確率九十五パーセント

 やることなすことが運に見放されたような日がある。由子(ゆうこ)にとっては今日ほど不運が重なった日はなかった。

 朝目覚めてやることは、順序も懸ける時間も寸分たがわずといっていいほど決まっている。洗顔をすませるとコンタクトレンズをつける。今朝はその最初の最初にコンタクトレンズを洗面台に流してしまったのだった。今日一日眼鏡で過ごす羽目になり、眼鏡では着ていく服も違ってくるうえに、何より思いもしなかった出費を余儀なくされる口惜しさを一日中引きずって、憂鬱な日になることが思いやられる。

「おはよう」

明るさの欠片もないような沈んだ声で、職場の同僚に声をかけた。

「どうしちゃったんですか? いつもとちがいますよ」

「ひどい顔してる、わたし?」

 由子はセルフサービスカフェの店長になって二年になる。軽い気持ちでアルバイトを始めたのが、気が付くといつの間にか正社員の店長になっていた。大手の飲料メーカーが全国展開しているチェーン店の東横線沿線の駅前にあるのが由子の勤務店である。業績はどうにかこうにか閉店にいたることなく持ちこたえているといったところで、由子は居直ったようにして店長を務めている。

 住まいは元住吉のマンションで両親と妹の平凡なサラリーマン家庭である。そこから目黒区内の私立高校に通学した。

 高三の新学期に進路調査が行われ、由子は明確なイメージもないままになんとなく世間で一流と呼ばれる私立の大学名を書いて調査書を出しておいた。仲の良いクラスメイトが、大学も同じだといいねと言ったから、それもいいかといった軽い理由からだったけれど。

 ゴールデンウィーク明けに受けた大手学習塾主催の模擬テストの結果は笑えるほどに悲惨だった。

 適当に書いた大学名とはいえ、合格確率二十五パーセント、受験料がもったいないだけの、確率0パーセントというに等しいものだった。

「希望大学をもう少し検討したほうがいいのではないか」

 クラス担任が薄笑いを浮かべて言う顔をみて、こんなやつの顔二度とみたくないと思うと同時に、大学なんていかなくてもいいんだよと捨て鉢な気持ちを口に出しそうになった。

 籍をおいていた美術部の仲間の半数くらいは大学や短大の美大を目指すという。それもいいかなと思う。

「美大いかないの。由子は絵よりもデザインのほうが向いていると思うな」

クラブのだれかがアドバイスふうに言ったのを真に受けて、デザイン科のある学校を調べるうちに、気持ちが美大に傾いた。ある学校の短期大学部デザイン科の宣伝文句にあった数値に目がいった。

 ――当校の卒業生の就職先では、大手の広告代理店、印刷会社、飲料メーカー、食品メーカーの宣伝部などで、多数が活躍しています。

 おお、いいじゃん。それで何々?

 ――このような大手の有名企業を中心に、毎年卒業生の九十七パーセントがデザイン分野で活躍の場を得ています。

 女子がありきたりの大学を卒業したところで、一般的な事務職OLになるだけのこと、それだったらデザインという技量を習得して……。人生はなにごとも確率で判断するにこしたことはない、由子は、美術部顧問の教師の勧めもあり都内の短大デザイン科に進んだ。

「君のデザイン的な才能なら、実技中心で学科の点数の比重がすくないデザイン科は向いているよ。合格確率八十パーセント以上だろう」

 美術部の教師が背中を押したのが決め手になった。

 短大を卒業して由子が得た職は、デザインとは縁もゆかりもない自動車販売会社だった。

――九十七パーセントの卒業生がデザイン関係の仕事で活躍しているなど、学校の謳い文句の根拠はどこにあるのよ、嘘ばっかり。

由子はケラケラと笑いそうになるのをこらえて、自動車販売会社の仕事に取り組んだ。仕事はさして難しいことはなく、来客の受付や事務作業で、ただ給料を得るためだけの就職だったが、販売担当の営業マンの販売ノルマやサービス部門の売上ノルマの締めつけなど、聞こえてくる叱責だけでも、自分なら会社の屋上から飛び降り自殺をし兼ねない過酷さである。サービス部門というのはただ車の整備だけをやっていればいいというものではない。カーナビやオーディオ製品の押しつけがましい販売のノルマだったり、さほど急ぐことでもなさそうなオイル交換の勧めや作業効率の重圧だったりした。それらはすべて数値で締めつけられるのだ。対前年比、前月比○○パーセント、キャンペーン期間を設けた数値の設定と達成率などすべてが棒グラフやパーセントで社内掲示される。女子社員といえども車の一台も売らなければ冷たい視線に晒されるのだった。だれもが数字数値に追いかけられ、ほぼ全社員が心療内科の受付に並びたくなる間際まで追いつめられるのが一年を通して続いた。

そろそろこの会社もオサラバしてもいいかと考えていたころ、短大時代の親友美香から電話がかかってきた。

「由子、合コンに参加したことある? ほかでもないけど職場の先輩から女子の人集めをたのまれてンのよ、アンタ参加してくれない?」

「ええっ、あまり興味ないけど美香の頼みじゃ仕方ないね。参加するわ」

「よかった。先輩がいうには今回はなかなか粒がそろってるって」

「そんなの何かの売り込みの宣伝文句と一緒よ」

「キムタクみたいな男がいるかもしれないじゃない」

「そんなの確率0パーセントと思ってなきゃ、がっかりするわよ。でも美香は結婚願望強いから念力でいい人に巡り合うかもね」

「とにかく来週の金曜の夜あけといてよ。ドタキャンなしよ。それから参加費は女子は費用の三十パーセントね」

「いい人見つかる可能性もそれくらいあるといいね。合コンで付き合うようになる確率十パーセントだって。それが結婚にまで至るのは三パーセントっていうけど、美香頑張って」

「なに言ってんのよ、由子、アンタだって彼氏いないんでしょ」

渋谷センター街のワインバー風のレストランで行われた合コンで、取り立てて気になるというほどの男もいなかった。もちろんキムタク男がいるわけがないので、ワインを精いっぱい楽しんだ。

由子は証券マンの男と話が盛り上がった。男がちょうど車を買い替えようかと思っているという話からだった。車購入の裏ワザの話をして男を喜ばせた。特別気を惹かれたわけではなかったが、由子の話に熱心に耳を傾けてくれたことに好感をもち、聞かれるままに携帯の番号を教えておいた。さっそくショートメールが届いた。

 ――よかったらこんどドライブにでもつきあっていただけませんか、来週の月曜日あたり時間ありますか。テツオ

 たったそれだけの短いメールだったが、由子は、こいつは気配りのできる男だなと思った。車の販売会社は土日が出勤だということを心得ている証拠だった。

 何かと都合をつけて数回デートを重ねた。

 美香が探りをいれてきた。

「由子、アンタうまくやってるみたいじゃん。まわり回って噂聞いたよ」

 同じ合コンでだれかがうまくいったというと、やっかみ半分で、ケチをつける者がいる。女は特にそうだ。

「美香、アンタに譲ってもいいよ。結構うぶで素直な男よ。美香みたいにぐいぐい引っ張る女のほうがいいかもよ」

「いらないよ。わたしはまた次の合コンの予定いれちゃったから。それでどんな男よ?

もういくところまでいっちゃった?」

「バーカ、何言ってるのよ。こんどアンタと会ったときに話してあげる」

 初めてのドライブのときのテツオの話に、由子は声を立てて笑った。

「以前に合コンで知り合った女とドライブしたときのことなんだけど……」

 変に隠し立てすることもなく、知らない女とのデートの顛末を話してくれたことだ。こんなに明け透けに話をしてくれるほうが好感がもてる。

 XX女子大仏文科卒の女で、何度もフランスへ行ったことがあり、パリのどこそこ、ニース、モナコがどうのと、そんなことばかり話題にする女だったという。フランス語しゃべれるんですか? と聞いてもらいたいような素振りをするかと思えば、絵画やフランス文学のことまで話題に乗せた。鼻持ちならない人物だった。

「どんな作家を読むんです?」テツオがいささか鼻白みながら話を合わせて聞くと、

「アルベール・カミュやジョルジュ・バタイユとか……、フランソワーズ・サガンなんかも読むんだけど……」

 小説などほとんど手にしないテツオは、名前を聞いたことがある程度だった。カミュといわれてもコニャックのカミュが思い浮かんだ。

「貴方はどんな作家の小説を読むんですか? 日本の、それとも外国の?」

「まあ、日本のものですね、東野圭吾とか堂場舜一とか……」

 思いつくままに適当に答えた。実際は読んだこともなかった。

「どんな本を?」

「ほとんど文庫本ですね」テツオは読んだこともなければ、題名なんか知りもしない。

「???」

「後ろの解説を本屋で立ち読みして終わりです」

 どうでもいい話題に辟易していたテツオは、わざと的外れのトンチンカンな返答をした。運転しながら女の顔に目をやると、ツンとして黙り込んでいた女が突然大きな声を出した。

「わたし、ここで降ろしてください」

言い放つと乱暴にドアを開け、脇の歩道を後ろの方へ怒ったように早足で歩いていってしまったというのだった。

 テツオと由子は恋人同士にもならない曖昧な付き合いのままで、一年ほどで疎遠になってしまった。その間に由子は自動車販売会社を辞め、無為な日を過ごしていたが、テツオの伝手でセルフサービスカフェでアルバイトを始めた。付かず離れずの友人として連絡は取っていたが、それからもう二年もの月日が経っている。

 由子の店を贔屓にしてくれている馴染みの客も数多くなった。由子が顔を見知っている客も百人は下らないと思う。しかし馴染みといっても親しく口を利き合うということはない。互いに名前も知らないというのがセルフサービスカフェの特徴でもある。会社が求めているのはいかに客の回転率を良くするかであり、売上げに直結することにもなるのだ。いちいち客と親しく口を利いている余裕もなければその必要もない。会社が由子に言ってくることは、自動車販売会社と大差ない。毎週毎月の売上額、対前年、対前月、対前週比など何はさておき数字のことばかり。さらに同地区他店との比較で責められる。すべて数字との戦いである。

由子にとっては従業員の勤務シフトも頭痛の種だ。由子以外は全員がアルバイト。ようやく必要人数を確保できたとホッとする間もなく、いとも簡単に辞め、入れ替わりが激しいのがアルバイトだと割切っていても、シフト表とにらめっこし天を仰ぎ毎週毎週のシフトを決めていかなければならない。やっと確保した要員も研修期間中に連絡もなく来なくなるなんてことは日常茶飯事、欠員の補填には由子自身が入るしかない。ひと月の内になにかひとつでも嬉しいこと、楽しいことがないものかと滅入っている日々が続くのが店長という仕事だった。タバコを手にするようになったのはいつの頃からだったのかと思い返すと、店長に抜擢されて半年ばかり経ったころと符号していた。

 今日は朝から運に見放され続けて最悪の日だった。

 コンタクトレンズを洗面台で流してしまい、入店してからはコーヒーカップを床に落として粉々に割ってしまった。来店中の客に声に出して粗相を詫び、自分の不甲斐なさに目尻に涙が滲むのがわかった。こんなときに限って、アルバイトの一人が体調を崩して休ませてくれと電話を寄越した。急に休まれて忙しさは半端ではなくなった。どうしてこうもうまくいかない日だろうか。イライラが募った。

「いらっしゃいませ」

入って来た客を努めて明るく迎えた。

 オーダー受付とレジのハイカウンターにいる由子の前に立ったのは、顔を覚えている三十代のサラリーマン風の男性客だった。

 先払い精算を済ませると男性がおもむろに何かのチケットを差し出しながら言った。

「明日の神宮球場の、ヤクルト対DeNA戦のチケットがあるんだけど、だれか行きたい人いますか?」

「いただけるんですか? 従業員で行きたい者がいるかもしれません」

「二枚あります。お客さんにあげてもいいし、遠慮なくどうぞ」

 受け取った二枚を見ながら、テツオの顔も浮かんだが、いまさらという気がする。由子は頭をフル回転させた。どう有効に使おうか、誰にあげれば一番効果的かと。アルバイト従業員や知り合いの何人かの顔を思い浮かべていたが、突飛もない考えが浮き出てきた。

 ――わたしが行こうかな、それも一人で。明日は金曜日、勤務時間は昼の一時まで。

 野球にさして興味はなかったうえに、これまでに球場に、ナイターというのにも行ったことがないのに、どうして行きたいと思ったのか自分でもわからないが、とにかく一人で行ってみようという気になっていた。選手の名前もだれ一人として知りもしないのに。

 由子は心に思うことがあった。他愛ない賭けを思いついたのだった。ゲームをやる感覚で。

 手にしたチケットの一枚だけを持って、チケットをくれた男性のテーブルへ行った。

「すみません、せっかく二枚いただいたのに一枚だけいただくことにしました。よろしいでしょうか?」

「ああ、構いませんよ。気にするようなことじゃない。何かの役にたてばそれだけで。対ジャイアンツ戦以外だとちょくちょく手にはいります」

 球場に足を踏み入れると、由子はカクテル光線の明るさと照らしだされる芝生の鮮やかさに目を奪われた。

――こんあにきれいなんだ。小さな感動を覚えた。

それだけで今夜来てよかったと大らかな気分になれた。

 選手たちが間近に見てとれる指定された席の隣にはだれもいなかった。後から誰が来るかが、由子が一人で来た理由だった。由子は密かに賭けをしていた。

 ――チケットをくれたあの男性が来るか来ないか

 あの男性が来る確率は八十パーセント、たぶん来るにちがいない。なんの根拠もない「予感」に由子は賭けていた。取り立てて気になるような男性でもないので気楽なゲーム感覚だ。賭けが当たれば、今年最悪だった前日の不運が帳消しになって運が必ず開けて来るという祈りにも似た賭けだった。

 試合が始まって三十分ばかり過ぎてもだれも来ない、賭けは外れたかと諦めたころ、あの男性が「おお」という驚きのような声を出して由子の隣に立った。

「あなたが来ていたんだ」

満面に大げさな驚きと嬉しそうな表情を交えて言った。

 ――賭けが当たった。明日から必ず運が巡ってくる。

 喜びを口にはしなかったが、由子もニンマリとした表情をしていたにちがいなかった。試合の経過など眼中になかった。

「余ったチケットをだれかにあげようと思ったけど、僕はあなたが来るかもしれないと賭けをして、仕事を早めに切り上げたんです」

「わたしも何故だかわかりませんが、咄嗟に自分が行こうと思ったんです。奇遇奇跡のようなめぐり合わせですね」

「僕はあなたが来る確率は十五パーセントくらいかなと勝手に決めてきたんですよ」

「実を言うと、わたしもあなたがいらっしゃる確率を楽しんで来たんです。わたしの予感は八十パーセントでした。チケットを一枚お返ししたとき、お顔を見てあなたがいらっしゃるかもしれないという直感が働いたんです」

「それじゃあなたの予感と僕の予感を足し算すると九十五パーセントということだ、すごい」

 客席の間の通路を、ビールのタンク状のものを背負った若い売り子の女の子が行き来している。

「ビール飲みませんか? 僕が奢ります」

男性が聞いた。由子は素直に頷いた。

 男性は手を挙げてビールをオーダーした。大ぶりの紙コップで自然と乾杯をしていた。

 試合は0対0のままで淡々と進んでいた。

「ビールのアルコール度数は何度か知ってます?」

「いや、わからないです。何度でしたっけ?」

「ほとんどのビールがアルコール度五パーセントですね。これで僕らの予感九十五パーセントと合算すると百パーセントじゃないですか。もう一度乾杯ですね」

 ――運を引き寄せるきっかけになりそうだ、明日から頑張ろう。

 透きとおった打球音と大歓声が球場の夜空に響き渡った。筒香選手のホームランだった。

低迷していた筒香選手の打率がやっと二割にのった一打にもなった(了)