日韓にまつわる126年前の出来事

「10月8日、今日は閔妃が殺害された日ですね」親しくしている友人にLINEメールを書き送ると、間を空けずに数葉の写真が送られてきた。友人とは韓国朝鮮の諸々のことで前段抜きで本題の話ができるのが快く楽しい。もらった写真は岡本柳之助のお墓とその近くに咲いている白い彼岸花の写真である。岡本柳之助といっても忘れられた人物かもしれないが、1895年10月8日に朝鮮の国王妃の閔妃を殺害した一団の一人である。

photo: https://tb.antiscroll.com/profile/goolee

時の日本公使であった三浦悟楼を中心とした日本公使館守備隊、日本人壮士の一団と反閔妃派の朝鮮人の一団が漢城(現ソウル)の景福宮に乗り込み閔妃を殺害した一大事件である。その主要人物が岡本柳之助である。送られてきた写真は東京大田区の池上本門寺に埋葬されている岡本柳之助のお墓の写真である。

事件は日清戦争終結の年に起きた。日清戦争後三国干渉をリードしたロシアは朝鮮の親露派に取り入り、日本の勢力を排斥しようと画策し、朝鮮半島の支配権を確立しようと目論んだ。その親露派の中心人物が閔妃であったことから、ロシアの朝鮮への進出は、朝鮮半島をめぐる日本の安全保障にとって由々しき事態であることに苛立ち、閔妃の除外が必須となった。それが閔妃殺害へと繋がっていった。

朝鮮半島での利権の獲得を目指すロシアと、半島での勢力維持に必死の日本という構図の中、閔妃亡き後の国王高宗は自身の保身保護を求めてなんとロシア公使館に逃げ込むという前代未聞の行動にでたのである。我館(露館)播遷といわれている。ロシア公使館に籠ること一年であった。

中国の属国の呪縛からようやく逃れたあとは、ロシアを頼みとするという事大主義(寄らば大樹)の面目躍如である。それからの10年近くは世界の列強の角逐、対立、協商の時代に翻弄され、日露戦争を経て韓国併合へと繋がっていくことになった。

日韓間にあっては閔妃殺害という前代未聞の事件もまた現代の日韓関係の確執対立に繋がる、韓国にとっては怨念こもる事件であったといえよう。

友人に送ってもらった写真を眺めながら、今の冷えきった日韓関係には根の深いものがあることを再認識させられている。根が深いといえば写真の彼岸花であるが、韓国では彼岸花は「相思花(サンサファ)」という。土の中ではそれぞれの根っこがつながっている花だからであろうか。彼岸花のように日韓が互いに相手の国のことに思いを馳せて寄り添うことができる日が訪れるのを願うのであるが、そんな日が来ることがあるのだろうか。永遠に理解し合えない間柄だとすれば寂しいかぎりでもある。

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彼岸花は日本ではいくつもの呼び名があることはご存知の通り。曼珠沙華、死人花、狐の松明などなど。筆者はそのうちの一つの呼び名捨子花」という題名の小説を書いています。少し長い小説ですが是非ご一読を(洋一)

捨子花すてごばな(その1)
太平洋戦争末期の学徒動員、つづく日韓における終戦と解放により別れざるを得なかった愛し合う日本人と朝鮮人の学生、二人の間に生まれた子はどう育てられるのか…
捨子花すてごばな(その2)

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