいやなんですよ。楽しく野球をやってしかも試合に勝ちたい、勝てば楽しい」

「そんな虫のいい話はあり得ません。礼儀正しく、しかも他の学校の二倍も三倍も練習することが強くなる秘訣だと、私は信じています」

「そこは私と考え方が違います。できることなら捕球、守備とか打ち方とか技術的なことに絞って指導していただけませんでしょうか」

「先日の練習試合を見せてもらいましたが、セオリーもなにもあったもんじゃないと思いました。力まかせにバットを振り回す、スリーボール ノーストライクでも打ちにいく。野球がぜんぜんわかっていない。フォアボールを選ぶとか犠牲バントでランナーを進塁させるなど、九人が協同していくのが勝つための基本ですよ」

 そんなことはわかっている。わかっているが自分は打たないでチームのために犠牲になるというのが、おれはいやなんだ。誰だって打ちたい、だったら打てばいいというのがおれの考え。監督やコーチの言うことは絶対で、努力、忍耐、フォア・ザ・チームという昔からの価値観を引きずっていることに疑問を待たないことのほうがおかしくはないのか。どこまでいってもコーチと考えの一致をみることはなさそうだ。

「一つだけ聞かせてください。大学の野球部では冬の間のトレーニングはどんなことをするんですか?」

「ほとんど体力作りに費やします」

「私たちには器械設備があるわけじゃないので、どんなことをすれば体力作りに……?」

「ランニングとそれに平行して基礎体力強化のためのトレーニング。それに身体を柔軟にするトレーニングです」

 どんなスポーツも基礎体力を高めるトレーニングは共通しているということは明白だ。そのためにはどんなことをしたら自分のためになるかを、部員一人一人に自分で考えさせ、試行錯誤を繰り返しながら自主的に行動に移させることが最善の方法だとおれなりに考え、大学のコーチを断る決断をした。精神的な圧迫を感じながらやる練習よりも、そのほうがよっぽどいい方法だと思ったからだ。画一的なトレーニングや練習が必ずしも効果的ではなかろうと部員に話した。

               *

「私と輪田さん宛てに、高野協からクリスマスカードが届いていますよ」

 いつもの紛らわしい言い回しで、校長が一通の封書を差し出した。十二月の学期最後の日のことだ。

 ……傘下の野球部員の個人情報漏えいについて県高野協として協議を重ねてまいりました。……対応策の一つとして来季の春季大会において試験的ではありますが、選手登録名を常識的な範囲においてのみイニシャル、一部ではニックネームでの登録を許可することと致しました……。

「これはどういうことですかね?」

「最後の方に書かれている通りでしょう」

 在学が証明できる実名、学年等とともに、以下のような事例の範疇での表記名を認めるとして(例)鈴木一朗→イチロー、ファストネームのみの表記(例)銀次、雄平、T岡田を挙げた。

「芸能人の名前やマンガの登場人物などはダメだけど、というんじゃないのかね。提出した表記については認可、不認可の判定をするというんですから」

 西本の父親にならって、校長もあてにしていなかった一筆書いてくれていた。なんでも無駄とあきらめずやってみることだ。野球をエンジョイしようという学校や選手にとっては、実名なんてどうでもいいことだ。「ヨシ!」とおれは両拳を太腿に打ちつけた。

 年が明けて令和二年になると、全部員を集めてミーティングをもった。

「新しい年になったのだからさ、みんな今年はどんな一年にしたいか聞きたいと思ったのと、おれからは一つだけ伝えたいことがある。それに対してどう思うかも聞きたいんだ」

 緊張の中にも晴々とした顔色が広がっているのが頼もしい。

「まずはキャプテンの溝口からかな」

 溝口は新チームになると、満場一致でキャプテンに推された。旧チームのときはレギュラーポジションを取れなかったが、何事につけ「さあ、やろうぜ」と率先して物事に取り組み、人の面倒見もよい点が評価されてのキャプテンだった。おれも溝口が適任だと大賛成だった部員だ。

「個人的には定期テストで赤点をもらわないこと、だってキャプテンが即退部じゃ様にならないでしょ。二つ目はやはりレギュラーポジションをとることかな」

「野球のためにはカンニングも辞さず、だな」

だれかが茶化して場が一気に和む。二年生から思い思いに年頭所感を発表していく。

「おれはハマスタ(横浜スタジアム)で、一度でいいから試合やりたい」副キャプテンが言った。

「それって夏の大会で準々決勝に残るということですよ、ベストエイト。すごい」

 春季大会から夏の予選のことまで全部美由希の頭には入っているらしい。県内一のマネージャーじゃないかとおれは思っている。

「美由希、試合に出たいだろう?」

 マジで頷く美由希を見ていて、いじらしくなった。試験的とはいえ、あそこまで斬新なアイデアを打ち出した県高野協に、練習試合だけでも女子部員が出場できないかとお願いしてみるのも一案だ。

「僕は一度でいいからホームランを打ちたい。そのために練習頑張ります」

 前キャプテンの里田ばりの長打を打てる一年生が遠慮ぎみに口にすると、「おぉ~」という声が上がり、続けざまに全員が「俺も、俺も」と同調して手を挙げた。

 フォア・ザ・チームの小技というのも間違いではないが、去年からおれが言い続けているボクシングのノックアウト精神が根付いてきたことに、おれはニンマリした。

「監督もお願いします」 

美由希が促した。

「おれは今年も同じだ。甲子園優勝!」

 去年は大爆笑を誘ったのに、だれも笑わない。笑わないどころか全員顔半分が真剣な眼差しなのに驚いた。大変な進歩だ。

「おれからみんなに伝えたいのは朗報だ。県高野協からのお知らせで、春季大会の選手名登録は必ずしも実名でなくてもいいと言ってきた」

 通達文書を回し読みするようにと美由希に手渡した。

「ヘェ~いいじゃん」とか「「面白しれェ」とか言いながら、それぞれが頭を突き合わせている。

「西本、おまえの親父さんは大したもんだよ。選手が存分に野球に打ち込めるよう雑音をシャットアウトする努力をしてくれと書いた手紙が、高野協を動かしたんだぞ」

 西本は恥ずかしそうに下を向いている。

「自分が好きな名前で登録できるということですね」

 書類関係の下書きをする役目を担っている美由希が言うと、

「俺、ポケモンでいいや」とか「外山だからソトにしよう」とか好き勝手なことを言い始めてどこまでも話が広がっていきそうだ。

「マンガや芸能人の名前はダメだって書いてあるだろう。許可されなければ意味ないだろう。おれはN輪田とかそんな感じで登録したいと思ってるけど、キャプテンどうだ?」

「おれはファストネームが翔だからショウにしようかな、こんな感じなんでしょう?」

「キャプテン、それはダメだろ。うちの部員には同じ名前のやつが三組もいるんだぜ」

 別の二年生が異を唱えた。

 確かにそうだ。ショウが二人、ケイが二人、あと陽平と洋平だ。

「じゃあ、おれ溝口だけど『溝の口』ってのはどうだろうか」

 かんかんがくがくの議論が始まった。

「『溝の口』で閃いたんですけど、校名が田園都市高校だから、田園都市線の駅名というのはどうですか?」

また美由希の奇抜な発案だ。

「いいね、いいね。さすがマネージャー」

何人もから同意の声があがった。

「西本、おまえは家があざみ野駅だから『あざみ野』っていうのはどうだ」

 おれが調子づいて西本を例にあげると、西本は黙って笑っている。

「おれは『溝の口』にしよう」

キャプテンがさっさと決めてしまった。大盛り上がりの末に全員のニックネームが決まった。

「春季大会の予選だって守備位置ごとの選手紹介などちゃんとした場内アナウンスをやるんだけど、美由希、場内アナウンスをやってみてくれない?」

「いやだ~」と言いながらキャプテンに懇願されて美由希がしぶしぶアナウンスに挑戦した。

「田園都市高校のピッチャーあざみ野君、キャッチャーたまプラーザ君、ファースト市が尾君、セカンド梶ヶ谷君、サード三軒茶屋君、ショート二子玉川君、レフト溝の口君、センター鷺沼君、ライト青葉台君」

「美由希、上手いな~。なんでもできちゃうんだから感心するよ」

 野球場特有の口調が再現され、その気になるのが不思議だ。美由希はほんとうに野球が好きなんだと、みんなが納得して賞賛の声をあげた。

「ニックネームのことは部員だけにしておけよ。口外無用だぞ。高野協が認めるかどうかギリギリのような気がする、お役所だからな。春季大会登録に直前まで登録申請を引き延ばすからな」

 たぶん反響がすごくなるにちがいない。だからこそ校内にも家族にも極秘にしておくべきだと、おれは部員に口封じを命じた。

 部員とおれのユーモアがどこまで通じるのか、通じないのか、またどんな結果を呼び込むことになるのか楽しみだ。他の学校がどんな登録をするのかも楽しみだ。おそらく強豪校はいままで通りだろうと思う。彼らはセミプロ集団、プロ野球や社会人野球を目指す選手たちにとっては自分の名前を早くから売り込んでおくことも夢実現への一里塚なのだろうから。

               *

 三学期が気ぜわしいというのは思いもしないことだった。三年生の就職や進学に気をもむピリピリした様子が生徒だけではなく教員にも漂っている。学校全体が落ち着かないことの別の理由が、教員の異動の季節を控えているからだというのも知った。おれには関係ないなと勝手に決め込んでいたが、よくよく考えてみるとおれがいちばん不安定なんじゃないかと思いはじめた。講師なんて身分は、かすかな風にも転がる枯葉みたいに重みのない存在なのだ。産休などの補欠要員でどこに飛ばされるかもわからない程度の身分なのだということに気づいた。でもまあいいかと思う一方で、野球部のことが気になって仕方がない。春季大会が楽しみだからだ。張り切っている部員を見ていると、なんとかこの学校にいたいと思うのが自分でもおかしなくらいだ。わかりやすい性格をしているな、おれって。

 二月の中頃、生物化学準備室の先輩教師二人の話声が聞こえてきた。興味もなかったが、おれに隠し立てするでもなく話している。

「英語科主任の、自称テッド山口氏がどうやら飛ばされるらしいな」

「私の耳にもそれとなく入っていますよ。やっぱり本当なんですかね、理由は知っていますか?」

「英語のテッド山口と、去年入った英語の女教師のSが、どうやらいい仲らしいんだよ。それがいつの間にか生徒たちの間でも噂になっているらしいじゃないですか」

「いい仲とは聞き捨てならないですね、テッドは妻帯者ですから不倫ということになる。単なる噂なら即転勤とはならないでしょうに」

「それがちょっと違ってて、伏線があるんだよ。体育に木戸ってのがいるだろう。木戸は独身なんだけど、女教師のSに入れ込んでいたが、袖にされてばかりだったらしい。それで逆恨みじゃないけど、根拠があるのかないのかしらんが、木戸が副校長にテッド山口がSと不倫していると吹き込んだらしい。また副校長っていうのがそんな話にすぐ乗るやつだからさ、片方を転勤させたらどうかって校長にお伺いを立てているらしいよ」

 どうやら話の筋としては、不祥事やもめ事には異常に敏感な校長がすぐに反応して、英語主任を出そうとしているという話らしいのだ。

――人のことはどうでもいいから、木戸おまえが出ていけや……、とおれは口を挟みそうになった。こいつは何かといっては職員室の中を引っ掻き回して偉そうにしている。野球部の登録ニックネームのことが木戸の耳にでも入ったら、たちどころに校長に筒抜けになり、部員総意のアイデアは水の泡だろう。なにごとも穏便に、が座右の銘のような校長は、慌てふためいてモミ消しに奔走する。そしておれの部長兼監督を解任するにちがいない。そんときゃそん時で成り行きまかせと、おれは腹を括ればいいことだ。ただ木戸が鬼の首を取ったように満面の笑みを浮かべるだろうと想像できるのが癪の種だ。慌ただしい三学期になりそうだった。

 三月の第一週に執り行われた卒業式で、野球部はクラブ活動の敢闘賞表彰をうけた。全戦全敗の不名誉な記録を破り、夏の大会四回戦進出を評価されての表彰だ。晴れがましく賞状を高々と掲げた前キャプテンの里田は、式後一、二年生部員に胴上げされた。表彰は春季大会を直前に控えた新チームの大きな励みになったことはまちがいない。が一方で賞状を読みあげる校長の声には張りがなく、遠目にも苦渋の表情が張り付いていた。登録期限ギリギリに送った春季大会選手登録名を再考するようにという勧告文書が県高野協から校長のもとに届いていたからだ。式後、おれが校長によばれたのはいうまでもない。校長は卒業式どころではなかったようだ。

「輪田さん、これはマズいよ。すぐ撤回してください」

苦渋を滲ませた校長の予想通りの反応だ。

「どこがマズいですかね?」

 おれらにとっては、ちっともマズくない。議論しても埒があかないだろうことは明々白々だ。部員のことよりも高野協の顔色を窺うことが第一義の校長にとっては、いわずもがなのことだから。登録名入替の期限までしらばっくれることにした。

 校長ではなく木戸がいちゃもんをつけに来たのには驚いた。どうせ校長の意を汲んで「私が輪田に言います」くらいのことは言ったのだろう。校長もどこまで木戸に気を遣えばすむのかと、校長と木戸におれは敵愾心むき出しになった。

「学校の品位、学校の名をけがす」と木戸は言った。

 どこが品位をけがしているのだ、むしろこれほど堂々とニックネーム登録を可能にした県高野協の英断を賞賛こそすれ、通達に従って選手の個人情報を第一に考えた措置を非難される謂れはないわ、と言い返してやった。おれには保身なんて料簡はこれっぽっちもない、どうにでも好きにすればいいと居直ってやった。もう地区予選は目前だ。おれは体を張ってでも我を通す。

 地区予選は指定の学校グラウンドを使って県下四十五会場ではじまった。四校のリーグ戦から上位校が県大会の出場権を得る方式だ。

 会場に到着するとすぐに全員を集めて、

「今日の試合は何が何でも勝て。おまえらは秋の大会の悔しさを晴らしたいんだろう。おれはまた別の意味で絶対に負けられない。試合には登録名なんて何の関係もないことを証明したい。野球は楽しんで勝つ、勝てばさらに楽しくなることを証明するためにも勝つことだ」

 おれは監督になって初めて「勝つんだ」と檄を飛ばした。勝てばわれわれの主張が認められる第一歩になる。

「西本君の彼女が来てますよ」

 バックネット方向に視線を動かしながら、美由希が言った。選手は皆試合前の守備練習でそれぞれの持ち場に散っている。

「彼女の横にいる男はだれなんだろう?」

 ネット裏には対戦相手チームの父兄が揃いのキャップを被って陣取り、西本の彼女と男は奥まった場所で親しげに話し込んでいる様子が見てとれた。わが校の父兄なんてどこにもいない。

「彼女のお兄さんじゃないですか」

 西本の彼女の兄がフリーの雑誌記者をやっていると聞かされた美由希が、ニックネーム登録のことを西本の彼女に話すと、

「西本君、何も言ってなかったわよ。どういうこと? 教えて、おしえて」としつこく聞いてきた。昨日のことである。

「だから西本君は場内アナウンスで呼ばれるとき『ピッチャーあざみ野君』ってアナウンスされるのよ。面白いでしょう」

「それ、うちの兄に言っていい? 一種のスクープ記事になるかもしれないじゃん。画期的なことよ。兄は絶対乗ってくるはずだわ」

 西本の彼女は興奮したようにまくしたてた。

 彼女の兄は芸能ネタやスポーツ不祥事ネタなどを得意にして猟犬ぶりを発揮しているのだという。野球に関しては、昨春の甲子園選抜大会で騒動になったサイン盗み事件のあと、千葉・習志野高校周辺を嗅ぎまわっていたらしい。高校野球には興味津々らしかった。

「あることないこと大袈裟に書き立てる週刊誌というのは、おれは嫌いだが仕方ないな」

 何も咎めだてされるようなことをしたわけじゃない。むしろ県高野協の試みを評価した記事を書いてくれればいいと、おれは試合に集中することにした。

「田園都市高校のシートノックは残り二分です」

 若々しく澄み渡るような場内アナウンスは、相手校の女子マネージャーが務めている。

「次の試合は、美由希、おまえの番だな」

 半分冗談っぽく美由希に話しかけながら、おれはシートノックの様子などそっちのけで、スターティングメンバーの発表を今か今かと待っていた。グラウンドに散っている全員の動きも、心なしか溌溂としている。みんなスターティングメンバーの紹介を心待ちにしている様子が光輝いているように見えるのは、気のせいばかりではない。シートノックが終わると全員が全速力でベンチへ引き揚げてきた。

「楽しみですね」

キャプテンの溝口がほくそ笑むように囁いた。

「おまえ、余裕じゃねえか」

 おれは意識して、そんなこと意に介していないというように低い声で応えた。

「おまたせいたしました。田園都市高校 対 **高校の試合、まもなく開始でございます」

 おれが何も言わないのに、キャプテンの溝口を中心に円陣を組んでいる。いつの間にか自分たちの考えでことを進めるチームに変わってきている。

「まず守ります田園都市高校のピッチャーは西本君」

 アナウンスを聞いて円陣を組んでいた全員が、一斉に顔をあげ、ネット裏のアナウンス室に目を向けると、瞬間冷凍されたレトルト食品のように身じろぎもしなくなった。

 何事もなかったようにアナウンスは続けられた。

「キャッチャー斉藤君、ファースト市川君、……」

 本来ならばスターティングメンバーがそれぞれの守備位置に向かっていなければいけないが、だれも動いていない。

 主審がわれわれベンチの方に駆け寄ってくると

「どうしたんだ、すぐに守備に着きなさい、すぐに」と声を荒げ気味に言った。

「選手名が登録したものと違います!」

 おれは鸚鵡返しに答えた。

 アナウンスは続けられている。

「……レフト大野君、センター紀藤君、ライト溝口君」

 主審がネット裏に走り、振り向きざまに、「何も間違っていない、急ぎ守備位置へ!」と怒鳴った。

 ――どういうことなんだ。

 おれの頭は混乱し、思考停止状態になった。

「もう開始時間が過ぎている。早くしないと棄権試合になりますよ」

主審が迅速な行動を促した。

 頭が真っ白になっているおれを無視するように、キャプテンの溝口が走り出すと、全員が守備に散った。

 おれの耳の奥では「棄権試合」という言葉が渦を巻いていた。同時に登録名を巡るこれまでの経緯ややり取りの記憶が、瞬時のうちに頭の中を交差していく。

 ――最終的にだれの意向で、だれの差し金で、提出した登録の名前がすり替えられているのか。主役の高校球児の傷つけられた心の救済措置はなにもなく無視され、安全地帯にいる大人たちの打算や保身に翻弄されている現状にはなんらの変化もない。県高野協の英断はどこでどんな力が働いて寸断されてしまっているんだ。

 ――なんでこんなことになっているんだ。

「棄権試合」と名前のすり替えを秤にかければ、今日のところは妥協せざるを得ない。

「一回の表、**高校の攻撃は、一番センター高橋君」

 ピッチャーの西本は、何事もなかったように一球目を悠々と投げ込んで試合は始まった。

 おれは試合の進展には興味も関心も湧かず、腕組みをしてベンチの奥にいる。おれの様子を見た人、たとえば相手チームの監督が見れば、ピンチにも動じない堂々としている監督に思えるかもしれない。テレビで見た甲子園の監督のように腕時計を着けた恰好は様になっているかもしれないが、試合が始まってからずっとスターティングメンバーのことばかり考えていた。

――春季大会直前になって、校長が県高野協に登録のニックネームではなく、本名で試合に臨むように場内アナウンスしてくれと言ったかもしれない。

――その裏には、オドオドする校長に木戸が進言したにちがいない。

――いや、ニックネームをおれや学校に知らせず、高野協の一存で却下したのかもしれない。

 この三つしかおれには思い至らなかった。だれが仕組んだことだという疑問と口惜しさが交互に頭の中を駆け巡るばかりで、試合がどうなっているのかに関心が湧いてこなかった。

 察しのいい美由希やベンチの部員たちも、おれが何を考えているかわかっているのか、話しかけようともしない。どだい作戦もサインもないボクシング戦法だから、それでいいとみんな思っているのだ。初めて口にした「絶対勝て!」という訓示を全員が体現しているように、みなが試合に集中していた。

 点差4対0で勝っていると、美由希がスコアブックを差し出した。

 一死三塁で9番バッターの溝口が打席に歩きながらベンチに向かって大きな声を出した。

押上(おしあげ)行きだ」

 溝口が打席に立つと、ベンチの数人が三塁ランナーに向けて「押上行き」と怒鳴った。

おれはぼんやりとして見ていた。

「やったあ!」美由希が甲高い声をあげた。

 溝口がスクイズバントを決めて1点をもぎ取り、5対0としていた。一塁でアウトになったが、溝口が意気揚々とベンチに戻ると「イエィ!」とベンチのメンバーと弾けている。

 試合終了後おれは全員に訊いた。

「いつ、バントの練習をしたんだ?」

「監督がいないときは必ずやってます」

 あきれたと同時に感心した。

「溝口、あの打席でどうしてスクイズだったんだ?」

「あそこは絶対スクイズです。俺がヒットを打つ自信がなかったこともあるけど、あの回までだれ一人バントのそぶりさえ見せていなかったから相手は無警戒。それに西本も投球数が増えて疲れが見えていた。ここで追加点取れれば勝てると思ったからです」

「もうひとつ訊いていいか。<押上行き>って何だ?」

「あれは自分たちで決めた合言葉のサインです。<押上行き>はスクイズやるぞっていうサインです。なあ、みんな」

 全員が、してやったり、という表情をみせてクスクス笑っている。

「そのほかにもいくつか合言葉サインがあります。<運転見合わせ>は打つな、見逃せ、<駆け込み乗車>は盗塁」

「シルバー・シートってのもあるじゃない」

美由希が口を挟んだ。

「なんだ、それ?」

「<シルバー・シート>は監督席、<女性専用車>はマネージャーの席のことです」

 ――こいつら、めちゃくちゃ明るいな。それに野球を楽しみ、勝つためにはどうしたらいいか自分たちで工夫している。勝てなくてもいいけど、勝てるように部員が自主的に工夫する。これこそおれが考えていた楽しむための野球部なのだ。

<押上行き>とか<駆け込み乗車>などと訳のわからないことを言うのを聞いて、審判も相手チームも怪訝な顔をしていたのが可笑しくてしょうがなかったと言い合っては喜んでいた。

 試合は西本をリリーフした二年生ピッチャーが最後に2点取られたが、5対2のスコアで勝った。久しぶりの勝利だった。その後の二試合にも勝って春季大会は県大会まで進む四〇数校の一校となった。

               *

県大会を目前にして、校長とおれは揉めた。

ニックネーム登録がなぜ取り消されたのかを、おれは当然のように校長に質した。校長の言い分は、高野協からの名前変更依頼を、おれが黙殺したことが高野協の意向に反したとして咎められ、校長の判断で通常の氏名にすることを承諾したということだった。おれが悪者になった訳だ。おれは絶対納得できることではなかった。

「登録名のどこが高野協の通達の内容に沿っていないというんですか?」

「高野協が許せる範囲を逸脱しているということです」

「どの部分がそうなんでしょう?」

「高野協では、<Y―西本>とか<T―岡田>とかいうレベルの範疇のことを指しているというんだ」

「そんな具体的な指示など一切ないじゃないですか」

「我が校が出した登録名が、高野協の考えていた範疇を越えているということだと言ってきましたから、もう時間もないことだし木戸さんとも相談して……、私の一存で、ということにしてください」

「そんなの高野協は無責任でしょう、校長はそう思われませんか?」

「高野協の指示に従わなかったら、どんなことになるか考えてみてください」

「そんなこと、自分たちが下した決定事項ではないですか。ほっかむりして学校側、ひいてはわたしを悪者にして事を収めようという卑怯な行為でしょう。生徒たちにどう説明するんですか。生徒たちが納得すると思います? わたしは、彼らは納得なんかしないと思いますよ」

 校長はお上が何よりも怖い安全運転主義者。県高野協は言い逃ればかり、何か事が起きればその場その場の小手先で済まそうとする無責任の集まりだ。個人情報の漏えいやその影響など他人事としか思っていない。根本的な問題解決に正面から立ち向かう気などさらさらないのだ。事なかれ主義とは何かということを高校生に教えてくれる賢い人たちの集団で有難いことこの上ない。大人世界の醜さを教えるいい教材になりましたと、おれは嫌味たっぷりの皮肉を吐きかけたい気分になった。

               *

 令和二年四月。落第留年することなく全部員は二年、三年生になり学校始まって以来の春季県大会出場に野球部は大盛り上がりだ。開催中の甲子園選抜野球にはだれひとり関心を示さない。どこの世界のことかとでもいうように、自分たちの大会に向けて集中している。

 職員室では二、三の教師が県大会出場に触れて声をかけてきた。登録名のことを知ったうえでのことだ。「大胆なことやるね」「校長がビビるのはわかるよ、やりそうなことだね」

フンといった表情の木戸も遠くにいた。おまえのこと嫌いなんだよという態度がありありだ。何より野球部の活躍が気に食わないと顔が言っている。木戸が追い出しにかかった英語科主任が、お茶を手にして寛いでいるのも木戸が不機嫌な理由にちがいない。ザマぁみろという気になった。

 この一年、おれに野球部を押し付け、どうせ何もできやしないと小馬鹿にし、野球部に敵意さえむき出しにしてきた木戸。ニックネーム取り消しも校長の後ろから糸を引いていたことも明らかになった。こいつの鼻を明かすには、県大会で勝ち進むことだと思い定めた新学期の初日に、おれは校長に呼ばれた。

「こんど転勤してきた地歴公民の天野さんに野球部の部長をやってもらおうと思っています。部員のこともあるので輪田さんにはこれまで通り監督はお願いするつもりです」

 ほう、こんどはそうきたかと、おれは皮肉たっぷりな薄笑いを校長に向けてやった。言うことを聞き入れそうにないおれと直接対決を避ける魂胆が見え見えだ。高野協との窓口を高野協に従順な人物にしてしまおうということだ。天野というのは木戸が前任校で昵懇にしていたこともわかった。

「いいお考えですね」

おれは校長へ向けてよりも木戸への皮肉を込めて言ってやった。

 もうそんなことには構ってはいられない、どうでもいいやと投げやりな気分だ。県大会の試合に集中することが部員のためだ。

 県大会一回戦は、初回からヒットにフォアボールを絡めて3点を先取、ボクシング戦法がはまり優位に試合を進めた。ピッチャーの西本をはじめ、どの部員も二年三年になると、見違えるほどひと回りもふた回りも逞しくなり、チームも目に見えて一致団結した雰囲気が溢れていた。冬の間の地道なトレーニングの賜物でもあっただろうが、ニックネーム登録での盛り上がりと、地区予選で勝ち抜いた自信が一気に出た試合となった。

 5対0で勝利、チームとしては初めての完封勝ちだった。西本に勝利インタビュー風に訊いた。

「ニックネームはダメだったけど完封勝ちの気分はどうだ?」

「もう名前なんかどうでもいいです。県大会で勝って最高気持ちいいです」

 側にいた美由希がバックネット裏を目で指し示すと、西本の彼女と彼女の兄が西本に手を振っていた。西本も軽く手をあげた。大人になったなあと、昨夏の西本家の応接間の情景を思い浮かべた。

 入学式が行われた。

 野球部員は全員ユニフォーム姿で、早朝から校門付近で新入生を迎えていた。美由希もユニフォームを着ている。みんなで部員勧誘のチラシを手にして、新入生だけではなく父兄にもチラシを手渡していた。工夫を凝らしたチラシは目立っていた。いつの間にこれだけの準備をしたのかと目を見張る思いだ。キャッチコピーは「楽しむ野球部!」だった。

 丸刈り坊主頭禁止、週三日の練習のほか、今年の目標「横スタでの試合」と書かれ、球場の写真入り、また昨年からのこれまでの戦績が卒業式の敢闘賞の賞状写真とともに記載されていた。ニックネーム登録のことが書かれていればどんな反応があるだろうかと想像して無念さが募った。式後、美由希がおれに近づいてきて、

「チラシ見ました?」と誇らしげに聞いてきた。

「見たよ。すばらしいけど最後の一行はどうかな」

県大会二回戦の観戦を呼びかけていた。

「負けちゃったら逆効果じゃないのか?」

「それは違いますよ。勝ち負けを見せるためじゃなくて、どれだけ野球をエンジョイしているかを見せるためですから。それに負けたっていいんです。おれが入部すれば部に貢献できると考える子がいるかもしれないでしょう」

 読みが深い。おれなんかとうてい美由希にはかなわないなと改めて感じ入った。

 職員室前の廊下で美由希と立ち話をしているところに、通りかかった部長の天野が口を挟んできた。

「入学式の校門であんなことするのはまずいよ」

 年上とはいえ、転勤してきたばかりの人間に高飛車にいわれておれはムッとした。

「だれの許可をとってやったのかはわからないけど、あんなことしたのは野球部だけでしょう」

 これも木戸の差し金にちがいない。

「やってはいけないと校則にでも書いてあります? 生徒たちが自主的にやったことを評価こそすれ非難される筋合いはないと思いますがね」

 おまえこそ校長、木戸の三人で好きにやってろよ、と悪態をついてやろうかと思い、美由希の方を向いて舌を出した。生徒の方に目を向けて仕事しろと言ってやろうかとも思ったが、飲み込んだ。

 二回戦の会場となったグラウンドの周りの木々は若葉が微風にそよぎ、雲もない青空の下、試合は静かな立ち上がりだった。両校のピッチャーが投げる白球が光線のようになって小気味よくキャッチャーミットに吸い込まれていく投手戦になって、回は七回まで進んだ。0対0のままだ。

 八回表、先頭打者にフォアボールを与えてから守備のエラーも絡み、連打を浴びた西本が、ずるずると荷崩れを起こしたように失点を重ね、相手のスコアボードに重石のような3点が入った。九回にはさらに1点追加され、4対0で敗れた。

 相手校は毎年夏の予選ではシード校に名を連ねる強豪校である。試合後の部員たちは、晴れ渡った青空のようにサバサバとした表情だった。

「200校近い参加校の中で、二十数校に残ったというのはたいしたもんだ。一年前は地区予選にも勝てなかったチームだよ」

 簡単な試合後のミーティングで慰めにもならないことを口走ったが、みな納得している。

「これで夏の大会の横スタが見えてきたな」

 夏の大会のシード権獲得には一歩およばなかったが、キャプテンの溝口の、前を向いた一言に全員が頷いているのが頼もしかった。

 それぞれが帰る準備に忙しいとき、西本の彼女の兄がおれのそばに近づいて、話しかけてきた。

「青沼有加の兄の青沼です。少し話できればありがいのですが……」

 名刺を差し出しながら自己紹介した。名刺には次のような記載があった。

  「ジャーナリスト

   週刊スポーツ現代 ライター

           青沼 俊樹」

 西本の彼女は青沼(あおぬま)()()というんだと、どうでもいいことを考えながら名刺を手にした。

「お聞きしたいのは登録名のことなんですよ。できればこんな場ではなく、じっくり聞かせてもらいたいんですが……」

 インタビュー慣れした澱みない話しぶりが、いかにも情報を嗅ぎ分ける記者然としている。

「ニックネームのことですか? それだったら妹さんが概略知っているはずですよ」

 おれは答えながら、一年前の甲子園選抜大会の騒動のことを思い出していた。

 石川・星稜高校と千葉・習志野高校の間に持ち上がったサイン盗み事件と、それを報じた週刊誌が絡んだ顛末のことだ。星稜高校の監督が週刊誌に自分の思いをぶつけるように話したことが高野協の逆鱗に触れ、学校側の自主的な判断で監督に謹慎を申し渡した一連の騒動がさらにマスコミに大きく報じられ、テレビワイドショーの餌食にさえされた事件だった。

 謹慎の理由がサイン盗みのことよりも、高野協の許可なく星稜高校の監督が週刊誌のインタビューに応じたことが大問題に発展したのだった。

 おれには高野協と学校の処置がどうしても納得できない思いが芽生えてきて憤りさえ覚えたの。どんな理由があって週刊誌と直接話してはいけないのか。その理由を知ってもどうにも承服できなかった。

――高野協ではそういう決まりだから。

有無を言わせない権威主義がすべてというのか。おれがここで青沼記者に登録名のことの経緯をしゃべれば高野協の規定に反するということになる。おれが話したことが「週刊スポーツ現代」の記事になれば、一、二か月の謹慎になるだろうか。どうってことはない、むしろ大っぴらになり、高野協の頑なな規約を変えていく格好のきっかけになるではないかと思った。本人の了解なく公表される実名や出身中学の公表の是非が議論の対象となればいいのだ。高野協の権限と一存で公にされる生徒たちの個人情報公開の是非を考えて欲しいのだ。

青沼記者を前にして思いの丈を話してしまいたい衝動にも駆られる。

高野協と一体の大新聞社には記事にする権限が与えられ、上部団体の許可のない週刊誌などの、関係者への直接取材はまかりならぬなんてことがどこの世界にあるというのか。表現の自由を標ぼうする新聞社と一体の組織が、特定の新聞社以外には表現の自由を制限するという矛盾にはどう答えるというのか。おれが誰に何をしゃべろうと、それを週刊誌がどう書こうと自由だろうよ。とにかく疑問だらけだ。謹慎処分を受けることと引き換えに、洗いざらいをぶちまけてもいいかとも思う。おれが処分を受ければ、木戸が鬼の首を取ったようにはしゃぐのは癪の種ではあるが。

 インタビューを受けることに躊躇(ためら)いはなかったが、部員たちに何か影響が及ぶことを考えて、断ることにした。

「妹さんに聞いてもらえば、すこしは詳細がわかるようにはしますよ」と答えた。

「わかりました。私なりに独自の取材をします。掲載に至るかどうかわかりませんが、放っておけない案件にはちがいないですから」

 ゴールデンウィーク中は惰眠を貪り、化粧品会社時代の元同僚に誘われて飲みに行った以外は何もやることもなく、一日中パジャマのままでグータラな生活を送った。

「あんた、彼女くらいいないの? そんな生活してるから最近ぶくぶく肥ってきて」

 母親がチョッカイをだしてくるのはいつもこんなときだ。

「放っといてくれと言ってるだろ」

 確かに最近急に体重が増えて気になっていた。図星言われると気分悪くなるが、野球部員たちは「監督、貫禄がついてきましたね」と気分を害さない言い方をする。

「釣書を持ってくるという知り合いがいるんだけど、どうする?」

「釣書って何だよ?」

「お見合いしないかという誘いの、写真と身上書みたいなものよ」

「おれがか? そんなことする訳ねえだろう。自分がすればいいだろう」

憎まれ口を叩いてやった。

「バカじゃないの、なんで私が見合いするのよ」

 母親というのはなぜ幾つになっても子どものことから離れられないんだろうと、ウンザリだ。

 携帯が鳴った。部長の天野からだ。休み中になんの用事があるというのか首を傾げた。

「天野ですけど、野球部のことで大変なことになっています」

 部員がケガでもしたか、それとも喫煙していることがバレたバカなやつがいて……と思いは部員へ向かった。

「ニックネーム登録から取り消しまでの一連の経緯が来週木曜の週刊誌に載るというので、県高野協も学校も大騒ぎになっています。うちの学校名も出てしまうというので……」

 一オクターブ高い声が早口になったりどもったりしながら、天野が耳に刺さるようにまくしたてた。喉が引きつっているにちがいないと、天野のどんよりした顔を思い浮かべながら、驚くこともなく可笑しくなった。

「そうなんですか」

「そうなんですかじゃないでしょう。大変なことになりますよ」

 県高野協だけではなく日本高野協も総出で記事掲載差し止めに動き回っていて、学校長は釈明に大わらわ、大阪の高野協本部へ出向いたとのことだった。

「大至急学校へ来てください」

天野は命令するように一方的にまくし立てると電話を切った。

 ――仕方ないんじゃないの。こっちには落ち度もないし、いまさらジタバタしても始まらないだろうに。

 学校へ行けば天野が引きつった顔で、誰が週刊誌にタレ込んだのだ、何をしゃべったんだと悲壮感をむき出しに迫ってくるにちがいない、体育科主任の木戸もいることだろうと想像した。

 ふと青沼記者と話ができたらと思いつき、美由希に訊けば青沼記者と連絡がつくかもしれないと思った。なかなか面白いことになりそうだ。

 つながった電話で、「どういうことになりますか? 掲載取り止めにできるんですか?」と青沼記者に訊いた。

「取り止めなんてしませんよ。たとえ総理大臣や最愛の彼女から土下座して頼まれても」

 青沼記者はあっけらかんと言い放った。書いた記事がどう読まれようと、そんなことはどこ吹く風かとでもいうような答えようだ。

「そんなことより別の話をしませんか、輪田先生」

 逞しいというか厚かましいというか、記者魂むき出しに、おれは感心してしまった。

「学校も大騒ぎらしいですから、ゆっくり話している時間もなさそうですが……」

「ご迷惑はかけません。次の記事のことで今週の記事とは何の関係もないですから気楽に」

「少しの時間でしたら。何のことでしょう?」

「ゆっくり話を聞きたいと思っていたことですが、先生は女子部員の選手登録、試合に出られるようにしたいという夢をもっておられるとか。妹に聞きました」

「そのことですか。なんで女子はダメなのか疑問に思っているだけですよ。フンドシひとつの裸でやる相撲じゃないんだから」

 青沼記者は大きな声で笑った。

「この続きは時間があるときにしましょう。ひとつだけいまの騒動のことで言いますと、先生は記事の情報源とは何の関わりもないということだけはしっかり伝えることです。あとは発売日を楽しみにしていてください」

 電話を終えると、仕方ないから学校へ行ってやるかとパジャマを脱ぎ捨てた。

 学校では血の気が引いたような顔色をして天野が待ち構えていた。案の定木戸もいる。

「なんで週刊誌なんかに話したんですか?」

 唇を小刻みに震わせながら前段もなく天野が訊いてきた。

「大ごとになると思わなかったんですか?」

 まるでおれがしゃべったと信じて疑わない木戸は、憎しみのこもった視線を突き刺してきた。

「私は誰にも何も話してはいませんよ」

興味もないといわんばかりに意識して遠くに焦点を合わせながら答えた。

「あなた以外に誰が……?」

 二人は言葉が重なるように返してきた。

「どんな内容で記事になるのか知りませんが、週刊誌がどう書こうと自由なんじゃないですか。ただし私は誰にも一言もしゃべっていないということは、はっきりさせておきます

「学校が、野球部がマスコミの餌食になってもいいというのか」

 木戸が高飛車に顔を紅潮させた。

「どこの週刊誌に出るというんです?」

「『週刊スポーツ現代』だ」

「私も買って読まなくちゃ、ですね」

「ふざけるな!」

木戸がテーブルに拳を打ちつけた。

言っても仕方ないかと思いながら、木戸を無視して天野に向かって続けた。

「おせっかいかもしれませんが、今の時代誰がしゃべったかとかチクったなんて詮索しても意味ないですよ。いろんなSNSを通じて、週刊誌に載る内容は拡散、増殖するじゃないですか。学校の名前どころか天野さんや私の名前なんて実名で堂々と書かれているんじゃないですか」

 おれの言ったことの重大さに初めて気づいたのか、天野は両肩両腕を震わせはじめた。簡単に震えが止まりそうにない。

「記者に何もしゃべっていないのに、天野さんや私があたかもしゃべったように捏造されたコメントが載っているかもしれませんよ。それくらいのウソは、週刊誌は平気で書きますよ」

 週刊誌は発売日にコンビニで手に入れた。

 ――「ネット掲示板に野球とはなんの関係もない、選手とその家族のセンシティブな個人情報を書き立てられ、選手は退部寸前まで追い込まれたことが、事の始まりですよ」(野球部OB Aさん)

発売された週刊誌はこんな」書き出しで始まっていた。

 青沼記者が妹の青沼有加の伝手から聞き出したにちがいないと、おれにはすぐに察しがついた。青沼有加、美由希、里田という流れが想定できるが、卒業してしまった里田が話したとしても、もう野球部には何の関係もなく咎めだてされる筋合いのものでもない。

――「高野協のご都合主義 ――ニックネーム登録もみ消しの顛末」記事のタイトルだ。

一気読みした内容はどこといって事実から外れてはいなかった。

――高野協、学校当局は、どこへ目を向けて一度認可した登録名を覆して実名にしたのか。選手たちの側に立った処置とはとうてい思えない。

 著名なスポーツ評論家は、高野協の事なかれ主義、旧態依然とした権威主義、保身体質に口を極めて批判していた。また別のノンフィクション作家は、「高野協と大マスコミが一体となった、汗と涙の麗しい青春譜」という虚像を打ち壊し、勝利至上主義を謙虚に再考し、高校野球の主役である選手たちの立ち位置からのクラブ活動に目をむけなければならないと説いていた。

 青沼記者の緻密な取材に裏打ちされた四ページに及ぶ、感情を抑えた記事が高校野球界に一石を投じる契機になればと、おれは高校野球に関わる一人として思いは重なる。

 記事の最終項に書かれた内容におれは「なるほど」と納得し、県高野協と学校長や天野部長が慌てふためいた理由がわかった気がした。

「……今回の県高野協がとったニックネーム登録認可が、上部の高野協の逆鱗に触れ、高野協は県高野協の協会からの除名まで検討する事態になっている」の一文だった。

 学校長、県高野協の責任問題と除名まで発展する事態をどうしても阻止しなければならなかったのだ。

『週刊スポーツ現代』が発売になると、わが野球部に思いもしないことが続けざまに起きた。

 美由希たちの部員勧誘チラシをみて入部した新入生は七名だったが、週刊誌の発売で田園都市高校の名前が出ると、十数名の入部希望者が押しかけてきたのだった。おれも部員のだれもが想像もしない出来事だった。

 おれと美由希、キャプテンの溝口の三人が出席しての新入部員説明会を開き、そこで集中した質問は、ニックネーム登録についてのものだった。

「春の大会ではうやむやにされましたが、これからもニックネーム登録申し込みは続けるつもりですか?」

「部員数が田園都市線の駅名より多くなったら、どうするんですか?」

「ニックネーム登録が揉み消された理由はなんだったんですか?」

 おれたち三人は質問に答えるのに、そのたびに顔を突き合わせ喜びの中にも鋭い質問にしばしばタジタジとなった。

 美由希が自分は筆頭マネージャーで駅名ネームの発案者だと名乗り、てきぱきと丁寧に答えていった。

「駅名が足りなくなったら接続乗り入れしている地下鉄半蔵門線や東急大井町線の駅名もいいんじゃないですか。たとえば「表参道」とか「自由が丘」なんてのもありじゃないかな。ただ駅名にこだわっている訳ではありません」

 入部希望者の間にも笑いも含めて歓声があがった。

「田園都市高校野球部の目指すものは野球を楽しむことです。そして試合に勝てばさらに楽しくなる。そのために短い時間に密度の濃い集中した練習をする。勝利至上主義的考えには組しない部活動がわたしたちのモットーです」

 美由希の説明に全員が頷き、十五名が入部を決めた。部員数三十名以上を抱える大所帯となり、これはまるで強豪私立校並みの様相を呈することとなった。

 全国の高校で野球部人口が減少しているらしいが、われわれの考えに共鳴する高校生が増えれば、わが校と同じように部員が増える学校も多くなるかもしれない、そんなことを考えながら、この一年を振り返っていた。

――縁もゆかりもなかった野球によくも一年間も付き合ったもんだ。いつ辞めてもよかったのに、いつの間にか野球部にのめり込み、部員たちが可愛くてしかたなくなってしまっている。大変な変わりようだ。部員がおれを変えたのだ。

 週刊誌記事が高校球界に一大波紋を投げかけることになり、学校の幹部の間では監督であるおれをどう処分するかが討議されていたようだ。

 ゴールデンウィーク明けから学校の電話は鳴りっぱなし、事務方だけではなく授業にも支障をきたすほどに対応に忙殺されていた。ネット掲示板もお祭り状態となり、賛否両論が飛び交っていた。

 事態の収拾に学校幹部が採った方策は、おれの野球部監督解任だった。

「発案の責任者である輪田さんに一旦身を引いてもらうことにしました。後任には部長の天野さんに監督を兼任してもらうことにします」

「学校の総意であれば、私はそれに従うだけです」

 支離滅裂で学校長としての責任を取ろうとしない処置に、おれは質問や反論する気にもなれず、声をだして笑ってしまった。元はといえば県高野協の安易な対応であり、登録時の校長の黙認があったことに端を発している。責任逃れに終始し、事の原因を学校に押し付け、一方学校はお上の意向に背くことなく唯諾々とそれを受け入れる校長の体質の本領発揮の結果が、おれの監督解任なのだ。怒りがこみ上げてきてもよさそうなものなのに、何も変わりはしないという結果が見通せてしまい、諦め感が先に立つ。監督解任で放課後や土日もゆっくり時間も取れそうだし、週刊誌のおかげで名前も売れた。この際彼女でも探すことにするかと埒もないことを考えていた。青沼記者とした軽い約束を果たす雑談をするのもいいなと思った。

 おれの監督解任と天野の部長兼監督を聞かされた部員たちの行動は迅速だった。全野球部員が校長室へ押しかけ、入口の廊下にも溢れるほどの騒動を巻き起こした。おれや職員室にいた数人の教師が校長室へ駆けつけたときには、収拾がつかなくなっていた。

「輪田監督解任の理由を聞かせてください」「だれが決めたのですか?」「校長先生の一存ですか?」「高野協の命令ですか?」

 何人もの部員が声を荒げ、校長に詰め寄っている。校長は恐怖におののいているのか言葉もなく立ち竦んでいる。

「すぐにここから出て行きなさい!」

 天野と木戸が止めにはいるが、どうにもならない。それどころか、

「アンタらには関係ない!」「アンタらが出て行け!」と逆襲を食らっている。

「輪田さん、なんとかしなさい、なんとかしてくれ!」

 天野のおれへの悲鳴に似た呼びかけは、火に油を注ぐ結果になった。

「オマエの監督なんて絶対認めない!」

 もう教師と生徒の関係など無きに等しく、混乱は騒擾に変わっていた。

 おれは数人の部員がスマホをかざして動画や写真を撮っているのを横目にして、

「ここは一旦引き揚げてくれ。おれと校長、天野先生の三人で話し合うから、おれの言うことを聞いてくれ」

 とにかく部員を落ち着かせなければの一念だけだった。おれの顔を立てて部員が退室し、三人の話し合いになった。

「私のことはどうでもいいですが、部員たちに動揺を与えないことを第一に考えて話しましょう。夏の大会予選を前に、落ち着いて野球に取り組めるよう考えてもらえませんか?」

 校長と天野はすぐに返答をせず、ただ途方に暮れて顔を見合わせているだけだ。

「一度決まったことは簡単に変えられません」

 天野が校長の顔色を窺いながら口にした。

「生徒たちは、そんなことは言ってませんよ。監督交代の理由を聞かせてくれと言っているのです」

「そんなことをいちいち説明する必要はない」

 校長は威厳を回復しなければと憮然とした表情で決めつける口調で言った。

「説明する必要はないかもしれませんが、校長も天野先生も、何人かの生徒がスマホで写真を撮っているのを気付いておられましたか?」

 何を言いたいのかと、怪訝そうな顔をおれに投げてきた。何もわかっちゃいないなあと呆れてしまった。

「今日の様子は動画や写真と一緒に、すぐにSNSで広まりますよ。もう広がっているかもしれません。それこそ学校の失態となって、大騒ぎになるでしょう」

 すべての発端の一因がネットの掲示板やSNSによってもたらされたということを、二人ともすっかり忘れているとしか思えない。どんな事態が出来(しゅったい)しようと、自分たちの保身が真っ先に頭を占領する人種には事態を収拾する能力も資格もないんだなと、おれは思い知らされた。

「どうしたらいいんです、どうにかなりませんか、輪田さん」

 野球部員にどう対処、説明するかの本題はどこかに飛んでしまって、自分のことだけしか頭にない校長の怯えたような一言におれは切れてしまった。さっきまでの威厳はどうした。

「自業自得というもんでしょう。ご自分でどうにかしてください」

 おれは自分で口にしながら、あれ? いまのは四文字熟語かと、またどうでもいいことを思いながら、こういうのは「自業自損」というのではと自問した、里田の顔が浮かんでいた。

「お二人が考えておられることは、だいたいわかりました。最寄の港に避難して嵐が通り過ぎるのを待つということですね。部員にそう伝えて、いくら騒いでも無駄だと言っておきます」

「…………」

「余計なおせっかいかもしれませんが、今日のことはネットの掲示板でスレッドでも立てば、学校どころか、お二人のご家族、住まい、車のナンバーまでバレバレになることは覚悟されていたほうがいいですよ。同じ目に遭ったのが西本ですから」

 腹の虫が大暴れで捨て台詞まで吐いて、少し胸が痛んだが言ってしまったのは仕方ない。

 一度決めたことを元に戻すのは学校幹部の沽券に係わり、高野協の手前どうにもならないと考えたのか、おれは野球部の顧問という訳のわからない肩書になった。校長と天野は部員の失笑を買ったが、部員たちは先へ先へと進んでいた。

「監督、いや顧問、なんて呼んでいいのか変な感じだけど。私たちは自分たちで監督を探すことにしました」

 生物・化学準備室にやってきた美由希が意気揚々として言った。

「どういうことだ?」

 どうせまた美由希の発案にちがいないと思いながら、その先を促した。

「セレクションですよ。セレクションで監督を選ぶことにしたんです」

 セレクションなんて聞いたことがない。

「校長室の騒動の動画をだれかがツイッターにあげたら、それがバズっちゃって『爆サイ神奈川県版』にスレッドが立ったんです」

 またわからないことを美由希が口にした。

「バズる? セレクションも『バズる』も何のことを言ってるのかわからないよ」

「バズるって、校長室の動画が拡散して一気に注目を集めたってことです。それを見た人の中で、田園都市高校野球部の監督をしたいって人が何人か名乗り出てきたってことなんです。過を転じて福となすというか怪我の功名というか」

「それで美由希たちは、どうしようって思ってるわけ?」

 野球界でセレクションといえば、全国の大学野球部が翌春大学進学予定の高校球児を対象にした野球部入部勧誘のための技量テストのことらしい。美由希はそれを応用して、田園都市高校野球部監督をしたいという人たちを選手やマネージャーが面接して監督になってもらおうという逆転の発想なのだという。前代未聞のことで、おれはあきれてしまったが、面白そうだと美由希に答えた。おれもそのセレクションに参加するのだそうだ。

「なにせワダッチは顧問だから」

美由希はおどけてウィンクしてみせた。

 選手が監督を決めるという聞いたこともないセレクションは、視聴覚教室で始まった。マイクやスクリーンの設備もある一室を手配するなど、美由希のやることに抜かりはない。

 二十代から五十歳代まで五人もの監督希望者が三十数名の部員と神妙な緊張した面持ちで向かい合っている。

 美由希の挨拶のあと、活発な質疑応答が取り交わされていく。手元のレジュメには希望者への主な質問事項が記載された用紙が全員に配られている。

「高校野球の目的は何か」「何を目指してチーム作りをするのか」「強いチームにするには何がいちばん大切と思うか」「部員の健康管理にはどんな心配りがあるか」十項目ばかりの内容が五人の大人に向かって投げかけられている。部員の用紙には希望者を1から5までの評価で記入していくようになっている。

 五人の監督希望者は、自営業の経営者、果樹園を営む人、造園業の人と、ほとんどが時間の融通が利く人が大半で、高校、大学や中には社会人野球の経験者もいた。

 高校野球の目的と何を目指してチーム作りをするかの質問に対しては、甲子園を目指すという答えが五人に共通していた。

「僕たちは甲子園を目指すと口にしたことはありません。そんな考えの野球部ですが、一緒にやっていけますか?」

 キャプテンの溝口が、部の根幹に関わる質問をした。

 呆気にとられた顔をした人や、乾いた笑いを浮かべた人たちがいた。

「甲子園を目指さない野球部ってあるんですか。聞いたことがありませんね」

 最年長の人が理解しがたいといわんばかりに溝口に鋭く返した。

 いい大学に入り、一流企業を目指すことが当然という昭和から平成へと続く時代の同じような思考回路と価値観。野球界でいえば、エリート選手の社会人野球、超エリートのプロ野球という構造もまた一般社会とまったく同じものだ。これでは高校野球の体質が変わっていくわけがない。高校野球の監督などの指導者が旧態依然の思考から離れない限り、なにも変わらないだろう。おれは暗然とした思いでセレクションの対話を聞いていた。

「甲子園を目指さなくてもいいんです。僕たちは、『野球を楽しむ』をモットーに部活をしているんです」

 溝口の返答に部員全員が頷いている。

「それじゃ夏の大会では何を目的に試合をするんですか?」

溝口の答えは理解に苦しむといった表情で、檀上の一人が訊き返した。

 西本が手を挙げて静かな口調で答えた。 

「最低でも一校、横浜高校や東海大相模のような強豪校に勝つこと、対戦できるそこまで勝ち進むことです」

 西本らしいと、おれは二度三度と肯いた。西本の心にある思いは何なのかわかるような気がした。

 勧誘された高校へ入れば高い確率で甲子園のマウンドを踏めたかもしれない西本にとって、一度はきっぱりと野球を諦めながら、田園都市高校野球部と巡り合ったことに感謝し、自分と同等の技量を持つ強豪校打者と対戦し、一矢を報いることで自分を納得させたいのかもしれない。だから強豪校を必ず倒すと心に決めているのではないだろうか。それが西本にとっての高校野球であり、甲子園なのかもしれないと、おれは柄にもなく熱いものがこみ上げてきそうになった。

副キャプテンが面白い質問を投げかけた。

「点数が拮抗している試合で、ノーアウト、ランナー一、二塁のチャンスのシーンを想像してください。あなたが監督ならば、バッターにどんなサインを出しますか? バッターは9番バッターです」

 檀上の全員が手を挙げた。大学野球まで経験した人が左右の人たちに目配せしながら、「答えるまでもない」と前置きして言った。

「たとえプロ野球の監督でも当然のように、送りバントで走者を進塁させるでしょうね」

 五人が話にもならないといった薄笑いを浮かべ、同調して頷き合っている。答えた人が副キャプテンに問い返した。

「君の考えは違いますか?」

「僕の考えではなくて、バッターがどうしたいのかによります。チームのため、勝利だけを考えればバントをするかもしれません。でも打席に立てば誰もがヒッティング(打つ)を第一に思い浮かべるでしょう。わが校では基本的にバントはしません。打ちにいくと思います。なぜならその判断は打者の一存に任せているからです」

「それではチーム一丸となって勝利を目指すことにならないでしょう」

「それでいいのです。野球をする上での最高の快感はヒットやホームランを打つことです。試合でヒットを打てば、そのときの手の感触は一生記憶に残るのではないでしょうか。たった一本のヒットが宝物になればいいのです」

「チームが負けてもですか?」

「そうです。僕たちが考えることは、勝利至上主義ではないからです」

「…………?」

 もう話にならないと席を立ちそうな素振りをした人もいた。

 年初に今年何をやりたいかを全員に訊いたときのことを、おれはぼんやり思い出していた。誰一人として甲子園と口にした者はなく、ホームランを打ってみたい、横浜スタジアムで試合をしたいだったなあと、ずいぶん時間が経ってしまったような心持ちで副キャプテンの返答に耳を傾けた。みんな同じ思いにちがいない。

 参加してくれた五人に共通しているのは、セミプロ級の集まりの野球部を作り上げることと、甲子園出場を目的とするのが高校野球と信じて疑わず、切羽詰まった表情で練習に打ち込むのが当然と考えていることだ。柔剣道のように礼儀に始まり礼儀に終わる「野球道」という呪縛から逃れられない指導者の考えは、わが校の「楽しむ野球」とは相容れないということがよくわかった数時間だった。

「おれたちは俺たちの道を行く」と信念じみたことを考えながら、あれっ、おれは監督じゃなかったんだと気づいて吹き出しそうになった。

 セレクションなどというずいぶん厚かましい催しをしたが、造園業の若旦那の吉本さんにコーチをお願いすることにしたと、美由希が報告してきた。

 吉本さんは四十歳半ばの社会人野球の経験者でピッチャーだったことから、西本に頼りっきりの投手力をどうしても強化したいという全員の意向だったそうだ。投手と守備を中心に指導をお願いしたいと丁重に頼み込んで快諾を得たと、美由希が満足げだった。

「別の理由もあったんですよ」

 キャプテンの溝口が含み笑いをしながら言ったことに、おれまでつられて笑ってしまった。

「吉本なんて縁起がよさそうだし、下の名前が大介というんで、大吉じゃないかってみんなが言うから」

 こいつら古くさいこと考えるなと思いながらも、どうしても横浜スタジアムで試合をしたいと執念を燃やしている意気込みが伝わってきた。

「大吉さんにお願いして、どこかの神社に必勝祈願に行くことにしました」

「おれは行かないよ、だって野球の発祥地はアメリカなんだから、野球の神様はアメリカに御座(おわ)します、だぜ」とからかってやった。

 数日後に野球部の部室を覗くと、入口正面の壁に神社札が貼り付けてあった。

 グラウンドに足を向けると、熱心に指導している吉本コーチから話を聞くことができた。

「西本は県内五本の指に入るくらいのいいピッチャーでしょうね。私の高校時代に較べても、西本のほうが上だと思いますよ」

「そんなにハイレベルなんですか?」

「攻撃や守備との絡みもありますが、西本の力量からすればベスト十六やベスト八だって夢じゃないですよ。そのための私の役目は、短期間に西本に次ぐ第二、第三のピッチャーを育てることです」

「私がド素人で技術的なことが何もわからずやってきましたからね」

「いや、これだけ明るいチームには私の方が目を覚まされる思いです。高校野球って何だろうと考えさせられています。輪田先生の功績でしょう」

 どこが功績なのかおれにはさっぱりわからない。楽しむ野球のために、すべての部員が自主的にやってきた結果が現在のチームなのだ。

「今年より来年がもっと楽しみなチームかもしれません。監督をやりたくなりました」

 吉本コーチは、

「こんな伸びしろのあるチームに関われるというのは、丹精こめて盆栽を育てるような気分になります」

造園業らしい表現でグラウンドに散っている選手たちに目を細めている。

               *

「みんな、決まったわよ」

 六月中旬、練習のさ中に美由希が甲高く叫ぶと、全員が練習を放り出して美由希の元へ駆け寄ってきた。組み合わせ抽選会に出席していた溝口から連絡が入ったのだ。

 一回戦不戦勝、横浜・保土ヶ谷球場、一回戦勝利チームとの二回戦からに決まった。

「最初から縁起がいいな。神社祈願に行った甲斐があったな」「さすがキャプテン」

 こもごも好きなことを口にしながら大騒ぎをしている。

「監督に報告してこいよ」

おれが口を挟むと、

「関係ねえよ。練習にも顔見せないんだから」
副キャプテンが突き放すように言った。

「天野監督様に『株主優待利用』と誰か報告してこいよ」

誰かが言うと笑い声があがった。天野のことなど誰も意に介していないどころか小馬鹿にしている。株主優待とは不戦勝のことを指す彼らだけの野球に取り入れた言葉遊びらしい。緊張感には縁がなく、すべてを楽しむことに徹底しているのだろう。

 前年と何一つ変わらず、選手の実名、学年、出身中学名が地方紙に掲載された。大会二週間前の紙面だ。チームの中では登録名のことは話題にも上らなかった。もう永遠に変わることのない高野協の組織ということがはっきりしただけで、おれには虚しさだけが残った。

  掲載されたチーム紹介の戦力分析欄には、ダークホース的チームで、エース西本への期待度が高いと記載されている。

  ――〔投〕2年生エース西本(178㌢)は、140㌔前後の切れのある直球を武器にした大型右腕である。スライダーを交えた安定感のある投球術はチームを上位進出に導くほどの力がある。第二、第三の投手の成長にも意を注いでいる。

「記事を読んだか?」

 西本に訊くと、意外な返事だった。

「うちのほんとうの強さは、奔放な攻撃スタイルにあると思いますよ。ボクシング方式が評価されるような試合がしたいです」

 たった一年でこれほど冷静になるまで成長したことに、おれは内心頼もしさを感じることしきりだった。誰が監督かなんてこのチームには無関係なのだ。

 県大会開会式におれは行かなかった。どのみちマネージャーたちが撮ったビデオを見ればいいことだ。帰ってきた部員に聞くと、初めての一年生は横浜スタジアムのグラウンドに感激していたが、二、三年生は「どうってことないですよ、あそこで試合をすることが目的ですから」と身も蓋もない。

「それよりも係員に怒られちゃいましたよ」

キャプテンの溝口がニヤニヤしている。

「何をしでかしたんだ?」

「いやね、ポケットに忍ばせていたボールで芝の跳ね具合や転がり具合を試していたら、そんなことするのはどこの学校だって」

 問題になるようなことはするなと言いたかったが、ふてぶてしいというか明るいというか、なんとも頼もしい連中だと、おれは褒めてやりたくなった。

「四つ勝てばどうせ足を踏み入れる場所ですからね。でもやっぱり迫ってくるようなスタンドは何もかもスゴいですね。圧倒されそうで迫力ありました」

 初戦に数日を残すだけの開会式だった。

               *

 初戦の保土ヶ谷球場一塁側スタンドに足を運んだおれは驚いた。相手校応援団、観客に倍する人が一塁側に陣取っていたからだ。青沼有加と兄の青沼記者が待ってくれていた。

「どうしたんですかね、この人数?」

他人事のように青沼記者に訊いた。

「私の記事やネットの掲示板を見て、興味津々で来ているんですよ。ひょっとするとニックネーム登録のアナウンスがあるんじゃないかと、みんな期待しているんでしょう」

「そんなのある訳ないじゃん。西本君を観に来ているんだよ。ねえそう思わない?」

 有加が兄に同意を求めている。

「注目選手だからな、おまえの彼氏は」

 美由希と吉本コーチがスタンドに姿を見せると同時に場内アナウンスが流れた。

――田園都市高校、シートノックを始めてください。シートノックは七分間です。

 ベンチ前に並んでいた選手たちはグラウンドに駆け出すと奇妙なことに本塁と一塁間、

二塁と三塁間に横並びとなり、三、四十メートルばかりの間隔を取り、思い思いにキャッチ

ボールを始めた。投げるボールもまちまちで、ゴロを投げる者もいれば山なりのボールを放

るやつもいる。まともなキャッチボールをやっているのは二組だけだ。

「何をやり始めたんですか?」

 見たことのない光景におれは吉本コーチに訊いた。

「シートノックは必要ない、いや、したくないと言うんですよ」

「その代わりが好き勝手にキャッチボールというわけですか」

「全員で決めたことなので、思い通りにやればいいと言ったんです。まあ言われてみれば

短い時間のノックなんて意味がないかもしれません。これまで当然と思っていたことが果

たして正しかったのかどうか、考え直すきっかけになるかもしれませんね」

 おれは瞼を開きっ放しにしてキャッチボールに見入った。

 二、三十球もキャッチボールが続いただろうか。さっさとベンチ前に引き揚げると、こん

どはバットをもち出して全員が素振りを始めた。相手チームの選手たちも呆気にとられた

ように身じろぎもせず、キャッチボールと素振りに見入っていた。

――田園都市高校のシートノックは残り二分です。

スタンドから爆笑が沸き起こった。シートノックもしていないのに、という意味だった。

 マニュアル通りのアナウンスを強いられた場内アナウンサーこそいい迷惑だった。

「美由希ならどうする?」横に座る美由希に質問した。

「たぶん、田園都市高校の<練習>は残り二分ですと、言うと思います」

 美由希らしい機転の利かせ方をするのだろう。チームが勝ち進めば、美由希にもアナウンスのお鉢が回ってくるかもしれないのだ。

 奇妙なシートノックタイムが終わった。

 ――お待たせいたしました。本日の第一試合、田園都市高校対☆☆高校のラインナップならびにアンパイアをお知らせいたします。

 先攻の田園都市高校、1番ピッチャー西本君、2番サード折沢君……

「えーっ」

 一塁側三塁側両方のスタンドから、なんともいえないどよめきが起きた。ニックネームでコールされない失望と、ピッチャーが1番バッターという前代未聞の打順に対する驚きが入り混じったどよめきだった。

 湧きあがった驚きの喚声に、おれは名状しがたい快感のような感情が背中を流れるのを感じていた。ピッチャーがトップバッターというのが、誰が考えても理解しがたいからだろうが、これでいいのだ、これがこの一年間やってきたチームの答え、正解なのだと、おれは自分に言い聞かせていた。チームの中で図抜けた長打力をもつのは西本なのだから。ヒットを打つ確率の高い順に打順を組む、それが田園都市高校の方式なのだから。

 試合開始から数分もしないうちに、先頭バッターの西本が右中間を切り裂くようなライナーの三塁打を放った。

青沼有加が跳びはねて喜びを全身に漲らせている。有加にとっては試合に勝とうが負けようがどっちでもいい、西本の活躍しか眼中にないようだった。

 田園都市高校は一気に勢いに乗り、相手エラーやフォアボールを交えて一回表に一挙に5点を先取した。

 一回裏の守りでは、西本が打者三人を斬って取った。西本の調子はよさそうだ。

「今日はうちの勝ちでしょう」

 吉本コーチが、選挙の開票率数パーセントで当選確実のフラッグを立てるような余裕をみせた。両チームの攻守を一回見れば、専門家には試合が見通せるのだろう。

 西本が相手打線を0点に抑える一方で、田園都市高校は得点を重ね9点をもぎ取り、七回コールドゲームの完封で初戦をものにした。こんなゲームはおれが監督になってからも初めての経験だった。

               *

「野球というのはボクシングと共通点が多いような気がします」

 おれと青沼記者は勝利した日の夕刻、田園都市線の駅に直結している、たまプラーザテラスにある中華料理店に足を運んだ。初めてのことだ。

「どんなところが似ていますか?」青沼記者は興味深げだ。

「一回表から5点先行でしたでしょう。あれはボクシングでいえば第一ラウンドにストレートパンチでダウンを奪ったようなものです。相手はその一発で委縮し、こっちは勢いづきますよ。去年私が部員に言ったのは、うちの野球部は倒すか倒されるかのボクシング式でいくということだったんです」

 勝てば口も滑らかになるのか、無意識のうちに自分ばかりがしゃべっていた。雑誌記者という人間は聞き上手だ、だから書けるんだと感心していた。また話題の切替もうまい。

「今日有加に教えられたことがあるんです」

 妹をきっかけにするなんて上手いもんだと思う。

「『西本君はいつも、俺7という数字が好きだと言っているのに、背番号はどうして7じゃなくて1なの?』って試合中に訊くんですよ。決まりだからって言うと、『誰が決めたの?』って」

 高校野球音痴の有加にとっては素朴な疑問なのだろう。

「スニーカーだって形や色にうるさいのに、野球のときはみんな同じ黒い靴。これもきまりなの?」

「うるさい。そんなことどうでもいいから応援しろって言ってやりましたよ」

「西本のことしか興味ないんだね。でも言われてみれば面白い話ですね」

「そうなんです。どうしてピッチャーの背番号は1で、キャッチャーは2でなくちゃいけないのか、好きな番号を選んでもよさそうに思えるんですよね」

「そういう決まりだからっていうのは、何の答えにもなっていませんね」

 アルコールが入るにしたがい、青沼記者とおれの酒飲み話はさらに盛り上がる。

「高野協の周辺やいくつかの学校を取材していて気付いたんですが、有加の疑問に共通する根っこには、高野協の傲りみたいなものがあるような気がするんです」

「傲り? どういうことですか」

「はき違え、思い込みと言ってもいいかもしれません。自分たちは教育の一翼を担っている、教育の一機関であるという思い違いです。高野協は教育機関じゃないですよ」

 言われてみれば思い当たる節がいくらでもある。試合前と試合終了時にホームベースを挟んで両チームが整列し挨拶を交わす儀式もそうだ。大学野球部の臨時コーチや、セレクションの場で聞いた礼儀に始まり礼儀に終わるという「野球道」という考えなどまさしくそうだ。なんでもかんでも自由がいいとはとは決して思わないが、根拠が曖昧ではっきりした理由もなく決められた規則に疑問を挟む価値はありそうだ。

「いまどき流行りの言葉で言えば、高野協の<上から目線>と、各学校の高野協への<忖度の賜物の結果が、、旧態依然とした勝利至上主義、甲子園至上主義かもしれませんね」

「女子選手排斥なんて何の根拠もないような気がしますよ」

キャッチボールするときの美由希の躍動する姿を思い出す。

「時代は時々刻々変わっていますからね。輪田先生のエンジョイ ベースボールというのには一理も二理もありますよ。そのための新しい組織というのはどうです? 例えば《楽しむ高校野球連盟>略して<たの高野連>というのは」

 ――エンジョイ ベースボールを標榜する高校野球チームだけの全国大会、いいじゃないか。

 青沼記者とおれは時間を忘れて盛り上がっていた。

               *

 監督不在同然の田園都市高校は二戦三戦と勝ち進み、破竹の勢いで四回戦を迎えた。この試合に勝てば待望の横浜スタジアムだ。応援席には全校生徒と思えるほどの大人数が駆けつけていた。校長も来た。校長の腰巾着のように木戸が顔を見せていたのはお笑い種だ。

 部員の父兄たちの中にいた西本の両親が挨拶に来た。

「勇希が高校に入ってから初めてですよ」

 父親がニコニコしているのがその後の西本家を物語っていた。

「あれが微笑ましくて笑えますね」

 応援席最上段に掲げられた横断幕を指さしながら母親が言った。

『ボーっと試合するんじゃねーよ』

 選手の緊張をほぐそうという心配りの文言は、たのしむ野球の面目躍如だなと思うと同時に、おれはこの一年余りで四文字熟語が次から次へと頭に浮かぶようになっていた。少しは真剣に本を読むようになった成果だろう。

 試合は三回表裏まで淡々と進み0対0のままだが、相手校は一筋縄ではいかない第二シードの強豪校だ。田園都市高校のヒットはわずか一本だけだが、おれにとっては嬉しい一本だ。8番ライトのキャプテン溝口が放った二塁打だった。溝口が公式戦で打った初めての長打に、溝口の胸中を思って、おれはもうそれだけで充分だというくらいに満たされた思いを味わっていた。美由希と二人で引っ張ってきたチームで、チームのことだけに精魂傾けてきた溝口が、個人的には心中密かに自分も一度くらいいいところを見せたいと思っていたに違いない。これで自分のことは充分だ、あとはただチームの勝利のためにとしか考えていないだろう。それを思うとおれは鼻の奥にツンとくるものがある。

 七回裏均衡が破れた。ストライクがはいらなくなった西本は、二人続けてフォアボールのランナーを出し、相手の4番バッターにヒットを打たれ1点を失ったあとどうにか一人を討ち取ったが、さらに外野への犠牲フライで1点を追加された。

 2点のビハインドで迎えた八回裏の守備から西本に代わって二番手投手がマウンドに上がった。

 マウンドへ向かおうとする西本を溝口が押しとどめ、一方的にピッチャー交代を審判に告げていた。西本の疲労が極限に近いことを見抜いての溝口の判断だった。

 ピッチャー交代の場内アナウンスが流れると応援席から悲鳴のような溜息が広がった。誰もが田園都市高校が限りなく西本のワンマンチームだとわかっているのだ。それでもキャプテンとしての溝口は交代を強行した。

 これまでの三試合のほとんどを一人で投げ抜き、前日からの連投になっている西本を、溝口はベンチの中で説得し続けたに違いない。それでもまだ投げようとする西本。西本のブロンズ像のようにコチコチに凝り固まっている右腕の筋肉に触れて、これ以上西本に頼るわけにはいかないと判断した溝口。二人の間には激しい押し問答があったことは容易に想像できた。

「この夏が最後になる三年生にはどうしても横浜スタジアムで試合をさせます」と言明していた西本がいたのを、おれは知っている。

「八、九回の攻撃で打ち返して逆転すればいいじゃないか。バッターとしてそれだけの力がおまえにはある」そう言って溝口は西本を説き伏せたにちがいなかった。

「ここまでやったんだからもういいだろう、西本」そう溝口は口に出かかったことだろう。

 リリーフした二人のピッチャーがそれぞれ1点ずつを取られ、田園都市高校の二〇二〇年の夏は終わった。

 試合後のミーティングで涙を流し、タオルで顔を覆っているのは二年生と一年生たちだった。美由希たち女子マネージャー三人は嗚咽を洩らしていた。

 三年生部員は誰一人として泣いていないどころか、日に焼けた皮膚が光沢さえ放つように輝いて見えた。逆じゃないか。

 溝口キャプテンを中心にした三年生と一、二年生が相対した形になると、溝口が姿勢を正して話し始めた。

「みんなありがとう。俺はキャプテンとして、それから三年生全員の代表としてみんなに心からありがとうと言いたい。こんな楽しい野球、充実した高校野球を過ごさせてもらった田園都市高校野球部には感謝の気持ちしかない。一年前までボロボロだったチームが、ここまでこれたなんて夢のようだ。野球部のOBの人たちには悪いが、今年のチームが田園都市高校野球部のこれからの基礎を作ったという自負の念でいっぱいだ」

 三、四秒言葉が途切れた溝口が俯き、そこから帽子を目深に被って空を仰ぎ、やっと正面に顔を戻すと、両目から涙を垂らしていた。流れるものを拭うこともせずに言葉を継いだ。

「これは……この涙は、うれし涙のほかの何ものでもない。それから最後に一つだけ言いたい」

 溝口はおれに視線をむけて二、三歩近づくようにして言った。

「輪田顧問がいたからこそ。なあ、そうだろう、みんな」

 ――バカヤロウ、おれのことなんか口にするんじゃない、おれまで泣かせるつもりか。

               *

 一学期終業式の日に、おれは校長室に呼ばれた。

「県教育委員会から連絡ありましてね……」

威厳めかして校長が切り出した。

「…………?」

「あなたに九月から県西地域の学校へ異動してほしいというんですよ」

「どこの学校ですか?」

「いや、玉突き人事みたいで、今月中には赴任先をはっきりさせると言ってます」

「家からちょっと遠そうですね。でも県の人事ですから従うしかないですね」

「化学担当の先生が長期入院するらしいんです。それで輪田先生のお力をということです。あなたもまだお若いし、行く行くは正規の教員でしょうから、将来の輪田先生のためにもいろいろ経験を積まれるのはいいことだと私も賛成した次第です」

 むう、これは何かあるなと勘ぐりたくなった。おれのひねくれ根性が頭をもたげてきた。校長の言っていることを翻訳するとこういうことだろうよ。

――私と木戸さんが画策、県教育委員会に申し入れをした。いい塩梅に山ん中の学校で化学担当教師を欲しがっている。若造の講師のくせに野球部の活躍で図に乗っている。監督の天野さんも輪田がいるとやりにくくて仕方がないと言っていることだし、区切りのいい今学期までで追い出してしまおう。こんなことだろう。

               *

 各地の県予選もほぼ終わり代表校が出揃ったころ、青沼記者とおれは、あざみ野駅モール街エトモの炭焼き専門店に出向いた。

「聞きましたよ、学校変わるんですってね。四月の年度初めならわかりますけど、途中の学期からでしょう。これは何かあるなと思いまして……。野球部が絡んでいるのはまちがいありませんね」

「おそらくそうでしょう。野球部は夏が終われば新チームになり年度替わりみたいなもんで一区切りですから」

「高野協と学校が仕組んだものですよ。ニックネーム登録と、私が書いた記事騒ぎへの報復でしょう」

「県の高野協も上部の高野協から除名一歩手前でしたから、おれと青沼さんへは腹に据えかねていますからね」

「あの記事以来、小さなコラム風の記事ですが高野協の周辺を素材に書き続けていますから、彼らにとっては戦々恐々なんでしょう」

「おれみたいな野球のド素人を追い出したところでどうってことないでしょうに。顧問なんていう訳のわからない肩書を外せば、野球部となんの関係もなくなるっていうのに」

「いや、それは違います。言わずもがなでしょうが、部員たちがもう輪田先生の異動反対と天野監督リコール運動の準備を進めているみたいですよ」

 初耳だったが彼らならそんなことくらいやり兼ねないだろう。

「校長は知っているんですか?」

「知らないと思いますよ。私が得ている情報では、世界的規模でリコール運動をやると息巻いているようです」

「世界的規模とはまた大袈裟な。それってどういうことですか?」

「いま東京オリンピック真っ最中で、野球、ソフトボール会場が横浜スタジアムですから、浜スタ近辺でリコールの署名運動をやろうとしています。これまた私が書いたら大騒ぎ請け合いでしょう」

「青沼さん、それを書くのは待ってくれ。野球部と学校の報復合戦、泥仕合になって双方傷つくだけになる。部員に余計な負担かけるのはよくない」

「田園都市高校のことだけを書くわけじゃなく、高校野球界全体をテーマにしていく一つのピースにすぎませんから、こんなこともあり得るという風には書くかもしれません」

 おれたちは食べる物をオーダーするのも忘れて大ジョッキーを飲み干していた。

 話が途切れたときにおれの携帯に電話がきた。化粧品会社の元先輩からだ。

「ええっ……、まるで私の異動をご存じのようなタイミングですね。……私、いつの間にそんな有名人になっちゃてるんですか、笑えますね。まあ夏休みですから時間はいつでも取れますが。……はあ、わかりました。伺います」

 青沼記者が電話の遣り取りにジッと聞き入っている。

「誰からですか?」

「前職の会社の元上司なんですけどね。青沼さんが書いた記事とその後のいくつかのコラムを読んだ会社のトップが、おれの話を聞きたいと言ってるというんです。ニックネーム登録のことや、女子野球部員という記事にトップが興味津々だそうで。トップというのは誰だか青沼さんは知ってるでしょう?」

「フランスの本社から来ているCEOで日本法人の代表でしょう。いろんな業種の会社を買収、立て直しで大きく業容を拡大させた人ですよね。経済界では注目を集めている人です」

「そう、シャルル・ゾーンって人です」

「高校野球の記事なんて興味を持ちそうには思えませんが、さすがいろんなところへ目配りしているんですね。高校野球の注目度に何かを感じるものがあるのでしょう。もっと書きたい意欲が湧いてきましたよ」

「元上司が言うには、女子野球部員というのに特に関心を示しているようですよ」

「それは面白いですね。シャルル・ゾーン氏を取材したくなりました」

 青沼記者の目指しているものは、高野協の規約や規則の曖昧な根拠を問い質す記事だったり、矛盾を指摘し、単純で最もわかり易い有加の疑問に答えられるような見解を聞き出すことなどだという。シャルル・ゾーンに高野協をどう見ているか聞きたいと言い出した。

「高野協の周辺を取材していると、なんとも捉えどころがなく責任の所在がはっきりしない組織なんですよ、伏魔殿というのか」

「おれが行くときに一緒に行きます?」

 一週間後、おれと青沼記者は新宿の高層ビル街の一室にいた。以前在籍した会社とはいえ社長室に入ったのは初めてのことだ。英語だかフランス語だかの通訳は聡明そうな女性秘書だった。青沼記者はおれの友人で記事の執筆をしていると紹介した。

あまりにも深々としたソファに落ち着かず居心地の悪いおれをしり目に、青沼記者は「すばらしい眺めですね」などと物怖じした様子もない。相手がだれであろうと気後れすることがないのだろう。

「私が最も関心があるのは、女子野球部員というあなたたちの考えです」

前置きもなくすぐに核心から始まった。

「高野協はいろいろな問題や課題を抱えていますが、女子部員の試合参加なんて協会では毛頭考えてはいません」

 シャルル・ゾーン氏は、それは何故ですかなどと質問もしない。

「ではどうしたらいいとあなたたちは思いますか?」

 どう答えるべきか思いめぐらせていると、

「現状のままではできそうにないが、将来なら可能と思えることを聞きたい」

 さらに意味ありげな言い方をした。

「時代は追っかけてはだめだ。創らなければ」

 ゾーン氏は間合いも置かせないように、問い詰めて聞いてくる。

 青沼記者と顔を見合わせていたが、おれは半分やけくそのように居直って応えた。

「別組織を創ることでしょうか」

「《たの高野連》ですよ」わきから青沼記者が囁いた。

「《楽しむ高校野球連盟》を立ち上げることです」

具体的な内容などすぐに出てくるものではないのに、堂々と答えてやった。

「すぐに行動できますか?」

「できません。空想しているだけです」

「やればいいでしょう。財源は私たちで考えます。私たちの商品は女性を主なターゲットにしたものです。女性が活躍する場を提供するのは私たちがしなければいけない社会貢献です。何の制約も設けるつもりはありません。早速考えてみる価値があります」

 いかにも凄腕の経営者らしく。ズバリとした物言いだ。

「私たちがやるのですか?」

青沼記者が素っ頓狂な声をあげた。

「だれがやるのです? 思いついた人がやればいいのです。楽しむ高校野球全国大会を始めればいいのです」

 呆気にとられているおれと青沼記者をしり目にゾーン氏は「早い機会にまた会いましょう」と言った。

「それから」と言っておれに向かって思い出したように言い足した。

「輪田さん、あなたにはわが社に戻って来てほしい。ニックネーム登録の発想が実にいい。わが社でその発想を生かしてみませんか。商品のネーミングなどのセクションでどうです。考えてみて返事ください。待っています、それがあなたのこれからの仕事です」

 それだけ言うともう席を立ちかけている。予定の時間を三十分は超過していた。

 スケールが大き過ぎて雲をつかむようなゾーン氏の提案に、糸口もみつからない。会社を辞して新宿駅までの間、青沼記者との会話も途切れがちだった。

 深く考えることが苦手で、まあいいかとそのときの気分で何事も決めてきたのに、今度ばかりは変に深刻になっている。人間はどうやら根詰めて考えれば考えるほど決断がつかないものらしい。答えを求めてもいないのに、青沼記者に訊いてしまった。

「青沼さん、さっきの話どう思います?」

「思い悩むことじゃないでしょ、当然やるんですよ。私もこの話に乗ります」

「何からやるんですか?」

「そんなのやるって決めてからどうするか考えればいいことですよ。山ん中で教員やって何が面白いんです? 二十代だからこそ新しいものにチャレンジですよ」

「二十代、チャレンジ」喉の奥のほうで呟いた。

 帰りの電車の中で目を瞑っていると、いろいろな人の顔が浮かんできた。乗り換え駅を乗り過ごすほど、次から次へとこの一年余りで出会った人たちの顔を思い浮かべた。

……里田、美由希、西本、溝口らの全部員、吉本コーチ、町田市の私立校の監督や溌溂としていた野球部員たち、誰もが背中を押してくれているような思いが胸をよぎっていく。いつの間にか近い将来「楽しむ高校野球連盟」の立ち上げや運営に携わってくれるメンバーのことを空想していた。

 十日後を目安に、「楽しむ高野連」のラフな草案を持ってくるようにゾーンCEOに言われていた青沼記者とおれは、二日とあけず会って話し込んだ。

 女子選手登録から始まって、青沼由加の疑問をすべて叶える案までは箇条書き風に作れたが、草案というにはあまりにも貧弱で、ゾーンCEOを納得させられるとはとうてい思えなかった。雑談、思い付きレベルではどうしようもないことがわかっただけで、ヤケクソ気味に新宿へ持参した。

 草案を一読したゾーン氏は、一言のもとに両手を広げて首を左右にした。

「私の思いの一端を言いますから、何度でも案を練り直してください」

 通訳を介してではあるが、相当に厳しい指摘だ。

「発想、草案の原点は、日本高校野球協会のほとんどを否定するようなことから始めなければなりません。大胆な発想が必要です」

「ヒントになる具体的なことはどんなことでしょうか?」

 青沼記者は物おじすることなく質問をした。

「私もあなたたちに丸投げするつもりはありませんから、いくつか考えました」

 ゾーンCEOは表情を崩して嬉しそうに続けた。

「まず甲子園という考えを離れること、高校野球は甲子園という概念をくつがえすこと。協会と一体となっている新聞社など既得権を持っているマスコミを否定して考えることなどですかね」

 一流の経営者ともなると、考えていることも枝葉末節なことではないということがよくわかる。ゾーンCEOはさらに続けて自説を口にした。

「学校とは何の関係もない競技団体が主催者ということはあり得ません。ヨーロッパでもアメリカでも、地域ごとの学校自体が主催者の核をなしています。日本の高野協は、そもそも特定の大新聞社のコマーシャリズムがすべての根幹になった組織です」

「ゾーンさんの言っていることは具体的なようでいて、わたしにはいまひとつ抽象的でわかりにくかったのですが、青沼さんはどう思いました?」

 新宿の高層ビルを辞したあと、青沼記者とおれは駅に近いコーヒーショップで話し込んだ。

「わたしはとても具体的だと思いましたよ。甲子園を離れろというのは、たとえば神宮球場や東京ドームでやることを考えろということですし」

「そう簡単に東京ドームでやれるとは思いませんが」

「それは発想の転換で、天候に左右されない東京ドームと西武のメットライフドームの二か所で同時開催とかだって考えられるじゃないか、ということでしょう」

「マスコミ云々というのは、どういうことなんですかね?」

「あの公共放送を謳っているテレビ局を民放局に変えて、わずかでも放映権料を取ればいいということでしょう」

 青沼記者はマスコミの人間だけあって、ゾーンさんにすぐ反応している。

「新聞社というのはどうなんです?」

「いまの一社独占の主催をやめて、全国のブロック紙や各県にある地方紙の協賛のもとにしてしまった方がよっぽど全国的に盛り上がるんじゃないかくらいのことを考えているのでしょう。世界のニュースを共同配信しているやり方にしてしまえば、どこの地方紙も納得だと言いたいんじゃないですかね」

 おれは「どういうこと、どういうこと」と青沼記者を質問責めにしていることに、我ながら苦が笑いしてしまった。

「われわれが早急にやらなきゃいけないことは、人材の確保だと思います。まずアマチュア野球界に精通した、ゼネラルマネージャー的な人材ですよ。わたしにはそれとなく心当たりがあります。スポーツ新聞の副編集長をやっている人ですけどね。彼は高野協に批判的だし、アマチュア野球界の人脈がハンパじゃないですから。それとヨーロッパやアメリカのクラブ活動の実態を調べる必要がありますね」

「それはいいですね。その人のことは青沼さんに任せるとして、私は?」

「輪田さんは高校野球の現場にいる高校生や卒業したばっかりの球児たちが考える〈楽しむ野球〉とは具体的にどんなことなのかを徹底的に聞き出すことじゃないかな」

 最初に思い浮かんだ顔は美由希と里田だった。

 ゾーンCEOと青沼記者の考えを聞いて、心が躍りワクワクしてきた。軽率といわれようとどうしようと、おれは教員を辞めることを即決した。

 学校は夏休みだがさっそく校長に辞表を出した。校長の反応は予想した通りで、新学期からの異動におれが反発して辞めると言い出したと思ったのは見え見えだった。校長がどう解釈しようと、もちろん後悔もしなければ興味もなかった。

「それじゃ」と言って校長室を退出しようとすると、

「ちょっと待ちなさい。辞める理由も言わず唐突に辞表はないでしょう」

 教育委員会にどう説明したものかと、またしても自分の保身のことしか考えていないのが顔に表れている。

「理由は何なんですか?」

「理由なんかありません。辞めると決めたから辞めるだけです」

「子どもじゃないんだから、そんなわけないでしょう」

「ガキみたいなもんです。辞めたくなったから辞める、それが理由です。教育委員会には、校長先生からもっともらしい理由をつけて、好きなように言っといてください」

 口にしながらもう校長のことなど考えもしなかったが、母親の顔がちらついた。

母親に転職を告げるときの反応が繰り返し見た動画のように想像できる。

「また辞めるの、あきれてものも言えないわ。軽率」

 またまた苦笑を漏らしそうになった。

 辞表を出したことを告げるために青沼記者に電話を入れた。

「おお、グッドタイミング。私も輪田さんに電話しようと思っていたところでした。面白い映画のDVDを手に入れたから是非観てもらおうと。すぐにでも会いたいです。例の副編集長が貸してくれましてね」

 渡されたDVDの内容はすぐに推察できる分かりやすいタイトルの台湾映画だった。

「KANO1931海の向こうの甲子園」は、二〇一四年制作というからごく最近の作品だ。

 一九三一年、当時日本の統治下にあった台湾の嘉義農林学校は初めての甲子園、第十七回全国中等学校優勝野球大会に台湾代表として出場した。台湾人、日本人で構成され、日本人監督近藤兵太郎に率いられた嘉義農林は、エースピッチャー呉明捷を擁して、破竹の勢いで決勝戦まで駒を進め、惜しくも決勝戦では中京商業学校に敗れはしたが準優勝の栄誉に浴した。ユニフォームの胸に躍っている「KANO」は「嘉農」である。甲子園に「嘉農」旋風を巻き起こし、ラジオの実況放送にかじりついていた台湾中の人々を熱狂の渦に巻き込んだ感動の実話ストーリーだった。

 DVDを観終わった翌日、スポーツ紙の副編集長がおれに会いたいと言っているから、渋谷まで来てくれと青沼記者から連絡をもらった。

 渋谷東口の明治通りから入った路地の「羽當」という、いまどきあまり見かけなくなったクラシックな装いの落ち着いたコーヒー専門店だった。

 初対面の挨拶もそこそこに、話はすぐに本題から始まった。

「青沼君に話を聞いたときに、この話乗ったと間を置かずに思ったんですよ」

 副編集長は自信に満ちた面構えをしたいかにも頭の切れそうな人だ。四十歳半ばだろうか。おれにはこれまで無縁だったマスコミの世界に身をおいてきた人らしい尊大そうな話ぶりが鼻についたが、それくらいの人の方が新しい仕組みを作り上げていくには適任なんだろうと頼もしく思えた。

「DVDの感想を聞かせてもらえませんか」

 日頃、本もあまり読まないし、映画なんてめったに観ないおれは、感想というのが苦手なのだが、と思いながら、なぜこの映画を勧められたのかの疑問から口にした。

「なぜこの映画がわれわれの<楽しむ高校野球>と関係するのだろうかと、すぐにはわかりませんでした」率直に思ったとおりに答えた。

「一気に昭和初期の話ですからね。急には結びつかないのももっともです」

「汗と涙の感動物語というのが甲子園の定番ですから、それを改めて輪田さんと私に勧められたのはなんだろうと、私も考えているうちに……」

 青沼記者はおれに同意を求めるように視線を投げてきた。

「間違っていなければ、副編集長の意図されるところは……何も日本の学校だけで大会を開かなければいけないという理由はないじゃないか、そういう風にメッセージを受け取りました」

「おっしゃる通り」

 自信に溢れた副編集長の顔はいまにも一気呵成に思いの丈をまくしたてたいといっていた。

「ゾーンさんや輪田さん、青沼君が考えておられることは、現在の高校野球界にケンカを売ろうとしているんですから枝葉末節なことを考えたところで面白くもなんともないということですよ。だから大胆に構想を変えなくてはなりません」

「具体的には台湾や韓国、中国も巻き込んだアジアの高校野球大会ということでしょう」

「そうです。コンセプトは伸び伸びした<楽しむ高校野球><アジアから世界に広がる高校野球>です。サッカーやラグビーに比べて、野球は世界的に見ればマイナーなスポーツです。それを日本が発信源となって世界選手権大会にするための礎としての野球へ、というのが私の構想です」

「夢はどこまでも広がりますね。映画「KANO」を観て、もう一つ触発されたことがあるんですよ。とても印象深くて……」

 青沼記者は嘉義農林チームが日本人、台湾人、現地人のアミ族の人など混成チームだったことを話題にすると、副編集長が即座に反応して言ったことに、おれは自分の想像力の欠如を思い知らされた。

「ニックネーム登録を拒否されたことが発端になって今回の<楽しむ高校野球>という発想が出てきたわけでしょう。韓国や台湾のチームが参画し、外国人の名前があふれていれば、在日韓国朝鮮人の子たちが本名で登録出場しても、なにも取り立てて注目されるようなこともなくなるでしょう。どんな名前だろうと、野球を楽しむことに登録名なんて何の意味もないことがわかるはずですよ」

 日本のチームに韓国人の名前が入っていようと韓国のチームに日本人の名前が混じっていようとたしかに違和感はないはずだ。おれは西本勇希の晴れ晴れとした雄姿を想像しながら、副編集長に相づちを打っていた。

「三人の思いが確認できたところで、野球にはあまり関係ないのでしょうが……」

 副編集長が、飲みさしのコーヒーカップを手にしながら言った。

「この喫茶店は私のひいきの店で、今日ここにしたのには私なりの思いがありましてね。いまどきこんなスタイルの昭和の時代を彷彿とさせる喫茶店を見かけなくなりましたでしょう。でもいいものは必ず残るはずです」

 何を言おうとしているのかと思いながら、おれは副編集長の続きに耳を傾けた。

「なんでもかんでも変えてしまってはいけないと私は思っているのです。高校野球の世界もしかりです。現状の高野協の良いところは積極的に取り入れて、新しいものを作っていくのも大切だと思っています。それが今日この「羽當」にした理由なんですよ」

               *

 ~~~東京ドームのネット裏にシャルル・ゾーンCEO、副編集長、青沼記者と並んで開会式を待っている。バックスクリーンの大画面には「第一回 楽しむ高校野球全国大会」が大写しに表示されている。

「ただいま愛子内親王殿下がご到着になられました。皆様ご起立をお願いいたします」

 振り返った貴賓室から軽く手をかざされた愛子内親王のお姿が見えた。

 お忍びで学習院高等部の試合の応援に行かれたと聞いたことがある。野球がお好きなのだろう。

「各国国歌の演奏です。ご起立の上、バックスクリーンにご注目ください」

 韓国代表が先頭、次に台湾の代表校と続いた。遠来のチームに敬意を表しての順序だ。

~~~選手の入場行進に情景が変わり、DA PUMPの曲「USA」が場内を満たした。

 どのチームも思い思いの歩き方で足並みも揃わず列にもなっていない。足元のスパイクはチームごとに同じものではあるが、白もあれば黒、赤いシューズまでまちまちな色だ。

 出場校の5番目に田園都市高校の名前が告げられた。ユニフォームの上着は薄い水色、下は白、両サイドには上着と同じ色の二本のラインがほどこされている。

 一塁側のスタンドにさしかかると、何人もの選手が応援席に手を振っている。スマホをあちこちに向けて写真や動画を撮っている不届きなやつもいる。「USA」に合わせサビの部分では振付を真似て踊っているやつらまでいる。まるでオリンピック入場行進の陽気なカリビアン選手団もどきだ。

 シャルル・ゾーンCEOが指さしながら何か言っているが外国語ではおれにはわからない。英語らしい。青沼記者が簡単な通訳をしてくれた。 

「ゾーンさんは、選手のヘアカラーがいいねって言ってますよ」

ヘアケア製品が商売の経営者らしい目のつけどころだ。脱帽して行進している何人かの田園都市高校選手を指しているらしい。茶髪が見てとれる。

 LINEのポップアップが表示された。行進中の美由希からだ。

「見てる?」 

 緊張の欠片もないような画面だ。

「見てる、しっかり行進しろ」と返してやった。

 監督の「大吉さん」こと吉本監督からもメールが来た。

 ――おいおい、ダッグアウトの監督がスマホなんかいじってる場合かよ。変われば変わるもんだ。

「うちの連中、リラックス通り越してブッ飛んでますね」と文面にあった。

 ~~~初戦の試合開始が告げられた。

「まず守ります田園都市高校のピッチャーはあざみ野君 背番号7、西本は好きな数字をユニフォームに背負っている。キャッチャーたまプラーザ君 背番号10、ファースト市が尾君 背番号3、セカンド青葉台さん 背番号55、ああ、ついに美由希が公式戦の先発メンバーに名を連ねたのだ。背番号は大好きな埼玉西武ライオンズの秋山選手と同じ番号を背負って。……ライト溝の口君 背番号25、溝口はDeNAの筒香選手と同じ番号を選んだのだ。秋山、筒香の二人はアメリカメジャーリーグへ移籍してしまったが、その背番号を受け継いだ気になっているのだろう。厚かましい奴らだ。だがその図々しさが田園都市高校の真骨頂なのだ。

 全員の念願叶ってのニックネーム登録だ。もう誰もが個人情報保護などと気難しく考えることもなく、ニックネームでの出場を楽しむための登録なのだ。

「美由希、存分に楽しめよ」

おれは声に出してネット裏から叫んだ。

楽しむ高校野球全国大会の第一回大会、田園都市高校の試合が始まった。

西本が記念すべき第一球目を投じた。相手チーム先頭打者の打球がセカンドの美由希に向かって転がっていった。

「美由希、しっかり!」

とっさに大声を出していた。

野球帽の下から垂らしたポニーテールの後ろ髪を揺らして、美由希が軽快にボールを捌き一塁へ。

「いいぞ、美由希」

               *

「お昼の用意できたわよ。冷やしそうめん作ったから早く食べなさい」

 相も変わらずの世話焼き口調の母親の声に起こされた。

「ミユキ、ミユキって寝言言って。彼女の夢でも見ていたの? やっと彼女ができたの?」

「そんなんじゃねえよ」

 ……なんだ、東京ドームにいたんじゃなかったのか。

気だるい夏の昼下がり、母親の皮肉いっぱいの嫌味を聞きながら、おれは長ソファから起き上がった。(了)