切ない銅像

一 悲しい空白 

「元慰安婦」という言葉が私は大嫌いです。「元」があろうとなかろうと「慰安婦」という呼び名に心底抵抗があります。

 数年前に「慰安婦像」と呼ばれるものがソウルの日本大使館前に据え置かれました。最近はどういう理由かわかりませんが「少女像」というそうです。その呼び名はもっと嫌いです。 確かに私は世間でいう旧日本軍の「元従軍慰安婦」です。私と同じ境遇におかれた女性が何人いたのかは知りませんが、「元慰安婦」の象徴になっているのが、通りを隔てた日本大使館を正面から見つめているように置かれた赤銅色の銅像です。像を置いた人たちの考えていることは別にして、その像(私自身や私と同じ経験をした女性たちを表現したもの)は私には縁遠く別世界の有り様にしか思えません。私の長い年月の思いとは交わることのない作り物なのです。

 先の太平洋戦争中に日本軍兵士の性的な慰み者として私の青春を、いや人生そのものを軍靴で踏みにじられたことは紛れもない事実です。九十歳になるまで生きてきたことのほうが不思議なくらいに残酷な九十年でした。これまでの全部を語り尽くすことなど到底できるものではありませんが、わずかなりとも人生の一端をお話する都合上、私の仮の名前を「英順(ヨンスン)」ということにしておきましょう。しかしこの物語は「像」を主人公とした物語ですから、何人もの違った「私」が登場します。英順が最初の「私」です。

 私の居る所へは、途切れることなくさまざまな人たちが訪ねて来ます。韓国人に限らず多くの日本人もです。一度見ておこうという好奇心だけの人もいるでしょうが、大方は何らかの考えや像への思い入れをもっている人だといえるでしょう。それも男性よりも女性が多いのは同じ女性同士としての思いが強いからといえるのではないでしょうか。

 爽やかな五月晴れのある日の昼下がり、二人の女子高校生が周りの様子を気にするようにして私に近づいてきました。小ぶりのかわいいフラワーアレンジメントを手にしています。

 いつも交代で番をしている女子大生が二人に声をかけました。

「ハルモニ(おばあさん)に会いにきてくれたの? ありがとう」

 二人の高校生ははにかむように頷きました。

「あなたたちどこの高校?」

「城東区のM鶴女子高です。これをハルモニ(おばあさん)に」

フラワーアレンジメントを差し出しながら答えました。

「あら優秀な学校の子たちだこと。今日初めてここに来たの?」

「ええ。授業でおばあさんたちのことを聞いて、居ても立ってもいられなくて来ました。何を持って来たらいいかもわからないので、こんなものを。私たちの気持だけでもと思って」

「関心をもって、来てくれただけで充分なのよ。それにしてもこの花上手に作ってあるわね。二人で作ってくれたの?」

「いえ、明洞(ミョンドン)のロッテヤングプラザで買ってきました」

「あら、私もよく行くわ。あそこはいろんな素敵なお店がたくさんあるから好きよ」

 ロッテヤングプラザ? ビクッとしました。一度も行ったことはありませんが、私(英順)には決して忘れられない建物です。十七歳の秋、江原(クヮンウォン)()の田舎から風呂敷包み一つだけ手にして、白木綿のチョゴリに黒いチマという着の身着のままで初めて(けい)(じょう)(現ソウル)に連れてこられたときに、一週間を閉じ込められて過ごした忌まわしい建物なのです。当時は丁子屋百貨店と呼ばれたデパートでした。戦争が激しくなって売り場が取り払われた四階が、私たちが閉じ込められたところです。三十人はいたでしょうか。窓には鉄の桟がはめ込まれていました。夜になってもうそ寒く、街の灯りはなく、戦時色が立ち込めていたのが印象深く残っています。

 寒さが忍び寄ってくる上に、どこに連れていかれるのか不安な中、モンペと呼ばれる足首をゴム紐でしぼったズボンと、綿入れの日本風上着が全員に配られました。私たちには慣れない着物ですが、寒さを凌ぐには仕方がありません。文句などもってのほかでした。

今そばにいる女子高生たちの制服のなんとおしゃれなことでしょう。グレイと紺色がチェックになった膝上までのスカート、白い清潔そうなブラウスとスカートの柄が対になったベスト。同じ年頃の時代に私もこんな素敵な洋服を一度着てみたかった。高等学校どころか、家が貧乏で私は普通学校(小学校)にも行かせてもらえませんでした。両親はわずかばかりの小作と日雇いの定まらない雑役作業をする農民。歳の離れた姉は嫁にいったまま家に寄りつくこともせず、両親、弟二人との五人暮らしは一年中白い米にも肉の一切れにも縁のないものでした。

私は十歳にも満たないころから、近隣の地主両班(ヤンバン)(特権階級)の屋敷に子守奉公にだされ、ただ食べさせてもらうだけの給金ひとつない惨めな生活をしていました。何事も親が決めるがんじがらめの時代では、言われるままにするしかない極貧の家庭だったのです。

私の赤銅色の手に手を重ね、髪を撫でている二人の女子高生は物には何の不満もなく、いつも手をつなぎ、今が楽しくてしかたがなく笑いさざめきながら、明日に胸をときめかせて青春を満喫しているのでしょう。どこまでも広がっていくと信じて疑わない将来に大きな夢を羽ばたかせている様子が、手に取るように私に伝わってきます。私も白いご飯をお腹いっぱい食べて、肉のスープも飲んでみたかった、パーマもかけてみたかった、色鮮やかな晴れ着のチマ・チョゴリに身を包み、乙女らしい正月を過ごしてみたかった。ああ、お嫁さんにもなり愛を誓いあった証しの、結婚式には欠かせないキロギ(木彫りの雁)も抱きたかった。何一つ叶うことのない悲惨な十代を過ごさなければならなかったわが身を呪うばかりです。わが身一つも家族も、それがどうすることもできない運命だったとあきらめるしかありません。

十七歳になった年の秋のことですが、突然、話があるから奉公先に暇をもらって家に帰ってくるようにと言われました。家に帰れることだけでうれしかったのを憶えています。しかしそれが私の人生を狂わせる帰宅だなんて思いもしませんでした。

「英順や、話というのはこういうことだ」

やっと人の顔が見えるランプひとつの薄暗い家の中で、アボジ(父)がボソボソと話し辛そうに切り出しました。飛んで帰ってきたときは涙を流して迎えてくれたオンマ(母)は、そばに座って繕いものをしながら顔をあげようとはしませんでした。

「我が家の暮らし向きはよくなるどころか、にっちもさっちもいかなくなるばかり。おまえもわかっていると思うが、今年の夏は旱魃で、収穫らしい収穫がなかった。それでも十あれば七は小作料に取られる。六にまけてもらっても、小作料を納めると来年の種籾を残すのがやっと。もう一家して路頭に迷うしかなくなっている」

 アボジは力なく私に哀願するように続けました。

「小作人を見回っている高さんから、いい働き口があるからおまえを預けないか、悪いようにはしないと言ってきた。おまえにはすまないが、アボジの願いを聞いてくれるか?」

「どんな仕事なんでしょうか?」

 私にできることなのかどうか不安になって聞きました。私にできるような仕事であれば断われるはずがないとわかっていました。親に逆らうどころか、親に孝を尽くすのが人としての勤めと教えられ、それは身に沁みていました。朝鮮人にはそれが当然のことだったのです。

「おまえが承知してくれれば、小作の田を一枚追加してまかせてもいい、と言ってくれている。そうなればなんとか今年から来年食いつなぐことができるかもしれないのだ」

 そこまで聞かされて親のいうことに逆らうなど、もってのほかだったのです。

「仕事は兵隊の着るものの洗濯や裁縫などの手伝いだと言っている。軍隊の仕事であれば途中でお役御免になることもなく安心だ」

 私にもできそうな内容に少しホッとはしましたが、どんなところへ連れていかれるのか不安もありました。しかしわずかとはいえこれまでとは違って給金ももらえるとなれば、実家に送金もできるかもしれないという甘い考えも頭をよぎったことを憶えています。そして連れて行かれたところは、逃亡も叶わない広大な原野や畑が続く満州の果て、板に土を塗り込めただけの囲いでできた粗末な建物、室内は三メートル幅くらいに薄っぺらの板で隣と仕切られた畳三畳ほどの広さ。向かい合わせに二十ばかりの部屋が並んでいます。入り口の戸に鍵などありません。床の敷物といえば莚の上に薄い布団だけ、それが慰安所という地獄部屋でした。まるで乳牛の飼育場まがいです。

給金などごくわずかな身の回り品を買えば手元にはなにも残りません。私たちを管理する人に言われたのは、「おまえたちには莫大な前渡金が親に支払われている」という情け容赦ない答えだけだったのです。本当かどうか確かめる手段もありませんでした。私と同じような扱いを受けた女たちに聞けば、それはほんとうなのだと思えました。それが小作の権利を追加できた理由だったのだと思い知らされました。地獄の一里塚となった京城(ソウル)までの汽車賃も前渡金の中に含まれていたのです。

 少しでも両親と家の足しになればと考えて親に従ったのに、戦争が終わって実家に連絡してみれば、実は私がいなくなった翌年の夏に父親は亡くなっていたのです。死因は肺炎をこじらせ医者にかかるお金もなく亡くなったということでした。胸の病気だったとだけ聞かされました。当時は不治の病といわれた肺結核だったろうと思います。栄養を充分摂って安静にしていることがもっとも大事といわれたのでしょうが、貧乏な我が家では医者にかかるよりも難しいことだったのです。弟たちが言うには身体もさることながら、私を遠くへ行かせてしまったことの申し訳なさからくる心労が祟ってのことだったのではないかと言うのでした。父親には私がどんな仕事をするかが分かっていたとしか思えません。私に合わせる顔がなかった、ひどい親だったという後悔が父親の体をさらに悪くしたとしか思えません。その父親にも私が獣のような扱いを受けた慰安婦の実態は想像もできなかったのではないでしょうか。

 私が慰安婦だった時間は、自分の年齢、月日や曜日といった感覚さえもが消えてなくなっていました。どこの誰だったかの感覚もなかったかもしれません。人間ではない、ただ息をしているだけの生ける屍同然だったのです。空洞の三年間です。

 学校にも行けず、貧乏というのがどれほど人間を不幸にし、貧乏は軽蔑や差別の対象になる時代でもありました。誰を、何を恨めばいいのでしょうか。いま目の前にいる女子高生たちには想像もできない時代と境遇に私は生きてきたのです。

「あなたたちがここに来ることは、家の人たち知ってるの?」女子大生が訊きました。

「いや知りません。わたしたち二人で決めてきたんです。クラスメートも両親もほとんど関心ありませんから」

「韓国国民ならみんな関心をもってもらわなくっちゃね。あなたたち感心ね」

「母親の関心はわたしたち子どもの進路のことと自分のダイエットのことばかりです」

なんと幸せな子たちでしょう。なんと恵まれた母親たちなんでしょう。私のオンマや私とあまりにも違いすぎる。わたしが家を出て行ってからオンマ(母)はどんな思いで過ごしていたのだろうかと思うと胸が張り裂けそうです。

私は家に手紙のひとつも出したことがありません。私もオンマも字を書けなかっただけではないのです。日本軍に引きずられるようにして付いて歩く生活では、もし字を書けたとしても手紙を出すなど不可能だったのです。オンマも学がない上に嫁しては夫に従い、老いては子に従う男中心の考えに染まり縛られた一生でした。私がどんな時間を過ごしていたのかオンマはなにも知らされていなかったのではないかと思うと哀れでなりません。もし知ることにでもなればオンマはたぶん気が狂ったかもしれません。戦争が終わって自由の身になった後も、私はオンマに会わずじまいでした。会えば嘘をつくか言い繕うしかなかったでしょう。絶対に口にできない恥ずかしすぎる三年間だったのですから。アボジにもオンマにも会うことなく私はソウルでいくつもの雑役のような仕事口を捜して今日まで生きてきたのです。

二 朝鮮人女衒(ぜげん)

 私は慰安婦像、名前は「秋純(チュスン)」ということにしておこうかしら。連れていかれた慰安所では「秋子(あきこ)」と呼ばれていました。いまは名前で呼ばれることよりも、ハルモニ(おばあさん)といわれることのほうが多くなったけれど。ずいぶん年取ったもんだわね、だってもうすぐ九十歳だもの。

 私の後ろのほうで男二人が議論、というよりも何か言い争いをしているようだけど、私は大使館に向き合っているだけで後ろを振り向くことができない。

今日は水曜日で毎週開かれる集会とデモの日でした。日本大使館に向けての抗議集会はもう千回を超えているとかで、天気が悪かろうと何しようと中止になることはない。銅像自体が千回の集会にあわせて支援者が設置したものなんだけど。集会の参加者たちは思い思いのプラカードを手にして「日本の首相は謝罪しろ! 謝罪しろ!謝罪しろ!」「日本政府は反省しろ! 反省しろ!反省しろ!」と声を張り上げていました。

そんな集会参加者がほぼ掃けて静かになったあとなので二人の声がやたら大きい。何を話しているのかしらと聞き耳を立てていると、年寄り風と若者の声がはっきり聞こえてきました。

「わしはこの近くの敦義(トンウィ)(ドン)に住んでいて、毎週この集まりを見ているが、やってることはムチャクチャじゃないか」

「なにがムチャクチャだというんです?」

「だってそうだろうよ、慰安婦問題にはなんの関係もない連中までもが、集会に便乗して国定教科書反対だのセウォル号の真相究明だの、朴槿恵政権糾弾なんてことに大声出して、日本大使館に向かってなんの意味があるんだ。日本人は倫理的道徳的にわが民族よりも下等で昔から禽獣のような民族であるから、何事も正しく優秀なわが民族は、日本に向かってなら何をやってもいいという反日無罪、反日正義か。それがムチャクチャだというんだよ」

「基本は慰安婦問題の日本の責任を追及しているんですよ。ハラボジ(おじいさん)は、慰安婦だったおばあさんたちの無念を晴らそうとは思わないんですか? そのためには日本の法的責任を明らかにしなくてはなりません」

「糾弾すべきはただ一点のみ。道徳的人道的責任だ。法的責任なんて日本にはない」

「法的責任がないなんてどうして言えるんです? 日本軍は年端もいかない若い娘を強制的に拉致連行して慰安婦にしたんですよ」

「それは違う。解放(終戦)時にわしは十五歳だった。その当時はこのソウルでも新町といって、――いまのアンバサダーホテルがあるあたりだ――そこには法律で認められた遊郭があった。多くの娼妓がいて、もちろん日本人も朝鮮人の娼妓もいた。それが中国から東南アジアにまで広がった日本の軍隊に付設するようにして慰安所があった。軍の部隊が移動するたびに慰安所も移動した「移動遊郭」なのだ。いまの移動ATM車が需要に応じてそこかしこに出動するようなもんだ。その制度のどこにどんな法的責任があるというのだ。法で認められた制度なんて庶民には冷酷なものだ。いまの価値基準で七十年も八十年も昔のことを追及しても現代の日本政府に非を認めさせることなんてできるわけがない」

「日本の軍隊はいたいけなわが国の少女たちをだまして強制連行したというのに、どうして法的な責任がないといえるのです、ボケたことも休み休みに言ってくださいよ。ハラボジ(おじいさん)とは話にならない。あなたは親日派そのものだ」

「事実をいうのが親日派だというのならそれで結構。しかしまるで見てきたようなことを言うんじゃないよ。」

「その居直った考えが親日派そのものですよ」

「別に居直っちゃいない。わしは開城(ケソン)近郊の農村地帯で生まれ育ったが、たしかにわしの村からも慰安婦になった女性がいたということを聞いたことがある。しかし強制的にまるで誘拐するようにして連れていかれたなんて聞いたことがない。もしそんなことがあったら村中の人たちが暴動を起こしているよ。わが民族が日本に被支配民族を強いられていたとしても、まがりなりにも当時の日本は法治国家だった。拉致誘拐みたいな犯罪行為が通るわけがない。万に一つそんなことがあったとして、その時は屈辱に耐えて暴動までに至らなかったとしても、連行が事実であったとしたら、解放時にそこに住んでいた日本人を襲って復讐をしたとしてもおかしくない。日本人に怨みをもっていた村人がいたとしても、ごく一部の人間が個人的に報復をしたかもしれない。そんなことはわしが知っているかぎりなかった。せいぜい開城(ケソン)の町中で、日本人はとっとと日本に帰れ、とシプレヒコールしていた連中がいたくらいだった」

「警察や面(村)事務所が圧力をかけて連行したというではないですか。それでもなんの咎めもなくて謝罪もしないというんですか?」

「日本の警察や権力者はそんなに間抜けじゃない、法に触れないもっと巧妙な手をつかったのだ、女衒(ぜげん)という仲介人を使って。女衒も下っ端の巡査もその多くが朝鮮人だったことも事実。言葉巧みに慰安婦にするにしても朝鮮人の女衒でなくてはできなかっただろう。なぜなら当時朝鮮人並みに朝鮮語を駆使して若い女性を連れ出すことのできる日本人なんてほとんどいなかった」

「ハラボジの言うことを聞いているとまるで日本の右派の連中が言っているのと同じにしか聞こえない。腹が立ってきました。気が短いやつだったら怒り出しますよ。ハラボジは韓民族としてのプライドというものがない」

「なにをいうか、わしは冷静で公平な見方をしてこそ日本にどんな責任、真の責任がどこにあるのか指摘できると言っている。君たちみたいに自分に都合の悪いことは隠して、一方的に日本を責めてもこの問題は解決しない」

「あなたはまったく親日派そのものだ。昔の人間はすぐに日本の肩を持つ。都合の悪いことを隠すとは何を指して……」

「慰安婦を集めるには大半が朝鮮人の仲介人を通してという点だ。そのことに触れず、あたかも日本軍が直接手を下したように喧伝していることだ。そうではなく仲介人が権力者に媚びる卑屈な節操のなさと、彼らの金銭欲を巧みに利用した間接的な強制性こそ非難すべきなんだ。それが道義的責任の追及というのじゃないかね。わしが親日的といわれるのは心外も甚だしい」

 五十年もの間、私(秋純)は自分の過去をひた隠しにして、ただ、たった一人の弟以外忌まわしい過去をだれにも話したことがありませんでした。一九九五年になって、弟に促がされ、初めて自分が日本軍の元慰安婦だったことを名乗り出ました。日本の政府が中心となって、民間からの募金名目で「アジア女性基金」というものが立ち上げられ、アジアの元慰安婦だった者に日本円で二百万円の「償い金」が支給されることになったからです。正直そんなまとまった金が手に入るのは大助かりでした。束縛から解放されてこのかた生き延びることに精一杯だったし、投げやりになって自殺しようと思ったことも一回や二回ではありません。どこまで運に見放された人生かと生まれてきたことを呪わずにはいられませんでした。いま私の後ろから聞こえてくる、対立する議論の内容なんて私にはどうでもいいこと、今ごろになって謝罪がどうの責任がどうのと小難しい論争ばかり。二十年以上前から日本に釈明謝罪を要求しているという運動家たちもいますが、私に言わせると、それじゃそれまでの四十年、五十年の、私たちへの社会や政府の無関心はどうだったのという納得いかない思いが私の中には強くあります。でもこの話は私には難しすぎるからやめときましょう。私が言いたいのは、何もかも貧乏が私の人生をムチャクチャにしたんだということです。この歳になってもう欲しいものなんてありません。ただ静かな生活がしたいだけです。そのために老後の生活に必要な最低限のお金があればそれで充分だったの。だからまとまったお金がもらえるというのに名目なんてどうでもよかった。なぜこんな人生になってしまったのか順番立てて考えることも億劫になりました。

 私もだまされたといえばだまされて慰安婦にさせられたのだけど、根っこにはやはり貧乏があったことには変わりはなかった。物心ついたときには京城(ソウル)駱山(ナクサン)のいちばん高いところあたりに、両親と生まれたばかりの弟の四人で、土幕とよばれる筵だけで囲った掘立小屋に住んでいた。周りの家もみんな日銭稼ぎの家族ばかり、父親はチゲクンという背中に背負子を背負って荷物を運ぶ仕事の、なんの保障もないその日暮らしの人夫だった上に、やっと手にしたわずかばかりの駄賃はその日のうちにアボシの酒代に消えていった。オモニや私、弟は幾日も食事らしい食事にもありつけず、お腹が膨れた欠食児、栄養失調状態だった。学校なんてもちろん行ったこともないし。町の中で缶詰の空き缶や小さな鍋をもって食べ物をもらい歩くのが毎日の日課みたいなものだった。人家に行っても追い払われてばかりだったので、朝鮮人町の鍾路(チョンノ)通りの食堂や居酒屋の裏口に行き残飯をもらって歩いた。そんな中で――世の中にはいい人もいるもんだよ――一軒の居酒屋の主人が裏の仕事を手伝ってくれたら、駄賃は出せないけど三食は食べさせてくれるという人がいた。私はその情けに飛びついた。実際は昼と夕食だったけど。食べさせてもらったうえに、夜遅く帰るときにはお釜のおこげを新聞紙に包んで持たせてくれることもあった。それをスンニュンにして家族が貪るようにして食べた。なに、スンニュンがわからないって。今どきの若い人は知らない人もいるんだね。おこげに湯をかけただけのお粥みたいなもんだよ。十五歳になったばかりだった。でもその居酒屋が私の運命の分かれ道になるなど思いもしなかった。裏方の仕事は使い走りや汚れた食器洗い、ゴミ処理といった雑事ばかりだけど二年近く続いたわね。

ある夜、お店がハネたあと、その日は客も少なくて余ったものも多かったせいか、主人がたまにはいいだろうといって、店の者にちょっとした食事を振舞ってくれた。一人馴染みの男性客も交えての食事になったんだけど、私にとっては久しくなかった食事らしい食事で、食べることに夢中だった。その場で男性客が唐突に私のことを言い出したのがきっかけでそれが話題の中心みたいになったの。

 主人と男性客は私を肴にマッコリを飲み始めていた。

「この()はよく見るとなかなか整った顔をしていて美人じゃないか。その手入れしていない髪はいただけないが……」

「たしかにうちに来たときはまだ子どもで目立たなかったけど、十七にもなるといい娘になるんだね」

「店に出せば評判の看板娘になること請け合いだよ。おれがこざっぱりした服くらい買ってやってもいいよ」

「秋純、どうだ、やってみるか。仕事の具合によってはわずかだが給金を出してもいいよ」

「そうしたがいいよ。決まりだね」

 いくらくらいの給金をもらえるのかわからなかったけれど、私は二つ返事でお店に立つことになった。自分が行けなかった分、弟を国民学校(小学校)に行かせてあげたい、男の子はせめて国民学校くらいは出ていなくてはと、自分のことのように思ったわ。

 店に出るきっかけを作ってくれた客は、自称(パク)といい、外では日本風の名前で松木と名乗っていました。年齢は三十歳独身、朝鮮内で作られるこまごまとした石鹸のような日用品類を満州の日本軍に納める商売をしているということだった。軍を相手の商売で羽振りがよさそうだった。私が店に出るようになってからは、それまでにも増して頻繁に来店し、私と松木は親しく口を利くようになっていった。一九四二年の冬のことでした。

 朴は店に顔をみせるたびに、励ましややさしい言葉をかけてくれ、私の中では次第に信頼の気持が芽生えていった。「なにかあればわたしに相談しなさい」と言われれば、他人にこれまでそんなことを言われたこともなかった私にとっては、朴はかけがえのない親切で頼り甲斐のある人に思えるようになるのは自然なことだった。親しさが増すにつれて、朴は私の家族のことや住まいのことなどを聞いてくるようになったの。

「どこに住んでいるの?」と聞かれたときは、いくら信頼をおき始めていたといっても本当のことは言えませんでした。貧富の差は身分の差と同じことが朝鮮社会だから、特に住んでいる家のことなど身分の差が一番はっきりわかるものなのです。長じるに従って乙女らしい羞恥心が頭をもたげてくるのも道理でしょ。貧乏だということには耐えられても、まさか駱山の土幕に暮らしているなんて口が裂けても言えるものではありませんでした。

「東大門の外れに家族四人で住んでいます」と嘘をついていました。

 ほんとうのことを知られるのを、私は恐れていました。店の主人に聞けば、私が物貰いをしていたことなど一目瞭然です。もしそのことが朴に知られたら私は即座に店を辞めたと思います。朴はそれ以上のことを一度も聞いてはきませんでした。ずっと後になって、朴は私のことを全部調べ尽くして知っていたのかもしれないと思うことが何度もありました。しかしそのころは私も疑うということを知らない(うぶ)な子ども同然だったのです。

 朴は時間が経つにつれて言葉だけではなく、ときには石鹸やタオルなどをくれました。

「これはおれの扱っている商品だ。居酒屋は男客相手の商売の手伝いなんだから身の回りをきれいにしなくちゃな」と気遣いまでしてくれながら、こんなことも言いました。

「秋純、おまえは美人だから言い寄ってくる男もいるはずだ。だけど身持ちだけはしっかりしてなくちゃいけない。それが将来の自分のためだよ」

 物心両面から何くれとなく気をつかってくれることに、私もいつしか朴にほのかな想いを寄せるようになっていったのです。

 顔見知りになってから三ヵ月も経った春のことです。

「この店を辞めておれの仕事を手伝わないか。いつまでもこんなことしているよりもちゃんとした仕事をすれば、お金もいまよりずっといい実入りになる。おれは二週間ばかり仕事で満州へ行って来る。その間に考えといてくれ」

 社会の最下層でうごめき、そこから抜け出るどんな伝手もきっかけもなく将来の見通しも立たない人間にとって、思いもかけないおいしい話をきかされたら、どうすると思います? それは一も二もなくその話に飛びつくのが人間の悲しい(さが)でしょう。そこにどんな甘い罠が仕掛けられているかもしれないなんて疑いもしないし、冷静に考えるなんてこともできないものよ。余裕がない人間ほど簡単にだまされるということに気づくのは、痛い目にあったずっと後なのね。

「考えておいてくれ」と朴に言われたときに、私はその場で「やりたい」と返事をしたかったくらいに舞い上がっていました。なにか手におぼえがあるわけじゃなし、ましてや学校にもいってない私に、ちゃんとした仕事をさせてくれるというのよ。渡りに船どころではなく、やっとまともな人生を歩みはじめることができる最大のチャンスが巡ってきたのだと考えるのが普通でしょ。

 満州から戻って来た朴の言葉は、さらに私の想像をはるかに超えるものだったのです。

「満州に家を買った。これからはそこを拠点に商売をしなければいけない。おれは満州の奥の方から南は中国の上海あたりまで広範囲に動くことになる。そうするとどうしても拠点での留守番が必要になる。それを秋純、おまえさんにやってもらいたい。カギャ、コギョ(日本のあいうえお)は書けて読めるんだから。ああ、そんなに心配そうな顔をするなよ、満州の拠点といっても朝鮮の目と鼻の先にある新義州の隣町、鴨緑江を挟んで向かい側の安東(現 丹東)だから朝鮮みたいなものだよ。朝鮮人も多いし心配することは何もない。どうだ、行ってくれるか?」

 そこまでの話なら私もまだ驚くほどのことではなかったのだけど、突然姿勢を正して真正面から鋭い眼差しで朴に言われたことに、私は何も考えられなくなってしまったの。

「ただ安東へ行ってくれというんじゃないんだ。すぐでなくてもいい、できることならおれと結婚をして欲しいんだ、いや、その前提で安東へ行ってもらいたいと考えている」

 一家四人がやっと生きているだけの私は、結婚なんて考えたこともなければ、そもそも私が将来結婚をするなんてことがあると思ったこともなかった。

 さらに朴はもうひと押しするかのように、耳ざわりのいいことを誠実そうな表情を作って言ったわ。

「いざ満州へ行くとなれば、少ないとはいえ準備にお金も要るだろうから支度金も渡す」

 朴が用意した二百円というお金は、私にとってはアボジと私の二人して一年間働いても得ることのできない金額でした。

 朴はさっさと手際よく満州行きの準備を進め、私が十八歳になるのを待つようにして安東での生活が始まったのです。学もなければ社会経験にも乏しい私は、朴を信頼し、すべての手続きも任せっぱなしでした。

 安東での朴との生活は夢のような日々だったわよ。住まいといい、食べるものといい、それまでの十八年間にくらべれば天と地ほどの開きがあり、幸せというのはこんな生活のことをいうのだろうと、何かの間違いではないかと思って、朴に抱かれながら「ねえ、私の手をつねってみて」なんて真剣に頼んだこともあったわね、笑ってしまうでしょ。朴は怪訝そうな顔してたけどね。

 朴は京城(ソウル)や上海への出張で一週間ほど家を空けることはあったけど、安東にいるときは特別忙しそうでもなかった。

「私は何をすればいいの?」と訊くと、ゆっくりしていろ、いまに忙しくなると答えるだけで、商売の品々が運ばれて来ることもないし、出荷している様子もないのが不思議だったけど、朴を信じ切っていたから、私はいわれるままに新妻然とした毎日を送っていたの。その期間、居酒屋で働いていたときの倍くらいのお金を両親のもとへ仕送りもしてあげていた。なんかとても満たされた気分だったね。

 満州ってほんと寒い。京城の四月といったら春だっていう実感があるけど、満州はまだ冬のまま。そんなころに朴の言いつけで新京(現 長春)へ持ちきれないほどのガーゼを唐草模様の風呂敷に包んで朴の取引先へ届ける仕事をいいつけられました。それはちょっとお使いに行ってすぐ帰って来るような軽い言い方だった。包みの中には目録などの文書が入っていたけど、日本語で書かれていて私には読むことができなかった。

 新京駅に迎えに来ていた朴の取引先の人に連れていかれたのは、駅から馬車で三時間ほど離れた名も知れない小さな町の、日本風な小料理屋でした。

「やっと来たか」

 風呂敷の荷物を無造作に受け取った主人らしい男は日本人、女将らしい年増の女は日本語も巧みに話す朝鮮人でした。

 寛ぐ間もなく、何か様子が変だと思った私は、お願いするようにして聞いた。

「今日は一晩泊めていただくとして、明日は……」

 言い終わらないうちに主人が口を利き、女が朝鮮語で通訳して言った。

「何を言いたいの? 松木(朴)に何も聞かされていないの、アンタ。二年の契約でここで今日から働くことになっているのよ」

 思いもしない言葉が落ちてきたのです。事態を飲み込むのに時間はかかりませんでした。私が持ち込んだガーゼの荷物は偽装でしかなく、日本語の書類は私が酌婦、もっと言えば娼婦として働く契約書、証文だったのです。

朴の商売は軍へ物品を納めることではなく、女衒、人身売買の仲介人だったのです。安東の新居も支度金も、三ヵ月ほどの夢のような結婚生活も、すべては巧妙に仕掛けられた朴の策略でした。

 翌日から私は畳敷きの一室をあてがわれて日本軍将校の相手をさせられ、それから一年半、日本軍の兵たちの慰み者にされ続けたのです。

連隊に付属するようにして小料理屋を装っていた娼婦の置屋は、連隊が新京郊外から佳木斯(チャムス)の外れに移動するのに従い、軍に併設するようにして慰安所を開設し、その場所がどこなのか見当もつかず、逃げ出すこともできない半軟禁状態だった私は、終戦になるまで慰安婦を強要され続けることになってしまっていた。

 世の中には、夢想するような甘い話なんてめったなことではある訳がないと気づくのは、さんざんな目にあったあとでしかないのです。どんなに慎重な人間だって自分が苦境のどん底にあるときには、降って湧いてくるような魅惑的な誘いに引き込まれて、何も見えなくなってしまうのを誰も非難できないでしょ。誰だって危険だと思う事には近づかないけど、人の弱みにつけ込んだ悪党の知恵ほど巧妙なものはない。でも朴も心からの悪党だったとは思えないところがある。たった三ヵ月だったけど共に暮らす中では、ほんのわずかだけど計算され尽くした策略の中に、日本に支配された朝鮮人の真情を漏らして、私に同調を求める悲しさややるせなさをふと洩らすことがありました。

「日本人風の姓を名乗らないと商売に差し支えるなんて、情けないことだな」

 不味そうに酒を飲みながらつぶやいていたことがありました。

そのときのことを思うといまでも心の中に人間としてのしみじみとした弱さや悲しさが伝わってくるようなの。朴に対する恨みつらみ? それはないわけないけど、そんな感情もカサカサに干からびてしまって、記憶の切れ切れからさえ消え去ろうとしているように思える。

慰安婦だったことを名乗り出ると、市民・社会運動家や物書きの人たちが何人も昔のことを聞きに来ました。インタビューというのかしらね。

 私にとって何が最も大きな恨みなのかと聞かれたときに、自分の旦那に騙されて売られたことだと言うと、運動家の人がそのことは口にしないほうがいいと言う。私にはその理由が理解できなかった。記憶の隅々まで話せるほどに、自分なりに思いの丈を冷静に話せる最も悔しいことといえばそれしかないのに。その悔しさにくらべれば兵隊の相手をさせられた日々の記憶なんて、ただ仰向けになって足を開いていたことしか頭に浮かばないのだから。そのことは悔しさなんて通り越して無感情だったし、舌を噛み切って死んでしまいたいというような力さえ残っていなかった。ただ兵士の列が絶えてなくなるのを待っている投げやりの気分だけだった。でも運動家の人たちは、日本の兵隊がどれほど暴力的で、奴隷のような生活を強要したか、強制的に慰安婦にさせられたかだけに興味があるみたいね。

 朝鮮に帰り着いて旦那の朴を捜さなかったかですって。そのことを話して欲しいんでしょ。もちろん捜したわよ。でも鍾路の居酒屋の主人も、もちろん朴にもこれまで会うことはないままで、今まで生きてきたの。

 この十年ばかりは、なぜ、どうしてこんなむごたらしい人生だったのだろうということを、何の知識も学もないままに考え続けてきたの。そして私なりの答えを出しているの。まずは自分がとんでもない貧乏人の家に生まれついたこと、ふたつ目に、たしかに人に騙されたけど人に騙されるにはそれだけの条件がそろい過ぎていて冷静な判断なんてできなかったことじゃないかな。そしてこれが最も大きい原因なんだけど、騙す人間も騙される人間も最底辺の人間は、苦しい生活から逃れるために他人のことなど眼中にないとでも言おうか、朝鮮人の誰もが手も足も出なくさせられていたってことね。国を日本に乗っ取られていたことが何もかもの根っこにあるような気がする。聞こえてくるハラボジ(おじいさん)と若者の言い争いも、どっちもどっちよ。二人の言い争いは、不甲斐なかった朝鮮人の、負け犬の遠吠えでしかない。

この国にある英雄の銅像のほとんどが、日本に抵抗した人たちだっていうのも悲しいよね、()(スン)(シン)安重根(アンジュングン)()(ガン)(スン)金九(キムグ)のだれもがそうでしょう。挙句の果てが反日運動の英雄でもなんでもない、男たちの慰め者にされた私たち「慰安婦像」でしょう、恥晒しの銅像なんて悲しすぎる。だから私はこの「慰安婦像」が大っ嫌いなの。

三 ある日本人軍医

 私の名前は「孝淑(ヒョスク)」、ずいぶん時代がかった名前だねえ、といわれることあるけどそうかもしれない。親に孝、嫁しては夫や義父母に従いという、たしかに昔の考えに添った名前だと思う。でも娘時代は、名前に似合わず活発な子だと周りには言われていたものだよ。

 実家は慶尚南道晋州(チンジュ)の外れで小さな居酒屋兼雑貨の店をやっていた。ご多分に漏れず家は貧乏だった。兄と姉の三人きょうだいの末っ子。小さいころは酒を飲みにくる大人たちの前で歌を歌ってはうまいと褒められたり、近隣の祭でのど自慢大会に出場して賞をもらったりしていたものよ。学校は普通学校(朝鮮人の小学校)まではいかせてもらった。でも学校出たからといってその当時の私たち朝鮮の女に働く場所なんてなかった。私は歌ったり踊ったりするのが大好きだったので、妓生(キーセン)(芸者)になれば綺麗な着物着てお金も稼げるのではと思って親に相談したら「そんなものになるんじゃない」といって怒られたわ。それでしばらく家の手伝いしてたけど、やっぱり妓生になろうと決心して釜山(プサン)の置屋に身を寄せて修業することにしたの。それが砂の穴に嵌って這い出ることもできないような惨めな道への入り口だった。

 置屋の女主人はほんと口の上手い人だった。外地へ出稼ぎに行くことを脅しと甘言を織り交ぜて説得されたの。

「宴席に出ればわかると思うけど、お客には日本軍の将校もいるでしょ。そんな高級将校が言うには、朝鮮の未婚の女も、そのうちに日本の工場へ徴用工として連れていかれ、なけなしの給料で働かされることになるらしい。それだったら外地で妓生の料亭を作るから、そっちのほうがよっぽどいいと思う。金も稼げるし、帰ってこようと思えばいつでも自由に帰って来られるよ」

 私は先輩の妓生の誘いもあって、ビルマのラングーンへ行くことにしたの。

私たちは軍の輸送船に乗り、釜山港を出港して博多、台湾の基隆(キールン)港を経由し十日間ばかりをかけてラングーンに連れて行かれた。釜山港で乗り込んだ輸送船の様子は昨日のことのように鮮明に記憶に残っているよ。船倉に若い女性ばかり百人ほどが、やっと横になれるくらいにぎゅうぎゅう詰めになっていた。ちょっと異様な光景だったよ。

私と先輩の妓生は顔を見合わせて囁きあった。「こんなにたくさんの妓生が必要なんだろうかね」

フィリピンのマニラやシンガポール、タイなどで下船していく者もいて、ラングーンに着いたときは半分の人数になっていた。軍への芸能慰問団のような軽い気持で乗り込んでいた先輩と私は、それがとんでもない思い違いだとわかるのに、ラングーン上陸後時間はかからなかった。ビルマに到着後もラングーン、マンダレーと人は少なくなっていき、私たちはいくつもの険しい山を越え、山あいを縫って連れていかれたのは中国との国境に近いミートキーナという町の日本軍兵站基地そばの慰安所だった。

そこで繰り広げられ、吹き荒れた性の暴風は、その光景をどう言ったらわかってもらえるのか、私は言葉を知らない。男女の交わりを知らなかったわけではなかったけど、兵たちの行為は、人間の性行為からは程遠い体液の排出行為でしかなかった。男たちの体液は、毛虫のように毛嫌いされる下等動物から吐き出され垂れ流される白いヘドロだった。

一日に二十人も三十人もの男たちの、あるときは暴力までともなう所業に、私は半狂乱になり泣き叫んだけれど、それも一週間と続かなかった。抵抗し泣き喚く力も消え失せてしまった。一日をどうやって過ごしていたかの記憶も途切れ途切れになっている。

釜山からずっと一緒だった先輩は、一日中泣き続け、ただ「死にたいよう、死にたいよう」といい続けていたが、ひと月も経たないうちに食事も摂らず、目は据わり、なにも話さなくなり精神病患者のようになってしまった。それでも男たちはやむことなく列を作った。

私も死ぬことばかり考えていた。この無間地獄のような毎日から逃れることができるのなら、死んで焦熱地獄でもなんでも潜り抜け、生まれ変わりたいと願っていた。

そしてどんな食べ物も口にせず、話をすることもなくなった先輩の肩を抱きながら「一緒に死のうか」と言った次の日の朝、先輩の妓生はアンペラに囲われた自分の部屋ともいえない狭い囲いの中で、首を括って果てていた。

同じ思いだった私がこうして生きながらえているのが不思議なくらいだけど、それには確かな理由があるの。兵站病院の若い軍医少尉を忘れることがない。軍医の名前は柳瀬といい、京都大学医学部を卒業したばかりで軍医として召集された心やさしい人だった。

軍医の先生とどうして親しい口を利けたかというと、私たち慰安婦は十日に一度必ず軍医の診察を受けることになっていた。淋病や梅毒といった性病の検査が義務づけられていたから。それもあきれたことに私たちのことを思ってじゃないの。兵隊が性病に罹ることを防ぐことが目的だから、私たちが性病になれば……、わかるでしょう。軍にとっては戦力の低下になるから、そのためには私たちが感染源にならないように検査をする、検微とよばれていた。検査の仕方というのが、どれほど恥ずかしい格好をしなければいけなかったか、思い出すだけでいまでも顔が赤くなる。木製の二段踏み台みたいになっていてね、いまどき空港や大きな駅でよく見かける靴磨き用の椅子みたいな感じよ。そこで衛生兵が両膝を開くようにすると軍医が……、もうよしましょう。

話が脇にそれてしまったわね。私、柳瀬軍医の話をするつもりだったの。

 柳瀬軍医が心やさしいと言ったのは、他の軍医たちに比べてのことだけど、他の軍医は態度が横柄で、いつも衛生兵を叱りつけていたけど、柳瀬軍医がそんなことをするところを一度も見たことなかった。とにかく控え目だし、物静かな話し方をする人だった。

 柳瀬軍医を命の恩人みたいに思う理由(わけ)はね、先輩が死んだ直後のことだったのだけれど。思い出すと口惜しさが沸き上がってくる。

慰安所の経営管理人が、遺体を荼毘に付すからと言って、大きな石を並べ、その上に細い鉄筋を金網のように組み、先輩の遺体を置く。私たちに枯れ木を集めさせ、ガソリンをかけて……。一人として目を背けない人なんていないむごたらしい光景だった。耐えられることではないのに、管理人は私たちにそれを全部やらせた。私は御骨の一部を小さなビンに入れて、これは絶対朝鮮に持って帰らなくてはと心に決めて大切に持っていたわ。

 御骨を拾っているときに、柳瀬軍医が軍医付の衛生兵も連れず一人で近づいてきて、私に静かにこう言ったわ。

「わたしがお経を上げよう。いや上げさせてくれ」

 信じられない申し出だった。だれだって軍医がお経? って思うでしょ。短かったけど読経が終わって言うには、

「わたしは兵庫県のお寺の次男坊。これくらいしかできないけど……」

 その言葉には、軍医の「なんの力にもなれず申し訳ない」という気持が言外にあふれていたと思う。

 私は軍医があげてくれたお経がどれほど有難かったことか。悲しみの涙とうれし涙を同時に流したのは後にも先にもこのときだけね。

 それから柳瀬軍医の検微当番に巡り合うと、何かと相談したり悩みをぶつけたりした。

前世でどんな罪業を重ねて、こんな暗黒の地獄にいるのか自分を呪っていた私に、柳瀬軍医が語りかけてくれたの。もちろんだけど軍医は、そのときはお付の衛生兵を遠ざけてくれて二人だけでね。

「アンタたちの境遇もわかっているつもりだが、わたしにはどうすることもできない。わたしが言えることは、祖国から遠くはなれた外国で逃げ出すこともできない。ここは戦場でアンタもわたしもいつ死ぬかわからない。それを仏教では〈生死岸頭に立つ〉という。このミートキーナはお釈迦様の地インドの隣国で、幸いなことにここでは尚更お釈迦様を身近に感じることができる。苦のない人間はいない。男は男の苦、女は女の、金持ちは金持ちの苦があり、苦を苦としてあるがままに受け入れることが大切なんだよ。体の苦痛は致し方ないが心の苦痛は和らげることができる。それにはどんなときでも安らかにお迎えを受けることができるよう、いつでもただひたすら南無阿弥陀仏を唱えることだよ」

 私はそれからというもの、お念仏を忘れたことがない。いまでも「南無阿弥陀仏」と日本語で唱えることができるよ。ほんとに有難かったね。いまでもあの白衣を着た姿と柔らかい眼差しが夢に出てくることがある。体を診る医者ではなくて、心を観るお医者様だったよ。柳瀬軍医先生は元気に生きていらっしゃるかねえ。

私は戦争末期にミートキーナからラングーンへ連れていかれ、そこで終戦になりアメリカの船で朝鮮に帰ってきたの。

あれからもう数えきれないほどの年月が経って、そろそろいつお迎えがあってもいいほどに長生きしたよ。〈生死岸頭に立つ〉という言葉を噛みしめて、毎日「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えている。すると本当に心が安らいでくるの。 

四 売血

 僕の名前は(キム)勇基(ヨンギ)。年老いたオモニ(母親)と妻の三人暮らし。最近の生活の中心はなんといってもオモニのことばかり。オモニの認知症がますますひどくなって目が離せないのが僕たち夫婦の悩みの種だけど、こればかりはどうにもならない。すこしでも症状の進行を遅くしようとすることくらいが僕たちにできる精一杯のことで、近場の風光明媚なところや昔風の風景が見渡せるような場所へオモニを連れていくことを心がけている。オモニはドライブが好きだ。八十九歳になるオモニの(キム)恵子(ヘジャ)が認知症と診断されて六年になる。病気はしかたないとしても、これまでのオモニの人生を思うとなんとか穏やかな老後を過ごさせてやりたいと切に願わずにはいられない。

オモニの年代はだれもが苦節に満ちた時代をくぐり抜けてきた。憤懣やるかたなかった日本統治時代を経て、一九五〇年に勃発した韓国動乱(朝鮮戦争)へと続く苦難の年月だった。それは国民だれもが経験した受難であったが、僕のオモニはそれに数倍する過酷な人生を送ってきた。それはオモニ本人だけではなく僕さえも口にしたくない壮絶な人生である。そのことはおいおい話すとしよう。妻の金礼玲(イェリョン)も決して平凡な人生ではない。

我が家が他の家とちょっと違うのは、三人がみな金姓ということだ。多くの韓国の家庭では夫婦は別姓で、母親と息子も別姓というのが一般的だと思う。それからすると我が家は珍しい。

オモニは実の母親ではない。実父の妹で僕は叔母の養子になった。叔母にあたるいまのオモニが望んで僕を養子にしたわけではない。僕には四人の兄弟姉妹がいるが、実家は食べるに事欠くくらいに貧しかったらしい。らしいというのは僕が四歳になるかならない一九五五年にオモニが僕を引き取ったので、僕にとってはやはりいまのオモニがオモニなのだ。長じて父親に聞いたことだが、僕を引き取ったときには、オモニは日本軍の病院で習い覚えた看護婦の仕事を、韓国動乱のあいだ韓国軍の病院で看護婦をやっているという触れ込みだった。しかし実際は雑役婦だった。実父は、妹は羽振りがいいと思い込んで僕を養子に押し付けたのだった。

オモニは一九四三年に忠清南道の家を出て、実家に送った手紙には、南洋のある島で日本軍の兵站病院の看護婦をしていると書いてきたらしい。しかもまとまったお金を兄(僕の実父)にたびたび送金したことで、実家ではいくらかの田畑を購入し、それはいま実家の農地の元手にさえなったという。しかし少しは貯めていた軍票の郵便貯金も戦争が終わり紙切れ同然となってしまったのだった。そんなオモニは爪に火を灯すようにして、養子の僕を育ててくれたのだ。

妻の礼玲(イェリョン)のことも触れなくてはいけない。四歳年下の礼玲と僕はソウルの理髪店で働いていたときに知り合った。僕がやっと一人前の理髪師となったころ、同じ店に見習いのインターンとして入店してきた。それから五年ばかりして僕らは一緒になった。

礼玲は孤児だった。捨てられていたのはソウルの鍾路区のみすぼらしい理髪店の前だった。軒先もないバラック小屋のような店先の、「永松理髪」という粗末な看板が掛かっているだけだった。礼玲を捨てていった親は、そこがどんなところか知っていたのだ。後年「三十八度線のマリア」と呼ばれ、大韓民国大統領から手渡しで勲章までもらうことになった日本人の望月カズの店なのだ。望月カズその人自身が六歳で親を亡くして満州をさ迷った孤児だった。

望月カズは終戦から五年後に勃発した韓国動乱に巻き込まれ、やっとの思いで露命をつないでいたソウルで、赤児を抱いたまま死んだ母親の胸から赤児を抱き上げてから一九八三年に亡くなるまでに、百三十三人もの韓国の孤児を育てた、到底信じることのできない天使としか言いようのない人なのだ。

礼玲はその孤児たちの一人であり、恩人の望月カズと同じ仕事をするようになった。名前はカズが付けてくれた。カズの養母の永松礼子にちなんでいた。

僕たち夫婦は一心不乱に働き詰めに働き、ソウルから南東に車で一時間ばかりの利川という町に自分の理髪店を開業した。オモニは開業資金の一部を出してくれた。そのオモニはいま認知症になり、十分か十五分前のことさえも記憶が消えていき……。

「幼い時代のことなら思い出せて、義母さんの脳に刺激になっていいのじゃないかな」

 妻の思いつきに同調して、僕はドライブ好きのオモニにカーオーディオで童謡を聞かせることにした。それがとんでもないことになるなんて考えもしなかった。

「オモニ、歌は好きだろう。この歌知ってるかな?」

      「故郷の春(コヒャンエポム)」

    私の 故郷は 花咲く山里
     桃の花 アンズの花 小さなつつじ
    色とりどりの 花の宮殿を 装う村
    そんな所で 遊んでたときが 懐かしい

    ハナの村 鳥の村 私のふるさと
    緑の野原に 南風が 吹けば
    小川の シダレヤナギが 踊る村
    そんな所で 遊んでたときが 懐かしい

 後部座席にいたオモニは車内に流れる「故郷の春」をおとなしく聴いていたが、繰り返し聴いているうちに口ずさみはじめた。

「あらお義母(かあ)さん、お上手ね」礼玲が振り返りながら言うと

「うん」と一言だけ返事をして、もう一度聴かせろという。同じ歌を繰り返し聴いて、何度でも歌って飽きるということがない。

「やっぱり子どもの頃が蘇ってきたんじゃないかしら」

 僕は一人合点で、これは認知症のオモニにも何か感じるものがあってなかなかいいのではと考え、ドライブのたびに車内で流すことにした。

 オモニと行った、僕の故郷である忠清南道公州市への旅行のときのことである。

公州は昔の百済の旧都であり、武寧王陵で世に知られている町である。公州郊外にある実家で、僕の長兄家族は父親から引き継いだ農業と、数万羽ちかくを擁する養鶏場を経営している。

 それまでおとなしく落ち着いていたオモニの様子が急に変わったのは、養鶏場に連れていってからのことだった。

 十棟が並び、通路を挟んで等間隔に仕切られた鶏小屋が三十メートルほどに伸びているさまは壮観でもある。オモニの甥にあたる僕の長兄が自慢げに案内してくれた。

 オモニが養鶏場に足を踏み入れるとすぐに、僕と礼玲に向かって「帰る。家に帰る」と言い出した。あとはだれが何を言っても「帰る」と繰り返すばかりだった。僕らにはそのときオモニの中で何が起こったのか誰にもわからなかった。認知症と関係があるとも思えない、周りの者にとっては初めての経験である。駄々っ子よりも始末が悪く、僕と妻はオモニの言うとおりにするしかなかった。

 帰りの車中ではオモニは落ち着きをとり戻して、何ごともなかったように田舎の風景に見入っているようだった。僕はオモニが好きな「故郷の春」のCDをセットして流しはじめた。オモニは黙り込んだままで、一緒に口ずさむいつもとは様子が違っていた。

 後部座席のオモニが突然大声を出して言った。

「イルボン(日本)パガヤロ(日本のバカ野郎)」

 韓国語と日本語がごちゃまぜになったオモニの叫び声に、僕は咄嗟にブレーキを踏み、車を停車させそうになった。

「オモニどうしたの?」

 僕と妻は顔を見合わせ後ろを振り向くようにしてオモニに聞いたが、オモニは僕の質問には答えず「イルボン パガヤロ」を何度も繰り返した。次第に声も大きくなった。

妻の礼玲も僕も、尋常ではないオモニの言動を理解できなかった。「故郷の春」を聞いたオモニがなぜ突然激しい口調で罵るような言葉を口にするのか、まったくわからず困惑したままで帰路についた。二時間近くのドライブ中車内は沈黙が支配していたが、僕はオモニの発した「イルボン パガヤロ」を聞いたときの妻礼玲の顔が、一瞬こわばったのを見逃さなかった。我が家では「イルボン(日本)」という言葉は二つの意味で一種のタブーだったからだ。

日を改めて、僕はオモニの認知症治療にあたってくれている医者を訪ねて、公州への小旅行での出来事を話し、その原因を知ろうとした。

「何かをきっかけに、ふとした瞬間遠い記憶が蘇るということは、たまにあることです。なにかに怯えたり無力感に襲われたりします。それはPTSD(心的外傷後のストレス障害)と呼ばれています。今回は鶏小屋がその原因になったのかもしれません」

 僕はオモニが慰安婦だったことを医者には告げてはいなかった。昔から結婚するまでの女性の処女崇拝の念に支配されている韓国社会では、慰安婦だったことは本人にとって恥という意識が強く、女性として隠し通さなければいけない思いが強かった。医者といえども迂闊に口にできることではなかった。

 PTSDという言葉を聞きながらも、それがどうして鶏小屋と結びつくのか心当たりになるようなことに思い至らなかった。しかしその原因はやはり慰安婦だったことにあるのではないかと思い、オモニは嫌がって避けていたが、慰安婦の支援団体になんらかの参考になる資料や前例がないかどうか、聞いてみることにした。

「やはりあの忌まわしい経歴、記憶がPTSDの原因ではないかと思うのですが」

 僕は支援団体の人に概略を話して意見を求めた。

「慰安婦の方々への聞き取り調査の中で、朝鮮人だけのときみんなで『故郷の春』を歌って慰めあった、ということを聞いたことがあります。お母様も、幼かったころの思い出だけのときはよかったのでしょうが、『故郷の春』が、あの思い出したくない時代に結びついたときに激しい拒否反応をしめされたのではないでしょうか。鶏小屋のことは思いつくものがありませんが、だれか他のスタッフにも聞いてみますが……」

 支援団体のスタッフも真剣に話を聞いてくれたが、PTSDに結びつく話で思い当たるのは歌のことだけだった。以後僕は「故郷の春」を車内に流すことはなかった。

 オモニの「イルボン(日本)パガヤロ」事件以来、礼玲の口数が少なくなり、物思いに耽っている様子が気になってしかたがなかった。

「最近のおまえはなにか変だぞ。悩み事でもあるのか?」僕は思い切って礼玲に聞いた。

「心配することはないわ。でも……、ずっと公州に行った日の義母さんの鶏小屋のことと、イルボン パガヤロのことを考えていた」

「言いたいことがあれば言ったほうがいい。これまでもお互いに隠し事なしで何でも言ってきたじゃないか」

「うん、わかった……。鶏小屋のことは、わたしの単なる思いつきなんだけどね」

「思いつきでもなんでもいいよ、早く言ってみて」

「鶏小屋でニワトリが狭いところに閉じ込められて、何羽も並んでいたでしょ。あれが

義母さんの、……ああ、口に出して言えそうにないわ。お義母さんがいたことのある慰安所の小さな部屋を連想させたのじゃないかと。毎日毎日兵隊の相手をさせられたことがトラウマになっていて、ニワトリをみたときにその情景が思い浮かんだ。義母さんにとってはそれは地獄の情景なのよ」

「そんなことオモニが認知症じゃなくても、どうなっていたかなんて訊けないな。こんな疑問を解決してもなんの意味もないことさ。もうよそう」

 妻と僕は顔を背けるようにして話を打ち切ったが、「イルボン パガヤロ」についてはどうしても妻の思い悩んでいることを聞き出そうと思った。

「『イルボン パガヤロ』のことを話してくれ」

「隠してるわけじゃないから話せるわ。お義母さんが認知症になる前のことから話したほうがわかりやすいよね。あなたと結婚して間もないころ、お義母さんが私の手を取って『あなたを勇基の嫁として信頼し、愛することができる』とおっしゃったときのことだった。私は微に入り細に入って生まれてからあなたと知り合ったときのことまで話した。それはあなたが知っているとおりよ。そのとき望月の養母(はは)が私に念を押してくどいほど言ってくれたことをお義母さんに話した。望月の養母はこう言ったの。『おまえは将来結婚するだろうが、相手がどんなにすばらしく心から信頼できる男性であれ、その人の親兄弟には自分が孤児だったとは決して言ってはいけない。この国の人々がどれほど出自にこだわりをもっているかがわかっていれば、孤児というのがこの国で生きていく上でどんなに不利なことなのか説明するまでもない。結婚したら私のところへなんか訪ねて来なくていい。孤児であることがわかれば、なにもかもダメになってしまうのがこの国だ。社会的弱者をさらに蔑み排斥しようとする格差社会なのだ。でも孤児だったことを恥じることはない、正々堂々としていればいいが、孤児だったことを公言しても何の得にもならない。沈黙は金だよ』こんなことを話すと、お義母さんはこうおっしゃった『私が若いときにどんな悪いことをしたというのよ。何一つ後ろめたいことはしていないのに、なぜ身を潜めるようにして生きていかなければならないのよ。でもそれがこの国の現実。だから過去のことは絶対明かさないと心に決めて生きてきた。礼玲、アンタの気持よくわかった。黙っていることの苦痛は経験した人にしかわからない。よく洗いざらい話してくれたね、ありがとう』。それからよ、お義母さんと私が心を通わせて、お義母さんを尊敬できるようになったのは。あなたをどんなに大変な思いで育ててきたかがよくわかったもの。自分が独りで生きていくだけでも大変だっただろうにね」

 じっと妻の言葉に耳を傾けていた僕は、話題をかえるように聞いた。

「オモニのこともおまえのこともよくわかった。だけどそのこととオモニの『イルボン パガヤロ』がおまえとどんな関係がある?」

「まだ続きがあるの。お義母さんはあれだけ堅く心に誓っていたのに、慰安婦だったことを公にしてしまった。何故かといえば、一九九五年に日本が出すことになった慰安婦への見舞金がどうしても欲しかった。恥や悔しさや悲しさをすべて飲み込んで自分が慰安婦だったことを告白した。頭の中にあったのはただひとつ、私たちにお店の開業資金の一部にしてほしかった。自分のお金なんてこれっぽちも欲しくなかったのに。それがために見舞金を受け取ったことで支援団体から非難や中傷までうけた。それ以来お義母さんは、支援団体のことを嫌いになってしまった。たかだか二千万ウォン(日本円二百万円)もらったくらいで日本に対する恨みが晴れることもなければ悪行を許せるわけでもない。でも支援団体のように小難しい理屈ばかり並べていたら、そのうちに元慰安婦はみんな死んでしまう。日本が少しでも自分たちの気持が伝わると考えるのならそれでいいじゃないか、というのがお義母さんの考えだった。でも『私の怨恨は死んでもおさまらないよ』とはっきりおっしゃっていたわね。お義母さんの芯から日本を憎む気持と、一方では私が持っている日本に対する気持は永遠に交わらない。私を育ててくれたのは正真正銘の日本人なのよ。私にはどうしても日本の悪口を言うことや罵ることなどできない。「イルボン パガヤロウ(」日本のバカヤロウ)」なんて言われると、望月の養母(はは)は日本人であることに強烈なプライドを持っている人だったから養母のことを言われているようで胸が痛むの。養母が時の朴正熙大統領から韓国名誉勲章・冬柏賞を授与されたときのこと知ってる?」

 養母望月カズは、勲章叙勲式にゲタ履き普段着で大統領府へ出かけて行き、せめて履物だけでも靴にして、と促されたときのカズの対応は鮮烈な逸話として残っている。

「私にはこれしかありません。それでダメなら私は帰ります」と言い放ったというのだった。いかにプライドを大事にし、日本人としての矜持を持ち続けていたかがわかるエピソードだった。

「僕には、日本と関わり過ぎているオモニとおまえ両方の思いが鋭く胸に突き刺さってくるから言葉がないよ。我が家では『日本』はタブーだね。みんな黙り込んでしまうから」

「私にはもうひとつタブーがあった。お義母さんが認知症でなにもわからなくなったから、それを隠しておくのももう時効だけどね。望月の養母が手元に一ウォンのお金もなくなったとき、血を売ってお金を作ったという話をお義母さんにしたときのことね。急にお義母さんの顔色が変わって、私に食ってかかるようにまくし立てられた。『私も同じことを思いついて血を売りにいったことがあった。勇基の国民学校入学用品を買うお金がなくてね。そのとき係りの人に何と言われたか。あなたの血は買取れないって言われたの。どういうことかわからないでしょう。私の血は陰性の淋病だって』。お義母さんがどれほど日本を恨んだことか想像もできなかった。それ以来、私はお義母さんの前で血という言葉もタブーになった」

五 挺対協

 二〇一六年五月。今日私(銅像)の前には二十人ばかりの日本の婦人たちが訪ねて来た。四十代から六十代と思われる一団だった。

 韓国人の女性ツアーガイドが一通りの説明を終えると、婦人たちはどの顔も深刻そうな硬い表情を浮かべて私に近づき、代表らしい一人が私の膝の上に小ぶりな花束を置き、別の一人は折鶴の房を花束に重ねた。日本人は千羽鶴を平和の象徴として、戦没者慰霊の塔などに添える習慣があるらしい。

 婦人たちはツアーガイドの通訳を介して、私のそばに常駐しているボランティアの学生に話しかけては、学生の返事に、まるで号令でも掛けられたように全員が一様に何度も何度も肯いている。ちょっと異様な光景だ。いかにも日本人らしいと私には思えた。

 聞こえてくる話から彼女たちは市民運動家の団体らしかった。韓国に理解を示す日本の市民運動家というのは、韓国では良心的日本人と呼ばれる。キリスト教に関係している人々や、定年退職した元女教師といった面々が多いのも特徴だ。いままでにもいくつもの同じようなグループが日本から訪ねてきた。私は日本人に限らず、この手の女性たちが苦手だ。何故と聞かれてもはっきりした理由を挙げられるほど私は整理して考えたことはないが、できることなら避けたい種類の人たちとでも言おうか、とにかく苦手なものは苦手としか言いようがない。私たちを支援している韓国の市民団体や人権を叫ぶ人たちが苦手なのも、なんとなくとしか言えない。それぞれの元慰安婦の人たちがどう思っているかは、私にはわからない。

 ところで今夜は私たち元慰安婦三人が、日本から来ている修学旅行の高校生の前で話をすることになっている。ソウルの中心からは少し遠いけれど、漢江の東南に位置する()(チョ)()にあるソウル教育文化会館のホールが会場です。私たちの名前を仮に敬和(キョンファ)昌淑(チャンスク)銀珠(ウンジュ)ということにしておきます。元慰安婦も残り少なくなり入院を余儀なくされていたり、認知症の人もいて人前で話ができる人は限られています。三人も生活の場はそれぞれです。支援団体の施設にいる敬和さん、老人ホームで過ごしている昌淑さん、それと甥っ子夫婦と同居の私銀珠。互いに顔は見知っていますが、それほど親しく話したことはありません。日本大使館前の水曜集会で何度か会ったことがある程度です。

 今夜の集まりに協力してくれと支援団体の人に頼まれたときには、私(銀珠)はずっと断りつづけていましたが、最後は拝み倒されて仕方なく承知しました。

「もういろんなところへ引っ張り出されるのはイヤ。これで最後にしてほしい」そう言って引き受けました。相手がだれであれ、私たちの話に大きな意義があるといわれても、これがほんとうに最後です。いくつになっても私たちは女です。女としての恥を人前で話す心中を察してほしいと切に願っています。

 私たち三人と司会進行係の中年女性、通訳の五人は控え室で今夜の公開討論会の下打ち合わせを始めたところです。司会の女性は在日韓国人二世で韓国に移り住んだ人だということです。長年女性の人権問題に取り組んできた運動家でもあります。仮に彼女の名前を「李さん」ということにしておきましょう。日本語も達者なようです。

「会の進行は私がみなさんに質問をして、それに答えていただくという形式で進めていきます。ついてはあらかじめ約束事を決めておきたいのです」

 李さんは穏やかな顔つきで私たちに語りかけてきました。

「発言なさるときに、いくつか気をつけていただきたいこと、話してほしくないことがありますので、どうかよろしくお願いします。今夜の集まりは『慰安婦問題をともに考える』ということになっていますので、集まった日本人の高校生や、二三の日本人グループの中から質問もあると思います。」

 私たち三人は交互に視線を合わせました。小難しいことを言わないで、と思ったのは私(銀珠)だけではないようでした。

「まず絶対にいわないでいただきたいのは、昨年末に両国政府で勝手に決めた合意事項の十億円について見舞金を受け取ったと言ってほしくないのです。二つ目は「強制連行」はなかったかのようなことは言わないようにしてほしい。あくまで日本軍による強制連行はあったと言わなければなりません。三つ目は、もしそうであっても親が仲介人から前渡金を受け取っていたと言ってはダメです。四つ目は支援団体への不満や批判の言葉は慎んでもらいたいのです」

 ここまで李さんの説明と決め事を聞いているうちに、私はなにかすこし腹が立ってきました。

銀珠「おっしゃっているようなことを自分からすすんで言うことはないよ。でもあれもこれも言っちゃいけないといわれたら、私はなにを言えばいいの。あなたがどんな質問をするわけ?」

「どんな生活だったかとか日本軍がどんなひどいことをしたのかなどを話していただければいいのです」

敬和「もうさんざん話してきたわ。それも恥を忍んで。もうこれ以上恥の上塗りになること、思い出したくもないことを口にしたくない」

「いえ、なにも微にいり細にいり、ということではないのです。たとえばどんな暴力をふるわれたかなど……」

銀珠「そんなこと取るに足りない些細なことよ、少し殴られたとか、あれに比べたら」

昌淑「そうよ、あそこの毛が擦り切れてしまうほどだったと言わなければ、その酷さは理解できないでしょうに」

銀珠「生理のときに拒んで殴られた。兵士はそんなことお構いなしよ。でもこんなことを高校生の前で言うの?」

「……そうですね、それはちょっと」

「阿片を吸わされた、とか聞いたことがありますが」

敬和「私は阿片はしなかったけど、それは兵隊に強要されてではなく、慰安婦が自分から手をだしたのよ。そうでもしなければやってられない。阿片に手出しした人の気持はわかる。でも私もタバコは吸った」

昌淑「腕力の暴力というより言葉の暴力に悔しい思いをしたよ。兵士に『おまえ、鼻の下に黒い髭があるぞ』って言われたこと。生理がとまってしまえば女じゃなくなる」

敬和「結局そんな話もしなければ、私たちが受けたどんなことも理解なんてできっこないのよ。どんな生活だったって聞かれたら、そうねえ……人はどうして〈考える〉なんてことをするんだろうって、いつもぼんやり思ってた。空想も夢想も回想もしない生き物だったらどれほど楽だろうって思ってた。朝鮮ピー(朝鮮人売春婦)と卑下されて下半身だけが必要とされるモノでしかないのに、いろんなことを途切れることなく考えるのよ。タンポポの綿毛が羨ましかった。風が吹けば移動し、止めば静かに体を休める。短い命かもしれないけれど、蝶やトンボ、蝿さえも羨ましかった。鳥なんて贅沢なものだ、だって自由だもの。いつも故郷のこと、オンマ(母さん)のことばっかり考えていた。毎日食べたり寝たりするだけで生活なんてものはなかった。ただ投げやりに過ごしていたよ」

昌淑「どんな生活だったかっていえば、楽しいこともあったよ。私、町に買い物にも行けたし、運動会もした。だけどそれは言ってはいけないのでしょ」

「それはちょっと……言わないほうが。連れていかれた、強制連行されたということはきっちり話してもらいたいのですが、どうですか? 何歳のときにどんなふうにして連れていかれたとか」

敬和、銀珠、昌淑「……」

「順番にみなさんに質問しますから、これは詳しく話していただければと思います」

銀珠「そのまま正直に話していいの? 私は腕ずくで連行されたわけじゃないよ。面(村)役場の人が来て、兵站病院の従軍看護婦の補助的な仕事だっていうから、親も私もそのつもりで中国へ行ったの、十八歳のときよ。同じ村から三人だった。みんな貧乏な百姓の家の者で、地主や金持ちの家の娘は一人もいなかった」

昌淑「私は、古い綿を打ち直す小さな工場みたいなところで働いていた十七歳のときに、一緒に働いていた友だちに、内地(日本)に行ってミシンの仕事があるから行かないかって誘われた。綿埃が舞う呼吸もできないような工場だったので、そこから逃げ出したかったから、その誘いに乗って……。連行なんかされなかったけど、元慰安婦だったことを告白したあと支援団体の人に『そんなことは言わないで、強制的に日本に連れていかれたと言いなさい』と助言された。みんなそうだったとしていたほうが、私にとって何かと有利だって」

敬和「私の場合は、面長が父親のところへ何度も何度も訪ねてきて。どこでどんな仕事をするかもはっきりしないままに、日本軍の後方の休養キャンプの世話をするってそれだけのことを言われて。行きたくなかったけど仕方なく。でもいやがっているのを無理やりってことはなかったから、強制的にといわれるとちょっと違う」

「でもみなさんの話を聞いていると強制連行はなかったということになってしまうけど、意に添わないままで連れていかれたことが強制連行ともいえるんです。面長や巡査が来たというのも、強制的に、ということにあたります」

敬和「そう言われりゃそうよね。実際巡査というのは子どものころから恐ろしかったし、言うとおりにしなければ後で残された家族に何をされるかわかったものじゃないと思ったのも間違いないよ」

「そのとおりです。日帝三十六年が我が民族に強いた過酷な統治や民族差別の象徴が少女像(慰安婦像)であり強制連行なのです。今夜の討論会に来ている日本の高校生や良心的な日本人のグループも、日帝、日本軍の悪行がどんなものなのかは十分にわかっています。理解しているだけではなく、日本という国家は、みなさんたちにどこまでも謝り、罪を償わねばならないという良心的で正しい考えをもっている日本人たちです。彼らは自分たちの考えが間違っていないことを確かめるために来韓しているのです。今夜の私たち(パネラー)は、その気持を裏切らないようにしてあげることが大事です。みなさんから直接話を聞けば、彼らは自分たちが学んだ通りだったと、大満足していい気持で帰ることができます。彼らの耳に心地いいことを言ってあげる。それを彼らは待っているのです。そしてそれがさらに日本で大きな声となり、私たちの運動の力になるのです」

 私たち元慰安婦の三人は、口を挟まずに黙って李さんの話を聞いていましたが、私は李さんの言うことに少しずつ違和感を覚えはじめました。

銀珠「ちょっといいですか。私は前からずっと感じていたことだけど……、李さんたちのおっしゃる運動というのが、自分のいろいろな思いとどんどん縁遠くなっていくような気がして他人事のような気分なの。今日もあれは言っちゃいけない、これは言わないほうがいいといった具合で、なんのための、誰のための運動なんだろうと思ってしまうことが多くて。ずっと以前に日本が出した見舞金みたいなものを受け取ったときには非難され、今度また政府の合意で決まったお金も、私はさっさと受け取ったのだけど、それも受け取ったことは言うなというし、お金を受け取ることがまるで悪いことのように言われる。これはどういうことなんでしょうかね。もうこんな年齢になって是が非でもお金がほしいわけじゃない。だけど償い金か見舞金かわからないけど、私に向けられたものを拒む理由もないし、あって困るものでもない。私の怨みからしたら、日本の領土全部をくれるといっても、怨みが晴れるものでもない。白骨になっても怨みだけは私の骨の髄まで染み付いて離れないほど。たかがお金を受け取ってなにが悪いのか、私にはわからない」

昌淑「でも、李さんやたくさんの人たちの運動があってこその見舞金なんじゃないのかしら。支援してくれる人たちがいなければこれだけ大きな運動にはならなかったし、私たちにはなにもできなかった」

敬和「私はまだ見舞金受け取っていない。支援の人たちが簡単に受け取ってはダメだというから。あなた受け取ったの?」

昌淑「私、さっさともらったよ。いつ死ぬかわからないからね」

銀珠「『日本は謝罪しろ』っていくら言い続けても、日本が『はい、そうですか』って言うわけがない。日本政府の公式な補償でなければ日本が慰安婦制度を認めたことにならない、支援団体では、だからそんなあやふやな金銭を受け取ってはならないという。それじゃ政府間の合意というのはなんだったのと言いたい。こんなことがずっと続いていては、永遠に解決なんてしやしないわよ。政府と政府の意地のぶつかり合いで、当事者の私たちのことなんてどっかに飛んじゃってるとしか思えない。私に言わせりゃ政治家なんて日本も韓国もどっちもどっちよ」

昌淑「私たちがいるからいつまでたっても日韓が仲良くなれない」

「日本がいつまでたっても慰安婦制度の責任を認めないことが一番の問題なんですよ」

銀珠「われわれは正しい、わが国はまちがっていない、日本が非を認めない。だから解決しない。こんなことばかり言っててもきりがない。わが国も一度胸に手をあててじっくり考えることも大事じゃないかなあって思うけど。その上に運動の人たちは女性の人権がどうのこうのと言い出しちゃって、ほんとに解決しなければならないことはなんなのか曖昧になってきたよ。人権がどうの、女性の尊厳がどうのといったことは、別のところでやってもらいたいもんだ」

 李さんの携帯電話の呼び出し音が鳴り、話が中断した。

 席に戻った李さんが沈んだ声で言った。

「釜山にお住まいの元慰安婦の方が今日亡くなられました」

 咄嗟に口にして後悔するように「いやな思いをされるようなことを言ってしまって……、ごめんなさい。思いが溢れてつい口にして……」

昌淑「いいのよ、私たちに気遣うことないわ。歳が歳だから死んでしまっても仕方ないの」

銀珠「ああ、いやだ、いやだ。原理原則を並び立てて日本を非難ばかりしていても、なにも先には進まないのよ。そうしているうちにみんな死んでいくのよ」

「そんな寂しいこと言わないでくださいよ。これからもっともっとがんばっていかなきゃならないんですから」

銀珠「私たちの像を日本大使館前に置いてから、ますます進まなくなったような気がするわ。日本は像を取り除かなければ梃子でも動かないと言ってるんだから、取り除けばいいのよ。私、あれ大嫌い、私たちの象徴でもなんでもないわ」

敬和「私はそんなふうには思わない。あれがあるからみんな結束して運動できるんじゃない? 日本にもっと強く謝罪を要求しなくちゃだめよ」

銀珠「あれは元慰安婦の象徴ではなくて、市民運動団体の象徴。運動を続けてきた人たちを、あなたたちよくやったって世間に認めてもらうためのものよ。銅像なんてほんとは建国の父とか国民のだれからも尊敬されたような人を形にしておくのが銅像じゃないかしら。東京じゃ主人に忠実だった犬の像を街の真ん中に置いているって聞いたことあるわ。そっちのほうがよっぽどましよ。少女像(慰安婦像)なんて倭奴(ウェノム)(日本人の蔑称)に弄ばれた屈辱を後の世まで残そうというわけ。やめてほしい」

敬和「あなた、それはひどすぎる。訂正しなさいよ」

銀珠「訂正しないわ、もう思いの丈をなんでも言うことにしたの」

昌淑「まあまあ、少し落ち着いて話しましょうよ」

「そうよ、お二人とも興奮しないでください」

六 労わり

銀珠の問わず語り――

 あのいまわしい体験を思い出すことも、人に話すことももうたくさんです。

 この世にこんなもの要らないというのが私には三つあります。一つが男という生き物、二つ目がやっと眠れたときに見る夢です。男という男はみんな死んでしまえと心底思います。どんな男も一皮剥けばみんな夜叉、悪鬼みたいなものです。また夢を見なくてすむのなら、私はどれほど深い眠りを貪ることができるだろうと願わずにはいられません。私の見る夢は、性欲が軍服を着ているだけの、薄汚れた兵士が列をなしている夢、ボロボロと涙を流し続けている夢です。両目から溢れた涙が止むことなく両耳に流れ落ちています。そのたびにうなされる自分の声に飛び起きて、そのあとは眠れなくなる苦痛が何十年となく続いてきました。もう一つこの世から消してしまいたいものがあります、ヨーグルトです。何を連想してしまうのか言わなくてもわかってもらえますでしょう。見ただけで胃の中のものを全部吐いてしまいます。

 私の人生はなぜこんな無茶苦茶なことになってしまったのかをずっと考え続けてきました。思いの丈を全部ぶちまけてしまったらどんなにいいだろうと思ってきました。どんな言葉でどう言い表せば気がすむのか、だれに言えば気持が晴れ晴れとなるのか、結局胸の中に積もり積もった思いは何一つ吐き出せないままに、もうすぐ九十歳になるのです。何一つとして自分の思い通りにならなかった根っこにあるのはなんだろうと考えてきました。そして行き着く先は、なんとアボジ(父親)です。私が生まれなければならないようなことを不用意に、本能の赴くままにしてしまったのか。私の思いはそこまで行ってしまうのです。男なんてみんな死んでしまえ、この世に男なんていなければいいのに。私にとって憎っくき者はアボジです。吾が身よりも大切なはずの我が子を、借金返済のために仲介人(女衒)に売り飛ばしてしまうなんて、私には想像もできません。なぜそこまでしてしまうのか、戦争が終わってこのかた、乏しい知識をかき集めるようにして考えてきましたが、やっぱり許せないのです。

 私の面(村)では仲介人が生活の苦しい農家を勧誘して回り、何人かの娘が応募しました。私の親も私もそれに応じたのです。親はそれがどんなことなのかを薄々はわかっていたはずです。それでもアボジは、私がその一員になることを認めて契約書に判を押したのです。私も家の惨状がわかっていました。運命(パルチャ)だとあきらめるほかありませんでした。それが国を失くした民族の、何の抵抗もできない末路だったのです。家を出るときに、親や近隣の人が泣いて見送るということもなく連れていかれました。その中には金持ちや恵まれた家の娘は一人もいませんでした。そこには勧誘する側と応募する側に暗黙の了解、取引が成立していたのです。アボジはどうして自分のことだけしか考えずに、安易に私を売り渡してしまったのか、どうして私を守ってくれなかったのかをいくら考えても許せないのです。

 今の韓国で反日運動といえば真っ先に慰安婦問題を思い浮かべる人も多いと思います。韓国人のだれもが信じている慰安婦問題というのは、日本軍が無垢でいたいけな少女を強制的に連行して慰安婦にした、だから人間として決して許すことのできない悪行には、グウの音も出ないほどに日本をやり込め、国としての責任を認めさせなければいけない、簡単にいうとこういうことです。その中心で運動の旗頭が挺身隊対策協議会(挺対協)です。でも誤解を恐れずに私の率直な思いを言えば、挺対協の人たちが言うことやすることが、何か自分とはかけ離れているのです。なぜなのか難しい理屈はわかりませんが何かが違います。私の中で反日運動なんてどうでもいいという思いがあること、それに挺対協の人たちは、自分たちの言っていることは一番正しい、だからそれ以外の考えや意見は認められないと思っていることではないかと、私にはそう思えるのです。終わることのない反日を叫ぶことが一番の目的なのじゃないかしら。私だって日本軍が私たちにしてきた所業を許しているわけではありません。

 ですから十八歳からこの歳までの人生に対して、今になって雀の涙ほどの見舞金や償い金を受け取って非難されるいわれはないと私は強く思っています。しかしこんな言い分を大っぴらに口にすれば、多くの人から袋叩きにされるでしょう。でも私だけの思いかもしれませんが、もう思いの丈や長い間考えてきたことをぶちまけて、思い通りのことをしてもいまさら何が悪いことがありましょうか。

また私にはどうしても言っておかなければならないことがあります。それは戦争が終わってから自分が元慰安婦だったことを告白するまでの長い年月の苦痛がどれほどのものだったかということです。胸の内に閉じ込めたままで墓場まで持っていくことはできません。

ある人が私に「無告」という言葉を教えてくれました。難しい言葉ですが、だれにもどこにも言いたいことを言える先がない苦しさのことだそうです。私にとって「無告」は「孤独」と同じ意味です。無学な私には思いもつかない言葉ですが、私の戦後を言うのに、これほどぴったりの言葉はありません。私は一時期小鳥を飼ったことがありました。独りでいることに耐えられなくなって、よく鳴く鳥を一羽買ってきました。それがどうしたことでしょう、家で飼いはじめるとピィーともチュンとも鳴かないのです。ひと月も傍においていたのに一度も鳴きません。小鳥の店ではあんなに鳴いていたのに。私は鳥籠を開けて空に放してあげました。たぶん鳥の仲間のところへ飛んでいって、思う存分話をしたかったのだろうと思ったから放してあげたのです。鳥は鳥らしく、人間は人間らしく生きるためには、孤独であってはいけないのだと心からそう思いました。

一九九〇年代になって元慰安婦だったことを告白するまでの五十年というのは、あの戦争中のむごたらしい毎日に比べても引けをとらない、よくぞ自分はここまで耐えてきたと言えるほどの苦痛の日々でした。韓国動乱(朝鮮戦争)の間の苦難さえ「無告」と「孤独」に比べればどうということはありません。転々と居所を変え、仕事を変えて生き延びてきました。慰安婦だったことを嗅ぎつけられそうになれば、逃げるようにして仕事をやめるしかない。体を壊し、入院したことも一度や二度ではありません。肉体的な病なんてどうってことはありませんでした。四十歳を前にして生理は止まり、子宮筋腫の手術なんて、経済的な負担を別にすれば、ああやっぱりという感じでした。しかし精神神経系の病だけはどうにもならないのです。お腹の中に火の玉を抱えているような得体の知れない症状からはじまって、手足の痺れ、圧迫される胸苦しさ、何日も続く不眠などです。高い治療費を払って投薬を続けても治らない神経系の病気ほど苦しいものはありません。「なにか思い悩み鬱憤が溜まっているということはありませんか?」 と医者に言われても、心の奥底にある秘め事を訴えることもできないのです。慰安婦だったことだけは、どんなことがあっても口にしてはいけないことでした。

女の貞操、純潔は当然とされる社会通念に支配されているこの国では、数え切れないほどの男を相手にした女なんて、けがらわしく軽蔑すべき人間、差別されて当然の人間なのです。世間の人たちにとって慰安婦だったことは、けがらわしいものとしかみなされませんでした。さらに学問もなければ家柄もない女なんて、たとえ野垂れ死にしても見向きもされないような最下層の人間なのです。ただひたすら口を噤み、どんな悪条件の汚い仕事でもするしか生きる手段はなく、侮蔑されながら耐え忍ぶしかなかったのです。

男尊女卑社会を支配する人間たちにとっては、軽蔑される人間が必要なんです。この国ではそんな社会が何百年と続いてきました。だからどんな理由にせよ卑しい仕事をした女なんて永遠に浮かばれない最下層の人間なのです。

告白するまでの五十年、この国では私たちに目を向ける者などどこにもいず、冷たくあしらわれ、差別され続けたのです。友人もなく訪ねて来る人もいない寂しさ、わかってはもらえないでしょうね。人間の尊厳なんて欠片もない五十年でした。それが今頃になって……なにが人間の尊厳がどうのこうのと、学のある連中が訳知り顔になにを偉そうにいうのかと言いたいです。

ほかにも私には冗談じゃないということがいくつかあります。そのひとつが元従軍慰安婦は親日派、日本帝国主義の協力者だといわれることです。親日派というのがこの国では世間から爪弾きにされ、叩きのめされることを意味します。私たち元慰安婦は、戦争に協力した非難されるべき親日派の人種だというのですから、開いた口が塞がりません。私たちが親日派だというのなら、あの時代に朝鮮半島に住んでいた人たちの中で、誰が反日を声高らかに叫んでいたというのでしょうか。私たちが強制的に慰安婦にされたというのならば、反対を叫んで強制連行に歯向かい、抵抗した人がいたとでもいうのでしょうか。そんな人は一人もいなかった。みんな見て見ないふりをして、お上のいうことに黙って従っていた親日派だったというしかないでしょう。

反日ということでいえば、この国では反日を叫ぶだけで賞賛される変な国になりました。

その中でも中心的な活動をしているのが、私たち元慰安婦の支援に取り組んできた「韓国挺身隊問題対策協議会」です。世間では略して「挺対協(チョンデヒョップ)」と呼ばれています。

この人たちこそ慰安婦の存在を世の中に広め、精神的にも物質的にも私たちを支援してくれた団体です。その功績は大変なものがあると思います。私も自分が元慰安婦だったことを告白してからは大きな力添えになってもらいました。しかしいつの頃からか私の心は次第に「挺対協」から離れていきました。一番の理由は元慰安婦の支援が中心だった目的から、いつの間にか反日運動が中心になったと私が思ったことでした。そのことを全面的に押し立てて私の思いからかけ離れた運動に変わっていっただけではなく、デモへの参加を半強制的に要望されることや、償い金や見舞金の類を受け取ったときの挺対協からの非難などが原因です。なぜ自分の意思や考えでことを決めてはいけないのか、納得がいかないことにあります。私が願っていたのは、我慢しないですむ生活と、平凡な老後を送れる少しだけ余裕が持てるお金があることです。そんな素朴な願いは、民族の自尊心を高めるための反日運動や日本を貶めるための運動の中では、小さく埋もれていくように思えます。運動の大きな流れの中で、元慰安婦はまるで国民の英雄でもあるかのように祀り上げられ、それが慰安婦像となり、いつの間にか世界にアピールする「平和の少女像」と名前を変えられていきました。

私の中ではだれからも称えられる銅像としてではなく、歯ぎしりするような悔しさや悲しさ、日本への憤り、恥ずかしさや長い間の寂しさなどが三重にも四重にも積もってきた複雑な思いが、銅像として半永久的に残されることに耐えられない気持でいっぱいです。

支援団体の設立当初から運動に携わった人たちは多くが女性であり、彼女たちは慰安婦にならなくてもいい恵まれた環境に生まれ育った人たちです。私と同じ年代の女性は家柄もよく、それゆえ高等女学校を卒業したような一握りのエリート、わたしとはかけ離れた境遇に育った女性であれば、私の思いや経てきた九十年の実感にはおそらくほど遠いものがあるはずです。反日運動、女性の人権を叫ぶ世界的な平和運動は、私の今の心境には馴染みません。そんなことは私にはどうでもいい、それはどこか別の場所や別の方法でやってもらいたいといのが、偽らない私の本心です。

 どうやら私の独り言も終わりに近づいたようです。

 数年前に日本で起きた東日本大震災の避難所の様子を伝えるテレビを観ていたときのことを、どうしても言っておきたいのです。それが目に焼きついて離れません。大地震と津波、その後に起きた原発事故と放射能汚染のニュースを見ながら私は、正直これはハヌル(天)が日本に下した天罰ではないかと真剣に思いました。ハヌル(天)は日本が私たちに行った悪行を見捨てはいなかったのだと。

 しかし避難所の一隅に所在なげに座り込んでいる老女を映し出したシーンを目にして、私の思いは変わりました。身寄りを亡くしたように寂しそうな目をしている老人に天は罰を下すものだろうかと、私は知らず知らず涙がこぼれてきました。誰かが寄り添って慰めの言葉を掛けるでもなく、一日中こうして座っているだけではないだろうか。そう思うと、世間に見捨てられ隠れるようにして生きてきた自分の五十年に重ね合わせて、涙が止まりませんでした。誰か一人でもいい、老女に語りかけてあげれば一時的なことであっても彼女は癒されるはずなのに。そのあとそんな思いに駆られていた私が、激しく心を揺さぶられる映像に出くわしたのです。

 体育館のような広々とした建物の奥まった出入り口から、小柄で白髪の老夫婦がゆっくりした歩みで入って来ました。男性はまるで韓国のタクシーの運転手さんでも着ているようなうす緑色のジャンパーに普段着のようなズボン、寄り添うように後ろに従う老女も薄墨色のスラックスに同系色のジャケットという質素な服で、どこにでもいるような老夫婦に見えました。

二人は並んで床に膝をつき、避難者一人一人に手を差し伸べるようにして何かを語りかけています。私が気に掛けていた老女の前にも両膝をつき、話しかけました。そのとき画面下に「天皇皇后両陛下が○○町の避難所に慰問、見舞いに訪れた」というテロップが映し出されたのです。

 天皇――私にはそれは心身ともに凍りつくような言葉です。私の体を踏みにじり、虫けらのようにしていった幾多の兵士たちが崇め奉り、自分の命を捧げていった神だったではないか。その息子とはいえ、いまも日本人にとっては特別な存在の人物が膝を折って打ちひしがれている被災者にやさしく手を差し伸べ、見舞いの言葉をかけている。戦争中には朝鮮人とはいえ、まぎれもなく日本の皇国臣民の名のもとに、むごい勤めを強いられた私には想像もできない光景でした。天をも恐れぬ悪行の数々の頂点にあった人物の子孫、それがいま膝を固い床についてテレビに映る天皇だとは、にわかに信じられない思いでした。

被災者に寄り添うように、ごく自然に膝を折った姿勢、差し伸べられた手には、心底からの見舞いの真情のほとばしりが溢れているようでした。

 同じことがもしも私の前で実現するとしたら、私はこれまでの一分一厘は許せるかもしれないと、そんな空想で頭の中がいっぱいになっていました。

 白髪の上品そうな女性が、そう日本の皇后が老女の肩にそっと手をあてたときでした。私の中で何かがあっけなく解けたのです。

心に響く日本の真心が強い光となって真っ直ぐに自分に向かってきたならば、「お金も、空疎な謝罪の手紙も私は要らない」と、口に出しそうになりました。

私は自分が避難している老女の場所に居るような錯覚に囚われ、皇后が顔を近づけた仕草と表情から、「元気にしていてね」と言ったのを確かに聞いていたのです。そんなことは絶対にあり得ない、そして決して日本を許さないとわかっているのに、そのときの老女に心から寄り添ってくれた、同世代の一女性としての皇后の優しさにうたれただろう心情を思い、激しい共感を覚え私は思わず涙を流していました。 (了)