小説 自動車電装会社 第二部

小説 自動車電装会社 第一部よりつづく

第二部 美香と昌博 

富士スピードウェイ

 昌博は毎日曜日、都心から郊外へ延びる幹線道路で車を走らせていた。一つは会社から町田までの津久井道であり、まさ子の実家がある甲州街道(国道二十号線)の府中方面、さらには二子玉川からの、厚木へと続く国道二四六号線だった。

 父親がふと漏らした一言が昌博に行動を起こさせていた。

「俺もそろそろ隠居かな。七十歳までだな」

昌博に会社の経営を任せたいということを意味している。

「アンタもいい加減身を固めなさい」と言う母親の口ぐせのような物言いと父の一言は符号している。二人はそんな話ばかりしているにちがいないと、昌博は苦笑していた。

 あとを継ぐというのは規定の事実のようなものだ。それは昌博に自覚とともに、夢を実現させるという期待も抱かせるものだった。

――電装会社のプロショップ、直接お客の顔を見てできる商売。

 それにはどうしても会社を移転させなければならないというのが昌博の強い思いだった。

 平成十九年(二〇〇七)十一月のある日曜日、昌博は甲州街道上で車を走らせていたとき、給油をしようと府中市内のガソリンスタンドに車を入れた。給油を終えると支払いのカード決済のために、昌博は給油所のこざっぱりした事務所へ入って行って、足が止まった。河本美香がいた。美香は所在なげに読むでもなさそうに雑誌を膝の上に広げていた。

「あれっ、美香ちゃんじゃないか!」

 昌博は、そばにいた店員がつられて美香に目を遣るような大きな声を出した。

 呼ばれた美香も咄嗟に顔をあげて、黒豆のような眼をして昌博を見つめた。膝の雑誌が床にずり落ちるのも気づかず「昌博さん!」と口を大きく開けて言った。

 美香は洗車が終わるのを待っていた。昌博と遇うのは偶然とはいえ、美香の住まいは府中市内のはずだ。ばったり出くわしても何らおかしくはない。驚き戸惑う美香だったが、昌博の誘いに同意して近所のファミリーレストランに同道した。

「みなさん、お変わりありませんか?」

 美香の問いかけが他人行儀な口調に聞こえるのはしかたがなかった。

「たいした変化はないけど、山元君が結婚したことぐらいかな」

「よかったですね」

 美香は、山元遼司のことをそれ以上聞こうとはしなかったが、山元が美香に想いを寄せていたことを知っていた昌博は、美香が何を思ったかは計り兼ねていた。

「美香ちゃんは何か仕事してるの?」

 あまり立ち入ったことはどうかと躊躇したが、昌博が訊くと、案外あっさりと答えた。

「兄貴の仕事を手伝っているんですけど、不動産の仕事は興味がなくてつまんないんですよ」

 昌博が会社を移転させたくて、毎日曜日になんとなくいろんな町や通りの様子を見て回っている話をすると、美香は興味深そうに言った。

「以前、昌博さんが私に話してくれた夢に向かってのことですね」

「そう。でもあれ以来夢を語れる人も相談相手もいなくて……」

 互いの連絡先や携帯電話のメールアドレスを確認し合って、その日は一時間ばかりでレストランを後にした。

 美香に遇ったことから同志を得たようで、昌博は昌平に将来の会社への想いを語ることにした。

 昌博が強調したのは、電装会社のプロショップだった。これまでの三十年有余の多摩川電装の歴史を否定するものではなかったはずだが、昌平には納得できるものではなく、昌博の夢を一蹴するものだった。

「下請けの何が悪い。安定的に仕事が来ることが大事なんだ」

「俺は、下請けが悪いと言っているんじゃない。実利の巾、純益を増やすためには、直接消費者、お客と取引できるような体質にもっていかなくてはいけないと言っているんだよ」

「どうやって車のオーナーと結びつけるというのだ。ほとんどの車のオーナーは、これから先も、なにかあればディーラーや整備工場、自動車関係商品の量販店へ行くのが道理じゃないか」

「なんでもかんでもディーラーや整備工場を通すもんだという先入観を一度見直す価値があると言っている。いままでの仕事をないがしろにしようと言うんじゃないよ」

「そんなリスクを自分から背負う必要がどこにある。俺がこれまで一番重要視してきたことは、社員の生活を守ることだった。みんなが安心して家庭を養っていけることが最も大切なことだといまでも信じている。この会社でみんなが安心して働けることこそ、会社をやっていく価値がある」

「それではいままでと何もかわらないじゃないか。どんな業種業界でも永遠に続くとはだれも保障できない。少々の冒険も必要なんだよ。これまでのやり方からほんのちょっとずつ、新しいことにも挑戦していきたいという意味だよ。そのためにまず、もっときれいで個人のお客が会社に来たくなるような店舗にできないかと考えている」

「時間が許せば会いたい、ムリはしないで……」

 昌博からのメールはいつもこんな調子で届いた。押し付けがましさのない、さらりとした誘い方が美香は好きだった。もっと早くからこんな関係であったら、多摩川電装を辞めずに済んだかもしれない、身を固くせずに何でも言えたかもしれないと、いまになって思う。無駄な二年間だったようで、美香はちょっぴり後悔していた。

 美香と昌博はデートを重ねた。

 話題はいつも会社をどうしたいかという昌博の強い思いについてだったが、美香は飽きることがなかった。昌博の話は夢ではなく、理系の人間らしく理詰めで具体的だった。

「親父もおふくろも、あのカーエアコンを大量に仕入れ、取り込み詐欺にあったときのことがトラウマになっているんだ。とにかく無難にやっていくことが何より大切と信じて疑わないでいる」

「でも社長がいつもおっしゃっていた、他ではやらないことをやらなければならないというお考えと矛盾しません?」

「いや、矛盾していないと思うよ。自分たちの技術に裏打ちされた上での〈他ではやらないこと〉という域を出ないものだから」

「だったらその範疇で、昌博さんが新しいことに取り組むとしたら、社長を納得させられるんじゃないかしら」

「それってどんなことが考えられると思う?」

「う~ん……」美香は宙に目を泳がせながら続けた。「思いつきにすぎないけど、バス会社に入り込むなんていうのはどう? 簡単じゃないだろうけど……」

「バスか。面白いかもしれないね」

 なにか心当たりがありそうな気がして、美香の目の付けどころに昌博は感心していた。ETCを信金カードに売り込んだときのことを懐かしく思い返して、昌博は美香の顔を真正面から見つめた。

――こんなに俺に真剣に向き合ってくれる人がほかにいるだろうか。

 昌博は美香に好意以上の感情を抱きはじめていた。一緒に働いていたころ、自分が美香を好きだとはっきり意識したときのことが蘇ってきた。あのときはまだ電装業の見習い期間であり、山元遼司が美香に執心なことに気づき、自分の想いをおくびにも出すべきでないと、強く自分の心に戒めていたのだった。

「バスなんて久しく乗ってないなあ。テレビ番組の〈路線バスの旅〉みたいなことやって、バスの内外をじっくり観察してみようかな」

「行ったこともないところの停留所に止まるバスって面白そう。行ってみましょうよ」

 東京都内最長路線バスの「都バス梅70系」に西武線西武柳沢駅前から乗り込んだバスは、青梅街道を約二時間かけて終点の青梅車庫前までの約三十キロのバス旅になった。

 その気になって車内の電気系の設備を見回すと、あることあること、電装会社の手にかかるべき設備が想像以上のものだった。車内の次停留所表示板、進行ごとに書き換えられる運賃表、運賃箱、バス降車ボタン、音声案内などメモをとりながら、昌博は設置工事にはどれくらいの時間を要するのだろうかなど、頭をフル回転させ飽きることのないバス旅を満喫していた。

座席の横には美香がいた。

「あの広告板はなんていうのかな?」

美香が訊いてきたのは、サイネージという電光掲示板のことだった。窓の外の景色も建て込んだ家々の間にぽつぽつと関東平野の昔を偲ばせる藁屋根の農家や畑が点在しているのどかな風景を見ることができた。

「あれは何?」

美香が訊いてくる度に、昌博は体を寄せて窓の外に目を向けながら、美香の手を包み込むようにした。美香は握り返す。

――三十を過ぎたふたりなのに、まるで高校生みたい。

美香は胸の高鳴りを聞き、頬が赤らむのを感じながら、手が汗ばむのが恥ずかしくもあり、また嬉しかった。

 うちの男どもは、どうしてこうも口数が少なくて、大事なことをしっかり話をしないのだろうと、まさ子はひとり気をもんでいた。父親と息子は面と向かって話をすることがそんなに難しいのだろうかと理解に苦しむ。腹芸で会話をしているとしか思えない。

 昌平はリビングのソファーで見るともなしにテレビを見ている。昌博は食卓でパソコンに見入っている。互いに話をするきっかけを掴みそびれているとしか思えない。

「二人とも集合! ちゃんと話をしなさい」

 まさ子はオチャラ気風に昌平と昌博に呼びかけた。

「親子が腹を割って話をしなくちゃ先に進まないでしょ。言いたいことがあれば遠慮なく言うのが親子じゃないの。喧嘩になるほど話し合いなさいよ。」

 まさ子が腹の座った言い方をした。

「前にも聞いたけど、昌博は会社を変えたい、自分がこれから先責任者となってやっていく上でやりたいことがある、ってことじゃないの?」

「俺が言いたいのは、だな、これからの時代に即したやり方をやっていきたいというお前の考えは否定しない。しかし会社の所在地まで変えるというのは、業績にまで影響することで簡単に同意するわけにはいかない」

「だからといって、この場所でなくちゃいけないという理由も曖昧じゃないの。実際ほとんどの仕事が、ディーラーや整備工場に出向いて仕事をしているわけだし。そりよりも直接ユーザーと向き合う商売にも目を向けるには、気持ちよく来店したくなる店舗にしなくては、というのが俺の考え」

「それが俺には合点がいかない。理由は簡単、お前は実よりも形から入っている、形作って魂入れず、にしか思えないのだ。どこに新しく店を構えるつもりか知らないが、従業員のことは考えたことあるか? みんな自分の住まいがあり、職住近場を考えて家を買った者だっているんだぞ。会社が遠くなって会社を辞めると言い出す者がいないともかぎらない」

「そんなことまで言い出したら、何も変えられない。いかに社員従業員のことを第一に考えてといっても、社会の変化に応じて会社も変わっていくのが道理じゃないの」

「いや、この商売は人があっての、人の技術があっての商売だ。人より大事なものはない。少しずつとはいえ仕事の業態が変わり、場所が変われば、それに反発して会社を辞めると言い出す者が続出したら、元も子もない」

「だからといって、古株社員の言いなりになり、勘に頼る仕事、徒弟制度のようなやり方に胡坐をかいて、探究心も欠如しているままでは、進化する自動車にも対応できなくなるというデメリットだってあるんじゃないの」

「でもな、昌博、そんな社員も含めて社員の信頼を得ていなければ会社は成り立たないんだよ。経営者というのは我慢することばかりで、できることなら社長になんてならないことだ。要するに社長業ほど孤独なものはないと心得ていなくちゃいけない」

「…………?」

「昌博、おまえがこれから先会社を引っ張っていくのに、いまからやるっておくべきことは他のだれにも有無をいわせない仕事をもって来ること、その上で改革もして、社員に将来の夢を見させることだよ」

――お父さんは厳しいことばかり言っているようだけど、胸の内ではおまえを評価し、認めていることもあるんだよ。これまで欠かすことなく誰よりも早く出社していること、会社が抱えている課題は何かといつも考えて行動していることがそうなんだよ。

 まさ子はそっと昌博に耳打ちしてあげたくなった。

 与えられた仕事を百パーセントこなす社員だけでは、会社は危機に対処できないだけでなく、会社の将来も覚束ない。〈他がやらないこと〉に挑戦するというのは、課題は何かを常に考えて行動することというのが、昌平の理想とする会社なのだ。社員が五人いれば三人がそうした意識を持っていれば会社はなんとかなるのだと、昌平はいつも寝物語のようにまさ子に語っていた。

 美香が同行してくれた〈路線バスの旅〉の日からバスのことが昌博の脳裏から離れたことがない。また昌平が口ぐせのように言う「他がやらない仕事」と「他の社員に有無をいわせないだけのことをやれ」という課題が昌博の頭に交錯する。

 昌博はどこかにバス会社への伝手はないものかと思い巡らせていて、前職の電鉄会社がバス事業も一方の柱ではないか、ということに思い至った。二十年近くが経てば、課長クラスに昇進している同期生がいるかもしれない。本社人事部に問い合わせると、バス部門にいるという一人の同期生に行きつくことができた。

 同期生に多摩地区にある整備工場を紹介された昌博は、指定された日時に勇んで出かけたのはいうまでもなかった。

 案内された二階の部屋から見えるバス駐車場には、ひっきりなしに入出庫を繰り返す光景が見渡された。どれくらいの台数のバスがあるのだろうかと、ぼんやり眺めていると、懐かしい制服にネクタイをきっちり身に着けた恰幅のいい工場長が現れた。五十過ぎくらいの人だった。女子社員がお茶を運んできてくれた。かつて在籍した人間への思いやりのように思えて、昌博の気持ちは和んだ。

「うちの会社にお勤めだったそうですね。おいでになった主旨は本社から簡単に伺っています」

 昌博の同期生の名前を告げながら、温厚そうな口ぶりで工場長は笑顔を向けた。

 昌博もかつてどんな部門で何の業務に携わっていたのか、その後退職して現在に至った経緯をかいつまんで話した。

「不躾な言い方ですが」と断りながら、工場長は直截に口にした。「ご要望にお応えするのは無理だと思います」

 昌博には予想した通りのものだった。

 整備部門には自動車整備士のほかに、充分とはいえないものの自動車電気整備士もおり、その他に長年に亘って出入りしている電装会社もあると、工場長は淡々と話した。それでもわずかなトバ口でもあればという親切心からと思える質問をしてくれた。

「バスなどの二十四ボルト車関係の取扱いはありますか?」

「トラックのスターターやオルタネーターのメンテナンス交換などの経験はありますが、バスの経験はありません」

 曖昧な答えはやめよう、正直に答えなければいけないと、昌博は判断していた。

「売り込みに来て、ずいぶん正直ですね」工場長は笑っている。

「厚かましいお願いですが、整備工場と、いま何か電気系の保守メンテナンスをやっておられる車両があったら、少しの時間で構いません、見学させていただけませんか」

 工場長は、それくらいならと言って、自らざっと案内してくれた。これも元社員という理由だろうと、昌博は感謝の言葉を口にして整備工場を後にした。

 昌博はそこに働いている人たちが何歳くらいの人たちが中心なのか、外来者に対する態度はどんなものなのか見ておきたいと思ったのだった。

 ――できるかできないかではなく、やるかやらないかだ。

 バス会社の高くて厚い障壁を前にして、必ず入り込んでみせると昌博は自分に誓った。決意してしまえば躊躇している暇はない。仕事の合間を縫ってバス整備工場へ足繁く通った。

 最初のうちは「前にお話した通りで、お願いできる仕事はない」と穏便に対応していた工場長も、昌博の執拗な度重なる訪問に苛立ちを隠さなくなった。

「何回来られても同じです。仕事の邪魔をしないでいただきたい」

「それは申し訳ありませんでした。最後に私の申し出をお聞き届けていただけませんでしょうか」

 工場長がほんの一瞬表情を和らげた。それが蟻の一穴だった。昌博は間髪を入れず畳みかけるように身を乗り出して語りかけた。

「日曜祝日でもバスは休みなく運行されていますよね。そして整備士の方々も出社されています。でも話を伺ったら出社は少人数ということでした。工場長、お願いです。私に日曜祝日だけでも手伝わせてください。どんな些細なことでもかまいません。無償なのは当然です、バスのことを勉強させていただくのですから。外部の人間を正当な理由もなく使うのは安全面からの会社の決まり事に違反していることも承知しています。万が一の場合一切の責任は私にあるという念書を書きます。お願いします」

 渋る工場長を説得した昌博は、欠かすことなく日曜日は整備工場へ出向いた。当初は無視され、冷淡だった整備士も次第に口を利き始めてふた月も過ぎたころ、一人の運転手の依頼を気軽に対応したことをきっかけに、昌博の熱心さを整備士たちも認め始めた。

「お宅、よく見かけるけど出入りの電装屋さん?」

 運転手が訊いてきた。

「勉強させてもらっているんです」

「手が足りていないようだから、ちょっと診てくれないかな。運転席の足回りのケーブルハーネスが運転中に気になって仕方がないんだよ」他愛のない作業だった。           

 人は顔を突き合わせていれば、親しみも湧き、整備士たちが親密さの証しでもあるかのように愚痴さえこぼすようになった。

「日曜日に電気系で不備が発生したときに、俺たちで直せればいいけど、やっぱり電気屋さんじゃないとダメなときもあるんだよな。だけど日曜は出入りの業者は休日だし」「会社ももう少し俺たちのことを考えて、人を増やすとかさ」「サイネージ(電子広告板)が消えちゃったりして、急に運転手にいわれても、さ」

「私でよければ、やれるだけのことは対処します」

 機器本体のことはわからなくても、取得電源周りを点検すれば意外と簡単に直った。走行中の振動で端子の圧着部分が緩んでいるなどの簡単な理由だったりした。

 昌博は整備工場の現場の人たちに認められ、バスの仕事に入り込むことに成功した。会社にとってはこれまでに経験のなかったバス関係の仕事に先鞭をつけ、以後事業の柱の一つになっていった。

「いつの間にか食い込んでしまいましたね。うちの会社からすぐに仕事はないけど、サイネージを扱っている広告会社を紹介するよ。台数はそこそこあります」

 工場長は昌博の喜ぶ顔を見て、今後仕事を出す可能性を示唆するような言葉をかけてくれた。

 昌博からのメールが以前ほど頻繁には届かなくなって二、三か月になる。「もう私への興味も薄れたのかな」と美香は心のどこかで昌博からのメールを心ときめかせて待っていることもあったが、まあそれでもいいか、と思わないわけではない。恋人的時間を過ごしてはきたが、最終的に結ばれる相手ではないと考えてしまう自分の環境を、美香は心得ていた。これまで付き合った何人かも同じことだった。

 いつもとはちょっとニュアンスの違うメールが届いた。

「……美香ちゃんにメールするくらいの時間はあっても、いいニュースを届けたくて、それまでじっと我慢して仕事にまい進していました。やっと報告できる仕事のメドがたちました。是非会って直接話をしたいです。時間が許せば是非とも、都合がつく場所時間を連絡ください。待っています」

 新宿駅近くのレストランで待ち合わせた。メールの文面からすると意気揚々としているはずなのに、昌博は浮かない顔をしている。

「どうしたんですか? 元気ないじゃないですか」

「美香ちゃんにはすぐ見抜かれるな」苦笑いしながら「まずは乾杯だ」ビールのジョッキーを手にしながら言った。

「いい方の話からするね。バス会社に入り込めたんだ。美香ちゃんの直感に忠実にしたがって、自分で言うのもなんだけど、三か月以上すごく努力した結果、今後いろいろ仕事が来そうなところまでもって来れた」

「乗用車以外は会社としては初めてなんですね。具体的には何をやるんです?」

「はじめはエアコンの修理や保守などだけど、大きな仕事の見込みとしてはサイネージの取付だね。ゆくゆくは、運賃行先表示板とか運賃箱とかやりたい、やり始めたらずっと断続的に続くと期待しているんだけどね」

「よかった。それで悪い方の話というのも聞かせてください」

「美香ちゃんには俺の愚痴にしか聞こえないと思うけど、自分の中にため込んでおくと精神衛生上よくないから社外の誰かに聞いてもらいたくて。やっぱり俺にとっては美香ちゃんが適任なんだよ」

 昌博がバスの仕事に目星をつけたのにも関わらず、他の社員たちの反応はどこか空々しいものだった。古株の社員を中心に、やっかいそうな仕事を持ち込みやがって。いまやっていることで手いっぱい、それで充分じゃないかという雰囲気が溢れていた。「昌博が自分一人でやればいいじゃないか」という陰口さえ聞こえてきていた。

「社長がおっしゃっている、他がやらない仕事をやりなさいという考えに従わないということにならないかしら」

「所詮、会社というレベルで物事を考えようとしていないということだね。新しいことは極力避けて、従来通りの仕事を維持し、自分の立場を守ることに汲々としているとしか思えない。どんな優れた技術やノウハウも時間とともに陳腐化する。そこのところに気づいていないんだ。まあそんな訳で、思い描いている将来の多摩川電装までは道遠しだね」

 薄笑いを浮かべながら、昌博は飲み物のピッチをあげていった。

「きょうは少し飲み過ぎじゃない」美香が心配気に言った。

「じゃ、この店はこの辺にして、雰囲気のあるところで少しだけ飲み直して……京王プラザホテル地下のバーで」

 バーは照明を落とし、ゆったりとしたソファーが配置されている。会話がだれにも邪魔されないが静かなバーだった。

「愚痴ばかり言ったからお口直しだ。カクテルにしよう」

「夢は実現させることに意味があるんでしょ。気を取り直して頑張って。乾杯しましょう」

 カクテルグラスを合わせ、二人は笑顔を交わした。

「美香ちゃん、俺、もやもやした気分をぶっとばして元気を盛り返すために計画したことがあるんだ。そこにはどうしても美香ちゃんがいて欲しい」

「何、何?」美香は身を乗り出した。

「F1日本グランプリのチケットを買った。富士スピードウェイに一緒して欲しい。あの音、タイヤの焼ける臭いを全身で感じて爽快な気分になりたいんだ」

「お付き合いするわ」

「はっきり言うけど一泊だよ。ホテルも予約してある」

 美香はほんの数秒口元を引き締めて沈黙したが、目に力を込めて応えた。

「いいわ、一緒するわ」

 美香にも秘めた決意があった。昌博とただだらだらと付き合っていくことに、どこかではっきりさせなければいけないという思いがあった。

「この車、年季入ってるけど、いままでに妹以外誰も女の人を乗せたことがないんだ。ELLEってフランス語で〈彼女〉という意味なのにね」

 正面から目を離さず、昌博はさりげなく言って顔だけで笑っている。川崎インターから東名高速を御殿場へ向かっていた。

「ほんとうにこの人だ、と思い定めたひとのための助手席だから」

さりげなくさらりと言われた一言に、美香は動悸が早くなるのがわかった。考えに考え、計算されて発した言葉ではないと思えるあっさりとした告白のされ方の、自分に向けられた昌博のまっすぐに向かってくる気持ちに美香はあわてていた。何を言われ、何事が起きてもいいという心の準備と、一点の決意を携えての一泊二日の旅のはずなのに。

 F1のレースの迫力は、日常の思い悩むこもごもや雑念を掻き消してしまう非日常の世界に引きずり込むものだった。

 臓腑を揺るがす低いエンジン音と脳天を突き抜ける高い金属音が交錯し、絶え間なく目の前を駆け抜けていく。タイヤの摩擦が発する臭いと火花が、高低の音とともにまき散らしているように吹き抜けていき、美香は息を詰めてレースに見入っていた。機能を極限まで突き詰めたレーシングカーの、時速三百キロを超えるスピードがどれほどのものかを目の当たりにするものだった。人間がハンドルを操作しているというのが信じられないスピードと運転テクニックだった。

 レースが終わり、まだレース場に流れているタイヤの摩擦熱で焼けたゴムの臭いに名残惜しさを覚えながら、美香と昌博は感動に浸って無言で会場を後にしたのだった。

 レースの興奮が冷めないままに、ホテルのチェックインを済ませた部屋からは、優美な夜会服を纏ったような富士山が窓の正面に迫っていた。

 美香は物思いに耽っているかのように窓際に立ち、富士の雄姿に見入っていると、近づいた昌博が美香の後ろからやさしく抱いて首筋にやわらかく唇をあてた。自然の成り行きで向かい合った二人は唇と唇を合わせ、互いの熱く柔らかな口の中の隅々まで舌を絡ませ確かめ合った。長い時間抱き合っていた。

 秋の長い夜は時間が止まってしまったように、二人は片時も離れず肉体の隅々まで一つになって愛し合った。その夜昌博は「美香ちゃん」と呼ばず、初めて「ミカ」と言っては髪の毛といわず頬、腕、胸、腰のくびれと美香の全身を愛撫し尽した。

 朝目覚めたベッドの中で、美香は昌博の胸に手を当てて、目を覚ますのを待って心に決めていたことを意を決して話し始めた。

「わたしが今から言うことを何も言わず黙って聞いてくれる? 約束できる?」

 ひどく真剣な眼差しで見つめられて、昌博は横向きになり答えた。

「約束する」

「聞き逃さないで、よく聞いてね」

 美香は両手で昌博の手をしっかり握って話し始めた。

「わたしの名前は『河本美香』ではなくてほんとうは『河美香(ハ ミヒャン』っていうの。そう言えばわかると思うけど、わたしは日本人じゃなくて在日韓国人の三世なの。でもそのことを必死になって隠そうなんて思っていたわけじゃないわ。正直な気持ちを言えば、わたしにとっては『ミカ』でも『ミヒャン』でもどっちでもいい。三十数年というもの自分の家族の間でも都合のいい方で呼ばれてきた。両親や叔父叔母は『ミヒャン』と呼ぶし、兄貴はずっと昔から『ミカ』。わたし自身は二つを使い分けるのは面倒くさいだけ。でも本心では自分の中でも複雑に屈折した思いが代わりばんこに、海岸の波のようにとどまることなく打ち寄せてくる。これまで、わたしが在日韓国人とわかった途端になんとなくお付き合いが疎遠になったり、「美香は韓国・朝鮮人らしいよ」と噂ふうに知り合い同士でヒソヒソ言い合ったりして、仲間外れにされたりしたこともあったわ。いわゆる偏見にほとほとイヤになった不愉快な思い出は数知れない。韓国人なんかに生みやがってって親を恨んだりしたこともあった。わたしが多摩川電装を辞めた理由も、それまで経験したイヤな思いがトラウマになっていたからだと思う。海外旅行に行けばパスポートの色が日本人のそれと違うから、わたしが韓国人ということは一目瞭然。その日を境に周りの人たちの態度が無意識のうちにぎこちなくなるのが、わたしには敏感に感じられると充分想像できた。もう仕事以外の余分なことに気を回すのはもうたくさん。会社を辞めるのが手っ取り早いと、判断したからなの。昌博さんにはこんな心の揺らぎなんてわかりにくいよね」

「俺、口利いていい?」

「ちょっとだけなら」

「どうしてうちの会社を辞めたのか、訊いてみたいと思ったことはあるけど、そんな理由だったなんて全然知らなかった。在日韓国人だというのは、そんなに重たいことなの?」

 美香の思いつめたような話し方とその内容に、昌博はとり立てて驚いた風でもなく、まるで日常の些細な出来事でも聞いているように軽く質問をした。

「問題? そうよ、たいへんなことなの。これから話すことが昌博さんにどうしても言っておきたい本題なの、よく聞いてね」

 「ふ~ん」と言いながら何が本題なのかと話に聞き入ろうとする風でもなく、昌博は美香の額にキスまでした。

「久しぶりに会いたいというメールをもらった日から今日まで、このひと月あまりの間に、何も言わなくても昌博さんが真正面からわたしのことを考えてくれているのがひしひしと伝わって来た。その真剣さがほんとに嬉しかったし、わたしの方から昌博さんの胸に飛び込んでいって、自分の想いを洗いざらい伝えることができたら、どんなに楽になることができるだろうと。相手の真意も曖昧なままに女が想いをぶちまけるのははしたないと、じっと我慢していたの。そうしたら昌博さんが今度の旅行に誘ってくれた。そして今、こうして二人だけの時間を持っている」

 握っている手に力をいれて、美香は数秒沈黙し「ああ~」と小さく吐息を漏らした。

「もうここまででわたしは充分。もし遊ばれているとしても、大人と大人なんだから割り切って考えればいいこと。なんとも思わない。もし間違って昌博さんがわたしのことを結婚の対象に考えているとすれば、そのほうがわたしには負担になることがわかっているから」

「ちょっと待ってくれ。俺は君にプロポーズをすることを想い描きながら今度の旅行を計画した。そして旅行に一緒することをオーケーしてくれたときに、俺は君と結婚するとはっきりと心に決めた。旅行のオーケーは序章で、結婚の了解をもらうために全神経を集中させて二日間を過ごすことにしていたんだ。俺が君を結婚の対象に考えることが、何故君の負担になるんだ。俺ではダメってことなのか? 他に好きな男がいるとか」

「そんな人はいません。わたしも昌博さんと一緒になれたらどんなにいいかと芯から思っています。だけど日本人のあなたと在日韓国人のわたしが一緒になれば、そこにたどり着くまでの困難、もし結婚したとしたら、そのあとずっと続くと思われるあなたの苦労や負担が目に見えているのです。お互いの両親や家族の思惑など障害が多過ぎる」

「そんなのは些細なこと。人と人との間にどんな国境があるというんだ。国境なんて国と国、政治と政治の世界のことだ。人柄がどんなか、どんな考え方をする人なのかが結婚相手のすべて。俺のこれからは俺の考え一点だけで決める。俺のため、それに俺の考えている会社の将来のためには、……美香、君が必要なんだよ」

「そんなに簡単じゃないわ」

「いや、簡単明瞭。君と結ばれて一生を過ごせるのなら、会社や家族なんてうっちゃって、二人でゼロから始めることもいとわないつもりだ」

 昌博は、華奢な美香の全身を骨も砕けよとばかりに抱きしめ、美香の目尻に流れる涙を目にすると、生涯離さないと心に誓ったのだった。

トラック火災

「電装会社に喫茶店がひっついているなんて訳わかんねえな」

 古参社員の数人が冷笑するように言うのを、新井一浩は聞こえないふりをして無関心を装っていた。新井は多摩川電装のホームページの求人を見て入社した若者だった。仕事の師匠だった青田が退職した後すぐに一人立ちとはいかなかったが、年齢が近いこともあって新井は昌博に親しみ、何かと昌博と仕事を共にすることを望んだ。古参の古株社員たちが小うるさく言うのも嫌ってもいた。

「新井、金髪とピアスはやめろ」「なんだ、そのモヒカン刈りみたいな頭は」などと口うるさかった。

「昌博さん、俺の好きな恰好のどこが悪いんすかね。てめえの禿げ頭をなんとかしろと言いたくなりますよ」

 悪態をついて、新井が笑いながら言うことに、昌博はなにも言わずに苦笑していた。

 移転する会社の内装の話をすると「それはいいっすね、俺やる気が出ますよ」と昌博に真っ先に賛同した。

「オッサン連中の与太話は無視、無視。若いおねえちゃんたちが車を持ち込みたくなるような会社にしましょうよ」

 会社の転居は、裸の街路樹に新芽が芽吹くころの四月下旬、調布市の甲州街道(国道二十号線)から脇道に入った四階建てマンションの一階、横幅も優に二十メートルはあり、ピロティ式(高床)のようになっている上に道路から五メートルほど引き込み、道路との間に充分なスペースがある車の駐車にも最適の物件だった。物件探しには美香の兄が骨を折ってくれ、斡旋手数料なしで、その分を内装やネオンサイン設置その他に振り向けることができた。内装業者の紹介などにも尽力してくれていた。

 昌博の念願だったカフェを併設した。五つの高イスとカウンターのみのおしゃれなカフェだ。来社したお客が寛いで待つことができるというのが、これまでの電装会社の常識を破っているといえばいえないこともない。室内デザインは美香が考えたものだ。

「だれが飲み物のサービスをするんすか?」新井が聞いてきた。

「ホテルの朝食のようにビュッフェスタイルで、セルフサービスにすれば手がかからないだろう」

 昌博は、カフェは採算がとれなくてもいいと割り切っていた。

「それじゃ俺らも勝手にコーヒー飲めますね」

「そんな暇がないくらいにお客が来るから心配するな」

「そうすね」

ふたりは声を出して笑った。

 社長の昌平も着々と実績を積み重ねる昌博の意向に、渋々だが会社の転居に同意せざるを得なかった。昌博はバス会社の仕事だけではなく、トラック関係の車両にも足がかりをつけ、近年少しずつ需要が増えてきたデジタルタコグラフ(デジタコ)の設置取付にも取り組み始めていた。古くからの社員が二十四ボルト車を避けるのを横目に、昌博と新井は積極的に運送会社に手を広げた。

「T運輸のTだけど、新井さんいますか?」

 トラック保有台数二十台ばかりの小規模運送会社の社長からの電話だった。

 電話口に出た新井が明るい受け答えをしたあと、顔色を変えて黙り込んだのを、近くにいた昌平は見逃さなかった。

「どうしたんだ、何かあったのか?」

 取付設置をした電装品の不具合で、顧客から電話が入るのはよくあることだ。電装品設置工事の不備に起因する不具合というのももちろんあるが、製品の不良というのが多くを占めているのではないだろうか。たとえば車が停車したあともバックソナー(後方探知機)のブザーが鳴り止まないという症状で、考えられる原因を調べ上げてもわからなかったものが、センサーに付着した汚れが原因だったという笑えない話もあった。

 電話を置いた新井が一言も口にせず、目を宙に浮かせているのは何か深刻な電話だったに違いないと、昌平は直感した。

「どんな電話だったんだ、新井君?」

 言いよどみながら、真剣な眼差しで新井がボソボソと答えた。

「三か月前にデジタコを付けた十トン車が全焼したそうです。明日、警察、消防署、トラックメーカーなどの立ち会いで火災原因の検証をするので来てくれとのことでした」

「どこから火が出たといっている? すぐに思い当たる節はあるのか?」

「自分には思い当たるようなことはありませんが、デジタコを付けた後ろ側のインパネ付近から白い煙が出て……と言っています」

「わかった。明日は昌博と二人で行け、わかったな」

 話が社員全員に広まると、あけすけに新井に対する批判が噴出した。

「トラックなんかに手出しするからだよ」「図に乗って調子こいてるから、そんなことになるんだ」「仕事をなめてる報いだな」など敵対的な言辞が止まなかった。

 トラックのキャビン(運転席)も正面も焼け落ちて、フロントガラスは溶け、足の踏み場もない黒焦げの物体の塊がキャビンを埋め尽くし、外観は骨組の鉄骨だけの無残な姿になっていた。昌博と新井は初めて見る車両火災の残骸に息をのんだ。

 トラックの周りには、警察、消防署のほかに運転手、トラックのメーカー、デジタコのメーカー、リース会社、損害保険会社の関係者など十数人が立ち会っていた。

 検証は運転手へのインタビュー、証言から始まった。

 トラックが午前五時半ころ一般国道を走行中、デジタコを取り付けている裏のインパネ付近から白い煙が出ているのに気付いた運転手は、車を左側に寄せると煙はキャビン内に立ち込めたために、車外に出ると炎となって燃えはじめた、と証言した。

 運転手への質問は、その他タバコは吸うのかとか、出発前に車両の点検はしたのかなどいくつかの質問がなされて終わった。

 昌博と新井への質問は「これまでに電装品取付に起因する出火や火災というのはなかったか」というものであったが、多摩川電装としては今回が初めてであり、火災に限らず小さな発煙事故も起こしたことはないと答え、それ以上の追及はなくこの日の検証は終わった。

 トラックやデジタコのメーカーも、運輸会社の整備担当者も皆自分たちの責任を回避する様子が見え見えだった。

 帰りの車の中で昌博が言ったことに、新井は安堵するものがあった。

「運行に関する記録を取るのがデジタコの基本的で最大の役目だろう。運行記録は会社で一括管理されているはずだから、そのログを解析すれば、どの時点で出火したのかは判るはずじゃないか。昔のアナログタコグラフ(アナタコ)とは違う。デジタコが出火元でなければ、煙が出て車を左側に停車させていた間のことまでログに残っているはずなんだから、それさえ見れば一目瞭然だろう」

 冷静に考える昌博の話に耳を傾けながら、この人に付いていけば間違いないと、新井は改めてこの会社で仕事を続けようと思った。

 昌博と新井が会社に帰り着くと、全員が二人のそばに集まってきた。

 最古参の先輩社員が口火を切って言った。

「おい、新井、原因はなんだったんだ?」

「まだはっきりしたことは判りません」

「だが、デジタコの裏から火が出たんだろ? 取付作業ミスの可能性大じゃねえか」

「なんでそんなに簡単に決めつけるんですか?」

「日頃のおまえの行いを見ていれば、そうとしか思えねえからよ」

「なんだと! 仕事でいい加減なことなど一回もしたことねえよ」

 新井が喧嘩腰に口を利いた。

「先輩に向かってその口の利き方はなんだ」

「口の利き方の話をしてるんじゃねえ」

「一事が万事同じだと言ってるの」

「トラックやバスの仕事は逃げてばかりいるやつに言われたくねえよ」

「なんだと、もう一度言ってみろ」

「ああ何度でも言ってやるよ。昌博さんが持ってくる仕事にはいちゃもんばかりつけて、社長の顔色ばかりうかがっているのはどこのどいつだよ」

 先輩社員の手が飛んで新井の頬を捉えた。

「二人とも止めろ」

 昌博と山元遼司が飛び掛かるようにして間に割って入った。

「てめえらの退職金が減らないように、会社に代わってトラックの一台分ぐらい弁償してやらあ。こんな会社辞めてやる!」

 新井一浩は捨て台詞を残して、会社を飛び出していった。

「昌博さん、新井が書き残している当日の業務日報を見てみたらどうです」

 山元は昌博にも古参社員のどちらにも付かない、わが道を行くというスタンスを貫いて黙々と仕事をこなしていた。その分今回の事態には、昌博よりもっと冷静で中立的な目をもって見ていたのだった。

「俺、あいつの業務日報見たことあるけど、あいつ、みてくれと違って詳細に書いていますよ」

 日報を読み返した昌博と山元は顔を見合わせて頷き合った。

「デジタコを付けた台数がまだ数少ないこともあってと思うけど、みんなの今後の参考にしてもらうつもりだったんだろうな。かなり詳しく、というより日報以上の取付マニュアル風に書いているね。これは消防署の検証資料にもなるんじゃないかな」

「それだけじゃなく、火災にたいしての多摩川電装の弁明書にもなりますね。写真があればもっといいけど、そこまでは、ですね」

 これだけのことをやっているという自信が、先輩社員に対して過剰な反応をした新井一浩のことを思うと、昌博は切なく、新井のことが愛おしくてならなかった。

 会社を飛び出していった次の日、昌博は新井一浩に電話を入れた。

「新井、俺はおまえにどうしても話したいことがある。明日の夜、俺の家に来てくれないか」

「俺、会社辞めるんだから、もういいすよ」

「そんなことはどうでもいい。後でゆっくり考えりゃいいことだよ。とにかく明日の夜七時に俺の家に来てくれ。そのとき何もかも話す。必ず行くと約束しろよ」

「社長もいるんでしょ、お断りしますよ」

「社長はいない。俺は社長の家とは別のマンションを借りているんだ。和泉多摩川の駅に迎えに行くから、電車で来いよ、わかったな」

 翌日七時、仏頂面をぶら下げて、新井が改札口を出てきた。

「絶対に来てくれると信じていたよ」

「会社は関係ない。昌博さんとのプライベートタイムですからね。もう会社辞めたことだし」

「あっそう、会社辞めたの? まあいいや」

 小さな商店街をぬけて三、四分歩くと昌博の住まいだった。居間に通され、立ち止まった新井は、素っ頓狂な声をあげた。

「なんでここに美香さんがいるんですか?」

「まあ、いいから座れよ。いまから説明するから」昌博がニヤニヤしながら言った。

 食卓には何種類もの料理が並び、まるでホテルのバイキング状態になっていた。美香がビ―ルを運んできた。

「美香さん、俺、おととい会社辞めたんすよ」

 美香が勧めるビールにグラスを差し出しながら、新井は勢い込んで言った。

「聞いたわよ。頬ひっぱたかれて会社を飛び出しちゃったんだって」

「やってらんないすよ、あんなジジイどもと。ろくすっぽ話も聞かないで一方的に俺を悪者扱いですからね。冗談じゃない、だからさっさと会社辞めちゃったんですよ」

「辞めたのか? そりゃよかった、乾杯しよう」

新井は呆けたように口を開けて、昌博の笑っている顔に見入った。美香はそんな二人をニコニコしながら眺めているだけで何も言わず、乾杯につきあった。

「新井が会社辞めた祝いに乾杯したところで、俺が話したかったことを洗いざらい言うからよく聞いてくれよ。トラックの全焼のことはどうでもいいんだ。原因がはっきりしたら、考えればいい」

 トラック火災と、その後の会社内での顛末の話だと思い込んでいる新井は、昌博が何を言い出すのかと怪訝な表情を顔いっぱいに張り付かせて次の言葉を待った。

「つい最近決まったんだけど、今年中に俺が社長になることになった。いまの社長は隠居、以後会社の経営には口出ししないということになった。おふくろも引退だ。どうしてこんなことをおまえに言うかといえば、これからの多摩川電装は、おまえと山元君、俺の三人が中心になって新制多摩川電装を作っていくつもりだからなんだ。俺にとっては、新井、おまえの力、協力が不可欠ということを言いたいためなんだ」

「でも俺、辞めたんすよ」

「また入社すればいい」

「そんな簡単じゃないすよ」

「俺が頭を下げて頼んでもか? 『新井さん、是非わが社に入社してください』って頼んでもか? おまえが「うん」というまで何回でも頭を下げる。諸葛孔明を口説き落とした三顧の礼というのを知っているだろう、三国志の劉備玄徳の話だ。また劉備玄徳と関羽、張飛の三人が義兄弟の契りを結んだという逸話を「桃園の誓い」というんだよな」

「胸にグサッとくるようなこと言わないでくださいよ、俺、見かけによらず涙もろいんすから。……でも考えさせてください。どうしてかって言うと、俺、あのジジイどもが許せない理由があるんです。積もり積もった理由が」

拳を強く握り締めながら食卓を叩いた。

「俺が知らないことか?」

「たぶん知らないと思います。あいつらがヒソヒソ言ってることですから。俺にとっちゃ何ちゅうことないことを、陰でコソコソするのが頭にくるんですよ」

「仕事のことではなさそうだな、いまどき流行りのイジメの類いか?」

「どこで探り出してきたのか知りませんが、『新井は朝鮮人で、腹ん中じゃ何考えているのか、わかったもんじゃない』などと言っては、俺のあら捜しばかりしていやがるんですよ。

こんどの車両火災の当事者が俺だったもんだから、このときとばかりに言いたいこといいやがって。……俺、たしかに在日韓国人三世だったんすけど、早くに日本に帰化しちゃってるんすよ。昌博さん、知らなかったんすか?」

「全然知らなかったし、関心もない。それだったら美香ちゃんに話を、……あっ、俺と美香ちゃん、結婚するんだよ」

 話を振られた美香は、恥ずかしそうな顔の下にも嬉しそうな微笑みを昌博に返した。

「ええッ、よかったじゃないですか。でも俺の帰化の話が、二人の結婚に何の関係があるんすか?」

「わたしたちの結婚に直接関係はないけど……やっぱりね。わたし、そんな陰口風の噂や偏見がいやで、会社を辞めたの。違う色のパスポートで海外社員旅行に行くのがいやでね。わたしも在日韓国人三世よ」

「えっッ、そうだったんですか」

「わたしは帰化してないけど、昌博さんとの婚姻届出して、そのあとで帰化申請するつもりなの」

「俺の計画では、社長とおふくろが隠居したあと、おふくろの後釜を美香ちゃんに任せるつもりなんだ。そうすれば鬼に金棒だろう。俺にとっては、韓国人だろうが、たとえ他の国の人だろうと日本人だろうと、会社にとって何をしなければいけないかを提案できる人間が必要なだけ。これからの多摩川電装を山元くん、おまえ、俺、それに美香ちゃんの時代にするっていうことだよ」

「いいすね。やりましょうよ」

「あれ、おまえ会社辞めたんじゃなかったっけ?」

「またそんな意地の悪いことを言う。何回でも乾杯しましょう」

 これからの電装会社はどうあるべきか、果たして三十年後、五十年後に電装会社というものが存在するのかまで想像力を働かせなければいけないと昌博は真剣に立ち向かっていた。このままの状態がずっと続くとは考えられない。たとえば日本人の生活からゲタや草履を見かけなくなるとは五十年前の人たちには想像もできず、履物を売る商店が街中から消えてなくなるとは思いもしなかっただろう。電気自動車の時代になり、すべての自動車が短時間で、自宅のコンセントから充電が可能になれば、ガソリンスタンドはどうなるのだろうか。焼け付くような車のボンネットが太陽光発電のパネルの機能を果たすようになれば……。昌博の空想はどこまでも広がっていくようだった。

 ――しかし、人間の心だけは、人間の心に響くような精神と姿勢さえ失わなければ、どんな商売でも廃れることはない。多摩川電装が生き延びていくためには、人の心を虜にするような商売をしていけば、そう簡単に朽ち果てることはないだろうと、昌博は考える。

 技術に裏打ちされた顧客満足だけでは、これからの電装会社の将来が保障されるものではないだろう。企業というのは順調なときほど同じことを繰り返そうとする。それが実は停滞だということに気付かないのだろう。だからこそ、何かそれ以上のもの――それが何なのかを山元や新井たちと真剣に考えなければいけないのだと、昌博は自分に言い聞かせていた。

 満足だけではお客は継続したお得意様にはならない。何か一つ余分にお客が喜ぶことができないものか。たとえば目に見えないような塗装のキズがあれば、さりげなく直しておくといった些細なことだ。社長になったならばそれを考え、できることからすぐ実行しよう、それが電装会社のプロショップだろうと昌博は思った。

エピローグ

「あなた大丈夫? 大丈夫ですか」

 まさ子に体を揺すられて昌平は目覚めた。

 昌平の歯ぎしりとうなされる声が交互に続き、眠れなくなったまさ子が昌平に何度も呼びかけている。

 夢を見ていた昌平には「あなた大丈夫よ」と楽観的な言いぐさに聞こえていた。

 たびたび夢に出てくるのは、エアコン修理のクレームでプレステージ自販に呼び出された腹立たしかったシーンだ。どうしてこのシーンばかりが頭から消えないのだろうか。いますぐ修理しろという客の無理強いと、販社担当の客に媚びる態度に、出かかった反論を飲み込んだ思いが歯ぎしりになっていたのだ。疾しいことも臆することもないはずなのに啖呵を切ることのできないもどかしさ。販社からの仕事が来なくなるかもしれないという恐怖心の、ただその一つの理由から下請けの悲哀を味わわされていた。

「どんな夢にうなされているのよ?」まさ子が眠りを邪魔され迷惑そうに聞いてくる。

「…………」

「もう仕事からも解放されて思い悩むこともないだろうに……」

「現実はそうだろうけど、見る夢だけはどうしようもないだろう」

「心も体も癒すために、旅行にでも行きましょうかね」

 四十年続けてきた仕事の数々を思い返しながら、どうしてこうも苦しかったこと、悔しかったことばかりが夢の中に出てくるのかと思う。楽しかったことばかりの夢を見れば歯ぎしりもしなくなるのだろうか。何が一番至福の時だったのだろうかと考える。

 横柄だった客とは真逆の人もいた。エアコンの不具合が直って満足した客の車が走り去っていく様子を見送りながら、自分は根っからの機械好きの修理屋だと実感するときではないだろうか。退院する患者とその家族に花束を渡して見送る医師と看護士たちの気持ちがよくわかる。

「起こしてしまって悪かったな。もう一眠りするか」

「会社も昌博たち夫婦に任せたのだから、思い悩むこともないのよ。あの二人が好きなようにすればいいのよ」

 昌平もその通りだと納得しての隠居だった。昌博が会社の移転にこだわった理由がいまになってわかるような気がする。自動車販社の下請けから脱して、個人のお客と直接向かい合って仕事をしていこうという昌博の考えは、正しいのかもしれない。歯ぎしりするような悔しい思いを昌博はしなくてすむような会社にすればいいのだと、自分に言い聞かせながら、昌平は目を瞑った。

 日曜日の朝、まさ子から昌博の携帯に電話が入った。美香と一緒に家まで来てくれと言ってきた。

 三月の年度の決算も終わり、新年度を期して代表取締役を昌博に託してからは、昌平もまさ子も出社しなくなり、ひと月が過ぎていた。

「せっかくの日曜日だというのに、何なんだよ。俺と美香二人で来てくれってよ」

 ぶつくさ言いながら、朝食の用意に忙しい美香の後姿に向かって言った。

「めずらしいこともあるんだね。まあ一か月、両親の顔も見ないうちに瞬く間に時間が経ったから、わたしたちの顔見たくなったんでしょう」

「たいした用事じゃないだろうけど、行ってやるか」

 多摩川の岸辺に接して建つマンションからは歩いて十分ほどの、両親の住む家へ出向いた。

 リビングのソファーに居たまさ子と昌平が不機嫌そうな顔をして、昌博と美香を迎い入れた。

 黙っている両親を見て、昌博がおどけた口調で訊いた。

「黙りこくってるけど、夫婦喧嘩でもしたの。喧嘩の仲裁なら勘弁だぜ」

 まさ子と昌平は昌博の冗談口に笑いもせず。互いに顔を見ようともしない。

 たまりかねたように、まさ子がやっとのこと話し出した。

「お父さんが旅に出るって言ってるのよ」

「旅に出る? 大仰な言い方だな。いいじゃないか。楽隠居の身になったんだから有り余るほど時間がある。俺たち、新婚旅行にも行ってないというのに羨ましい限りだよ」

「それで何処へ行こうとしていらっしゃるんですか?」

 美香がまさ子に向かって訊いた。当然二人で行くものと思っての美香の質問だ。

「二人で行こうっていうんじゃなく、お父さん一人で行くっていうのよ」

「はあ、どういうこと?」

 昌平に向かって昌博が訊いたが、昌平は何も答えずムスッとしたままだ。

「お父さん、自分で言いなさいよ」

 まさ子が促しても口を開こうとしない。

「しょうがないわね。わたしが言うわ。駄々っ子同然なんだから」

 まさ子は、あきれたといわんばかりの口調で、昌博と美香に話し始めた。

「何処に行くのかと聞けば、『わからん』と答え、目的は温泉保養くらいのことだと思って目的を尋ねれば『目的などない』と訳のわからないことを言う」

ただ一つ「オートバイで行く。ツーリングだ」と言うばかりで、何がなんだかわかりゃしないとまさ子はプリプリしていた。

「こんな年齢でオートバイなんてやめてちょうだい」

 まさ子はそれだけは止めさせようと頑強に反対していた。

「事故ったらどうするの?」

 昌博は美香の同意を求めるようにして言った。

「お義母さんと二人で、電車やバスでいらっしゃった方がいいんじゃないですか」

 まさ子も美香に相槌をうって、頷いている。

「二人でゆっくりしてくればいいじゃないか」

 昌博が昌平を説得するように言うと、昌平がやっと口を開いた。

「一人か二人かは関係ない。俺はツーリングをしたいだけなんだ。だからオートバイだけは絶対に譲れない。バアさんにヘルメット被らせてツーリングできるか? だから一人で行くと言っているんだ」

バアさんにヘルメットという言い方に、その恰好を想像して、昌博と美香は吹き出しそうになるのをやっとの思いで我慢した。

 前夜から「オートバイで行く」「絶対ダメ!」と二人の間はどこまでいっても噛み合わず、まさ子は昌平を説き伏せるために昌博と美香を呼んだのだった。

「もっと酷いことを言うのよ」

 まさ子は自分が言っていることのどこに間違いがあるのかと、美香の手を取って続けた。

「お父さんが何て言ったと思う? 自分が事故るだけじゃなくて人身事故でも起こしたらどうするのよ、あなたたちや小百合など家族みんなに迷惑がいくでしょうと言えば……」

 まさ子は昌平に顔を向けて、この先のことを言っていいのかどうか同意を求めるような表情を作った。

 昌平は壁に架かっている山下清のレプリカに目を向けて一言も発しようとしない。

「家族に迷惑がいかないように、離縁して出かける。離婚届にハンコを押していくから、あとは好きなようにしろって、こうなのよ」

「ずいぶん大袈裟なことを……」

 昌博が笑いながら、あきれたという顔をして言った。

昌博が言い終らないうちに、昌平は美香に視線を向けた。

「美香ちゃん、君が昌博と結婚してくれたことに感謝してるよ。美香ちゃんが昌博のそばにいてくれて会社も万全だ。昌博のこともお義母さんのこともよろしく頼むよ」

「わたしのことなんか心配しなくてもいいの。自分のことを心配してちょうだい」

 まさ子はツーリングなんて絶対ダメと繰り返して言い張った。

 昌平は自分の口下手がもどかしかった。もどかしさゆえに離縁などと心にもないことを口走ったことにちょっぴり後悔していた。

 ――俺が言いたかったのは、そんなことじゃないんだ。三人が俺のことを心から案じてくれるのも充分すぎるほどわかっている。まさ子がこれまでに注いでくれた俺への愛情なんて、言葉に尽くせないほどのものだ。

 山下清の絵に目を凝らしながら、昌平は、まさ子を後ろに乗せて走った河口湖へのツーリングの情景を昨日のことのように思い浮かべていた。あのとき昌平は河口湖へ向かう松林の道を意識して速力をあげ、「好き」と漏らしたのだった。「何か言った?」と聞かれたときに、ただただ恥ずかしさのあまり「何も」と答え、それから四十年もの時間が過ぎた。幸せな人生だったと思う。それでもまだこの年齢になっても自分の考えていることをはっきり言えないのかと、なさけなく思うばかりだ。

――「かくすればかくなるものと知りながら 止むに止まれぬ……」自分のいまの心情にこれほどぴったりの言い回しはないと、吉田松陰の一句が口から出そうになった。

 風の吹くまま思いつくままに旅に出たという山下清にどれほど憧れていたことか。自宅にも会社にも山下清の絵を掲げていた自分の気持ちは誰にも話したことはない。

行先も定めず、気に入った風景や人情に触れると、幾日でも同じ場所に滞在したという山下清のような時間を、仕事を辞めた暁には必ず実行しようと心に誓っていたことを実行に移そうとしているにすぎない。何ものにも縛られず、ときには海岸の砂浜に寝そべっていたり、行き当たりばったりの町や村で、名も知れない子どもたちと触れ合ってみたりしたいものだというのが昌平の夢だった。そのためには交通機関を使っての旅では、山下清になれない。オートバイに勝るものはなかった。せめて今度だけ、たった一回のわがままな旅ができれば、それで充分なのだ。

 家族に何かがあり、便りさえもらえば、いつでも何処からでも帰って来ることができるのだ。昌博と美香ちゃんに子どもができたという嬉しい知らせがあれば、俺は孫の顔見たさに、

飛ぶようにして家に帰ってくるにちがいないと、昌平はそのときのことを空想しながら、山下清の絵から目を離さなかった。(了)