眞子内親王と李方子妃

眞子内親王の結婚のことがマスコミやSNSでは何かと騒がしく、それも非難じみた文章を見かける。そんなに大騒ぎすることなのかと疑問に思っている。静かに見守っていればいいことではないのだろうか。

皇族だから仕方がないということかもしれないが、皇族である前に人格を保障された一人の人間なのだ。しかも結婚は誰にも干渉されることのないきわめて個人的で基本的な権利で、民法で保障された両性の合意のみで成立するものではないのか。

根源的な個人の権利が最優先で尊重されるのが現憲法で認められているものならば、皇族であれ誰であれ周りや他人が立ち入る領域ではないと思う。生まれたときからほぼ自分の意志で行動することが許されない環境がどんなものなのか市井の者には想像が付きかねるが、想像以上に個は制限されているに違いなく、その重圧たるや相当なものであろう。

そんな中で唯一自分の意志が許される自由が愛する人との恋愛や結婚だとすれば、それがどんな形のものであれ本人以外の何人もが口出し邪魔だてするものではないと思うのは何か間違った考えなのだろうか。

眞子内親王の結婚で思い起こされることがある。ほぼ100年前の梨本宮(なしもとみや)家の方子(まさこ)内親王と、当時日本の皇族に準じる王族としての扱いだった朝鮮李王家の王世子であった李垠(イウン)殿下との結婚である。当時15歳であった方子(まさこ)内親王は、自分の婚約をたまたま目にした新聞によって知ったとの由。青天の霹靂としか言い様のない一方的な決定を受け入れるしかなかったという。

旧憲法下の皇族とはいえ、一人の人間としての人格は一切無視され、政略結婚というレベルを超えた酷いといえるほどの婚約決定と結婚を健気にも受諾された方子(まさこ)内親王の胸の内はいかばかりであったろうかと同情を覚える。そして現在、眞子内親王が心的病いに患わされているほどであるのなら、その胸中を李方子(まさこ)妃に存分に吐露できるのであれば、どんなアドバイスをもらうことができたのだろうと空想をしてしまうのだ。

以下、眞子内親王と李方子(まさこ)妃の架空の会話

李方子妃「あなたは想いを寄せる人と一緒になれるのだから幸せでしょう。周りのどんな声にも煩わされずご自分の意思を貫徹できる時代に感謝し、静かで質素な生活をなさったらいいわ」 

眞子内親王方子(まさこ)さまはお幸せでいらっしゃいましたか」                     

李方子妃「精一杯生きることができて幸せでした。ただ一つだけ取り除くことのできない心の刺がございます。それは……、わたしにも李垠(イウン)殿下にもどうすることもできないことでした。わたしどもの結婚が決まったとき、実は殿下には既に許嫁の方がいらっしゃったのです。あとになって聞かされたことです。それを知ったときから、その方のことがわたしの頭から生涯離れることはありませんでした」

李垠イウン殿下の許嫁の名前はミン甲完カブァン。彼女は李垠イウン殿下と梨本宮(なしもとみや)方子まさこ内親王の婚約が発表されて以降生涯独身を強いられ、存在さえも否定されるような一生を送ることになった女性である。朝鮮の王家では婚約が取り消されただけでも他との結婚は許されなかったからである。閔甲完は中国上海で長い年月を身内に見守られて過ごし、戦後ようやく韓国へ居を移すことができたが、薄幸で孤独な人生であったろうと思う。tb.antiscroll.com/novels/goolee/23755

架空の会話の続き

眞子内親王「戦後大変なご苦労をなさったとうかがっております」

李方子妃「戦後皇籍離脱となり、わたしたち二人は日本国籍も失くしました。俗世間のことは何一つ知らず生きる術などわかるはずもありません。生きるためには身の回りの物を売ってお金に替えることくらいしかできない、いわゆる竹の子生活というものです。お財布を持ったこともなくお金の使い方さえしりませんでした」

眞子内親王「心の支えは何だったのですか」

李方子妃「何としても殿下をお守りすること、元皇族としてどんなことがあろうと皇室に泥を塗るような言動をしないこと、それに(ミン)甲完(カブァン)女史の苦しみに比べれば、どれほど自分は恵まれていたかを考えるようにしたのです」

眞子内親王「わたくしにアドバイスをいただけるとしたら何を」

李方子妃「皇室という特殊な環境で生まれ育った人間の苦痛など理解できる世間の人々なんていません。しかし世間の噂や誹謗中傷など時間が解決してくれます。質素に世の人々から後ろ指さされるような言動にさえお気をつけて生活なされば、世の人々は少しずつあなたの結婚を、そしてあなたを理解してくれるようになるはずですよ」

眞子内親王「心強いお言葉、肝に命じて決して忘れません。またお話聞かせていただければと思います」

筆者が勝手な架空話を作りあげてしまいましたが、実は筆者は1982年の5月に李方子(まさこ)妃の住まいであったソウル昌徳宮内の楽善斎に伺う機会があり、生前の李方子(まさこ)妃にお目にかかったことがあります。元皇族であられたオーラを感じたことを覚えています。

春は花見の名所となる千鳥ヶ淵のすぐ近くに鍋割坂という小さな路地のような坂がある。明治時代には坂に接するように梨本宮邸があった。李方子妃が幼少期を過ごされたところだ。しかもその邸はまた曰く因縁の建物でもあった。「マグノリアが咲くまでに」という作品にそんなくだりも書いた。書いている3年ほど前に歩いてみたところである。(洋一)

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