マグノリアが咲くまでに

               *

瑪利亞(マリア)は実名である。

 敬虔な長老派プロテスタントだった父がつけてくれた名前をマリアは大層気に入っている。(*以後便宜上「マリア」と表記)

「名前からしてきっとマリアはキリスト教信仰の申し子のような一生になるんでしょうね」と、周りからは言われた。十六歳の時に受洗もし、信仰心はもちろん持ち続けてはいたが、それほどの熱心な信者ではなかった。長じてからのマリアの胸中を片時も離れず、迸るように全身に流れ、溢れていた熱い思いは祖国朝鮮の自主独立だった。

 こみあげてくる熱気を岩も貫き通す信念に変えた出来事が、一九一九年三月、京城(ソウル)での憲兵警察による過酷な取り調べと拷問だった。

 日本の韓国併合、植民地化から九年を経て起きた三・一独立運動は、朝鮮半島全土を席捲し、統治機構であった朝鮮総督府を震撼させる大規模な騒擾事件となった。万歳事件ともいわれている。

 全国に撒かれた独立宣言書は、朝鮮の独立を謳った格調高い文章で綴られている。

「我らはここに我が朝鮮が独立国であること、朝鮮人が自主の民であることを宣言する……」から始まり、宣言するまでの経緯を述べ、その意義を説くものであった。独立宣言書の骨子は次のように述べている。

一、朝鮮は独立国であり、朝鮮人民は自由民であり、民族自存の正当な権利である。二、民族と国家の発展と幸福を実現するためには独立を確立すること。三、日本支配者の強権と不合理を正し、新国家を建設すること。四、朝鮮の独立こそが日本との友好関係をつくり出し、東洋と世界の平和をもたらすものであること。五、民族の独立、自由のために最後の一人、最後の一刻まで民族の正当な意思を発表するものであること。

 三月一日午後二時を期して京城(ソウル)のパゴタ公園(現プルタク公園)に集まってきた多くの民衆を前にして、独立宣言書が読み上げられると「朝鮮独立万歳」の声が民衆の間に広がり、通りにあふれ出した万歳の叫びは野火のように広がり、街々の通りという通りは老若男女の夥しい人で膨らむばかりのデモ行進となった。全国に広がった「朝鮮独立万歳」の波は官憲の静止をものともせず、数か月続く一大運動となったのである。

 その中でも群衆を主導するようにして万歳を叫んでいたマリアは、警察に目をつけられていた首謀者の一人として拘束逮捕された。

 マリアが連行されたのは南山麓の俗に倭城台と呼ばれ、そこに連れていかれた者は生きては帰れないと恐れられていた朝鮮総督府警務本部の取調室だった。共にデモ行進をしていた他の女学生は近くの警察署へつれていかれ、すぐに釈放されていた。

 マリアの取り調べは壮絶で二週間ほど続けられた。拷問は女子としての恥ずかしさも通り越したものであった。胸をはだけられ乳頭に針を差し込まれ、陰毛をむしり取られるなどの筆舌に尽くしがたいものであった。外傷にならないような陰湿な拷問に攻め苛まれていた。意識を失うとバケツの水を浴びせられ、また同じ拷問が繰り返された。体の感覚を失くしたマリアは東京の女学校で過ごした礼拝のシーンを夢のように思い浮かべ、神に祈った。夢ではない、あまりもの拷問によって意識は白濁し、一・五メートルにも満たない体は、肉体的な痛さが感覚という感覚を通り越していた。切れ切れの意識には東京に着いた日からの日々が別世界の連続写真のように現れてくるのだった。

マリアの尋問調書が残っている。

 (キム)()()() 訊問調書(抜粋)

 問 氏名、年齢、身分、職業、住所、本籍地及び出生地は如何に。

 答 氏名年齢は、(キム)()()()二十八歳、職業は無職、住所は京城府蓮池洞、貞信女学校長ミス・ルイス方、本籍地、出生地は黄海道長淵郡松川洞

 問 其の方は東京にある女子学院の生徒か

 答 さようであります

 問 東京を立ちて京城に来たのは何日か

 答 二月二十一日です

 問 何の用事で来たのか

 答 貞信女学校長から帰れと書いて手紙が来たのであります。学校がごたついている故、来年の卒業まで待てぬから帰ってこいとのことで、三谷民子先生にその手紙を示したところ、帰国したほうがよかろうとのことで、東京を十七日に出発し、光州の姉のところに立ち寄り二月二十一日京城に着きました

 問 其の方は東京の警視庁へ拘引されたことがあるか

 答 二月八日引かれました

 問 東京の独立運動が開始せられたのは何時か

 答 本年一月六日がはじめてでありまして、神田の朝鮮青年会館(YMCA)に参ったのであります

 問 その際女子は何人行ったのか

 答 皆女学校の生徒で五、六人くらい集まりました

               *

 マリアは三人姉妹の末っ子として、一八九二年、朝鮮半島と清国(中国)の間に横たわる黄海に面したこじんまりとした町に生まれた。父親は末っ子のマリアをことのほか可愛がり、行く先々へ男の子のような恰好をさせて連れ歩いた。

そんな父親を見かね、一方では申し訳ないという思いをにじませて母親が口にしたことをのちのち聞かされたことが、マリアには妙に記憶の底にこびりついている。

「子なきは去れ」の儒教の考えにどっぷり漬かっていた朝鮮社会にあっては、男児のなかった母親は肩身の狭い思いに苛まれていた。女児は子供ではないのだ。

「ヨボ(あなた)、シバジに男児を生ませることだってできるのよ。わたしは構わないわ、それが金一族の子孫存続のためならば」

「なんてことを言うんだ。おれにそんな道義に外れたことをしろというのか」

 プロテスタントの熱心な信者であった父親は、母親を激しくたしなめた。李氏朝鮮時代には、裕福な両班では多額の報酬でシバジと呼ばれる若い奴婢階級の女に代理妻、種受けの役目をさせる悪習があった。

「アボジ(お父さん)に言下に否定されたの。でも本心は、マリア、あなたが男の子でなかったことを……、残念に思いよほど男の子に生まれてほしかったんだと思うわ」

 そんな夫婦間の隠されたようなやり取りがあったことを、こともなげに我が子に言う母親も開明的な女性であった。その一つが、これからの世の中は男よりも女にこそ学問が必要だというものだった。女は結婚して夫に頼るのではなく、どんな境遇に遭遇しようとも自立できるような備えが必要だと考える女性だった。それが学問だという信念をもっていた。何不自由なく穏やかだった幼年期のマリアに、波乱の生涯を告げるような不幸な出来事が起きた。マリアの三歳時に父が亡くなり、十歳になった時に気丈だった母までもが他界したのである。母の亡骸に見入りながらマリアは、三人姉妹だけになった家族はこれからどんな暮らしになるのだろうかと、そんなことにぼんやり思いを巡らせながら、母親がいつも口にしていた「女こそ学問が必要だ。上級学校へいかなければいけない」ということばかり考えていた。

 黄海道の普通学校(小学校)卒業を待って京城(ソウル)のお叔父の家に引き取られたマリアは、ミッションスクールの貞信女学校へ進学した。一九〇六年のことである。

 父方の叔父(ピル)(スン)はセブランス病院に勤務していた。叔父はアメリカ人の医者宣教師だったH・Nアレンによって開設されていた病院である斎衆院併設の医学校で学んだ。斎衆院は朝鮮初の西洋医学の病院であった。

 当時の朝鮮半島でのプロテスタントの布教活動拠点は、教会、病院、学校(ミッションスクール)であり、マリアが身を寄せた叔父の家庭も当然のように信者である。当時にあってキリスト教を信仰する人の多くはインテリ層の人々であり、それゆえに日本の朝鮮統治に否を唱える人々と重なっていた。叔父の家に出入りする人々が同志的なつながりを持つのも当然であり、マリアがその叔父や叔父を取り巻く人々の考えに感化されるのも必然であった。

 時代はまた日本の朝鮮統治と表裏をなすように、京城(ソウル)を中心として、西洋的学問の必要性が朝鮮の近代化や自主独立に不可欠であることが強く認識されていた。しかし朝鮮には先進的な高等教育を受ける学校はなく、外国への留学を余儀なくされていたのである。留学の費用、渡航費を考慮すると、もっとも身近な高等教育機関を持つのはアジアでは唯一日本、それも東京であった。日本への留学生は増大していく。その多くは男子学生であったが、女子の中からも日本への留学を志す者が次第に増えていった。マリアもその一人だった。

 叔父の周りの人の中からも日本留学をする者もいて、マリアは居ても立ってもいられなくなり、卒業後貞信女学校の校長ミス・ルイスに相談を持ち掛けた。

「どうしても東京へ行って勉強したいのです」

「とてもいいことだと思います。いつでも留学先の学校を紹介しましょう。だけどその前に日本語だけはマスターしてからではないかしら」

 ミス・ルイスは決して反対はせず、広島の女学校で日本語習得の留学を勧めてくれた。学費の援助もするという言葉に従ったマリアは、一年ばかりを広島の女学校で過ごし日本語の習得に努めた。東京へ向かったのは一九一五年(大正四年)五月のことだった。

               *

前年十二月に竣工なったばかりの東京駅に降り立ったマリアを待っていたのは、先に女子学院に留学していた叔母の金弼禮(ピルレ)だった。

 ホームに立つ弼禮を目にしたマリアは、まるで空っぽのトランクを提げているように軽快な早足で弼禮に向かって行った。

「オンニ(お姉さん)元気だった? 会えてとっても嬉しい」

周りの人が振り向くような大きな声を出した。叔母と姪の関係だが年齢が近く子ども時分からオンニ(お姉さん)としか呼んだことがない。

 弼禮があたりの目を気にするように見回しながら唇に指を立てた。

「元気よ。マリア、そんな大声を出さなくても……。それにウリマル(朝鮮語)ではみんな振り向くでしょう」

 弼禮は讃美歌でも歌うような澄んだ声でマリアをたしなめたが、顔は嬉しさに満ちて輝いている。

「だって一年ぶりのウリマル(国の言葉)だもの。広島では独り言以外ウリマルを口にしなかったから」

 市電に乗り換えた二人は、駿河台方面から宮城(皇居)を半回りして麹町の女子学院へ向かった。車中ではひそひそ声で話し続けた。

「女子学院って居心地いい? どんな学校なの?」

 マリアはこれからの学校生活への期待と不安を口にして訊いた。

「女子学院はどこよりも自由よ、校則がないし、それを誇りにしているわ。何々すべからず、何々すべし、というのは一切なくて気詰まりなことなんてなくってよ」

「朝鮮の人はオンニの他にもいるの?」

「いるよ。中国人もいるし、留学生も多いの」

 話しながら二人は互いの服装や髪形に何度も目を遣っている。

 マリアは白のチョゴリに黒いチマという地味な服装、弼禮は和服に海老茶式部の袴に黒革の編み上げ靴という、いかにもいまどきの日本の女学生という恰好だ。

「マリア、あなたその服装で汽車の中で日本人になにか言われなかったの?」

「朝鮮から来たのかとか、朝鮮人かと聞く人もいたけど、半分無視して道中は「ガリバー旅行記」の英語版をずっと読んでいたら、だれもなにも言わなくなった」さも愉快だったとでもいうように笑っている。

 話し続けているうちに、麹町三丁目の電停に瞬く間に着いてしまい、武家屋敷の風情を残す町並みをぬけて、麹町区上二番町(現千代田区一番町)の学校へ向かった。

 校門に立ったマリアは、これから過ごす学校の外観を見て決意を新たにした。見渡した校舎はここが東京ではなくアメリカの学校のような佇まいだった。屋根の形も外壁も周辺の日本家屋とは様相を異にした三棟の二階建てが中庭を囲むように配置されている。どれも木造ながらアメリカ風デザインの瀟洒なもので本校舎と二つの寄宿舎である。これからマリアの生活の場となる新グラハム部寄宿舎に旅装を解き、弼禮に連れられて学監の三谷民子先生の部屋に挨拶に出向いた。

「よく来てくれました。あなたのことは貞信女学校のミス・ルイスから詳しい手紙が届いています。弼禮もいることだし、何一つ心配することはないはずですよ」

 三谷先生は小柄な体格に似合わない大きく快活な声で話しかけてくれた。学監の役目は、学校長を補佐し、学務を司り学生を監督する立場の人である。

「お世話になります。よろしくお願いします」

 口数が少なく寡黙なマリアであるが、眼光も鋭く三谷先生の目をしっかり見ながら、訛りのない日本語で挨拶した。

 ほどなくして宣教師教師のアメリカ人ミス・ロンドンも顔を出した。

「京城(ソウル)のミス・ルイスから、多くのことを知らせてきています」

 ミス・ロンドンは歯切れのいい英語で親しく話しかけてきた。

「あなたがミス・ルイスのもと母校貞信女学校で教師をしていたこと、アメリカか日本へ留学を希望したことやその理由などもミス・ルイスは書き送ってきました」

「ミス・ルイスは『朝鮮は自主独立の国でなければならない』という私の思いを理解したうえで、日本への留学を後押ししてくれました」

 それは政治的な同調や支持からではなく、一歩下がった形で個人の考えを尊重し、援助を惜しまないというものだった。

「あなたの考えや思いが確かなものかどうか。そのためにもあなたは日本へ行き、日本を知らなければなりません」ミス・ルイスはあくまで人間一人一人の、マリアの意思を尊重するとした宣教師、教師の考えをマリアに伝えて、援助を惜しまないと言った。

「私たち朝鮮人は、日本の朝鮮統治が不当なことを日本に伝えなければならないのです」

 マリアはそばに日本人の三谷先生がいることを忘れてしまっているかのように、思いの丈をミス・ロンドンに語りながら、ハッとしたように三谷先生の顔色を窺がった。

 急に口を噤んだマリアの様子を勘よく察したミス・ロンドンが言った。

「タミ(三谷民子)に気兼ねすることはありません。タミだってあなたの思いを理解していますし、彼女は心の広いクリスチャンです。ねえ、タミそうでしょう?」

 三谷先生も何も気にすることはないと、ミス・ロンドンに相槌を打つように頷いている。

「タミは私が最も信頼している日本人です。困ったことがあれば何でもタミに相談したらいいわ」

 三谷民子は女子学院の第一回卒業生である。首席で卒業すると、女子学院の分校のような新潟県高田(現上越市)の高田女学校で英語教師として教鞭を執った。一八九一年(明治二十四年)十八歳であった。さらに群馬県前橋市の共愛女学校へと移り、母校女子学院に戻るのは一八九六年(明治二十九年)である。その後一九〇〇年(明治三十三年)三谷民子は米国マサチューセッツ州のノースフィールド大学へ二年間の留学、さらに一九〇八年(明治四十一年)英国オックスフォード大学の聴講生として、英国詩人ロバート・ブラウニングの詩を中心とした勉学に親しんでいる。

 留学を終えた三谷民子は、女子学院の校長補佐の学監として、また寄宿舎グラハム部の舎監として生徒たちに尽くし、学監、さらには校長として一生を女子学院に捧げることになる。三谷民子は生徒たちを「うちの娘たち」と呼んで、一つの家族として接していた。そんな三谷民子とミス・ロンドンは、金マリアにとっては日本留学中の母になった。

 一九一五年(大正四年)、女子学院に入学したマリアは、日本を離れるまでの四年弱の歳月を東京で過ごすことになる。金マリアはただ一途に朝鮮の自主独立だけにまい進するのではなく、冷静に朝鮮と日本を見つめ、世界の趨勢はどうなっているのかを観る見識も備えていた。さらに朝鮮の、儒教にがんじがらめの古い考えや身分社会の弊害にも目を向けることのできる女性だった。両班や既得権益を持つ者が社会を牛耳る一方的な格差社会、男女の格差不平等など深い思考を重ねることへの重要性にも関心をもっていた。

 マリアは自分が学ばねばならないことの目標を立てた。日本を知ること、これは第一に日本の新聞をしっかり読めるようになること、第二にイエス・キリストの教えを、福音書を通して深く理解できるようになること、第三は、世界の趨勢に気を配り洞察すること、であった。

 世界を知る道標に最適な人が三谷先生でありミス・ロンドンである。殊に米国、英国に留学経験があり、英語だけではなくフランス語も解する三谷先生こそ第一の人物とマリアは見定め、先生の時間が許すかぎり部屋を訪ねることにした。

 三谷先生の英語の授業はその熱心さだけではなく、しばしば話が逸脱し、話上手に引き込まれているうちに終わり、瞬く間に時間が過ぎていった。生徒たちは話の続きを聞きたがり、夜の自由時間には先生の部屋へ押しかけるほどに興味をそらさないものだった。

 集団生活の寄宿舎は、家庭的な雰囲気と自由の中にもきっちりとした生活規範が決められていた。朝は六時の起床の鐘で起き、七時から朝食、朝食時にはアメリカ人教師が食卓に同席し、マナーの指導と英語の談話の時間でもあった。夕方は五時が夕食、六時半からは夜学と称した自習の時間、九時半が就寝と決められ、就寝までの自由時間はそれぞれだったが、マリアは三谷先生の部屋へ行くことが一番の楽しみだった。そんな日々は瞬く間に過ぎていった。

               *

 東京の留学生活も一年が過ぎ、寄宿舎や東京に馴染み慣れてはきたが、マリアの胸中は日に日に曇っていくばかりだった。立てた目標に向かい勉学には勤しんだものの気持ちに晴れの日は訪れない。自分は何を勉強しようとしているのか、明確な形になった目標が見えてこないのだ。

 女子学院では土曜日は休み、翌日は安息日でやることもなく物思いに耽るだけの二日間を過ごすことが多くなっていた。自分は何を求めているのか分からないのだった。だれもいない部屋でぽつねんとしていたそんなマリアに声をかけたのは三谷先生だった。

「わたしはこれから牛込の教会へ礼拝だから一緒しましょう」

 まるでピクニックにでも行くような快活な誘いだ。牛込の会員だった三谷先生は、安息日には希望する生徒たちを引き連れて礼拝に行くことが多いが、その日はたった一人でいたマリアに声をかけた。ずっと元気のないマリアを気にかけていた三谷先生は、礼拝を口実に二人で話をしようと考えていたらしかった。

 礼拝が終わるとあっけないように「麹町に帰るよ」と言った。市ヶ谷まで戻ったところで、三谷先生は学校から遠ざかる方向へ歩いていく。

「先生、道が違いますけど、どこへいらっしゃるんですか?」

「まあいいからついてきなさい。食事をごちそうしてあげるから」

 先生は顔をほころばせながら、さっさと前を歩いていった。

 向かった店には藍染紺地に白文字の暖簾に「丹後屋」とあった。

「なんのお店ですか?」

「うなぎ屋さんよ。わたしはうなぎが大好きなの」先生には馴染みのお店らしい。

「うなぎ? それ何ですか」

「Its an eel」先生は英語で答えながら、お店の人に気軽に声をかけた。

「うな重二つ。特上でいいわ」

「おいしい?」

 運ばれてきたお重に箸をつけながら、三谷先生がマリアの顔色を窺がうように訊いてきた。

「…………?」

「口に合わないの?」

 マリアはどう答えていいのか浮かぬ顔をしていたが、

「うなぎって甘いんですね。初めて食べましたけど、私たち朝鮮人は辛いのがいいです」正直に答えた。

「朝鮮料理って概して辛いというものね。七味唐辛子をいっぱいかけて食べなさい」

 マリアの受け答えに三谷先生は気分を害するようなことはない。むしろマリアの率直な感想に日本人との違いを感じていた。

「ところで最近のマリアは浮かぬ顔しているから、とっても気になっていたんだけど、何かあったの?」三谷先生はだしぬけに訊いてきた。

「何もないんです。だけど私の中でなぜだかわからないんですけど、なにかモヤモヤしたものが……。うまく言えないんですが、心の中に手を突っ込んでみると、ぬるぬるした手触りだけがあって掴みどころがなく……、コツンと手に当たるような手応えがないのは、果たしてなんなのだろう、何故なんだろうと。それがずっと続いているんです」

 三谷先生が聞いているのかいないのかさえ分からないままに、マリアは思いの丈を口にしながら、七味唐辛子をおもいっきりふりかけていた。うな重の甘いタレになじまないでいた。毎日の生活のように物足りないのだ。朝鮮の味付けを恋しく思い起こしているうちに、薫風のような平凡で満たされた東京の生活に浸っていることが、歯応えのなさなのではと思い始めた。

「思い悩み、心が苛立つときこそ聖書を開いてイエス・キリストの声に耳を傾けるのですよ」

 三谷先生が愛情いっぱいに親身になって語り掛けてくれる。

「いつもそのように心がけて、心が穏やかになるまで福音書を読んでいます」

「勉強も打算的に何かを得るためにするものではありません。人としてあるべき姿とは何なのかを追究するのが勉強です。そこには根底に信仰がなくてはなりません」

 三谷先生のおっしゃることには、その通りだとマリアは肯いていた。

「あなたは女子学院の高等科までやり遂げて、京城(ソウル)の貞信女学校で後進の指導教育に励むことこそがあなたの役目でしょう?」

 耳を傾けながらもマリアは微妙なズレを覚えていた。そこが違うのだ、それがコツンと手に当たるものは何なのかという意味なのだと自分に問いかけていた。

               *

 一九一六年(大正五年)の夏、マリアは短い時間を京城の叔父の家で過ごすと、八月には東京へ戻ってきた。叔父の家ではキムチやコチュジャン(朝鮮の味噌)で味付けされた料理に舌鼓をうち、朝鮮人を実感したのだった。

 東京での生活を再開してすぐのころ、新聞に目を通していて一面の大きな見出しにマリアは釘付けになった。八月三日付の新聞だった。

「李王世子の御慶事 梨本宮方子(まさこ)女王殿下と婚約御内定」の見出しが、二人の写真と共に掲載されていた。

李王世子は大韓帝国最後の皇太子であったが、併合後は政策的な思惑から日本へ連れてこられ、日本人化を強いられる不安定な身分におかれていた。婚約発表時は日本皇族身分の陸軍士官学校生である。また方子女王とは梨本宮守正殿下の長女、学習院女子中等科在学中の十五歳の女学生だった。

 「これは只ならないことだ」と、マリアは新聞記事を何度も読み返しながら全身が震え、胸の動悸が止まらなかった。

 李王世子(ギン)と日本の皇族梨本宮方子女王の婚約が、マリアの中でわだかまっていた掴みどころのない暗闇に、一条の不吉な光が差し込む手掛かりになった。朝鮮人にとって絶対受け入れることのできない日本の狡猾な策動によって、自分の曖昧だった苛立ちにはっきりとしたものが自覚できるとはなんという皮肉であろうか。日本は武力を後ろ盾にして朝鮮を我が物顔に、朝鮮人を下僕のようにしようとしているのだ、併合からたった五年でもって。

 日本の帝国主義者は浅はかで独りよがりの考えのもと、日本と朝鮮の血を交わらせる結婚という手段をもって、朝鮮と朝鮮人をただ功利だけのためにねじ伏せようとしている。どんな策動と所業を行おうとも、朝鮮人の心まで鷲摑みにして変えることはできるはずがないのだ。してみれば一刻も早く朝鮮人の思いを形にしなければならない。それは自分がやらなければいけないことなのだ。マリアは確信に満ちた考えに思い至っていた。だれから学んだものでもなかった。「アボジ、私は間違ってはいませんよね」マリアは祈りを捧げるように記憶にもない父に向って自分の思いを確かめていた。

               *

 叔母の弼禮(ピルレ)が結婚のため京城へ帰ることになった。

「お土産を買いにいくから付き合って」

 弼禮は一気に咲き誇った朝鮮の連翹のように晴れやかな表情をしている。

「オンニ(お姉さん)、ずいぶん楽しそうね。結婚するってそんなにいいものなの?」

「結婚だからじゃなくって、朝鮮へ帰ることが嬉しいの」

 弼禮ははにかんで言いつくろうように答えたが、嬉しさを包み隠せないでいた。

 マリアもすでに二十四歳、結婚しているのが当然のような年齢である。しかしマリアは結婚に何の興味もない。のちにマリアは「私は大韓の独立と結婚した」と言っている。朝鮮の独立を見ることなく生涯を終えることになるマリアだったが。

「何をお土産にするか決まっているの?」マリアはさほど興味もなく訊いた。

「一つだけ決まっているの、マスクメロンよ。ミス・ロンドンにごちそうになったことがあるの。初めて食べたときの舌触り、甘さがなんともいえなかった。これは京城では売ってないと思う」

「どこで買えるか知っているの?」

「知ってるよ。いつでも買えるというのではないらしいけど、ミス・ロンドンが予約してくれているの。それが今日なの」

「どこまで行くの?」

「神田須田町の水菓子店『萬惣』というところで売っているの。そこでは西瓜糖も買うつもり」

萬惣は神田青果市場の近くにあった。水菓子とは果物のことだ。また「西瓜糖」とはスイカの果汁を濃縮した健康食品として有名だった。

「買い物終わったら、おそばを食べたい。萬惣から数分歩いたところにある『神田まつや』という日本そばのお店。ここは三谷先生に一度連れて行ってもらった。冷たくしたそばをそば汁に先っぽの方だけちょっとつけて食べるんだけど、食べ方まで三谷先生が教えてくれた。朝鮮に帰ったら食べられないと思うから、最後の想い出に、ね」

「オンニはずいぶん日本に馴染んでいたのね」

「なんでもかんでも馴染んでいたわけじゃないけど、郷に入らば郷に従えというでしょう。この神田界隈というのは古い日本から最新の日本まで何でもそろっているから、便利で飽きることのない町だったわ」

「今日一日、オンニの言う通りに従うわよ。それに私からオンニに聞いてみたいこともあるし」

 麹町三丁目から市電に乗り、九段、神保町を通り神田須田町へ向かった二人は、買い物をすませ『神田まつや』でざるそばの昼食を摂った。

 テーブルに着くと、ざるそばの給仕を待つ間にマリアが堰を切ったように話しかけた。声を顰めてはいたが朝鮮語である。

「マリア、日本語になさい、その方が……」

 弼禮に制されたマリアは不服そうな顔をして口を噤んだ。

YMCAへ行ってそこで話をしましょう。あそこならいくらウリマル(朝鮮語)で話しても安心よ。少し遠いけど神保町の本屋街の店々を覗きながら行きましょう」

 途中文房具店前を通りかかると、看板に「画材 文房具 文房堂」とあった。

「あっ思い出した。シャープペンシルをお土産にしよう」シャープペンシルが発明されて、人気の商品になっていたことを思い出したのだ。

「これも京城には売っていないでしょう」

 神田須田町からゆっくり一時間ばかりをかけて、日本橋川に架かる俎橋を右に折れた西小川町(現西神田二丁目)のYMCAへ向かった。YMCAというのは在東京朝鮮基督教青年会館をいい、一九一四年秋に竣工した木造洋風造りの二階建て会館で、朝鮮人留学生にとっては唯一といっていい交流の拠点となっていた建物だった。

「李王家の血統に日本人の血をまぜようとする日本の破廉恥な策動は絶対に許せないこと、こんなことがどうして堂々とまかり通るの? オンニ教えて」

 YMCAの一角に落ち着くとすぐにマリアはまくしたてた。

「教えるもなにも……、私の怒りもはじけたままで、どこにも納まらないわ。どこまでウリナラ(我が国)を見下げた所業かは、だれが考えても許せないもの。ミス・ロンドンに質問したら、両手を広げ、肩をいからせていたわ。何も言わなかったことが、あきれてものも言えないという意味だと私は理解した」

 弼禮はさらに噛んで含めるようにして続けた。

「ミス・ロンドンが言うには、ヨーロッパの国々は王室間の国際結婚があり、姻戚関係は複雑、でもこんどの日本と朝鮮のこととは決定的な違いがある。それはそれぞれのヨーロッパの国は独立した国家である。支配被支配関係での婚姻はない」

「そうよ、そうでしょう。自主独立していることがすべての根幹にあるのよ」

 マリアの中ですべてがクリアになっていくようだった。

「オンニ、私たちはすぐにでも行動を起こさなくてはいけないの」

「だけどマリアちょっと待って。いま根拠のないデマが出回っているの。梨本宮家にいやがらせの電報を夜中に送ったり、邸の塀に落書きしたりしているのは朝鮮人だという。警察が神経を尖らせているらしいから、軽はずみなことだけはしないで。あなたは一途なところがあるからとても心配だわ」

 オンニの言うことはよくわかるが、マリアは我慢が限界とでもいうように強く唇を噛んでいた。

 この時期の日本人は生活を謳歌し、街ははしゃいでいるようにマリアには映っていた。日清日露の戦役以後、朝鮮をわがものにし、欧米にも引けを取らない一等国になったと自画自賛していた。さらにヨーロッパ全域を戦場にした第一次世界大戦の圏外にあって、形だけの参戦国で、日本製品への需要の増大が日本に好景気をもたらしていた。神保町界隈を闊歩する人々も、女性は華美な和服あり、派手な洋装の人は華やいで、大通りを路面電車がひっきりなしに行き来して活気に溢れていた。梨本宮方子女王の婚約は慶事であり、朝鮮人の忸怩たる思いや憤りに思いを馳せるなど露ほどにも感じられなかった。女性の自立や解放を謳う雑誌「青鞜」には、女性としての主張や旧習を打ち破るべき方法や考えが満載されてはいるが、周辺のアジアへ向ける眼差しなどはどこにもなく、国の体制を批判的に見る目などはほとんど見られなかった。そんな肯定的な風潮は、学校や学生の中にも広がっている。女子学生の間には、写真館に出向いておめかしした仲間同士で記念写真を撮ることがひとつの流行だった。

 女子学院では九月に学生が学校へ戻ってくると、高等科の学生全員で集合写真を撮ることになった。弼禮とあと一人の中国人が国元へ帰るのを期しての発案企画だった。

 学生たちや先生が思い思いの立ち位置に並んだ写真は、女子学院のシンボル白木蓮(マグノリア)と瀟洒な校舎を遠景にして撮影された。

 弼禮とマリアは同じ髪形をしている。左右の(びん)(かみ)を前にした結い方の(ひさし)(がみ)、女学生に流行のスタイルである。留袖の着物に袴姿は他の日本人学生と同じ装いである。弼禮にとってはこれが最後の和服姿になった。撮影が終わるとみんなが弼禮を取り囲んだ。

「あなたがいなくなると、あの美声とピアノが聞けなくなるわ。さびしいね」「またいつでも学校を訪ねてきてね」と声をかけてくれている。別れはだれにとっても悲しいものだ。弼禮は涙ぐんでいた。いつの間にかだれからともなく歌が始まっていた。

Open stand thy portals wide. Bidding all who may……、女子学院の校歌だった。みなが涙を流している。弼禮は嗚咽を漏らしはじめていた。朝鮮人も日本人もない感動を呼び起こす合唱になった。

一歩さがったところからその光景を見ていたマリアは身が火照るほどさまざまな思いが全身に広がっていた。弼禮の思いを共有している。身内の人間とは限らない感情だった。日本人の学生たちは涙しているが、マリアにはそれはいかにもアッサリしているように思える。おそらく朝鮮人ならば弼禮の手を握ったり、抱きついて自分の思いを表現するにちがいないのだ。こんなところが民族の情の表わし方のちがいなのだろう。

               *

 いつしか澄み渡った空にいわし雲が流れる一九一七年十月に入ったある日、ミス・ロンドンに呼ばれた。呼ばれるというのは珍しいことだ。ミス・ロンドンの前に一人の若い男いた。

「この男性がマリアに用事があるというから呼んだのよ」

 見知らぬ若い男が用件もはっきりせずに校内に足を踏み入れることなどこれまでにないことだった。校門のそばには用務員兼守衛のいる小さな事務所がある。守衛と訪ねてきた男との間で悶着が起きていた。

「金マリアに会いたい」「何の用事だ?」「本人に直接話したい」「用件もわからないのに取り次ぐことはしない」

 男が途方に暮れているところにミス・ロンドンが通り合わせた。どうしたのか聞けば、「金マリアに会わせてほしい」と覚束ない英語で訴えてきたのだった。真剣な眼差しだったことから不埒な考えでマリアに会いたがっているわけではないと判断したミス・ロンドンが取り次いでくれたというわけだ。

 男は明治大学で法科を学ぶ朝鮮人の留学生だといい、ミス・ロンドンとマリアに学生証を差し出した。

「留学生が集まって運動会を今年もまた開催するので、金マリアさんにも是非参加していただきたいのです」

 ミス・ロンドンを前にして男は緊張気味に来校の主旨を伝えた。

「運動会はいつ、どこでやるのですか?」

「陸軍の戸山ケ原練兵場(現新宿区戸山)です」

朝鮮語を解さないミス・ロンドンにはマリアが通訳した。学校以外での運動会がどういうものかよくわからないミス・ロンドンであったが、みなが思い思いのボックスランチを持ち寄って、いろんな種類の陸上競技をやることを説明した。屋外でボックスランチを食べるということに興味を示したミス・ロンドンは、「タミ(三谷先生)もOKというにちがいない」と賛同してくれた。運動会が単なるレクレーションや親睦を深める集まりではないことは勘のいいマリアにはわかっていた。おそらく三谷先生も朝鮮人留学生たちの、運動会に込められている暗黙の思いに理解を示し許可してくれるにちがいない。マリアは思う存分ウリマル(母語、朝鮮語)で会話できることが楽しみだった。

 好天に恵まれた運動会には三百人ほどの朝鮮人留学生が参加していた。運動会といいながら競技を競い合うことへの真剣味に欠けているのがマリアには笑ってしまうほどのどかなものに見えた。ピクニックのほんの一部でゲームをしているようなものだ。そして参加者のほとんどがその目的を知っているのだ。

 日本の警察は不穏な政治活動をする者や思想を持つ者に目を光らせていた。特に朝鮮人の動きには敏感だった。朝鮮のインテリ層の最たるものが日本への留学生であり、すべての留学生の行動を把握しておくための専任の刑事がいたほどであった。警察は三人以上の留学生が会することさえ禁じていたのである。そんなことは即刻承知の学生たちは何かと知恵を働かせて、皆が一同に会する機会をつくることに苦心していた。その一つが運動会なのだ。しかし三百人もの留学生が集まれば、日本の警察に買収された内通者がいても不思議ではない。そのためにはあくまで和やかなレクレーションでなければならない。

 運動会で最も盛り上がった種目は仮装行列だった。裸の体に彩色したり、朝鮮の昔風の衣装だったり、ある者は歴史上の人物を模し、またある男はチマチョゴリを着て女性になったりと工夫をしていた。それが鎧兜の日本の武将の恰好をした人形を抱いて女装をしているのは何なのか。壬辰倭乱(文禄慶長の役)時の、日本武将に抱きついて濁流に身を投げた妓生、論介であることは一目瞭然だった。精一杯ぎりぎりの日本へのアイロニーだ。

 昼食になった。各自が持ち寄った弁当を広げての会話は楽しい。数少ない女性たちが集まっての昼食になった。

「そこに見えている丘の上で食べませんか」

 すぐ近くに見える小高い丘を指さして提案する人がいた。それは通称「箱根山」と呼ばれている戸山ケ原の一角を占めている標高四十五メートルほどの所だ。眼下に早稲田大学の校舎を見て、その先には神田川から神田の街、遠くには東京湾まで見渡すことができた。十人ばかりの女性だけのお昼だった。

「可愛いバスケットね」

 マリアの持参したバスケットに目敏く気付いて話しかけてきたのが許英粛(ホ・ヨンスク)だった。叔母の弼禮が会長をしていた「東京女子留学生親睦会」で面識のあった東京女子医学専門学校の留学生である。許英粛(ホ・ヨンスク)は京城の裕福な商家の娘だが親の反対を押し切って東京留学をしていた。

 藤製のバスケットはミス・ロンドンが、自分の代わりにバスケットをピクニックに行かせたいとでもいうように押しつけがましく貸してくれたものだ。中味は、三谷先生と一緒にいるお手伝いのシゲさんが作ってくれた。おにぎりや卵焼きに果物まで用意してくれていた。

 思う存分朝鮮語を話せる時間は、何事も忘れさせてくれるほど楽しく、それぞれの学校生活や故郷の話で盛り上がっていた。年頃の女性たちらしく結婚が話題になり、それがいつしか李王世子と梨本宮方子女王の婚約に話が進んでいたとき、隣にいた許ヨンスクがマリアに言った。

「梨本宮方子女王というのは、あなたの学校のすぐ近くで生まれ育ったってこと知ってる?」

「いや知らないわ。それがどうかしたの」

「その邸というのは、私たち朝鮮人に因縁浅からぬ建物なのよ。千鳥ヶ淵の鍋割坂にいまもあるよ」

「その邸が朝鮮にどんな関係があるの?」

 方子女王は二人姉妹の長女として千鳥ヶ淵に面した番町の梨本宮邸で生まれ、十年近くをそこで過ごしていた。十五歳になった婚約時には、新築なった渋谷・宮益坂に移り住んでいたが、番町の邸はそのままであった。

「番町の梨本宮邸というのは、駐朝鮮日本公使だった三浦梧楼の邸宅だったものを宮内庁が買い上げて梨本宮邸にしたものなの」

 三浦梧楼という名前を耳にすると同時に、日本の所業の罪深さと李王世子と方子婚約の因果に、マリアは全身の血が逆流するほどの怒りがこみ上げてきた。朝鮮の王宮に乱入し、国王の妃である閔妃を殺害した首謀者である三浦梧楼と方子女王にそんな因縁があろうとは、マリアには知る由もなかった。

 朝鮮人にとって、日本が朝鮮にした悪行を三つあげるとすれば、朝鮮全土を蹂躙した豊臣秀吉の壬辰倭乱、韓国併合であり、もう一つが閔妃殺害だと、マリアの中には怨念のように張り付いている。朝鮮と朝鮮人を見下し、完膚なきまでに朝鮮を消滅させてしまう総仕上げが李王家と日本皇族の血の交わりなのか。マリアはそこまで考えると全身の震えが止まらなくなった。町場の神保町界隈に出かけるたびに横目に見ながら通り過ぎる森に囲まれた宮城(皇居)に外国人が乱入し、狼藉を企て皇后を殺害するとしたら……、戦争になることは火を見るより明らかなことだ。ときの朝鮮政府は何故日本に宣戦布告ができなかったのか。マリアは朝鮮の不甲斐なさにも歯ぎしりする思いが全身を貫いた。

 運動会で知り合い意気投合した人物がいる。(ファン)愛施(エス)(ター)である。ホ・ヨンスクと同じ東京女子医専の留学生でマリアと同年齢ということもあり三人で語り合ううちにマリアと意気投合していた。祖国への思いや政治的な意識の高さに二人は共鳴し合い親交を深めることになる。黄エスターは平壌郊外の出身、梨花学堂、朝鮮総督府医学校の課程を終え、東京女子医専に留学したばかりである。一を言えば十が解る人物だということが初対面のマリアには快かった。

 ホ・ヨンスクの話にじっと耳を傾けていたファン・エスターが、運動会の帰りしなにマリアに囁いた。

「番町の梨本宮邸というところに行ってみませんか」

 迅速な反応と行動力に感心したマリアは即座に同意していた。

 翌週の日曜日、東京の地理に不案内だというファン・エスターと落ち合うために、マリアは市ヶ谷見附の電停で待ち合わせることにした。

 九段上の電停で下車すると千鳥ヶ淵に沿って鍋割坂の上り口へ向かった。坂の左手に壮大な瓦葺きの屋根が見える。

「あの建物に違いないわ」エスターはさっさと歩き始めた。小柄なマリアも急ぎ足でエスターを追いかけるように小走りで坂を上がっていった。いわくつきの邸を見ることへの小さな興奮とともに心臓の鼓動が聞こえてくるようだった。

「邸を見たからといって何も変わりはしないけど、何事も耳学問や書物だけではダメ。医学の勉強と同じで、すべて実体験が大事なのよ」

 エスターに促されて、邸に接している塀越しに建物の屋根だけを見た。それだけでも家の広さが想像できた。

「三浦梧楼が住んでいたと思うだけで気分が悪くなってきたわ。でも見て確かめられてそれで充分よ」エスターは自分を落ち着かせるように口にして続けた。

「方子女王なる女性も子供時代をここで過ごし、この邸から学校へ通った。聞いたところでは、皇族の子女でも雨や雪の日以外は人力車を使わず、歩きで通学したらしいよ」

「あなた、よくそんなことまで調べたわね」マリアが感心していると、

「その学校とやらまで行ってみない? 学習院女子部(華族女学校)というらしいけど、さほど遠くないはず。十五分か二十分も歩けば行けるわ」

 二人は英国公使館を通り過ぎて、永田町の学校まで話を途切らせることなく、ゆっくりとした足取りで歩いていった。

「このあいだの運動会では、男たちにがっかり、うんざりだった」

 口ほどにはうんざりしている様子もなくエスターは言った。何ががっかりなのかとマリアは怪訝そうな顔をした。

「三浦梧楼と方子女王のことを話しても、男どもはだれも大した反応しないんだよ。それどころか……」

「それどころか何?」

「どいつもこいつも『いま付き合っている奴いるのか』『こんど食事をしないか』と聞いてくる奴ばかり」

「私にも言い寄ってくる男がいたわ。だから言ってやったの、『あなた朝鮮に帰れば奥さんがいるんでしょ』って」

「ハイレベルで最先端の学問を目指している留学生にしては低俗すぎる。みんながみんな同じだとはいわないけど、わたしには真剣さが感じられなかった。朝鮮と日本の血の交わりなんてとうてい容認できるものじゃないはずなのに、何故行動を起こそうとしないのかしら」エスターは憤懣をぶちまけるように言う。

「わたしたち女が何か言っても所詮女だとバカにして、木で鼻を括っているのよ」

「女性を蔑む儒教の男尊女卑の世界から一歩も抜け出せないのね」

「雌鶏が歌えば家が滅ぶということわざを信じて疑わない」

 マリアとエスターは交互に思いの丈を吐き出しながら、学習院女子部(華族女学校)の前を通り越して、紀尾井町の弁慶橋の傍まで行き着き、

「あら、行き過ぎたみたいね」二人は顔を見合わせて大笑いしていた。

「マリア、あなたさっきいい事言ったわね。雌鶏が歌えば家、国家が滅ぶって。朝鮮の男どもは何を考えているんだか、雌鶏が出しゃばる前に祖国は日本に乗っ取られたじゃないよ」

「わたしずっと考えていた。どうしたら国を取り返せるのかと。今日エスターと話をしてすっきりしたし、何をしたらいいのかが見えてきた気がする」

「わたしも思いがマリアと同じということがよくわかった」

「女子留学生の有志で『女子界』という機関誌を発行していることは、エスターも知っているでしょう、あなたも編集委員になってよ。一緒に女子のために、女子の思いを発信していく活動をもっと強力に進めなくっちゃ」

 問わず語りに、この日を期してマリアとファン・エスターは固い絆で繋がった同志になった。

 毎年増え続ける女子の留学生たちは互いの交流を目的として「東京女子留学生親睦会」を作っていた。初代会長はマリアの叔母弼禮が務めていたが、一九一八年秋から金マリアが会長に推薦された。マリアの行動力が見込まれ、機関誌『女子界』編集にも携わっていることからの会長就任である。マリアは微温的な親睦会と単なる会報的内容の『女子界』にも目を向け『女子界』の改革を目論み始めた。ファン・エスターの協力も大きい。

 エスターと同じ東京女子医専で学ぶ許英粛が、男子の留学生組織「東京朝鮮人留学生学友会(学友会)」メンバーで彼らの機関誌『学之光』発行に携わっている李光洙(イ・グァンス)という学生を『女子界』編集の顧問に推薦してきた。

 李光洙は早稲田大学の学生ではあるが、早くから東京への留学を果たし明治学院を卒業、一端朝鮮に戻ったあと再度東京へ戻り早稲田で文学を学んでいたが、そのときはすでに朝鮮の新聞に「無情」という連載小説を執筆しており、既に作家として認められてもいた文筆家でもある。

 マリアは李光洙(イ・グァンス)とともにもう一人青山学院に学ぶ田榮澤(チョン・ヨンテク)を編集顧問として迎え入れた。

 学友会は当局による集会の制限や禁止、出版物への検閲などさまざまな圧力をうけ、活動は困難を極めていた。学友会が発行する『学之光』は当局の発禁処分を逃れるために、政治に触れることを巧妙に避けて小説や詩、エッセイなどの記事を掲載していた。『女子界』もそれに倣っての出版のためには李光洙や田榮澤の助言を必要としていた。

 本当に言いたいことや書きたいことを掲載できないもどかしさが、マリアやエスターにはやりきれなかった。最も書きたいことは民族独立への一致団結を呼びかけることであるが、それはたちどころに発禁につながるのである。マリアたち編集委員はどんな視点から『女子界』を発行するかに腐心し、白熱した議論を進めていた。民族の自立、祖国の独立という究極の目的を訴えること以上のものはないのはわかりきっていたが、そのことを真正面から取り上げることの危険性は『学之光』とも共通していた。

 しかし『学之光』に掲載されるいかにも高尚そうで抽象的な論説などには取り上げられないものがある。それは朝鮮人女性への考察である。男の論理で朝鮮社会を見る視点には欠けるものがあるというのがマリアやエスターたちのもどかしさであった。李光洙や田榮澤を顧問に迎えた理由の一つは、彼らが唱える儒教社会の家族制度の改革という考えに共感を覚えていたからだ。朝鮮の家族制度の近代化とはすなわち朝鮮人女性の解放とそのための啓蒙は同義だというのがマリアたちが得た結論だった。

               *

 一九一八年(大正七年)の二月中旬、学友会誌『学之光』編集委員の新年会に『女子界』編集委員も参加するようにという誘いをうけた。声をかけられたのは金マリア、黄エスター、許ヨンスク、羅蕙(ナヘ)(ソク)の四人である。マリアはあまり気が進まなかったが、顧問をお願いしている李光洙と田榮澤のたっての希望という。断るわけにもいかず、出席せざるを得なかった。会場は神田司町の居酒屋『みますや』である。安上がりで飲食ができる庶民的な居酒屋は、懐具合が乏しい留学生には最適というのが『みますや』になった理由らしかった。

 許ヨンスクを除く三人は、駿河台下の電停にほど近い画材文具の店『文房堂』で待ち合わせることになった。マリアの叔母弼禮がお土産にシャープペンシルを買った店だ。私立女子美術学校(現女子美術大学)で学ぶ羅蕙(ナヘ)(ソク)が画材を買い求める都合に合わせての待ち合わせ場所だった。

羅ヘソクは油絵に才能を発揮するだけではなく文才にも恵まれていた。女子留学生親睦会の創設にも尽力し、『女子界』の第二号にはすでに小説を執筆、そのずば抜けた芸術的才能は、朝鮮の新聞『毎日申報』に婦人画家の閨秀作家として取り上げられてもいた。

「わたしの都合に合わせさせて悪いわね。学校の近くにも文房具や画材売る店はあるけど、『文房堂』に来るとすべての用事が一度に済むのよ。このお店は東京一なんだ」

 女子美術学校は本郷・菊坂にあった。羅ヘソクが言うには、一度キャンバスに向かうと寝食を忘れて絵に集中することになるという。そう度々『文房堂』に出向くわけにもいかないのだ。それでも『女子界』の編集には協力的で精力的に活動をする女性だった。

 英文学のマリアといい、医学を学ぶファン・エスター、許ヨンスク、絵画のナ・ヘソクと多士済々で近代化に目覚めた最先端の女性たちばかりだった。

「ヨンスクと一緒じゃなかったの?」ナ・ヘソクがエスターに訊いた。

「彼女は所用があって直接会場へ行くって。なんでも一人でさっさとやる人だから」

エスターがいつものことよ、とでもいうように苦笑いして答えた。

マリアたち三人は、道行く人に場所を尋ね歩きながら、神田司町の、縄のれんの架かった『みますや』にやっとたどり着いた。江戸時代風の(だし)(げた)造りの町屋が並ぶ中ほどにある間口も狭い目立たない店だった。六、七人のほとんどの男子留学生がすでに来店していた。

マリアはテーブルに目を遣って「ホッ」と声を出してしまった。大盛になったキムチに目を止めたからだ。じんわりと口の中に唾液が広がった。

朝鮮人留学生の一団だけだと思いながら店内を見渡すと、カウンター席の端に中年の男が一人所在なげに座っているのが見てとれた。テーブル席には見知った顔もあるが、李光洙が見当たらない。

「李光洙氏はどうしましたか?」と訊くと、

「時間までには来るでしょう。彼が来たら始めましょう」田榮澤が答えた。

「このキムチはどこで手に入れたんでしょう? それもこんなにたくさん」

女性たちの思いはみな同じなのだ。キムチがあればどれだけ食が進むことかとみんな顔がほころんでいる。

「この店のご主人が今日のために手を尽くしてくれたんだよ」男性の一人が主人を指差しながら答えた。主人は笑顔を返しながら何も言わない。

「深川区の護岸工事に多くの同胞労働者がいて、そこの飯場で賄いをやっているアジュマ(おばさん)が作ったキムチを分けてもらったということだよ」

学友会の白会長が簡単に説明してくれた。それに補足するように主人が言った。

「みんなが食べたいだろうと思って、なんとか頼み込んで分けてもらいました。白さんがいつもこの店を贔屓にしてくれているので、ささやかな恩返しです」

 主人の気遣いに温かいものがマリアの中で広がっていたとき、李光洙と許ヨンスンが連れ立って到着した。女性三人は何か感じるものがあるのか、目と目で頷き合っている。

 白会長の挨拶が終わると、だれもが我先にとキムチに手を延ばしている。

「カウンターの端にいる人がちらちらこっちを見たりしているけど、あの人は誰なんでしょうね」

 エスターが声を顰めるように隣にいた田榮澤に訊いた。

「特高課の刑事だよ。この集まりだって当局の許可を取り付けてあるんだよ」

「ウリマル(朝鮮語)わかるんですか?」

「結構解かる刑事でね」

 白会長が日本語で挨拶したのも、刑事を充分意識してのことだったのだ。白会長に倣って全員が暗黙の了解で極力日本語を話すのもそのためで、話題も政治的な臭いのすることは避けているのがみなにわかっていた。

『学之光』と『女子界』に掲載された当たり障りのない記事のことが話題の中心になった。

 男たちは女性がいるというだけで高揚しているようだった。話の矛先は何かといえばマリアたち四人の女子に向けられる。学校の様子や学んでいることの内容に始まって、出身地や家族のことなどプライベートにまで立ち入って聞きたがる。お酒が進むに従って男たちの本音が出て、好き勝手を言い始めるのだった。

「国にいたら男と同席して飲食するなんてあり得ないよな」「男にとって女性は良妻賢母が理想だろう」「修身斉家治国平天下と昔からいうじゃないか」「女房にするには美味しいキムチを作れる女性が最高だろう」挙句の果てには「女性がいるだけで妓生のいる宴席を思い出したよ」

 知識人たる留学生をしてこの程度かと、マリアはがっかりしてエスターに目で合図を送った。男たちの言いたい放題に反論も肯定もせず鼻白んでいた女性四人だったが、堪忍袋が弾けたように羅ヘソクが猛然と反逆し大声を出した。

「美味しいキムチを作る女性が最高ですって? わたしはキムチなんて作ったこともないわ。うちは母だって祖母だって作ったことない。全部使用人がやるのよ。わたしみたいに油絵勉強しているなんて良妻賢母には程遠い生意気な女は最低ってことね。あなたたちの話は聞くに堪えないことばかり。芯から儒教朱子学の呪縛にがんじがらめで、男尊女卑の儒教の亡霊から逃れられないでいるのよ。留学して何を学ぼうというのです? 正直あなたたちには愛想が尽きたわ。わたし帰ります」

 羅ヘソクはチマ(スカート)をひるがえして、傲然として出て行ってしまった。取りなす術もなかった。

「歓談の場なんだから、くだけた話でいいじゃないか」男のだれかが羅ヘソクの行動を非難するように言った。

「そうだよ、これから本題の、二つの機関誌の編集方針など話そうとしているところであんな失礼な行動を取られたんじゃ話にならないよな」同調するような発言も飛び出した。

 白けた宴会になり、『女子界』のこれからの方向性について男子留学生に意見を聞きたいと考えていたマリアだったが、二人の顧問に編集会議の次の予定を伝えただけで新年会は散会になってしまった。

 新年会に失望したマリアは、底の深いところに根ざした憤激と焦燥感に晴れない日々を送っていた。どんよりとした心のままで二月のソルラル(旧正月)を迎え、昔の晴ればれとして楽しかったソルラル(旧正月)の幼いころを思い浮かべていた。あんな日常がいつ戻ってくるのだろうか。一日も早く民族独立を成し遂げ、自分たちの国を取り返さなければと思うにつけ、マリアは焦燥感にかられるばかりだ。

 新年会などとのんきなことをやっていた一月には、李王世子垠と梨本宮方子女王の納采の儀(結納)が執り行われた。マリアは二人の婚約を知ったときと同じようなショックを受けた。手を拱いているうちに日本は着々と血の交わりへの階段を進めているのだ。なぜ留学生の男たちは行動を起こさないのだろうか。高説を並べ立てるばかりの李朝の儒者たちとなんら変わりがないではないか。空理空論の論争に明け暮れ、党争にうつつを抜かした時代から一歩も抜け出ていないことになぜ気づこうとしないのだろうか。マリアは切歯扼腕するばかりだった。アメリカ人宣教師のもとに届くアメリカの新聞には、ヨーロッパを主戦場とする第一次世界大戦の膠着状態を打破するべくアメリカのウィルソン大統領の十四か条が発表され、戦後処理の提案がなされて民族自決が謳われているというのに。ミス・ロンドンがいうには、ヨーロッパの被植民地弱小国は、独立に向けて動き出しているということだ。バルト三国やポーランドなどが帝国主義の列強国に向かって独立の声をあげ始めているというのに、われわれ朝鮮人は何もしようとしない、とマリアはため息が出るばかりだった。

               *

 雑用をしたり『女子界』の原稿を整理したりでのんびりとすごしていた土曜日の午後、久しぶりに三谷先生から声をかけられた。新聞記者が三谷先生の話を聞きにきている、マリアに同席しないかという伝言が届いた。

わたしに何の話があるのだろう? 三十代半ばくらいの男性記者だった。

「この方が英国とアイルランドの関係について聞きにいらっしゃってね。わたしが英国に留学していたからだっておっしゃって。話しているうちに朝鮮のことに話題が広がり、是非マリア、あなたと話がしたいって」

 記者はマリアに名刺を差し出した。名刺をもらうなんてマリアは初めての経験で緊張した。

「東洋経済日報の石橋といいます」

 名刺には石橋湛山と記載されている。相対しているマリアには警戒の表情が浮かんでいる。朝鮮人留学生への探るような目は警察だけとは限らない。迂闊なことは言えないと、マリアは強張った顔になっていた。

「何もご心配なく。僕は日本の韓国併合は間違っていると思っている人間ですから」

 マリアの顔や態度を見ただけで、疑心暗鬼な心持ちを見抜くのはさすが新聞記者だと、マリアは三谷先生の同意を得るような上目遣いのしおらしい仕草をしていた。

「三谷先生にうかがったけど、アイルランド人は根気強く自主独立の運動を続けている。あなたたち朝鮮の人たちは、何故一致団結して立ち上がらないのですか?」

――あなたたち日本人に言われたくないわ。

 マリアはキッとなって言い返そうとしたが黙っていた。

「短兵急に事を起こすのは得策ではないと僕は思いますが、散発的に義兵闘争をしていては事は成りません。何故一致団結しないのですか?」

「十人いれば十の党派ができるほど結集しなかったのが日本に併合された一因だとわたしは思っています」

 李朝五百年の間、数限りなく繰り返された空疎な儒者たちの争いを思い、近代化に遅れをとった祖国を思い浮かべて言った。

「英国とアイルランド、ロンドンとダブリンの関係は、日本と朝鮮、東京と京城の関係と同じでしょう。僕が思うにアイルランドと朝鮮の違いは、国民が一つに纏まる幹にあたるもの、共有するものがあるかないかにあると思いますが、いかがですか? アイルランドにはカトリックという共有する幹があります。朝鮮にとって、それは何なんでしょうか?」

 マリアは即答できなかった。即答できるようなものが朝鮮にはないのだ。石橋記者の質問に目を覚まされる思いだった。

「日本にとっての幹とは何なんですか?」逆にマリアが訊いた。

「日本には国民を一つにするような宗教はないけれど、倒幕派の御旗となった万世一系の天皇制なのではないかしら。天皇教という宗教かもしれないわね。わたしはクリスチャンだから天皇が神様とは思わないけれど、天皇教という一種の宗教かもしれないね」

三谷先生は苦笑しながら記者に代わってさらりと言った。

「僕も三谷先生の考えに同意します。朝鮮は長い間儒教・朱子学の世界だけど、それは宗教ではない。朝鮮にとっての宗教は中華思想でしょう。天子様がすべてを治めるという世界観が朝鮮を一つにまとめてきたのです。朝鮮は常に北方に目を向けてきたのです」

 儒教も中華思想も身に染みて知っていることとはいえ、改めて言われて、初めて頭の中が整理される思いだった。国の安寧、安定は北方との距離を一定に保つことに他ならない。北の顔色を見ておくことが国を治める上で、考えなければならない優先順位の第一のことなのだ。北方とはあるときは漢民族であり、またある時代は蒙古(元)や清(女真・満洲族)さらにはロシア民族である。北の勢力が朝鮮を圧迫したときには日本が敏感に反応する。それがいまの韓国併合につながっているという構図なのだ。

「日清、日露の二つの戦争もその根本的な意味は、北方勢力の脅威にありました。日本にとっては決して静観したり見捨てておけるものではなく、国の防衛のためにはせざるを得ない戦争でした。ことに不凍港を求め、南下政策をとるロシアの脅威というのは強烈なものでした。朝鮮半島がロシアの手中に落ちれば日本の存亡に関わる重大事だったのです」

「もし日本がロシアとの戦争に負けていれば、朝鮮はロシアのものになっていたというのでしょう」

マリアは皮肉をこめた口ぶりで言った。

「その通りです。そこまでは言い訳の立つ戦争でした。しかし……」

 石橋記者は息を継ぎ、言いたいことをまとめているように数秒間をおいて続けた。

「しかし日露戦争後の日本がとったすべての政策は将来に禍根を残すことになるでしょう。いやこれは私だけの考えですが、私が信念をもって言い続けることです」

「日露戦争後に日本がとった政策は間違い、というのですか?」

「そうです。朝鮮の外交権の略奪、さらには韓国併合はやってはいけないことだったのです。将来に禍根を残すだけではなく、日本の存亡に関わる最悪の選択でした」

「どういうことでしょうか。もっと詳しく聞かせていただけませんか」

 石橋記者の論理は単純明快だった。どんな民族といえども他民族の属国をよしとする民族なんてどこにもいないこと、今すぐにでも日本が朝鮮や台湾をいさぎよく手放せば、欧米の帝国主義列強の属国も騒ぎ出し、列強も慌て始めるに違いないこと、さらに言えることは英国が属国としているインドは植民地経営の損得からしても赤字経営になっていて、採算が合わないことに気づき始めていることなど、すでに時代は民族自決の方向にむかっている、それを予感するようにアメリカのウィルソン大統領は十四か条の提案の中で民族自決を唱えていることなどをあげて自説の正当性をマリアに説明した。日本人の大多数から非難をうける稀な考えであることもいとわず、石橋記者は自説を貫き通そうとしていた。

「言い方は悪いかもしれないが、日本が朝鮮を手に入れて以来の損得勘定をしてみればいい。朝鮮には日本に利益をもたらすどんな豊富な資源があるというのです? そんなものはありません。韓国併合以来ずっと日本の持ち出しが続いているのです。物質的なことだけではなく、朝鮮の人たちの心情を考えれば日本人の想像力の欠如がいかに日本にとっても逆効果しかないかということがわかりそうなものです」

 石橋記者の話にマリアは胸のつかえが一度に下がる思いだった。こんな日本人もいるのかと、日本を見直す気持ちさえ持つことができた。どこの国にもいい人もいれば悪い人もいる、至極単純な思いがした。

「わたしたち朝鮮人は何をしたらいいのでしょうか、教えてください」

マリアは素直な気持ちで質問することができた。

「取るに足りない私見かもしれませんが、朝鮮人としての最低限の共通認識をもって人々が結集することでしょうね、一筋縄ではいかないでしょうが。もう一つは世界中の植民地にされている国々に自主独立の運動を呼びかけることです。アイルランドしかり、バルト三国、インド、フィリピン、インドネシアみな同じ行動を同時に起こす呼びかけですかね」

 すばらしい考えであるが、石橋記者の考えに沿って実行しようとすれば、相当の制約があるだけでなく、ときには警察に身柄を拘束される危険もある。そのことを石橋記者は知っているのだろうか。朝鮮内の人間だけでなく日本にいる留学生も息を顰めるようにして生きているのだ。しかし三谷先生が自分を呼んでくれたことに感謝し、すべてが納得できる石橋記者の考えにマリアは心が泡立ち鳥肌が立つほどの勇気と興奮を覚える時間になった。一時も早くこの話を留学生仲間に伝えなければという思いが沸き上がってきた。

 金マリアには学業がおろそかになるほどにやるべき事が山積している。山積している課題の根底にあるのは、自主独立のことだが、そのための具体的な手立ても見出せず苛立ちが募るばかりであった。

 時間だけは空しく過ぎていき、校庭の白木蓮の香りが漂う春になった。その甘い香りを素直に喜べないことを寂しく思いながら日々を送っていたころ、東京朝鮮留学生学友会主催の新入生歓迎会が開催された。

 百人近い留学生が、日本橋川に架かる堀留橋近くの神田区西小川町(現西神田二丁目)のYMCA会館に参集していた。女子は金マリア、黄エスター、羅ヘソク、許ヨンスクのほかに数名の参加である。

 マリアは山積する課題の一つに『女子界』の運営発行資金手当ての件を抱えていた。世の中の物価高騰の煽りを受けて印刷、製本代が嵩んでいた。製作費用を販売価格に反映させれば一冊の販売価格を値上げせざるを得ず、読者が大幅に減少する矛盾を抱えることになるのが目にみえている。できるだけ多くの読者を獲得していくことが引いては朝鮮人女性の啓蒙、意識の向上につながっていくという信念のもとに『女子界』を発行するしかないのだ。

 新入生歓迎会という機会を通して、さらなる読者の獲得と、共感を得た寄付をお願いする時間をもらえないかと頼み込んだ。留学生のだれもが生活費に余裕がないことは重々承知だが、『女子界』存続のためには致し方ない。何故この冊子の発行が必要なのかを言うためには、本心では自主独立運動を広めるためと言いたいのだが、会場には西神田警察の特高係が目を光らせているためにそれも不可能である。どの発言者もギリギリの内容で発言発表をしていた。

 注目していた学友会会長の歓迎の辞も警察を意識した慎重の上にも慎重な言葉を選んだものだった。挨拶の言葉に勇み足があればすぐに警告の笛が鳴らされ、演説を中断させられるのは目に見えている。内容は歓迎の辞というよりも、近年の朝鮮人留学生としての矜持を持っているのかどうか疑わしいような言辞、行動が散見される。同胞人同士でありながら日本語を使用する光景が見受けられ、日本人であるかのような名前に改名している者がいる。朝鮮人として当然のこと朝鮮語を用い、また朝鮮服を着用することを何ゆえ恥ずべきか……、と苦言を呈する内容に終始し、朝鮮人としてのプライドを持つべく心して留学生生活を、学識ある者として心して事に臨まなければならないと警察を意識した無難な演説になった。

 女子留学生親睦会の会長として檀上に立った金マリアの演説は、男子留学生に対して挑戦的な内容となって、参加者の注目を一身に集めることとなった。警察特高課の監視対象になっていることも意識しながらの登壇である。

「わたしたち女子親睦会は、機関誌『女子界』を中心として活動をしているのでありますが、わたしたちに課せられた役目は、全朝鮮人女性の啓蒙にあります。朝鮮社会にあって低い地位におかれている女性の地位向上、識字率の改善など多くの課題に取り組んでいます。そこで男子留学生の皆様に質問です。女性の理想は良妻賢母であると思っておられる方、挙手をお願いできませんでしょうか」

 数百名の中で数えるほどの男子が手を挙げた。すかさずマリアは演説を続けた。

「よくわかりました。それではわたしたち朝鮮の女はどうあるべきなのでしょうか? お考えを窺いたいと思います」

 だれも答える者がなかった。

「はっきり申し上げたい。大半の朝鮮人男性は、結婚を考えるとき、相手の女性は良妻賢母であることを理想としているし、そうあるべきだと考えているのです。二千万人口の半分は女性です。朝鮮人の力を結集して社会改革を成し遂げるためには、すべての女性を一人の人格として認める社会にならなければなりません。そのためには家庭においても学校においても即刻良妻賢母を理想とするような教育をやめなければなりません。それがわたちたち朝鮮人がすぐにでも始めなければならないことなのです。わたしたち留学生は、『女子界』の購読者をいかにして増やすかを真剣に考えています。そのためには多くの資金が必要です。お願いです、皆さんの事前購読申込や寄付をお願いできれば幸いです」

 女性の地位向上と自主独立を呼びかける二つのテーマを抱える女子留学生の活動には男も女もないということを口にできないもどかしさに苛立ちながら、マリアは演説を終え、会場に響き渡るような拍手には程遠い散発的な拍手に落胆するような思いで降壇した。

男たちの反応の鈍さに失望したマリアは、憤懣やるかたない思いの捌け口に三谷先生を訪ねることにした。マリアの学校外活動とはいえ、陰になり日向になりして応援をしてくれる理解者が三谷先生とミス・ロンドンなのだ。

 多くの聴衆の前で堂々として演説をしたマリアの報告とも愚痴ともいえない話に耳を傾けながら、三谷先生は感想とともに貴重な助言をしてくれた。

「あなたのその行動力こそ女子学院の学生に望んでいることです。それにしても男子留学生の旧態依然とした考えは情けないわ。日本人の男も同じだけどね」

「朝鮮人男性の女性観や社会改革への様々な考えを『女子界』第三号に書こうと思っていたのですが、やめました。どの男性も変わり映えしないようですから」

「一つ良い材料になりそうなのがあるわよ。あなたが二月に会った新聞記者の石橋湛山が書いた良妻賢母主義を否定する論文よ」

 先生に紹介された論文を読んだマリアは、彼の慧眼に胸がすく思いだった。論旨はこうだった。

 ――日本社会は依然として婦人に求めるものは良妻賢母であり、婦人の仕事は夫に仕える忠良な妻であり、子どもを育てる母の役目に徹することであるという伝統的な価値観から一歩も出ることがない。そんな凝り固まった観念、価値観を一刻も早く捨てるためには良妻賢母主義の教育を廃し、婦人を一日も早く社会的経済的な地位を自覚できる教育を施さなければならない……。

 石橋湛山氏に初めて会ったときの、「日本は台湾、朝鮮を自国の領土としていることは間違っている。東洋ひいては世界の平和のためには帝国主義列強は速やかにその領土、植民地を手放さなければならない」と述べたことに合わせ、女性がどうあるべきかの論考も、すべてがマリアを納得させるものだった。

               *

 七月下旬、富山県魚津町で米よこせの「米騒動」が勃発した。騒動の主役となったのは漁師の女房たち、女性だった。マリアは魚津町というのがどこにあるのかも知らないが、どんな女性の指導者がいるのか、それに興味を惹かれた。

 新聞によると、春先から米の値段がじりじりと値上がりし始めていた。

第一次世界大戦中ロシア革命軍が幽閉したチェコ軍救出を名目に、アメリカ、イギリスなど、それに日本も軍隊の出動が取り沙汰されていた。魚津から北海道への米の移出が始まり、シベリア出兵を見越した米相場の投機により、米の価格が五倍近くまで高騰したことから起きた事態が富山の米騒動である。事件は疫病が蔓延するように、米よこせの騒動は瞬く間に日本全国に広がっていった。

 マリアにも物価の急騰は『女子界』の出版費用の上昇で値上げを余儀なくされ、他人ごとではなかったが、マリアにとってショックだったのは米騒動運動の主体が先導者もいない主婦たちの自然発生的な行動だったことにあった。朝鮮の主婦ではあり得ない騒動である。しかし主婦がここまでできるということを目の当たりにしてのショックであり、感動的な出来事でもあった。

 米騒動の広がりとその早さに目を見張る思いだったマリアは、居ても立ってもいられない。焦りとはわかっていてもなんとか朝鮮でも行動をという思いが、マリアを黄エスターと許ヨンスクのいる東京女子医専へと向かわせた。黄エスターはいたが許ヨンスクはいなかった。

「どうせ李光洙氏のところへ行っているんじゃないの。だってヨンスクは来週にも京城へ帰るのよ。二人はいい仲なんだからしばしの別れを惜しんでいるところよ」

 許ヨンスクは総督府医師試験を受けるために国へ帰ることになっていた。結核を患っている李光洙の看病に力を尽くしていたヨンスクと李光洙が深い仲になっていたことはマリアも薄々知ってはいたが興味も湧かなかった。

「米騒動の発端となった魚津という所の女性たちのことを考えると、居ても立ってもいられなくて、エスターとヨンスクに思いをぶつけずにはいられなかったわ」

「わたしだって思いはマリアと一緒よ」

「どうしたらいいのか思いつかない。わかっているのはいっときも早く行動を起こさなくてはいけないということだけ」

「机上の論ばかりで何の行動も起こさない男どもには愛想が尽きているわ。マリア、だれか助言をしてくれる人いない?」

 マリアはじっと考えていたが、「この人しかいないという人が一人だけいる。石橋という日本人の新聞記者だけど、きっと何かヒントをくれるはずだわ。すぐに彼のところへ行こう」

 会って話を聞きたい旨を電話で伝えると、一週間後ならなんとかなるからと日時と場所を指定された。

「神保町へ行く用件があるので、表神保町(現神田小川町)のカフェ・パウリスタで話を聞きましょう」と石橋記者は会う約束をしてくれた。

 カフェなど入ったことのないマリアとエスターだったが、カフェがどんなところなのか興味も湧いて、指定された時間にパウリスタ神田店に出向いた。東京市中に何店舗かあるブラジルコーヒーを供する店の一つである。

 富山の騒動は全国に広がる噂に比例する早さで、至るところで米よこせの騒動が起こっていた。マリアとエスターはその原因に関心がないわけではなかったが、石橋記者に聞きたいことは、なぜ魚津の騒動の主役が主婦の女性たちなのかの一点にあった。

「あなたたちが苛立ちながら疑問に思っていることは、なぜ朝鮮ではこれほどの運動を起こせないのか、どうしたら民族独立の運動に立ち上がれるかということでしょう」

石橋記者はのっけから核心をついて話を始めた。

「おっしゃる通りです。わたしたち朝鮮の女性と魚津の主婦と何が違うのか、どうしたらいいのか、石橋さんの卓見をうかがえたらというのがわたしたちの切実な思いです」

二人はこもごも泡立つ胸中を伝えた。

「結論から先に言うと、朝鮮ではいまはどんな運動も起きないでしょう。富山で米よこせ運動が自然発生的に起きたことにはいくつかの理由があります」

 石橋記者の確信的な物言いに二人は耳をそばだてた。

「富山の女性たちは、今日食べる米がないくらいに切羽詰まってのこと、やむに已まれぬ生活に根ざした思いからの行動です。『青鞜』の同人のような知識人の女性たちの机上の主張とはまったく違う逞しさがあります」

 マリアとエスターは自分たちのことを言われているように感じている。

「魚津の漁師の女房たちが朝鮮の主婦と決定的に違うことがあります。それは米よこせ運動を起こした漁民の女房たちは、家のこと一切、近隣や親戚、役場や官公庁への手続きと交渉事などの決め事の権限を持っていることです。言ってみれば自主権を握っているのです。さらに彼女たちの大方は陸地にあって、いくらかを稼ぎだす仕事さえもっています」

 朝鮮の女房たちを顧みれば石橋記者が言うように、確かに彼女たちは夫に従うだけで何の権限も持っていない。一生を誰かに従うことが妻として母としての役目のように思い込まされているのだ。

「わたしたちはどうしたらいいのでしょうか?」マリアは改めて質問した。

「わたしが言わなくともあなたたち二人は充分わかっています。朝鮮女性も男と対等の社会の一員だということに目覚めさせることです」

               *

「パラダイムシフトが起きつつあるように思う。パラダイムの意味わかりますか?」

 十月最終の土曜日、いつものマナー指導と英語の談話の朝食時である。ミス・ロンドンが、同席している寄宿生たちに質問した。日頃の会話では聞きなれない言葉だった。

「戦争は終わった。ロシアの革命の後エストニア、リトニアが独立し、ポーランドも独立を宣言しています。これらはアメリカのウィルソン大統領が発表した民族自決を含む十四カ条が大いに影響していると思います。またスペイン風邪と呼ばれる未曾有の疫病が世界中に蔓延し、これまでに人類が経験したことのないような規模で既に数千万人が罹患、死亡しています。これだけでも世界は何かが変わるでしょう」

 朝食の話題にしてはタフな話だと思いながら、マリアにとっては身に迫るものであった。

「パラダイムシフトは人間の思想、政治、社会生活などこれまでの価値観を根底から変えていく一大変革の時代の到来を意味しています。日本による朝鮮、台湾の……」そこまで言うとミス・ロンドンは急に口を噤んで、「今日はここまでにしましょう」と言って終わりにした。マリアが敏感に反応したのを見て取ったミス・ロンドンの判断だった。日本人の寄宿生たちは怪訝そうな顔をしているだけだった。ミス・ロンドンはマリアにだけ言い足りなさそうに、声をかけてきた。

「わたしは今日神保町の北澤書店に注文していた本を取りに行くんだけど、一緒してくれませんか」何かを話したいことがある素振りだった。

ミス・ロンドンは洋書を取り扱う北澤書店にニューヨークタイムズの最新版取り寄せも依頼していた。書店の中で新聞を広げてミス・ロンドンが指差したのは第一次世界大戦のパリ講和会議を大きく報じた記事だったが、マリアは下のほうにあった記事を目ざとく見つけた。そこには民族自決を訴えるために在米の朝鮮人が会議参加を決定したというものだった。それはミス・ロンドンがいうパラダイムシフトが具体的な形になりつつあるのだと確信できるものだ。ミス・ロンドンは講和会議が世界中の民族自決、独立を熱望している国々のことをマリアに早く伝えたかったと言った。マリアは血が沸き立つように興奮した。日本にいる留学生も一刻も早く行動をおこさなければという思いに駆られながら北澤書店を出たところで、『女子界』の顧問の田榮澤と出くわした。

「偶然とはいえ、いいところで君に会えたよ」

「わたしもいいタイミングで田(チョン)さんに会えたからよかった。先にどうぞ」

「ほかでもない、李光洙が北京から戻ってきたんだよ」

「どういうこと? 北京に行っていたの?」

「マリアは知らなかったの? 許ヨンスクと駆け落ちしてたんだよ。それで戦争が終わったニュースを聞いてあわてて東京へ帰って来たってわけ。在米の同胞は、パリ講和会議に人を派遣する準備をしているらしい。われわれ東京組も早急に事を起こさないといけないと大騒ぎしているんだよ」

 マリアはミス・ロンドンからニューヨークタイムズを奪い取るようにして新聞を広げた。記事は朝鮮人も講和会議への参加を決め、代表者をパリに派遣する旨が書かれている。

「わたしはすぐに女子親睦会のメンバーを集めて、何をしたらいいか協議しなくちゃ。それにしてもヨンスクと李光洙氏にはあきれるわ」

 マリアは田(チョン)との会話をミス・ロンドンに伝えた。

「駆け落ち? なんと情熱的なこと」ミス・ロンドンは両手を広げ、肩をそびやかしている。続けて「アメリカの大統領が提唱している民族自決主義があなたたちを後押ししている。成功を祈っているわ」と励ましてくれた。

 田榮澤とマリアは、学友会と女子親睦会が結束して事にあたることを約束して書店の前で別れ、ミス・ロンドンと学校へ帰るべく裏神保町の電停から乗り込んだ電車の中でちょっとした諍いに巻き込まれた。チマチョゴリのマリアに労働者風の日本人の男が難癖をつけてきた。

「マスクも着けねえで電車に乗るな。悪性風邪(スペイン風邪)が流行っているのを知らねえのかよ、さっさと降りろ。朝鮮人のくせに」

 たしかに悪性風邪(スペイン風邪)が猛威をふるっていた。だれもが感染を恐れてマスクを着用していたのだった。マリアも注意はしていたが、頭の中はこれからの事でいっぱいになっていて、今日に限ってマスクを忘れていたのはマリアの不注意だったが、「朝鮮人のくせに」というもっとも侮蔑的な言葉にマリアは敏感に反応し怒りがこみ上げてきた。その時咄嗟の助け舟を出してくれたのはミス・ロンドンだった。日本人の男の言葉はわからなかったはずのミス・ロンドンの毅然とした口出しだった。

「I cannot understand what you say. We do not care」

 ミス・ロンドンの剣幕に、男は黙り込んで事なきを得たのだった。しかしマリアからはマスクのことなど頭から飛んでしまうほどに「朝鮮人のくせに」という言葉に震えるような怒りが全身を駆け巡った。絶対に日本人に目にもの見せてやる‼ という思いから歯が噛み合わない怒りを抑えることができなかった。

               *

一九一八年(大正七)年末から留学生学友会や女子親睦会の役員にとっては、警察の監視や尾行を構っていられないほどの忙しさだった。東京の留学生も具体的な運動を開始すべきではないかという機運が会員の間から澎湃として沸き起こってきたのだ。積り積もった留学生たちの鬱憤は、目に見えない静電気の火花にさえ引火する気化した石油類が充満しているような状態にあった。

 一九一八年年末には明治会館(明治大学)での忘年会、一九一九年一月六日の朝鮮人留学生の雄弁会が立て続けに開催され、マリア、黄エスター、羅ヘソクたちもそこに参加していた。そこではどの弁士も東京留学生が独立運動の先頭に立とうと呼びかけていたが、呼びかける対象は男子に向けるものだった。じっと聴き入っていたエスターが突然声を上げた。

「民族の大事をなすに女子は眼中になく、男子だけで行うというのですか? どんな車も両輪があってこそ走るものではないのですか」

 沸点を超えていたエスターが、納まらない怒りを爆発させ、女子留学生を共に運動の先頭に立つことを学友会に認めさせたのだった。

 一月二十一日未明、火花が弾け、独立運動の呼び水になるような出来事が起きた。前国王高宗の李大王が帰らぬ人となったのだ。朝鮮全土が騒然となる中、朝鮮総督府は三月三日に国葬を行うことを発表した。退位してから八年近くが経つとはいえ、朝鮮の民衆にとっては五百年続いた中央集権の儒教国家の精神的支柱だった前国王という存在への哀悼の心情は沈痛なものだった。

 前国王の崩御によって一月二十五日に予定されていた李王世子垠と梨本宮方子女王の婚礼の儀も急遽延期が発表された。この二つの出来事が朝鮮人に朝鮮民族であることと、日本支配の現実を身につまされて再認識させられる契機となった。儒生・両班(ヤンバン)の特権階級が支配してきた李氏朝鮮時代からの陋習を破り、民族自決、民衆主導の国家社会を造らなければいけないという信念を持つ金マリアや黄エスターにとっては、不埒な考えかもしれないが前国王の死は朝鮮人の心を一つに結束するには格好の出来事に映った。今こそ同じ方向に向いた民衆の心を力に変えるには一刻も早く行動に移さなければの、焼けるような思いが募るばかりだった。水面下では学友会の中に「朝鮮青年独立団」が秘密裏に結成され、「独立宣言書」が文名のある李光洙の手で準備されていることは、マリアとごく少数の女子には知らされていたが、宣言書には彼女たちの抗議にもかかわらず、代表者連名での列記はなかった。

「集まって議論している場合じゃない。体を張って今行動をおこさなければ。警察に逮捕されることは覚悟の上、明日にでも行動を、じゃないの。悪性の風邪に罹って死ぬくらいだったら、留置場に入れられたほうがましだよ。わたしの大好きなオーストリアの画家クリムトも悪性の風邪で死んでしまったわ」

画学生の羅ヘソクは性格のままにまくし立てた。

               *

 一九一九年(大正八年)二月八日は土曜日で、朝から雪が降り始め、見ている目の前で積り、見渡す限りの銀世界に変わっていった。この日は東京朝鮮留学生学友会の総会が東京朝鮮基督教青年会館(YMCA)一階講堂で午後二時から開催されることになっていた。

 路面電車の遅延を見越して早めに女子学院の寄宿舎を出たマリアだったが、俎橋の電停から会場までの二百メートルばかりは雪に足を取られ、会場に着いたのは総会開始の一時間前にもかかわらず、既に立錐の余地もないほどの学生が詰めかけていた。五百名はいただろうと思う。講堂は外の雪を解かすほどの熱気が立ち込めていた。

 式典はキリスト教の式典にのっとり祈祷から始まった。祈祷の後、開会宣言に間髪を入れず、宣言書に名前を連ねていた崔八鏞(チェ・パルヨン)が「緊急動議!」と声を上げて檀上に駆け上がり「朝鮮青年独立団を発足させよう」と一気呵成に呼びかけた。

 騒然とする中、続いて檀上に駆け登った金マリアが、「今や機は熟している。民族と祖国のために最後の最後まで戦うぞ」と声を張り上げた。マリアの勢いを引き継ぐように、立て続けに会長の白寛洙(ペク・クァンス)が独立宣言書を朗読した。背面の壁には絹布に墨書された独立宣言文が広げられていた。格調高い内容は、三・一独立宣言にも反映されている。主旨概要骨子は以下である。

――韓国併合への政治過程は暴力と詐欺からなるものであり、併合が朝鮮民族の意志ではないこと。国際連盟が発足実現した暁には、世界のパラダイムシフトが起こり、帝国主義的侵略の根拠は消滅する。現世界情勢では韓国併合の根拠もすでに消滅している。よって独立がなされない場合は、日本に対して永遠の血戦を最後の最後まで戦い抜くと。

白寛洙の声だけが講堂の隅々まで響き渡り、朗読が終わると同時に、それまでしわぶき一つ聞こえなかった留学生たちの間から感動の嗚咽が堰を切ったように流れ出し、人間の声ではない、動物の咆哮のような音声が会場を聾した。続いて嗚咽を制するように決議文が読み上げられた。最後に決議文が読み上げられると「大韓独立万歳」の声が会場を揺るがした。示威行進に移ろうと学生たちが動き始めたそのとき、監視していた特高課の刑事が合図すると所轄の西神田警察署の警官隊が会場になだれ込み解散を命じた。会場は騒然として学生と警官隊が衝突した。警官を阻止しようと椅子が飛び、傘を振り回しながら逃げる学生と警官隊が入り乱れ混乱の修羅場と化した。混乱の中、宣言書に名前を連ねた役員はその場で逮捕され、西神田警察署に収監された。

 二・八独立宣言書と決議文は日本語版英語版に翻訳され、主要な各国公使館、朝鮮総督府、貴衆院両院の帝国議会、新聞、通信の各社に送付されていた。東洋経済新報の石橋記者が来場していたかどうかを、マリアは確かめる暇もなかった。

               *

「ここは学校です。金マリアは自分の信ずることをやっているのです。犯罪人であるかのように扱わないでください」

 二・八独立宣言に始まった混乱に連座しているとして、麹町警察署員がマリアへの出頭要請で女子学院へ来校したときのことである。対応した三谷先生は頑としてマリアを引き渡そうとしなかった。官憲に逆らうことは場合によっては対応した三谷先生の身にも類が及ぶことも考えられるが、三谷先生は体を張って警察官の校内立ち入りを毅然として拒否したのだった。

 会場の基督教会館から直接西神田警察署へ連行された学生のほとんどが、早くから監視対象になっていたこともあり、監視尾行の対象だったマリアが連行されてもなんの不思議もないのだ。しかし再訪した警官に公的な出頭要請の書面を突きつけられ、学校としてマリアが拘束されることを拒否できなかった。

 拘束連行され、取調べを受けたマリアを三谷先生が身元引受人となり、学校へ連れ帰ることができたのは翌日の夕刻だった。学校ではミス・ロンドンもマリアの釈放を待ち受けていた。日本にあって最も信頼する三谷先生とミス・ロンドンに抱きしめられたマリアは、不覚にも涙をこぼした。と同時に、ミス・ロンドンの励ましに勇気を奮い起される思いだった。

「マリア、あなたがやろうとしていることの正しさは、すべて聖書の中で証明されていることよ。わたしは全面的にあなたを支持するわ」

 ミス・ロンドンが語りかけ励ましていることは、聖書に書かれている最後の晩餐や処刑のシーンについてだった。

 ユダヤ政教一致の政府が秘密警察のような人間を群衆の中に紛れ込ませ、イエス・キリストを逮捕、ゴルゴタの丘での処刑、そしてイエス・キリストの復活のことを言っているのだった。

「イスラエルを属国としていたローマ帝国とユダヤ政府が、いかにイエス・キリストを排斥しようにも民衆の心を掴んでいるイエス・キリストの正しさを封じ込めることはできませんでした。あなたたちの運動も同じこと、正しいことを力で封じ込むことは不可能です。また必ず日本人にさえ共感を持つ人たちが出てくるはずよ。ただ革命や反政府運動には成功も失敗もありません。そのことは肝に銘じておくことね」

 マリアにとってイエス・キリストの例えほど有難くもったいない話はなかった。

「わたしは政治的なことに口を挟むつもりはない。でもうちの娘(教え子)たちが自分の信念に基づいてすることにはいくらでも協力を惜しまないわ。一人一人の考えを尊重すること、ことにあなたたち中国や朝鮮からの留学生を警察の監視や根深い差別から守ることは、わたしに課せられた役目だと思っている」

 これは三谷先生のマリアへの励ましの言葉だった。マリアはしみじみと三谷先生の思いやりに感じ入った。

 金マリアには時間がひっ迫していた。二・八独立宣言の全文を一日も一刻もはやく朝鮮内に伝え、できる限りの民衆に独立運動に結集するように呼び掛ける使命を帯びていた。そのためにはなんとしても日本を脱出し朝鮮に戻らなければならない。どうやって官憲の監視網をくぐり抜けるかをゆっくり考えている暇もなかった。三谷先生だけが唯一相談できる人だった。

「先生、わたしには卒業を待っている時間もなければ心の余裕もありません。独立宣言の書面を隠し、明日にでも東京を経たなければならないのです。お知恵を、力をお貸しください、お願いします」

 マリアは三谷先生の両手を握りしめていた。マリアの鬼気迫る視線を受けた三谷先生は、しばし考えを巡らせていたが、これしかないというようにきっぱりと告げた。

「和服を着ていきなさい。日本人女性になりきって釜山まで辿り着くしかない。わたしの着物を着ていきなさい」

「宣言文は帯の間に挟んでいけばどうでしょう?」

「それではだめです。全文を布に書き写して帯に縫い込んでいくのです。できる限り早くにすべてを準備しなさい。絹布をお手伝いのシゲに用意させますから、それに墨書するのです。書き上げたらそれを帯の内側に縫い込むようにシゲに言います」

「他には何か?」

「汽車の中や関釜連絡船の中で、刑事に持ち物の検査をされたりしたときのために、ニセの日本人名の学生証をいまから作ってあげます。車中や船中で読むような本も、当たり障りのないようなもの、そうねえ、枕草子や日本の俳句集だけにしなさい」

「ありがとうございます。さっそく準備します。それから何かわたしに連絡いただくようなことがあれば、京城の貞信女学校のミス・ルイス校長宛にお願いします」

「わかりました。それから特例であなたを女子学院の卒業生として認めます。卒業証書はミス・ルイス宛に送ります」

 万端整えたマリアは、ちゃんとした別れの挨拶もそこそこに女子学院を後にした。三谷先生の心遣いで、シゲを横浜まで同行させてくれた。

「熱海へ温泉旅行にでも行くような素振りでね。東京を外れれば警視庁の尾行もつかないと思うから」

 それが、マリアが三谷先生とミス・ロンドンを見た最後になった。

 女子学院に足を踏み入れた日のことを思い、女子学院の象徴マグノリアの木にじっと見入っていると、マリアの心に誓うものがこみ上げてきた。

――この木に香り豊かな花が咲くころには、必ず祖国の自主と独立を勝ち取ってみせる

 九段から神保町を通る路面電車の車窓から、これが慣れ親しんだ町の見納めになると思うと涙腺が緩み涙を止めることができず、とめどなく流れる涙は口を覆っているマスクに染みていった。東京駅までの間マリアは無言で、過ごした四年弱の東京に思いを馳せた。見て触れて感じ、味わった東京は、生涯誰にも語ることなく、また決して開けることもなく、胸の奥深くにしまい込み、鍵をかけてしまっておく一粒の宝石のような街だった。

              *

「大韓の独立と結婚した」と言ってはばからなかった金マリアは、生涯独身を通し独立運動に捧げた一生だったが、祖国の独立を見ることなく帰らぬ人となった。一九四四年三月十四日のことである。

 一九一九年三月の三・一運動に多くの女性たちを動員、デモを先導した容疑で逮捕され、過酷な拷問の取調べを受けたマリアは、そのときの拷問が原因で上顎骨蓄膿症と耳骨に膿がたまるメストイ病という難病に生涯苦しめられた。釈放されたマリアはその後、秘密結社「大韓民国婦人会」を結成、会長に就任するとともに、中国へ亡命し、立ち上げられていた上海臨時政府の一員となるなど独立運動に邁進しての生涯を送ったのだった。

 金マリアが信条とした言葉が裁判の法廷での陳述の記録に残っている。

「独立運動は男女がともになさねばならず、朝鮮と日本の幸福と世界の平和を図るためのものである」

 そこには日本への恨みつらみめいたものはひとつもない。憎悪を募らせるばかりでは何か片手落ちで、どこかに愛情もあってこそ初めて人の心に通じるというマリアの願いが込められていた。

マリアはまた遺言も残している。

「火葬にして、大同江にながしておくれ」

大同江は現在の北朝鮮の平安道から黄海道を通り、金マリアの故郷近くから黄海に注ぐ大河である。

               *

 一九一九年十一月に上海を訪れた三谷先生は、帰国後、婦女新聞に『上海から帰って』という短い旅行の感想を寄稿している。

「上海では二週間の滞在だったのですが、非常に多くのことを教えられたように思います。私は、新聞を通して見る彼の地の排日などについて、いつも、いつも、支那からあんなに多くの留学生が来るから、あの人たちがいつかは彼我両国の楔となり平和な日が来るに違いないと考えたのでした、然るに、その排日運動の首領部の顔を見るとどうでしょう、悉くといっていいほど、かつては日本へ留学した人たちなのです。それは何が原因なのか、我々はこの事を大いに考えなければならないと思います。つまりは、日本に滞在中、余りいい感じを受けなかったが故に、その鬱憤が破裂したのではないでしょうか。愛国心とは、ある一部の人の思うように、日本を無上のものに奉り上げて外国人を馬鹿にすることではないのです。我々は幼い子供たちに及ぶまで、外国の人たちに対して、異国ではさぞ御不自由であろうとの温かい同情心でお接しするようになりたいと思います」

 三谷先生は上海を訪れたこのときに、金マリアが上海にいることを風の便りに聞いていたのかもしれず、マリアに会いたい思いに胸が塞がれ、マリアを思い浮かべながらこの寄稿文を書いていたにちがいない。 (了)